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畑に隠されている宝のたとえ補足

 4日前、畑に隠されている宝のたとえについて書いたが、あとで気付いたことがあった。たとえだから、それを現実的にあれこれ詮索するのは見当違いだが、それにしてもこのたとえには詮索して見たくなる点があるのだ。少なくとも2点ある。一つは、畑に隠されている宝を見つけた人はどのようにして宝をみつけたのだろうか、という点だ。もう一つは、誰がその宝を畑などに隠したのか、という疑問だ。
 宝を見つけた人は持ち物全部を売り払って金を作り、それで宝が隠されている畑を買うのだから、畑の持ち主ではなかったことは確かだ。そして、宝を隠したのは畑の持ち主でなかったことも確かだ。もし畑の持ち主が隠したのなら、畑を買う必要などないからだ。しかし、彼は自分の畑に宝が隠されていることを知らない。だから畑を売ってしまった。
 ということは彼が宝を見つけるに至る行動を何もしていなかったことを意味する。彼は畑を持っていただけだった。それに対し、宝が隠されていることを知った人は、どうしてそれを発見したのだろうか?考えてみると、畑と言うのは宝を隠すには向いていない場所だ。大木の下とか大岩の割れ目とかと違って、畑は目印をすればすぐわかってしまうだろうし、耕作の邪魔にもなる。だからと言って、見つからないようにと目印をしなければ、隠した人自身でさえどこに隠したか後で見つけ難くなってしまう。
 目印がなくて普通の畑のようだったから見つからずにいたのだろうが、では見つけた人はどうして見つけることができたのか?畑に行かない所有者に見つけられるはずがない。畑の傍を通り過ぎるだけの通行人にも見つけられるわけがない。だとすれば、見つけるチャンスがあったのは、畑に入って土を掘り起こすことができた人だろう。それには畑を耕すとか、植樹のために穴を掘る人とかが考えられる。しかし、無関係な他人は勝手に人の畑には入れないから、所有者の関係者に絞られるだろう。
 しかし、畑の所有者の下僕ではなかただろう。なぜなら、下僕が畑を買いたいと言ったら、主人である所有者は何か変だと疑って売らなかったと思われるからだ。従って、おそらく宝を見つけたのは、所有者から頼まれて耕作や植樹の仕事をした隣人か臨時雇いの人だっただろう。その人は畑を耕すとか掘るとか、そういう仕事をしていたとき、偶然何かに硬い物ぶつかった。おやっと思って掘り下げてみたら、それは何と壺に入った宝だった。宝がそんなふうに見つかったのだとすれば、なるほどとうなずける。
 では、誰が畑などに宝をかくしたのだろうか?これは実に奇妙だ。家に宝を置くことがよほど不安な人でなければ、外になど隠さない。ましてや後で見つけにくくて困るかも知れない畑などには隠さないものだ。畑の所有者ではないことはすでに言った。ましてや自分の畑でもないのに他人がそこに大事な宝を隠すわけがない。宝がひとりでに畑にやってきて隠れたなどと言えば、頭がおかしいと言われるだろう。ずーと昔誰かが隠して、忘れ去られていたと言っても、誰が隠したかと言う疑問は解消しない。
 さて、これは「天の国は畑に隠されている宝に似ている」という、天の国のたとえだ。ならば、一番人が宝をかくしそうもない畑に、奇妙にも宝を隠した誰かがいるとすれば、それは神だと言うのが正解かもしれない。神は天の国という宝を、この世という畑に隠された。子ども達に宝探しをさせるボーイスカウトのリーダーたちのように。
 しかし、人を働かせ、自分は家で楽をしている所有者が宝を見つけることはない。畑の傍の道を素通りするだけの、ただの通行人も畑の宝をみつけることはない。畑に隠されている宝を見つけられるのは、畑で耕したり穴を掘ったりして働く人だけだ。このたとえは働いてこそ宝を見つけられることも示唆している。何?見つけたら、だまって持ち去る?聖書のたとえは「汝盗むなかれ」を前提にしている。盗んだ宝は腐る。宝を見つけた人は全財産を売り払って、その宝を買ってこそ晴れてそれを手に入れることができるのだ。
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プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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