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やり残していること

 聖書と典礼6月16日(火)の福音はマタイによる福音書5・43-48で、こう書いてある箇所だった。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。…自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟だけに挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

 私は何度この箇所を読み、何度教えたことだろうか。コラムにも書いた。だが、今回はかつて感じたのとは別の感銘を受け、聖霊の促しのようなものを感じた。この教えは主イエス・キリスト様の福音の核心にある。しかし、では自分はそれをちゃんと実践してきたのかと自問したとき、気づかされた。よく知ってはいるが、不十分にしか行ってこなかった、と。そこで心を決めた。ならば、今からでもいい。人生でやり残しているこの教えをしっかりと実践しよう、と。それを聖霊の促しと感じたので、私は今それを書いている。

 しかし、徹底的な実践を決心するからには、お言葉の正しい理解が必要だから、まずそれを少し検証する。主は「隣人を愛し、敵を憎め」と言われたが、前半の「隣人を愛し」はモーセ五書のレビ記19章18節からの引用で、これには何ら問題はない。しかし、後半の「敵を憎め」という語句はそうではない。旧約聖書のどこを探してもそういう語句は見つからないからだ。では、イエス様はありもしない事実をあったかのように話されたのだろうか?そうではない。
 解説書によれば、それはもともとアラマイ語で書かれていた。ところが、アラマイ語は微妙な表現に乏しく、「愛せよ」の反対を「憎め」としか表現できなかったらしいのだ。実際は私たちの「憎め」とは違い、「愛するな」「愛から排除せよ」と言いたかったようなのだ。従って、もし「敵を憎め」がその意味で言われたのなら、その事実は旧約聖書に枚挙にいとまのないほど多くある。イスラエル民族はずっとそういう対外姿勢で生存していたからだ。だから、「敵を憎めと命じられてきた」という表現は間違いではない。ただ、そうは言っても、なぜ主は聖書にない言葉をあたかも書いてあるかのように話されたのか、という疑問は残る。しかし、それは別の問題だから、ここでは取り上げない。

 さて、「憎め」の真意がわかったなら、次に必要となるのは「敵を愛し、自分を迫害する者」とは誰かという問題だ。一般論を言っても仕方がないから、では私にとっての「敵」は誰かと自問してみる。思うに、今のところ私には、私を殺害したり、生活を脅かしたり、物損を与えたりするような「敵」はいない。しかし、かつては仲間だったのに、今では私の評判を落とそうとするクリスチャンはいる。恩を売るわけではないが、三十年余の支援を無視で返しているシスターもいる。もしもそういう人たちもある意味で「敵」と呼べるなら、私にも敵はいることになる。
 しかし、彼らは私にとって「敵」であるよりも、兄弟姉妹の感が強い。ただ彼らを見ていて不思議に思うのは、そのような生き方をしていながら、どうして自分をクリスチャンだとかシスターだとか思っていられるのかということだ。自分を愛してくれる人を愛し、自分に好意的な人に挨拶するだけなら、普通の人たちもしている。しかし、普通の人がしていることすらできないなら、どうして敵を愛することなどできようか。イエス様はまさにそのことを言われているのに、どうして気づかないのかと思う。

 だが、大切なのはいわゆる「敵」がどう生き、どう行動するかではない。自分がどう生き、いかに主の教えに応えるかにある。それに、「敵」である人を裁けば、自分も「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け」と言われるだろう。だから、人を裁くのは控えめにしよう。人がどうであれ、人は人、自分は自分。たとえ誰かが私を憎み、そしり、不幸になることを望もうとも、私は同じことをしない。ひらすら「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」というお言葉の実践で応じる。そう決心した。
 愛するとは、人を心に入れてやること、悪意に対して善意で応じ、その人の幸を祈り、その人の上に神の祝福を願い、その人が生きることを望むこと。それに対し、憎むとは、人を自分の心から排除すること、善意にすら悪意で応じ、その人に災いを祈り、その人の幸を呪い、その人の存在を拒否して死を望むこと。私は前者を選んだ。そして、その選択の証しとしてこれを書く。
 それがどんなに難しいかは承知している。今までもできなかったのだから、これからもまた失敗し、何回もやり直すことになるに違いない。だが、失敗したらやりなおせばいい。諦めたらそこで負けだ。残り少ないわが人生でやり残していることなのだから、これはやり遂げなければならない。
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プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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