FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

年初雑考 ‐ 時の尺度

 年が2017年になって早や11日も過ぎた。思うに、年を新たにするという時の区切り方は、地球の公転自転に合わせているとは言え、人が心機一転をはかるために考え出した見事な装置だ。それは特に大晦日と元日の落差でわかる。この連続した二日は、時の流れから見れば普段の「昨日と今日」と変わらないのに、実際は大違いで、大晦日は押し詰まった年末のピークを感じさせるが、元日はすべてをご破算にして解放されたかのようなゆったり気分になる。人はこのように人為的な区切りを定め、年末には自分を追い込むが、新年には自己を開放して大きな心機一転を図る。これは社会と人心にメリハリをつける生活の知恵だ。
 しかし、新年の心機一転も3が日を過ぎれば、すぐ普段の平板な時の流れに戻る。だから、その新鮮さをもう少し長引かせるため、昔の日本では1月7日は七草粥、11日には鏡餅を入れた汁粉を食べ、14日か15日にはドンド焼きをして正月の飾りを燃やし、その火で団子を焼いた。だから私の故郷(神奈川県高座郡旧御所見村)ではドンド焼きよりむしろそれを団子焼きと呼んだ。これらはみな正月行事で、いわば新年の新鮮感を引き延ばす装置だったと言える。地震に喩えるなら、元旦の祝いは本震で、それら行事は余震みたいなものだと思う。

 だが、時を流れのように見なし、そこに人間が人為的に新年の元日や三月、五月の節句のようなアクセントや目印をつける「時」とはいったい何なのか?年初にちょっとその考察をしてみたい。 
 そもそも時とは存在物の「在る」という持続そのものを示すディジタルな属性だと言えよう。だが、そういう理解だとイメージはしにくい。だから、人は時を流れるもの(川の水、風雲等)に喩えて表現し、空間的な動きをする天体を基準にして、アナログで空間的な尺度または目盛りを時の計測基準として人為的に決めてきた。それが分秒であり、月日であり、年であり、干支であり、世紀等なのだ。
 人は長い年月とか短い時間とか言うが、時を長短で表現することが多い。しかし、長短は元々空間や物体を○○キロ、○○メートルと計測する尺度で、時間を長い短いと言うときは、空間の長短から借用して比喩的に表現しているに過ぎない。だからと言って、空間や物体を表す形容詞がすべて時間にも当てはまるわけではない。空間や物体には、長い短い、広い狭い、高い低い、厚い薄い、硬い柔らかい、重い軽い、早い遅い(水などの流動体、矢などの移動物体)、などの性質があるが、「広い時間、狭い時間」などという表現は成り立たない。時間に当てはまる比喩的表現は、長い、短い、早い遅いぐらいのものだ。他方、水や空気などがいっぱいになる状態に喩えて、時は「来た、満ちた」などとも表現される。しかし、これらもまたすべて類比表現に他ならない。
 時間は実在する物の持続であるから実在ではある。しかし、空間や物体と違って、見えない、触れない、嗅げない、味わえない、聞こえない、要するに五感では直接に感知できない。存在物そのものではないからだ。では時間の存在は何によって確認できるか?知力によってである。時間の存在と推移は、五感で認知できる空間や物体の変化や動きを通して、知力によって察知ができる。従って、時間とは実在物(Ens realis)というよりも、「考えられた存在」(Ens rationis)に類するものだと私は考えている。なぜなら、時間は人間の頭の中で考えられてこそその存在が認知されるからだ。時間は「ここにある。あそこにある」と言って証明できる存在ではない。では何によって証明できるかというと、存在物が存在し続けること自体によってだ。存在の持続が時間だからだ。

