今週の日曜日、年間第18主日の福音はルカ12.13-21であった。ある人が遺産分与にお力添えをとお願いして来たとき、イエス様はその頼みをきっぱり断り、その場にいた一同に向かって、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。あり余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と戒められた。
そして、ある金持ちのたとえを話された。大豊作だったので大きな倉を新築し、そこに収穫物と財宝を所蔵し、もうこの先何年も安泰だと思い込んだ金持ちのたとえだ。ところが「神は『愚かな者よ、今夜お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったい誰のものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と、教えられたのだ。
その日の説教がどんな内容だったかは思い出せないが、私がそのとき心中で、「私ならソフトバンク副社長の退職金やジョージソロスの言葉を引き合いに出して、イエス様のたとえを現代向けに解説するんだがなぁ」と思ったことは確かだ。少し前、アローラ氏がソフトバンク副社長を辞し、退職金を68億円もらったことが世間で話題になった。庶民が一生かかっても無縁の巨額だからだ。手を貸す運動Ⅱなど、たった500万円ていどの年間支援額をつくるのに苦労に苦労を重ねている。それを退職金だけでも68億円とは何という差!そんなお金をいったいどうするのだろうか?と思わないでもなかった。しかし、それは妬んだり羨んだりするに値することだろうか?
米国ヘッジファンドの大物、ジョージソロスは彼以上の大富豪だ。1997年のいわゆるアジア金融危機は、米国のヘッジファンドがアジア各国通貨の空売りで惹起した通貨の暴落により、アジア各国経済に大打撃を与えた出来事だったが、その中心にいたのが彼だ。まさに貪欲の典型的な行為だった。
彼はユダヤ系ドイツ人だったが、第二次大戦中父親が捕虜収容所で同胞のユダヤ人を取り締まる役目だった。だから生き延びられたのだと言われる。息子の彼はその生き方を父から学んだ。後年彼は言ったそうだ。「私は貧しく生まれたが、貧しくは死なない」と。実際、巨額の富を稼いだ。だが、貧しいままでは死なないと豪語しても、果たして巨額の富を携えて死を越せるだろうか?否としか言いようがあるまい。神は彼にも言われるだろう。「お前が用意した富は、いったい誰のものになるのか」と。
私ならこのような現代の実例から、主イエス様が人々、ひいては現代の私たちにも、何をわからせようとなさったかを皆に考えてもらっただろう。だが、誤解してはいけない。主イエス様は富を否定なさったのではない。基本は「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6.20)というお言葉にある。しかし、主は「不正にまみれた富で友達を作りなさい」(ルカ16.9)ともお教えになった。この日の福音のお言葉も、よく注意して聞けば肝心なことは何かがわかる。主は「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言われたのだ。ここに愚かな金持ちのたとえを理解する鍵がある。
「神の前に豊かになる者」とは、神の前に富を積む者と同じ意味だ。死の前では貧乏人も富豪も公平で、無一文で死を通過する。しかし、神の前に積まれた富は死ぬ時には持っていけない世の富とは違って、神が預かっていてくださる富だ。だから、「いったいだれのものになるのか」とは言われないし、その持ち主は愚かな者よとは呼ばれない。その人は地上では貧者でも、天では富者になれる。主は「そのような者になれ。富むなら神の前に富め」と教えられたのだ。これがこの日の教えである。
ジョージソロスは単なる大富豪ではなく、各種の基金を設けたりして社会に貢献している。元ソフトバンク副社長アローラ氏も同じかも知れない。彼ら金持ちはみんな金の亡者で、善行は何もしていないなどと、知りもせずに裁いてはいけない。しかし大事なことは社会貢献ではなく、神の前に富を積むことだ。たとえ彼らの1億分の1の富でも、もし神の前に積んでいるなら、その富には不朽の価値がある。そして、こう言えるだろう。私達のほとんどは大富豪にはなれないが、神の前では僅かな富をもって豊かになれる、と。
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