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再び想起力テスト 

 年間第20主日の福音はマタイによる福音15.21-28で、おおよそ次のような話だ。
 イエス様がティルスとシドン地方に行かれた時、あるカナン人の女は悪霊に憑かれた娘を癒してくださいと頼んだ。しかし、イエス様は無視なさった。ところが、女がいつまでもしつこくついて来るので、弟子たちは追い払ってくださいと頼んだ。すると、イエス様は「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と、にべもなく答えられた。
 それでも女が助けてくださいと願うと、イエス様は拒絶して言われた。「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない。」すると女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」イエス様はこの返答に感心して言われた。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」と。その時、娘の病気は癒された。
 さて、今回もこの話についての私の考察ではなく、私の記憶力と想起力を試してみるために、司祭の説教を再現してみようと思う。今回は1日たったが、さてメモなしで聞いた話を米寿直前の私はどのくらい覚えていられたのだろうか。それをまず書いて見る。そして、その後に気付いたこと等の感想を若干加えてみる。その説教は次のようだったと思う。

 <皆さん、私たちはクリスチャンですが、どのようにしてそうなったかはそれぞれで、同じではありませんね。ある人は赤ちゃんの時に洗礼を受けてクリスチャンになります。親がそうだからです。ある人は成人してから、友達に誘われて教会に行くとか、偶然に何かの機会に教会に入って、やがて洗礼を受けてクリスチャンになるとか、いろいろです。しかし、共通しているのはイエス様から教えられるということです。イエス様は先生で私たちは弟子。教えるのはイエス様で、教えられるのは私たちです。
 ところが、今日の福音はイエス様が教えられたという話です。皆さんは、今日の福音を聞いてどう思いましたか?イエス様は冷たい、と思いませんでしたか?ガリラヤではあんなに病人をたくさん直してあげたのに、カナンの女の願いには耳も貸さず、すたすた歩いておられたようです。女はしつこく願い続けていました。だからたまりかねてか、弟子たちはイエス様に近寄って頼みました。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」と。
 弟子たちの言い方を読むと、必ずしも邪険に女を追い払いたかったわけではなさそうです。追い払いたければ自分たちでもできたはずだからです。イエス様にそれとなく願いを聞いてやったらどうなんでしょうと口添えしたようにもとれます。ところがイエス様は、「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と、にべもなく答えられたのです。つまり、イスラエル人以外の人の願いはだめですと。なぜでしょうか?
 それにはわけがありました。神様は人間を救うためにイスラエル民族を選ばれました。なぜだと思いますか?ちっぽけな民族だったからです。神に頼らなければ生き残れない小民族なら、自分の力で何かを成し遂げたと威張らないはずだ、と思われたからでした。その民族から救い主を出現させ、まず救いの御業を成し遂げて、次に救いを全世界に及ぼすのが神様のご計画でした。だから、まず救いはイスラエル民族の中で達成されなければなりません。だから、イエス様は「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われたのです。イエス様は天の父のご計画に従っておられたのです。
 しかし、カナンの女はあきらめるどころか、イエス様の前にひれ伏して、どうかお助けくださいと願い続けたのでした。そこでとうとうイエス様は女に「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言われました。子供のパンは犬にはやれないとは、差別的な言い方だったといえなくもありません。なぜなら、犬は古代中東世界では汚らわしい動物の一つだったからです。何もそんな言い方をしなくてもと思えますが、これも彼女を憤慨させ、願うのを諦めさせるためだったのでしょう。
 ところが彼女は「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と答えたのです。イエス様は感動しました。女は子供のパンを犬にやってはいけないことは認めました。つまり、神の恵みはイスラエル人がいただくもので、それはその通りでございますと言ったのです。でも、子供はパンを食べるとき、パン屑を落とすではありませんか。食卓の下にいた小犬がそれを食べても叱ったりする主人はいません。パン屑のような恵みでもいいですからそれに与らせてください、と答えたわけです。
 イエス様は女の答えに教えられたのでした。いたく感服し、心を動かされました。だから言われたのです。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」と。つまりイエス様は女の信仰を褒めて、願いに応じられたのでした。娘は癒されたのです。イエス様はあるとき弟子たちに言われました。「もしあなた方に強い信仰があれるなら、あの山に向かって海には入れと言えば山は海に入る」と。
 今日の福音の話は小さな出来事です。しかし、私たちに信仰の力を教えてくれます。信仰は神様を動かすのです。私たちもカナンの女に学んで、強い信仰を持って生きましょう。>

 やはり十全には想起できなかった。もっと多く話されたはずだ。しかし、いずれにせよ、教えられるところの多い説教だった。だが、ちょっと気になった言葉の使い方があって。二三回イスラエル人とユダヤ人を並べたり、同一視したりするような言い方をしたことだ。両者を並べるのは誤解を招くし、両者を同一視するのは間違いだからだ。
 イスラエル民族は12部族からなっており、ユダヤ人は12部族の一つであるユダ族の人たちだ。ソロモン王の息子の代にイスラエル民族はイスラエル王国とユダ王国の2国に分裂した。北部のイスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、事実上消滅した。南部のユダ王国もバビロニアに滅ぼされたが、バビロン虜囚後再興した。従って、以後のイスラエル人はユダ族とレビ族が圧倒的に多いが、イスラエル人イコールユダヤ人ではない。

 小犬が一匹なのか二匹以上だったのかも私にはきになった。新共同訳は、「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」と訳している。しかし、原典も欧米語諸訳も「小犬たち」、「主人たち」(kunaria、dogs, petits chiens etc.)と複数だからだ。「子どもたち」と複数に訳したのなら、なぜ小犬も主人も原典に忠実に複数としなかったのだろうか。整合性に欠ける。聖書協会訳、フランシスコ会訳も同様だ。
 バルバロ訳とラゲ訳は「子ども」も単数に訳している。原典は全部複数で書いてあるが、複数にすると日本語では煩わしくなるので、単数にしたのであれば、全部を単数にする方が整合性の点ではましだと思う。私なら子ども達、小犬たち、主人たちと、全部を複数に訳す。その方が原点に忠実だし、そうしたら都合が悪くなる理由もないと思うからだ。

 司祭は「イエス様は教えられた」と言った。私はそういう切り口で考えたことがなかったので、その着眼点には感服した。だが、イエス様は果たして教えられたと言っていいかどうか、そこには疑問がある。その表現は適切だったかという疑問だ。イエス様は女を諦めさせるため、思い付きで「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言われたのではなく、実は女の信仰を試すために、そう言われたのではあるまいか?私はそう思うのだ。
 福音書はイエス様が予知能力のある方だったことをいくつか証言している。だとすれば、カナンの女の言葉をまったく想定もしていなかったと考えるのは、福音書の記述の否定になる。口では「イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われたが、それは建前で、心の中ではその女の願いを聞いてやるつもりでおられた。ただし、それは彼女がどれほどの信仰を持っているかにかかっていた。主はそれを試された。
 そして、彼女は感服して余りあるほど当意即妙の譬えで返答した。見事な切り返しだったが、謙虚でもあり信仰に溢れていた。イエス様にとって、それは考えたこともない予想外の返事だったのではなく、実はは待っていた返答だったのだ。それを知っていなかったからではない。彼女が表明したのは、イスラエルの失われた羊にこそ持ってほしい信仰だった。だから、あたかも異邦人の女に「教えられた」かのように感嘆なさった。イスラエルの人々もクリスチャンも教えられるように。その意味では「教えられ方」のお手本を示されたのだ。
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プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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