 人はその時間を視覚化し、計測できるようにしてきた。新年のような心機一転のためばかりではなく、生活のリズム、生産、信仰など様々な目的があって、時の流れに様々な区切りや尺度をつけてきたのだ。例えば日本の暦には大寒、春分、雨水、穀雨などと時期を示す24節気がある。これは農耕社会の生産と深く関わった時間の目盛りだ。祝祭日や盆暮れなどは生活に適度な盛り上がりとリズムをもたらすためだっただろう。おかげで日々は単調な連続にならない。まさに生活の知恵のなせる作為だ。
 私が生活のリズムで特記に値すると思うのは7日制の週システムだ。日本人は自分たちが聖書やイスラエル民族の習慣で生活しているなどとは思ってもいないだろうが、実は明治以後の日本人はその習慣で生きている。なぜなら、7日という週のサイクルは旧約聖書から来ているからだ。週6日間働き、土曜日を聖なる日として休む生活リズムは、初めは神がイスラエルの民に宗教的な目的で命じて実行させたものだが、やがてキリスト教を通して欧米に広まり、今日では全世界に行き渡っている生活習慣で、実に興味深い時の使い方なのだ。
 信仰を実践するために定められた時の尺度もある。仏教では彼岸や盆がそれだが、キリスト教では典礼暦年が時の流れを決めている。典礼暦年の一年はそれを道程に喩えると、行く手には二つの大きな山脈と一つの谷間、そして一つの平原がある。最初の山脈は待降節という上道の後、クリスマスという頂点に至り、聖誕節という下り道になる道程だ。その後にはしばし谷間のような普通の日々があり、やがて復活祭を頂点とする二つ目の大山脈が来る。それは前半の四旬節と聖週間の後、復活祭でピークに達し、後半は聖霊降臨祭、聖体の祝日などの節目を経て山脈が終り、次の待降節までは広く長い平原のような通常の日々が続く。こういう祝日や行事期間は、追体験によって信徒の信仰がより堅固になるようにと、教会が定めた時の区切りや尺度に他ならない。
 時の尺度には12進法、10進法、6進法が混ざっているように思われる。12進法に類するのは1年12ヶ月、干支の12種、午前午後の12時間などがあり、多数派だが、世紀は10進法、一時間と分は60が単位で6進法的だ。もし1ヵ月が全部2月のように28日なら、1週7日のサイクルとはぴったり合うが、1ヵ月は30日、31日、閏年の29日もあるから不揃いで整合性がない。だから週の7曜日とも合わない。時の尺度は起源や元々違う暦などが複雑に混じり合って今に至っている。それらのルーツは時間のDNAのようだ。
 
 さて、こんな考察が何になるのかと思う人もいるだろうが、時は哲学の重要な考察対象なのだ。その考察は自分とは何者か、自分は今どこにいるのか、と自分を位置づけるために欠かせない。宇宙が存在し始めた瞬間から時間は始まった。宇宙の出現と時間は同時なのだ。宇宙の持続そのものが時だからだ。宇宙科学者は宇宙の出現を百数十億光年前だと言う。私自身はその中で87年存続してきた。それが私の微々たる人生なのだが、その中の少年時代とか青年時代とかを考える時、生まれてから今までの全歳月はそれを絶対時間だと言えるだろう。方や宇宙の時間を基準にして計測するなら、私の人生の歳月は相対時間だとi言える。
 宇宙には多数の銀河がある。ある光が非常に遠い恒星から数百光年もかけて地球に届いたとしよう。ここには光年という時を計測する上での最大の尺度がある。しかし、人は知っているだろうか?その恒星の光が数百万光年かけて今地球に到達したとすれば、それは数百年前の光、すなわち足利時代にその星を出発した光であって、今のこの時その星にある光ではないことを。その星はもう変わってしまっているかもしれないのだ。そう考えると、私たちは実に短い時のスパンの中で生きていることがわかる。まさに「主のもとでは一日は千年のようで、千年は一日のよう」(2ペト3.8)なのだ。
 宇宙時間の壮大なスケールから見れば、たったの一年に過ぎない2017年の新年など、微々たる現象に過ぎないと言えなくもない。しかし、最後に気付いていいことがある。それは、干支や月、週の曜日、一般歴の祝祭日や24節気、教会歴の祝祭日などは循環性の尺度であって、一巡するとまた元に戻るが、年や世紀は一回性で、二度と繰り返さないことだ。それは一度終了したら永久に過去となってしまう。例えば、2016年は二度と繰り返せない。年の積み重ねである人生も同じで、終わったらもうやり直せない。たとえ宇宙時間に比べたら超短かい存在であっても、それはかけがえがないものなのだ。そこに年初で雑考する意味がある。
 
 
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索
RSSフィード
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。