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泣いたのはどちらか?

 過去一ヶ月間にはいろいろなことがあった。中でも一番記憶に残るのは東京都議選の自民党大敗北だろうか。それによって安倍政権がダメージを受けたのは喜ばしいことであった。安倍氏は選挙戦最終日の応援演説中「帰れ、辞めろ」コールに反論し、そう叫んだ人たちに向かって、「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と言った。だが私は彼に言いたい。「そんなあなたに日本の舵取りを任せておくわけにはいかない」と。
 とは言え、社会の激動とは違って、私の生活はこの間も波風もなく、手を貸す運動Ⅱの仕事と聖書原典黙読が淡々と続くルーチンの日々だった。しかし、そんな聖書原典黙読にも小さな起伏はある。時々わからないことに遭遇して立往生したり、疑問が湧いてその解消のために横道に逸れたりするからだ。6月5日(水)もそんな1日だった。読んだ旧約聖書に、「ちょっと待てよ」と疑問を覚える一節があったからだ。今回はそれを取り上げてみる。

 私は3年前から「聖書と典礼」を利用して毎日の聖書を原典で黙読しているが、その日の聖書は創世記21.5,8-20とマタイによる福音書8.28-34だった。ところで、疑問が湧いたのは創世記21.16の主語についてだった。原典はもちろんヘブライ語だから、その一節は  ותשא את-קלה ותבך と書かれている。新共同訳はそれを「彼女は声をあげて泣いた」と訳している。しかし、泣いたのははたして彼女(母親)だったのかという疑問が湧いたのだった。

 そんな疑問が湧いたわけを言う前に、その一節がどんな文脈の中で書かれたかを簡単に説明しておこう。これは創世記にあるイサク物語の中の一場面で、そこに至るまでのいきさつはこうだ。アブラハムと妻サラには子がなかったので、サラは夫に子孫を残させるため、召使のエジプト人ハガルを夫アブラハムに与えて一子イシュマエルを生ませた。
 ところが、年老いた妻サラは神の恵みで自分にも一子イサクが生まれた。しかしある日、成長した息子が召使の子イシュマエルにからかわれるのを見た。そこで、サラは夫アブラハムに召使の親子を追い出すよう要求した。アブラハムは苦悩したが、結局パンと水袋を持たせて召使の親子を追放せざるを得なかった。砂漠をさまよい、水もなくなると、召使ハガルは子どもを灌木の下に置き、「子どもが死ぬのを見るのは忍びない」と、矢が届く距離に離れて座った。そして「声をあげて泣いた」のだ。

 ではなぜそれに疑問が湧いたのかというと、理由はこうだ。私はヘブライ語で旧約聖書を読むとき、自分が正しく理解したかどうかを確かめるため、フランス語訳のLa Bible de Jerusalemか英語訳のThe Bible Revised Standard Versionも見るのを常としている。この日は英語訳を参考にしていたが、何とそれには“…, the child lifted up his voice and wept.”と訳してあったのだ。
 上掲のヘブライ語では主語は明記されていないが、「声をあげて泣いた」は「上げる」と「泣く」という動詞が女性形で書かれているから、彼女つまり母親を指していることは間違いない。英語訳はそれと違う。なぜ同訳は主語を子供にしたのか?それは註に、ヘブライ語では“彼女は声をあげ”と書かれていることを承知の上で、ギリシャ語訳に従って「子供は」と訳した旨を記していた。
 ならば、英訳の元になったギリシャ語訳はそこをどう書いており、なぜ英訳はその方がヘブライ語原典より筋が通ると考えてそれに従ったのだろうか?私はそう思って調べてみた。ギリシャ語訳はそこをどう書いているかというと、創世記21 子どもは声を上げ創世記21 子どもは泣いた 「子どもは声を上げて泣いた」と明記している。ヘブライ語原典では声を上げて泣いたのは「彼女」なのに、ギリシャ語訳は「子ども」としている。英語訳は後者を選択したのだ。では、いったいどちらが正しいのか?泣いたのは母親だったのか、それとも子どもだったのか?これが疑の核心だった。

 ある人は「原典が正しいにきまっている」と思うかもしれない。だが簡単にそうとも言い切れないわけがある。そもそも現在のヘブライ語聖書がラビたちによって正式に決められたのは西暦90年のヤブネの会議だが、ギリシャ語の七十人訳はそれより約250年も前にできた訳だ。従って、その元になったもっと古いヘブライ語聖書には「子どもは声を上げて泣いた」と書いてあった可能性もあり、ギリシャ語訳はその忠実な訳であったかも知れないからだ。
 それに、そう訳したもっと強力な根拠はその一節に続く17節だ。そこでは神の御使いが、「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げやりなさい」と言っている。ヘブライ語原典自身が「あそこにいる子供泣き声を聞かれた」と、彼女が泣いたという記述とは違う事実を明記しているのだ。これを見ると、どうやら泣いたのは子どもであり、どうやら泣いたのは子どもであり、筋が通っているのはギリシャ語訳の方ではないかと思えてくる。ヘブライ語原典は写本段階で誤記が起こったのだろうか?

