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復活節飛び飛び感懐 (3)

 復活節第3主日の福音はヨハネ21.1-19だった。そこには御受難前の彼らとも、聖霊降臨後のカリスマ的な彼らとも違う、ややリラックスした使徒たちの姿がある。彼らはガリラヤに戻っていた。主イエス様からそう命じられていたからだ。しかし、主はまだ来ておられなかった。だからやることもない。暇だ。すでに主の復活を確信した彼らからは、もう心の嘆きは消えていたが、裏切ったやましさがあっただろう。暇すぎるとそれが心に疼く。やりきれない。だからペトロは、気を紛らすために言ったのではなかろうか。「わたしは漁に行く」と。
 するといっしょにいた使徒たちが「わたしたちも一緒に行こう」と言った。そして、みんなで船に乗り込んだ。どうも夕方だったようだ。誰が漁に加わり、誰が加わらなかったか?加わらなかったのはなぜか?私はそのことに少々興味を抱いた。漁に加わったのは皆、元々漁師だった者ばかりだっただろう。昔やっていた仕事だから懐かしくもあり、気晴らしにもなる。その上魚は夕食のおかずになるから、喜んでペトロの誘いに乗ったのだろう。
 漁に行った使徒たちで名前のわかっているのはペトロ、トマス、ナタナエル(=バルトロマイ)だ。名前があがっていないが、確実なのはヤコブとヨハネ兄弟だ。他の二人はおそらくペトロの兄弟アンデレとフィリポだっただろう。全部で7人だ。ということは、不参加だった使徒は残りの4人で、マタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ(=イスカリオテでないユダ)、熱心党のシモンだと推定できる。マタイは収税人だったから参加しなかったのだろうし、他の3人も漁に関心がなかったか、あるいは他に用事があってその場にいなかったのだろう。

 さて、漁に出た使徒7人は夜通し網を打ったが、魚はまったく獲れずに朝を迎えてしまった。おそらく無駄骨折りのつまらない漁だったと、浮かない顔で引き揚げようとしていたのだろう。ところが、そこで劇的な出来事が起こった。主イエス様が岸辺に立っていて、彼らにはそれが主とはわからなかったが、「子たちよ、何か食べるものがあるか」と声をかけられたのだ。それが始まりだった。「ありません」というと、「舟の右舷に網を打ちなさい」というアドバイス。その通りにすると、網が上がらないほど多くの魚が入ったのだ。
 それでヨハネが「主だ!」と叫ぶと、ペトロは上着をまとって水に飛び込んだ。陸には炭火が起こしてあり、魚とパンも用意されていた。獲れた魚は153尾もの大漁だった。驚嘆した。それはかつて出会ったばかりの頃に体験した奇跡の漁の再現だった。主イエス様はなぜこの奇跡をなさったののか?それは、これから何をしたらいいのか、目的を見失いかけていた使徒たちに、「人間をとる漁師」の召命を再確認し、再認識させるためであっただろう。これがこの日の福音朗読のポイントその1である。

 主は「さあ、来て朝の食事をしなさい」と、パンと魚を彼らに与えた。彼らは黙って食べた。「あなたはどなたですか」とは尋ねなかった。主だとわかっていたからだ。主に会えたことはどんなに嬉しいことだっただろうか。しかし、彼らはおし黙っていた。おそらく御受難の時に裏切ったり、ご復活をなかなか信じなかったりしたやましさを感じていたから、叱られるかもと固まっていたのだろう。だから、主はそうではないことをわからせるため、炭火や食物の心配りで彼らの緊張をほぐそうとなさったのだと思う。 
 食事が終ると主はペトロに言われた。「ヨハネの子シモン、この人たち以上に私をあいしているか?」と。ペトロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えると、主は「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。これから大いに増えていく信じる者たちの群れの司牧を彼に託されたのだ。すると、主はまた同じような問いをなさり、ペトロが同じような答えを返すと、主は同じような任命をなさった。
 そして、主が三度も同じ問いをなさると、ペトロは憂いを覚え、「主よ、あなたは何もかもご存知です。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよくご存じです」と答えた。すると、主は「わたしの羊を飼いなさい」と言われた。ペトロの忠誠を3度も確かめられたのは、教会を守り導く任務がいかに重大かを胸に刻ませると同時に、ご受難のとき鶏が鳴く前3度も彼が主を否んだことの裏返しとして、裏切りを愛で塗り替えるチャンスをお与えになったのだということがわかる。これがこの主日の福音の第2ポイントだろう。
 ちなみに、新共同訳では「わたしを愛しているか」という主の問いは全く同文だが、ギリシャ語原典では少し違う。最初と2度目の「愛するか」はローマ字で表記だとAgapas だが、3度目はPhileisである。他方、ペトロの答えは3度ともPhilohだ。Agapasは「神は独り子を与えるほどに世を愛された」(ヨハネ3.16)の愛・アガぺの愛、PhilohはPhilosophy(知の愛)の愛・Philantholopy(人間愛)の愛だ。しかし、両語の意味は大差ないらしい。

 その後主はペトロがどんな最後を遂げるかを予言なさったが、私はそれにはあまり興味がない。それよりも思うことは、漁に来なかった4使徒のことだ。主が2度目に現れたとき、その場にいなかったのはトマスだったが、3度目のご出現では彼ら4人がいなかった。4人は不思議な大漁の奇跡も見ることができなかったし、ペトロとの会話にも立ち会えなかった。彼らは後でこの日の驚くべき出来事を知って、どんな反応をしたのだろうか?
 思うに、「見ないで信じる者は幸いである」とトマスに言われた主のお言葉は、まだ彼らの記憶に鮮明だっただろう。その意味が理解できていたとすれば、彼らは7人の弟子からその日の出来事を聞いて、見ないでも信じたのではあるまいか。だとすれば、4人は「見ないで信じる」ことを実践した最初の信者だったと言えるかも知れない。使徒たちでもすべてを見てはいない。だが、見なくても信じた。これがこの福音の第3ポイントだろう。
 ヨハネの福音書はまとめに書いている。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、信じてイエスの名により命を受けるためである」と。さて、あなたはそれが信じられるか? 私?私は見ないが信じている。
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プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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