FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ちょっとした新しい試み

 昨年末から墨書に凝っている。まだまだ納得のいく字ではないが、墨で書くと気持ちのカタルシスが起こるのか、心が軽くなる。それがいい。それに、書は短時間で済むのもありがたい。絵は水彩画でも長時間かかるものだが、書だと半紙一枚に書く時間は細かい字でも数分で終わる。墨をする時間の方がずっと長いくらいだ。墨汁を使わない私は、墨をすりながら静かにいろいろ考え事をする。その時間がまたいい。
 墨書のきっかけは、昨年暮れにあった高山右近帰天四百年記念の茶事の際、掛軸の書を頼まれたことだった。その時、墨書っていい緊張感と清廉感を味わえるものなんだなぁとわかったのだ。だから、その後通販で半紙を取り寄せ、暇があれば書くようになった。

 しかし、今は板やカンナの削り屑に書くことを試みている。ある日、昵懇にしている大工さんに、半端な板切れが出たらもらえないかと聞いたら、ああいいよと約束してくれて、工場にもらいに行ったら、立派な板を何枚も取っておいてくれたからだ。それは木目が実に美しい樹齢数百年の秋田杉や青森産ヒバ、木曽ヒノキの板などだった。それを自宅で適当な長さに切って、壁に掛けられる板の短冊にした。もう何本かには聖句などを墨書したが、木だから書く前にはもちろん砥の粉を塗る。
 大工さんの工場へ行った時、思ってもいなかったのが機械カンナの削り屑だった。それを見て、私は板よりもむしろそれに興味を持った。削り屑と言っても機械削りだから幅は20センチもあり、超薄い経木のようだった。それは屑と呼ぶにはもったいないくらい見事な、天然の木目が入った無加工の紙に思えた。これに墨書したらどうだろう?大昔の人は木簡を使ったそうだが、もしその時代にこんなカンナ屑があったら、きっと大喜びで利用したに違いないと思った。しかし、「これもください」とは言いそびれて、もらわずに帰ってきた。

 ところが、頼みもしなかったのに、後日その大工さんがわが家に半端物の板を持ってきてくれた。その時、端板を例のカンナ屑で包んでいたのだ。というわけで、工場に行ったときはそれも欲しいとは言えなかったが、思いがけない形で手に入った。もちろん大いに感謝した。カンナ屑は丸まってしまうから、そのままでは墨書できない。私はボール紙に糊で貼り付けて平らにした。少し皺はよるが、これは避けられない。板と違って、砥の粉を塗ってはだめなことも分かった。塗ると凸凹の皺ができるからだ。この自然紙の良さは、木の香りと天然の木目があり、墨書すると自然界の感触があることだ。

 さて、その試し書きをしてみた。板短冊はどんな言葉でもいいが、カンナ屑の自然紙には何か自然が感じられる言葉にしたいと思い、脳裏にすぐ浮かんだ詩にした。三木露風ふるさと」だ。青年時代はこんな詩をよく読んだものだなぁと、少し感傷にひたりながら墨書してみたら、こんな風になった。砥の粉を塗ってないttaので、やはり少し字がにじんでしまう。でも、こんなちょっとした新しい試みをするのも、老化防止になるのではなかろうか。

鉋屑紙 ふるさと

 そうそう、板短冊はこんな風になる。砥の粉がぬってあるので、板地は少し黄色がかってくる。

  板短冊 太陽が輝けば


スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索
RSSフィード
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。