 では、諸国語訳はそれにどう対応して訳したのだろうか?私が知る外国語は限られているから、可能な範囲内で検証してみた。
 まずラテン語のブルガタ訳を見ると、“Et … levavit vocem suam et flevit.”とある。ラテン語は必要がない限り主語を省くから、ここでも主語は書かれていない。従って、声を上げて泣いたのは母親と子どものどちらともとれる。
 英語は上述した通りなので文章は省略するが、泣いたのは「子ども」になっている。
 フランス語訳は“Et il se mit à crier et à pleurer.” 明らかに泣いたのを「子ども」としている。
 スペイン語(Biblia de Jerusalén)訳は“(Sentadas,…)se puso a llorar a gritos.” 泣いたのを「彼女」としている。
 ドイツ語訳(ヘルダー社版)は、“und er begann laut zu weinen.” 「彼は」だから、泣いたのは子どもとしている。
 では、日本語の諸訳はどう対応しているだろうか?
 新共同訳は、「(彼女は)声をあげて泣いた。」泣いたのは彼女とされている。
 フランシスコ会訳は、「(彼女は)声をあげて泣いた。」新共同訳と同じく泣いたのは「彼女」だ。
 バルバロ訳は、「子どもが大きな声で泣き出した。」と訳している。この訳でも、泣いたのは子どもになっている。
 聖書協会訳は、「子どもは声を上げて泣いた」としている。泣いたのは子どもだ。

 諸国語における訳の対応を見ると、ほとんどが「母親系」か「子供系」のどちらかに2分されていることがわかる。ただし、どちらともいえない「両立系」もあるにはある。それを仕分けしてみると、次のようになるだろう。
 「母親系」は、ヘブライ語原典、スペイン語訳、新共同訳、フランシスコ会訳等である
 「子供系」は、ギリシャ語訳、英語訳、フランス語訳、ドイツ語訳、バルバロ訳、聖書協会訳等である。
 「両立系」はラテン語訳のみ。
 もちろこれは私が持ち合わせている聖書だけの仕分けだが、他の言語ではどう対応されているか興味のあるところだ。

 私は両方にそういう対応をとったそれ相応の根拠と考え方があることを認める。しかし、筋が通っている点から言えば、「子供系」の方にやや分があるかなと思う。ギリシャ語訳は訳と言っても他の諸訳とは権威が断然違う。七十人訳の訳者たちはおそらく文脈をよく考察し、「子供が泣いた」と訳したのだと推測する。その判断は重い。
 そもそもハガル親子は砂漠をさまよい、水もなくなって死を待つばかりだった。子が死ぬのを見るのは忍びないと、親が離れた所に座ってしまったのを見れば、普通に考えると泣き出すのは子どもの方だろうと想像できる。飢えと渇きによる衰弱もさることながら、木蔭に置きざりにされた子どもにとって一番の不安は母親から見放されることだっただろう。幼くてまだ死などはわからなかっただろうが、歩く力もなくなっていた子供は本能的に泣いて母を呼び求めた。だから精一杯声を上げたのだろう、と。
 しかし、母が声を上げて泣いたこともまた十分あり得た。いや、母親もきっと泣いたに違いない。愛する子が飢えと渇きで衰弱し、砂漠で死んでゆくというのに、助けてやれない無力と絶望の中に置かれていたからだ。子供の死を見るのは忍びないから矢の届く距離に離れたが、それでも子供の方に向いて地べたに座った母親の行動はその心の状態をよく表している。もしかしたら嘆きと絶望の余り彼女は胸も張り裂けんばかりに泣き叫んだのかも知れない。
 そんな状況を想像すれば、彼女が声を上げて泣いたと記したヘブライ語原典の記述にも十分うなずける。そして、それを尊重して忠実に訳した「母親系」の訳は、原典に深い敬意を払っているからこそ、それに従って訳す方を選んだのであろうから、それは翻訳者の姿勢としてこれも十分尊敬に値する。

 では、この疑問に対する私の結論はどうか。私はこう思う。実際は「泣いたのは子かそれとも母か」ではなく、「子供も母も声をあげて泣いた」のであろう、と。私にはそう考えるのが一番妥当だと思える。ただし、泣いた理由と相手は違っただろう。子どもは母親が傍にいないのが不安でたまらず、母に向かって泣いたのだろうが、母親は子どもの死を目前にして助けられない絶望のあまり、運命を呪ってか、あるいは神に救いを求めてかはわからないが、何かに向かって泣き叫んだのだろうと推察する。

 さて、こんな些細なことはどうでもいいではないか。それがわかったところで何になる?と言う人がいるかも知れない。確かにこれは些事であって、物語全体にもその解釈にも影響を与えない。そして、答えを得ても大して役に立つわけでもない。しかしながら、私はこんな考察にも何らかの意味と有用性はあると思っている。
 そもそも聖書原典は誰でも簡単に読めるわけではないが、読めればこういう疑問も持てる。これは小さな疑問だったが、大きな問題も発見できるチャンスやメリットがある。単に一つの翻訳を読むだけでは、(それではだめだとは言わないけれども)、その訳が本当に正しいかどうかは検証できない。しかし、原典や他の諸訳を読んで比較考察すれば、何が本当かを確認できる。
 同時に原典がいつも正しいとは必ずしも言えないことも分かる。ヘブライ語原典にも誤記やミスプリがある。原典といえども人が書いたものであり、今あるのは写本に写本を重ねた末の原典だからだ。写本書写者が書き間違えたり書き換えたりした可能性も排除できない。ハガルとイシュマエルの物語のこの疑問もその1例であるかも知れないのだ。聖書に書かれていることを全部間違いないと信じるのは単純過ぎる。
 最後にこういう些細な話題の考察でも、それは知的な刺激と満足をもたらす。私にとってはそれが一番のメリットだ。ある人が老人の集まりで、「老人にはキョウヨウが必要だ」と言ったそうだ。皆が「えっ?今さら教養ですか?」と怪訝な顔をすると、その人は、「いいえ、《今日用》ですよ。今日何かする用事があることが老化を防ぐからね」と答えたとか。毎日の聖書で疑問と取り組むことは《今日用》の最たるものの一つではなかろうか。
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プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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