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信行

 今週、年間第27主日の第一朗読ハバククの預言書に、「神に従う人は信仰によって生きる」(新共同訳ハバ2.4)ということばがあった。今日、金曜日の第一朗読ガラテヤの人々への手紙3.11では使徒パウロがそれを引用している。そして、16世紀にマルティン・ルターもそれを引用し、教会に分裂の雪崩を誘発した。
 ところで、キーワードとなっている「信仰」という言葉を調べると、訳は一様ではないのだ。いわゆる「信仰」という意味では言い表せない証拠である。だから、聖書協会訳と新共同訳は「信仰」だが、バルバロ訳は「誠」、フランシスコ会訳は「誠実」と訳している。元々原典のヘブライ語 אמונתו のאמנה は אמן(アメン)と語根が同じで、「神は誠実、信頼に足る」のような用法の「信頼、誠意、誠実等」の意味だ。教義的信仰の意味だけではない。 ところが、三者はそれを三様の意味で使い、その対立対象も同じではないのだ。少しずつずれている。
 預言者ハバククの「神に従う人は信仰によって生きる」と言う一句では、צדיק (ツァディク)は「義人」、「神に従う人」、「正しい人」等と訳せるが、そのどれでもよい。要するに「神の前に正しい人」を指す。そして、その対立対象は「高慢な者、歪んだ心の悪人」である。だから、高慢にも神を拒む歪んだ心の悪人と違い、神の前に正しい人は神を信頼して生きると言ったのだ。複雑な教義論争ではなく、未来のことを告げた時に単純に言っただけだ。
 ところが、使徒パウロはそれをローマの人々への手紙1.17とガラテヤの人々への手紙3.11で論証として引用した。使徒パウロはアブラハムを救いが約束に過ぎなかった時代の信仰の模範と見なし、「正しい人」を彼に倣って主の福音を信じた人と理解した。だから、「正しい人」の意味にはハバククの場合と少しずれている。しかし、対立対象は非常に違って、「高慢な者、歪んだ心の悪人」ではなく、「モーセの律法、またはそれに固執する者たち」であった。だから、彼が「正しい人は信仰によって生きるからです」(フランシスコ会訳)と言うとき、言いたいことはわかるが、私には少しこじつけの感がぬぐえない。
 それをさらに牽強付会させたのがマルティン・ルターだと思う。彼は「正しい人」を彼の解釈に従って主の福音を信じた人とし、その対立対象を「高慢な悪人」でも「律法」でもなく、「人間の業」(Opera)としたからだ。使徒パウロは人が救われるのは主の福音を信じて実践することによるのであって、律法の実践によるのではないと言ったが、ルターは人が救われるのは主の福音を信じることだけによるのであって、人が行う善なる業によるのではないと言った。そこには大きなずれがある。
 ルターは主の福音を信じることを信仰と呼び、人間の業をそれに対立させた。教会は救いにはGratia et Opera, Scriptura et Traditio(神の恩恵と人の善行、聖書と伝承の教え)が必要と教えてきたが、彼はいやSola gratia, sola scriptura(神の恩恵と聖書のみ)でいいと主張し、Opera(人間の善行)とTraditio(伝承の教え)を否定した。そして、教会に分裂の大悲劇を惹き起した。
 しかし、聖パウロは「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」(ガラ3.6)と言い、主イエス様は「わたしたちの父はアブラハムだ」と誇ったユダヤ人たちに、「アブラハムの子供なら、アブラハムの業を行なうはずだ」(ヨハネ8.39)と言われた。では、アブラハムの業で最も優れた業は何であったかと言うと、それは「神を信じた行い」であった。信じるとは人間の行為、即ち業の一つだ。だから信仰と業は対立しない。表裏一体だ。もしルターがそれに気付いていたら、不幸な教会分裂は起こらなかったのではなかろうか。
 そもそも日本語では「信じること」(אמנה, πίστις, fides, foi, faith)を仰ぐという字をつけて信仰と言う。神への特別の信だという意味では優れている。だが、誤解のリスクもある。「信仰vs行い」の図式で、行いと対立的に受けとめられるリスクだ。しかし、信じるとは人間の行為の一つでもある。ならば、信仰ではなく信行と言えばよい。イエス様はアブラハムの業がまさにそれだと言われたのだ。
  「義人は信仰で生きる。」と言った預言者ハバククの言葉は、使徒パウロによって少しずれて引用され、ルターによってさらにずれて引用された。それがハバククの想定もしなかった歴史上の激動を起こした。日曜日にこの預言者のことばを原典で読み、金曜日に使徒パウロのその引用を読んで思った。もし使徒がそれを引用することなく、更にルターが使徒の引用を取り上げなかったら、この一句がこんなに注目されることはなかっただろう、と。
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プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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