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今週の聖書ところどころ

 今週、年間第17主日の聖書は列王記上3.5-12、使徒パウロのローマの教会への手紙8.28-30、マタイによる福音13.44-52であった。
 列王記上3.5-12は、神がソロモン王の夢に現れ、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われたので、王が「聞き分ける心をください」と願ったところ、神はその願いを殊勝だと喜ばれ、彼に「賢明な心」をお与えになった。そして、「あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない」と言われたと言う箇所だった。
 私がここを読む度に、ここに書かれた神の言葉は、ダビデ王系の歴史著者がソロモン王を賢明さで比類稀な王として描くために創作したもので、本物の神の言葉ではないと推理する。そもそも私はソロモンと言う男が好きではない。彼の母は元ウリヤの妻ベトシェバで、ダビデ王との不倫から生まれた子供だ。彼女にはどこか策謀を隠している狡さが見え隠れする。彼もその血を引いていたのではないだろうか。彼を称賛する聖書の叙述を読むと私は不愉快になる。
 若かった時のソロモンは純粋だったかも知れない。しかし、番節は堕落だった。エルサレムの神殿を建てた功績はあったが、そんなものが何になろう。父ダビデ王からの遺産で建てただけではないか。権力が固まると彼は次第に富と奢侈に溺れ、三千人もの側室を囲って異教の神々をイスラエルに持ち込ませた。後に預言者たちはイスラエルの民の神からの離反と堕落を非難したが、彼らをそうするに至らしめた源流はソロモンにあった。
 彼は神の恩恵を汚泥で穢した。それは始めが良くても終わりが堕落という典型だった。だから、私は彼を褒める気になどなれない。軽蔑する。そして、未来をも知りたもう神がやがてそのように堕落していく彼だったのに、「あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない」などと言われたはずがないと思うのだ。これは神の言葉に擬して、ソロモン王の知恵にお墨付きを与え、王権の正当性を残そうとした、支配者に都合のいい記述をしたのだと思われる。

 ところで、列王記上3.7の原典にはלא אדע צאת ובאという表現がある。直訳すれば「出るのも来るのも知らない」となるが、それは日本語ではどういう意味かピンとこない。似た表現に「右も左もわからない」というのがあるが、これなら意味はわかる。しかし、「出るのも来るのも知らない」は意味がすぐには通じない。各国語はこれをどう訳しているのだろうか、それに興味を覚えた。重箱の隅をつつくような問題だが、頭の体操のため調べてみた。

 まずギリシャ語の七十人訳だが、ουκ οιδα την εξοδον μου καιτην εισοδον μου とある。直訳に近く、「外に出るのも内に入るのも知らない」という訳だ。
ラテン語のブルガタ訳は、ignorans egressum et ingressum meumとある。ギリシャ語と全く同じ訳だ。これを見ると、日本人にははっきりわからなくても、古代のヨーロッパ、中東、北アフリカの人々に、この表現で何を言おうとしていたのかは誰にもわかったいたのだ、ということがわかる。
 ところで、フランシスコ会訳聖書はここを(わたしはほんの未熟者で)「どう振る舞うべきかを知りません」と訳している。これなら意味ははっきりしていて、よくわかる。他の邦訳を並べてみると、
 新共同訳は「どのようにふるまうべきかを知りません。」
 バルバロ訳は「どのようにふるまえばよいかわかりません。」 
 聖書協会訳は「出入りすることを知りません。」
と訳されていた。三つはほぼ同じように、「出入りを知らない」という原典を、「どう振る舞えばよいか知らない」と言い換えている。これは読者の理解を考え、言葉の意図を知って訳したよい訳だと言えよう。一つだけは原典の直訳をしていることがわかった。日本人には、これでは何を意味しているのかわかりにくい。少なくとも誤解を招くおそれはあると思う。

 では、近代欧米語はどうか?私の知っている3か国語に限るが、調べてみた。
 英語のThe Bible RSV版は、I do not know how to go out or come in.
 仏語のLa Bible de Jerusalemは、Je ne sais pas agir en chef.
 スペイン語 Biblia de Jerusalenは、… que no sabe salir ni entrar.
 これを見ると、仏語だけが「長として行動することを知りません」と意訳をしているが、他の訳は原典の流れを汲んで、「出ることも入ることも知りません」とほぼ直訳している。欧米ではおそらく現代でもそういう表現で十分意味が通じるからではなかろうか。いずれにせよ、重箱の隅のゴミがとれた感じで、私の小さな疑問は解消した。

