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聖書の物原 -その2-

 ゴミ箱とか掃きだめなどというと、その傍に長居はしたくない気がするが、物原というと暖かい陽だまりみたいで、そこにいても悪い感じがしない。過日そんな個人的感覚から、聖書の部分や聖書に関する文書文献で、本物でないもの、不出来なもの、低価値なものなどの処分先を聖書の物原と名づけたが、私はこれが気に入っている。駄目な物でも「灰にするが可」などと全否定せず、何らかの価値は認めてやり、存在は是認してやりたいからだ。
 過日は、ある邦訳聖書の誤訳部分をそんな一例として聖書の物原送り1号にしたが、本当は真っ先に物原に送り出さなくてはいけないものがあった。偽典である。いわゆる偽物の聖書だ。多くの人はその存在を気にしないが、ある聖書が正典と認定されたことは、それが書かれた前後にかつては偽物もたくさんあって、真に信ずべき内容を偽物から守る戦いと研究の努力があったことを物語る。そういう淘汰を経て、正典の聖書は現代の私たちに伝承された。だから、私たちは今、これは本物だろうかなどと悩まされることなく、聖書を読むことができる。それは同時に、多くの経典が教会の権威や先達によって偽典と断定されたおかげだ。感謝しなければならないと思う。
 そこで、今日はそういう偽物の聖書を物原にまとめて送り出そうと思う。おそらくこんな話題に興味のある人は多くはないだろうが、これは人のためではない。私自身の知的整理のためだ。

 外典(正典外聖書)は英語ではApocryphas、偽典(偽聖書)はPseudepigraphに当たると思っていいだろう。どちらも元はギリシャ語だ。それらは旧約にも新約にある。これらの書は正典聖書を補充するとか、信者を励ますとか、ある教義を強調するとかの意図で書かれたものだ。ユダヤ教とプロテスタントはカトリック教会が正典の続編(deutrocanonic)として認める旧約聖書のトビト記、知恵の書等数書を外典とする。しかし、私はカトリック教会が認める通りそれらを正典と見なしている。

A .まず旧約関連ではどんなものがあるかを列挙してみよう。
(1) キリスト教でもユダヤ教でも外典またや偽典と見なされている旧約の書物で、歴史ジャンルの文書には次のようなものがある。私は読んではいないが、ほとんどは史実価値のない伝説であると言われる。
 ヨベルの書 (Liber Jubil.)、第3エズラ記(Liber Esdrae 3)、アダムの約束(Testamentum Adam)、モーセの黙示録(Apocalypsis Moysis)、イザヤの昇天、ヨブの約束、ソロモンの約束、アリストの手紙、第3マカベ書等。
(2) 宗教教育や教義的ジャンルのものには次のような文書がある。
 12族太祖の約束(Testamentum X11 Patr.)、詩編151、ソロモンの詩編(Psalmus Salomonis)、マナセの祈り、第4マカベ書、ヨブ記付録
(3) 黙示録ジャンルの文書はかなり多い。
 ヘノク書、モーセの昇天、第4エズラ記、アブラハムの黙示録、エリアの黙示録、バルクの黙示録、ソフォニアの黙示録、エゼキエルの黙示録、アブラハムの約束、シビリン文書等。
B. 次は新約関係だが、これは新約聖書の構造に応じ、福音書関連、使徒言行録関連、使徒たちの手紙関連、黙示録関連に分けて挙げてみよう。2世紀以後に書かれたものが多く、グノーシス異端の影響がしばしば見られる。
(1) 福音書関連:ペトロの福音書、12使徒の福音書、マティアスの福音書、フィリポの福音書、バルナバの福音書、ニコデモの福音書、偽マタイの福音書、ヤコブの先行福音書、幼年期イエスの福音書、ヘブライ人の福音書、エジプト人の福音書、エビオン人の福音書、大工ヨゼフ物語等がある。
(2) 使徒言行録関連:ペトロの言行録、パウロの言行録、ペトロとパウロの言行録、ヨハネの言行録、アンドレの言行録、トマスの言行録、フィリポの言行録、マタイの言行録、バルナバの言行録、ペトロの説教等がある。
(3) 使徒たちの手紙関連:エデッサ王アブガルとイエスの交信、使徒たちの手紙、パウロのラオデシアの信徒たちへの手紙、パウロのアレキサンドリアの信徒たちへの手紙、パウロとコリントの信者たちとの間の手紙、パウロとセネカとの往復書簡等がある。
(4) 最後は黙示録関連だが、このジャンルの偽典は幻、夢、恍惚状態、天使の出現などの形をとり、次のようなものがある:ペトロの黙示録、パウロの黙示録、トマスの黙示録、ステファノスの黙示録、マリアの黙示録等だ。

 もっともこれらの書で私が読んだものは僅かしかない。それは正直に白状しておかないとフェアではないだろう。私は長い歴史を通して多くの研究者たちが地道に続けて来てくれた研究の結果を信じて、-と言うことは、これも一種の信じる行為だと言えるが、-後駆者の一人として上記の整理をしたに過ぎない。それは無駄な探求をしなくてすむためだ。なぜなら、正典でさえ探求しきれないほど探求対象が山積しているからだ。
 なおこの問題の研究は、正典の中にも偽典の痕跡が散見すると言う。例えば、ユダの手紙9節にはモーセの昇天の痕跡があり、同14-15節にはヘノク書1,7の影響が窺われる。これら偽典または外典は本物ではない聖書だ。従って、本来なら物原に送られてしかるべきものだ。だがそうとわかっていれば、今はもう気にすることもないだろう。それよりも聖書を読む気にもならない信者の無関心さこそ聖書の平原に送るべきかも知れない。
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プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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