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10人の治癒について一考

 今年の年間第28主日の福音は、イエス・キリスト様が重い皮膚病を患っている人10人を癒された話であった。多くの解説は戻ってきて感謝をしたサマリア人を称賛し、そうしなかった9人のユダヤ人を恩知らずだとしている。しかし、実際はそう単純ではなかったはずだ。だから、ミサの説教を聞きながら私は思った、「彼らはイエス様に『司祭たちのところに行って、体を見せなさい』と言われた後、どんな思いを抱きながら歩き出したのであろうか?と。
 10人のうち1人はサマリア人だった。他の9人が皆イスラエル人だったかどうかはわからないが、おそらくはそうだったのだろう。とにかく彼らは隔離されていた。ところで、「司祭たちのところに行って、体を見せなさい」と言われたとき、彼らは司祭とはユダヤ教の司祭だと理解しただろう。イエス様がイスラエル人だったからだ。しかし、そのことはきっとサマリア人に非常に複雑な思いを抱かせたに違いない、と私は推察する。なぜなら、他宗教の司祭のところへ行っても、拒まれるかも知れなかったからだ。でも彼は信じて歩きだした。
 とにかくイエス様の言葉を聞いて歩き出した点では、10人は同じだった。9人も信じて動き出したのだ。そもそも司祭に体を見せるのは、重い皮膚病から治ったことを証明してもらい、社会復帰ができるための律法の規定があるかただった。しかし、イエス様から「司祭たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた時点では、彼らの体は皮膚病のままだったのだ。治癒してもらった後でそう言われたのならわかるが、病気のままの体を見せてどうする?普通ならそういう疑問を持つ。
 だが、彼らはそういう疑問を主にぶつけず、病状のある体のままで歩き出した。その意味では10人は皆、「お言葉を信じて司祭に見せに行けば、治るに違いない」と、イエス様を信じたのだ。そしてそう信じた通り、行く途中で彼らの体は清くなった。それに気付いたのはサマリア人1人だけだったとは考えられない。1人が気付いて「あっ、治っている!」と叫べば、他の者たちも気付いたはずだからだ。だが、そこからの行動が違った。
 サマリア人は大声で神を賛美しながら戻ってきて、主イエス様の足元にひれ伏して感謝した。そこで、主が「清くされたのは10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」と嘆かれ、そのサマリア人には「立って、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われたのだった。
 では、このサマリア人はその後どうしたのであろうか?想像だが、おそらくは喜びに溢れて故郷に戻り、サマリアの司祭に体を見せたのではなかろうか。主から「司祭に見せなさい」と言われたのだからだ。そして数年後、使徒たちがサマリアにも福音宣教を始めたとき、真っ先に主の福音を信じて洗礼を受け、主からしていただいた奇跡の治癒の話を初代教会の人々に伝えたのではなかろうか。弟子たちが思い出さなくても、彼にとっては絶対に忘れられない出来事だったからだ。ルカはそれを聞き取り、福音書に記録したのだと思う。
 では、他の9人はなぜ戻らなかったのだろうか?ユダヤ教の司祭たちに治った体を見せに行くことは、サマリア人のようには苦痛ではなく、むしろ治癒と共にもう一つ大喜びする理由になった。なぜなら社会復帰ができるからだ。従って、好意的に想像すれば、彼らは皮膚病が消えたことを知って嬉しさの余り自分のことで頭がいっぱいになり、主イエス様のおかげで癒された恩はすっかり忘れ、早く司祭たちに見せようとエルサレムに急いでしまったのではなかろうか。
 もちろんそれは言い訳にはならない。だから、イエス様は「ほかの9人はどこにいるのか」と言われた。もし彼らがサマリア人といっしょに戻ってきていたら、彼らにも「あなたの信仰があなたを救った」と言ってやれたのに、残念だと嘆かれたのだと思う。私はそう解釈したい。サマリア人は体も癒され魂も救われた。しかし9人は、体は癒されたが魂は救われなかった。少なくともその時点ではそうであった。
 ただ、その9人全部が全部忘恩のままでいたとは限らない。これも好意的な想像だが、私は次のように推察するのだ。彼らより少し遅れてイエス様もエルさルムに着き、やがて十字架につけられて亡くなり、復活したという噂が流れた。もし9人がエルサレムにいたのなら尚更だが、そうでなくてもその噂を聞いたら、彼らのうちの何人かは「あ、あの時の方だ。私はあの方のお陰で癒されたのに、司祭に体を見せることで頭がいっぱいで、そのままだった。何と恩知らずのことをしてしまったことか!」と気づいたのではなかろうか。
 そして、「あのように言葉だけで病を癒すことは神の人でなければできない。世間では今あの方が復活したとか、いやそれは嘘だとか噂しているが、あの方なら復活はありうる。」そんなふうに考え、遅きに失したとは言え、その時の治癒を神に感謝し、忘恩を悔いて、使徒ペトロやヨハネの説教を聞いたとき、主の福音を信じて魂をも癒していただけたかも知れない。9人は普通の人が経験しなかった奇跡の恵みをいただいた人たちだからだ。
 イエス様はサマリア人の行動を私たちの手本として称賛された。恵みをいただいても感謝しない人もいるからだ。しかし、主は9人を恩知らずだと切り捨てられたわけではない。彼らを非難したと言うより、彼らが体の治癒だけでなく、魂の治癒まで来なかったのを残念がられたのだと思う。すべてに時がある。受けた恩にすぐ気づく人もいれば、気づくのが遅い人もいる。サマリア人は前者であり、彼らは後者だった。少なくとも何人かがそうだった可能性は否定できない。私は好意的にそう解釈してやりたい。

 







 
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プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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