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砂粒ほどの問題だけど   

 今日、8月26日の第1朗読聖書はルツ2.1-3, 8-11;4.13-17だったが、原典を読んでいて、4.14の“גאל”という言葉で立ち止まった。その意味を知らなかったからだ。ラルースの仏-ヘブ辞典で調べたら、“souilleure, profanation”(汚れ、涜聖)とあった。しかし、それは変だ。そんな意味では、ルツが一子を生んだことを女たちが「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく○○を今日お与えくださいました」と讃えた祝詞の○○には絶対に当てはまらない、と思えた。
 そこでLa Bible de Jerusalemの訳を見てみた。すると“le proche parent”(近縁者)と訳されていた。それなら納得できる。しかし、では辞書はなぜ全く違う意味を載せているのだろうか?と疑問が湧いた。それを解く鍵はヘブライ語のニクダ(発音記号)だった。
 発音記号のない通常のヘブライ語は白文と言う。荷物のタグに空港ではTOKYOをTKYと印刷するが、それと同じで母音が省略されている。慣れていないと正しく読むことは難しい。だからか、聖書のヘブライ語等には発音記号がついている。実は問題の“גאל”にも聖書と辞書ではニクダが付いていた。ג の左上に“オ”の母音を示すホラム・ハセルというニクダがあり、אの下には“エ”の母音を示すツェーレ・ハセルというニクダがあった。従って、“גאל”は“ゴーエル”と発音する。それは“גואל”と同じだ。
 そこで、“גואל”を辞書で見たら、一義的な意味は“liberateur, sauveur”だが、二義的な意味として“parent”が載っていた。だから、フランス語訳聖書は“le proche parent” (近縁者)と訳したのだとわかった。しかし、同時に新共同訳がなぜその○○を、「家を絶やさぬ責任のある人」などと言う、ややこしい表現で訳したかも推察で来た。“גואל”というヘブライ語には「解放者、救出者」即ち「贖い戻す」と言う意味もあるからだろう。 

 では、他の訳はどうなっているのだろうかと、興味を覚えて調べてみた。
英訳は“next of kin” (最も近い親族)
スペイン語訳は“uno que te rescate”(あなたを贖う一人)
ブルガタ訳は“qui redimit familiam tuam”(あなたの家族を贖い戻す者)
七十人訳は“αγχιστεα”(最も近い親族) 
フランシスコ会訳は“あなたを救う者”
バルバロ訳は“故人に近い身内”
聖書協会訳は“ひとりの近親”

 これらを見ると、翻訳は原典の“גואל”という一語にある二つの意味、すなわち①解放者、救出者、贖う者、②親族、身内のどちらかに重心を置いた訳し方をしていることがわかる。
 ラテン語のブルガタ訳は①の方であり、ギリシャ語の七十人訳は②の方だと言ってよかろう。そして、ブルガタ訳に倣い、①の系統に属するのはスペイン語訳、新共同訳、フランシスコ会訳等であり、七十人訳に倣って②の系統に属するのが英訳、仏訳、バルバロ訳、聖書協会訳等であることがわかる。しかし、ヘブライ語原典の一語はその両方の意味を含んでいるのだ。

 そんな分類をして何になるという意見もあろう。その懐疑に答えよう。それはルツ記を真に理解するのに役立つのだ。女たちがルツの出産を祝ったのはルツ本人に対してではなく、姑のナオミにであった。これは奇妙ではなかろうか。子を産んだのはルツだったからだ。しかし、ここに女たちが「あなたを救う者」とか「あなたを贖い戻す者」とか言った意味がある。
 ナオミは夫にも二人の息子にも子を残さず先に死なれてしまった。嫁のルツはユダヤ人ではない。モアブ人だった。だから、そのままでは家系は断絶するしかなかった。ところが、夫の血縁であるボアズが死んだ息子の嫁ルツと結婚して子を産んだのだ。それはナオミにとって夫の家系が復活し、継続することを意味した。だから女たちはナオミを祝福したのだった。
 日本でも昔は家系を絶やさぬことは最重要事だった。聖書のイスラエル人たちにとってもそれは同じであった。だからモーセの律法は例えば子なしで死んだ兄がいたら、残った弟がその妻を娶って、兄のために跡継ぎを作らなければならない(申命記25.5)と規定した。家系の継続はそれほど重要だったのだ。だから、ルトに子が生まれた時、女たちはむしろ姑のナオミに「よかったね。跡継ぎが生まれたから、これで家系が絶えないで済む。主はこの子によってあなたを救った。家系を贖い戻してくれた」という意味で主を賛美したのだ。
 従って、その赤子は単なる跡継ぎの身内ではなかった。ルツ記がその子をナオミの「孫」(נכד)とか、ルツの「子」(בן)という語を使わず、わざわざ「身内」(גואל)という語を使ったわけはそこにあったと思う。そして、その赤子はやがてダビデ王の祖父になり、その家系から救い主イエス様が生まれる。①の系統の訳者は“גואל”の一語を訳したとき、それが旧約の「一家系を救った者」の話にとどまらず、やがて現れる人類を贖う者を示唆してもいるとも感じたから、そう訳したのではあるまいか。
 これは砂粒ほどの微小な問題ではあったが、救いの歴史が染み込んだ砂粒でもあった。しばし立ち止まって調べかつ考察してよかったと思う。
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プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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