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RETRACTANDUM

 4日前のブログで「飛行機は離陸前エンジンの出力を最大にして、離陸する。キリスト者の人生はそれに似ている。死ねば無に帰すのではなく、離陸して神の御国に帰天する。それがキリスト者の死生観だ。そのためには、老境に入ってこそ人生の出力を最大限に出したいものだ」と書いたが、、「そのためには・・・」以下の最後に一節を撤回する。“Retractandum”とはラテン語で「撤回すべき」という意味だ。前半の人生終末観はその必要はまったくない。むしろ堅持すべきだと思っている。
 しかし、撤回部分はよくない思考だと気づいた。「老境に入ってこそ人生の出力を最大限に出す」という考えにはまず無理がある。病気がちになったり、認知症になったり、老いれば気力も体力も衰えていくのが普通だ。それを今まで以上に頑張らなくてはいけないみたいな言い方は酷であり、人生の自然に合致していない。優しさ不在で恥ずかしい。元気でいられる人は元気でいればいい。だが、老境に入ったら主の慈しみを信じるだけでよく、帰天できる日を祈ってゆったりと待とう、という言うべきであった。
 そればかりではない。人生の出力を最大限にして神の御国に帰天するという考えは、キリスト教の救いの教義と合わないことにも気付いた。なぜなら救いは本質的に神の恵みによるのであるのに、自分の力によって達成するような表現だったからた。確かにイエス様は天に宝を積みなさいと言われた。人はできる限り善を行ない、天に宝を積まなければならない。だが、それによって救われるのではない。救いは主イエス・キリストの死と復活によって達成され、それを信じる者はその恩恵によって神の御国に招かれるのだ。自分の努力によるのではない。天に宝を積む努力がゼロでもいけないのだが・・・
 それを喩えると、救いとは人を愛して無限歩近づいてくださった神に、人がたったの1歩近づくようなものであろうか。神の無限歩こそ恵みと言われるもので、その具体的現れが 「ことばが肉となった」Incarnationだ。そして、人の行なうたった1歩とは「天に宝を積む」善である。それがゼロでは、いくら神からの無限の恵みがあっても、無限×ゼロで、救いはゼロになる。しかし、無限×1なら結果は無限になる。聖書が教える救いとはそういうものだ。神は無限歩近づき人は一歩近づく。それ合わさって救いは成る。撤回した一節はこの思想と相容れない。だから撤回した。


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プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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