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気になった言葉

 昨日、年間第29主日の福音はルカ18.1-8であった。メインテーマは祈りで、不信仰、性悪な裁判官のたとえがあった。そんな不正な裁判官でさえうんざりさせられる寡婦の願いには結局負けて、聴き入れざるを得ない。ましてや神が信じる者の祈りを放っておかれるだろうか。いや、それはあり得ない。だから倦まず祈りなさいという論旨であった。ミサでの説教もその線にそったもので、妥当だった。だが、一つ気になる言葉があった。「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見出されるであろうか」という最後の一節だ。「うーん」と深刻に考えさせられた。
 フランシスコ会訳の注釈によれば、二つの解釈があるそうだ。一つは、喩えと無関係な終末観の挿入句だという説、もう一つは喩えと関係があり、神は祈りを必ず聞かれるから、地上でのことは心配せずに主の来臨の時に思いをいたすことを示唆しているという説で、同訳は後者の方を正しいとしている。私もそう思うが、では肝心の問いそのものにはどう答えたらいいのだろうか?
 まず自分はどうか?人生の終わりに来ていて、信仰に揺らぎはないか?ある人は物心ついて以来、ある人は青年時代から、ずっと老人になるまで信仰を持って生きて来たとする。しかし、最後の最後に信仰をなくしたら、その人生は神の前でどんな評価になるだろうか?意志による選択で信じたものは、意志によって信を捨てることもできる。だから、祈るときは、そういう意志の選択をしてしまう誘惑に陥らないよう祈りたい。「わたしたちを誘惑に陥らせないでください」と祈るのはそのことだと思う。
 次にこの時代はどうだろうか?すでに主イエス様はその宣教中に、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムなどガリラヤの町々の不信仰を非難し、「お前たちは不幸だ。…裁きの日には、ソドムの地はお前よりも軽い責め苦ですまされる」(マタイ11.20-24)と言われている。主が直接話されてさえそうだったのだから、その後の時代や現代に不信仰がはびこっても驚くには当たらないだろう。しかし、主の福音からどんどん離れていく現代のヨーロッパや日本の現状を見ると、「人の子が来るとき、地上に信仰が見出されるであろうか」という問いには、「ほとんど見いだされないかも知れません」と答えなければならないかも知れない。
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プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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