 福音のマタイによる福音13.44-52は3つの「神の国のたとえ」だが、教会のミサでは44-46まで、つまり最初の2つのたとえしか読まれなかった。それは内容がほぼ同じ2つのヴァージョンだと言える。見つけたものが宝か真珠か、見つけた人が普通の人か商人かが違うだけで、見つけた物の価値を知ると持ち物を全部売ってそれを手に入れる点では同じで、天の国がそのように全てを売り払ってでも手に入れるに価する素晴らしいものだというたとえだ。それは天の国の価値を教えるたとえだ。それに対し、3つ目のたとえは天の国を浜辺で人が網の魚を選別するたとえで、これは天の国で行われる裁きの側面を教える。
 典礼はこの箇所を8月2日(水曜日)の福音としてもう一度私たちに読ませた。ということは、このたとえは今週一番ご縁があった聖書だと言える。一度目に読んだとき、知らない語彙は辞書で調べてノートに記録しておいたから、お陰で水曜日に読んだときはほとんど辞書のお世話になることことなく原典で読めた。

 ところで、最初のたとえ「畑に隠されていた宝」は私にとっては自分の人生の選択を物語るたとえでもある。だから、私は自分のプロフィールにこう書いている。「敗戦で復員した後は5年間登記所に勤務し、かたわら藤嶺学園夜間部で学び、中学・高校を卒業した。その間で最も忘れがたい記憶は1948年、カトリックに改宗して洗礼を受けたこと。マタイによる福音書13章には、「畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」とある。私もそうした」と。
 
 人は時々このたとえを学ぶとき、人生において一番の宝とは何か、みたいな間違ったアプローチをしがちだ。しかし、このたとえのキーワードは宝ではない。キーワードは天の国なのだ。宝は天の国がいかに価値のあるものかをイラストする比喩対象にすぎない。だから、それがどんな宝かなどと詮索することは意味がない脱線になる。それがどんな宝かは問題ではない。その素晴らしさに驚嘆して、持ち物全部を売り払ってお金を作り、それで畑ごと買い取るほど価値のある宝だと言うことさえわかれば十分なのだ。
 ではその宝とは何かと言えば、イエス様がはっきり教えて下さっている。「天の国は畑に隠されている宝のようである」と。天の国はそれほど価値のあるものだ。ところが、その天の国の存在を人々は知らない。だから、その畑の傍を通っても素通りしている。では、その人はどうして畑に隠されている宝のような天の国を知ったのか?「神の国は近づいた」と言われた主の福音を聞いたからだ。福音とは天の国に気付かせる良い知らせに他ならない。
 ある人は言うかも知れない。畑に宝が隠されているのを知った人は、それを隠して畑を買った。本当は宝のことを言って、その値段も入れて買うべきだっただろう。その人はアンフェアで狡い。そんな人が主人公では倫理的に良いたとえとは言えない、と。
 またある人はこう言うかもしれない。宝が隠されていることを知って、それには黙って畑を買った人は、欲張りだ。宝欲しさに、それをsらない畑の所有者から畑だけの値段で買って、大儲けをしようとした。欲の張った人間の好例ではないか。そんなたとえが手本になるだろうか、と。
 しかし、そうした批判は見当外れだ。このたとえは倫理的な模範行動として語られたのではないからだ。人間とは狡いし欲張りな者だ。チャンスがあれば金持ちになろうとし、宝を手に入れようと一生懸命になる。イエス様はこのたとえでそういう人間の現実を利用して、天の国がどれほど価値があるかを教えられた。人間は欲張りで狡いからこそ、畑に宝が隠されていることを知った人の行動がよくわかる。自分もその立場なら同じようにしただろうと思うからだ。そして、それが実感できるからこそこのたとえは効果があるのだ。それをご存知だったから、イエス様はそれを話された。天の国の価値をわからせるためだった。
 
 ところで、私も畑に隠されている宝を見つけた人の一人だった。その宝とはイエス・キリスト様の福音に従った人生だった。だから、私はそれまで持っていた生き方と考え方を捨てて、主の福音を選んだ。「持っている物をすべて売って、畑を買った」というのはたとえの表現であって、実際に古い思想や生き方を去り、主の福音につくのは売り買いではない。
 それまで持っていた生き方や考え方は売っても金にならない。しかし、金の代わりに「悔い改め」が得られる。主の福音は金で買えない。しかし、悔い改めて、古い人を捨てた心は主の福音を得ることができる。これが天の国を買うことに当たる。私は19歳の時心を変え、これがメタノイア(回心)だが、それまで持っていた考え方や生き方を捨てて、主の福音を選び取った。そして、福音に従った新しい考え方を持ち、新しい生き方を始めた。それが私の「持ちも全てを売り払って、宝が隠されている畑を買った」出来事だった。
 それから私は大学に入り哲学を専攻した。それは私の選択は正しかったか、私が選択した福音的生き方はどうあるべきか、それを確かめたかtったからだ。その後紆余曲折があり、山あり谷ありの人生を歩んで、今日まで87年、主の福音を選び取ってからは68年生きてきた。思うにそれはずっと私の選択は正しかったかを確かめ、よりよく福音を生きるにはどうあるべきかを探求する年月だった。私の人生は「畑に隠されている宝を買った人」の行動で要約できる。
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プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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