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明けまして、おめでとう

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 一昨年、社会福祉法人・地の星の広報地の星1月号に、私は「天の祝福、地の恵み」という年頭あいさつを書いたことを思い出した。そのとき感じていたのは、「明けまして」ということばはいいな、さすが言霊の国のあいさつだなぁ、日本人独特かな、という感慨だった。
 「新年おめでとう」もいいが、それは相手に新年が良い年であれと願うことで、願う自分、つまり人間が主語だ。ところが「明けまして」は違う。「明ける」は「開ける」でも「空ける」でもなく、「夜が明ける」「年が明ける」「新時代が明ける」など、主語は人間ではなく、天と地の時間的な推移の現象であって、その主語は天と地の「時」なのだ。私はそれに気づいた。少し説明すると、人間は「開けたり」「空けたり」はできるが、「明ける」ことはできない。だから、「明けまして」の主語にはなれない。となると、その主語は誰(あるいは何)かというと「天地」の時に他ならないということなのだ。つまり神様が創造された大宇宙の時の流れなのである。
 しかし、大宇宙の時という存在の一属性は人ではないから、仮に物を言ったとしても、「明けて」というに違いない。それなのになぜ新年の挨拶では「明けまして」という丁寧語になるのだろうか?そこがまた興味深い。それはその表現者が天地の時ではなく、日本語を話す私たち人間だからだ、と私は思うのだ。
 私たち日本人は、新しい年に畏敬の念と希望を抱き、感情を移入して、物言わぬ天地になり代わり、年が明けたことを代弁する。だから丁寧な「明けまして」という表現で、天地と共に挨拶する。そして、それに人間の祝意を加えるから、「明けましておめでとう」という挨拶になる。私はそんな風に解釈している。もっともこんなことを一々意識して挨拶する人はいないだろうが、この挨拶はいわば天地人の合作であって、それゆえに「新年おめでとう」よりも味わい深い。まことに秀逸な挨拶だと思う。
 では、なぜ年が明けたらめでたいのだろうか?それは生きて年が越せて、新たな年に良いことを期待するからだろう。大晦日と元日は考えてみれば、物理的には普通の日々と同じだ。しかし、それなのに人が新年を特別な日として祝うのは、人間がこの日をそう決めたからだ。それは元々切れ目もなく流れでもない時を、人間が「時間」という概念で人為的に区切っているのと同じで、新年や元日は人間が考え出した見事なリセット装置に他ならないと思う。
 ならばそれを大いに活用するのは賢い生き方ではなかろうか。だから、私はこの2016年の元旦には書初めの墨書をした。日本のよい習慣を活かしたいからだ。書の文言は陶芸家の丸山陶李さんのために書いた福音書の一節と同じだが、それは手を貸す運Ⅱ支援者の今年のためにそうあってほしいと願ったからだ。手を貸す運動の支援は、その恩恵を受ける子ども達にとって人を通して天から与えられる恵み、支援する人たちにとっては天に宝を積む行いだ。それゆえに願う。
 天の恵みを受ける人たちも天に宝を積む人たちも、太陽のように輝けますように!

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 そして、訪問者の皆さん、どうぞ今年もよろしくお付き合いください。どうか皆さん、ご健勝で幸せな一年を過ごされますように!
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プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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