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個人的新3年計画宣言

 5月24日は聖霊降臨の祝日であった。教会が誕生した日である。そこでその記念すべき日を、私の個人的な新しい3年計画の出発点に選んだ。新3年計画とは、オリエンス宗教研究所が発行している聖書と典礼を使って、典礼暦A、B、C年の毎日の聖書を原典で読むことにある。その目的はボケ防止のためもあるが、前の3年計画だった旧約聖書全編の原典通読を一か月ほど前に終了したとき、「これでもう何もしなくなってしまうのでは惜しい。せっかくのヘブライ語力も退歩してしまう。よし、復活節が終わる聖霊降臨祭が来たら、もう一つの3年計画に挑もう。聖書と典礼の聖書原典黙読なら旧約と新約の両方だから、ヘブライ語とギリシャ語の両方で読める。従って、一方では退歩を防ぎ、他方では新たな進歩が望める」と思っていたからだ。近況報告に替えて今日はこのことを書いておく。

 決心しただけの計画倒れにならないよう、この試みはさっそく先週から実践している。ところが、始めてみてみたらすぐ壁にぶつかった。旧約聖書通読とは勝手が違い、この計画の方が難しいことに気づいたのだ。旧約聖書通読はその日読む箇所が難しければ少しで済ませ、易しければどんどんはかどった。しかし、その日に読んだ箇所が少なかろうと多かろうと、翌日は前日の続きを読めばそれでよかった。だから急かされることはなく、自分のペースで読めたのだ。ところが、聖書と典礼の朗読は違う。毎日読む箇所と量があらかじめ決まっている。従って自分のペースでは進めない。そして、その日の聖書が読み切れなくても翌日の分が来てしまう。そこで全部読もうとすると翌日にずれ込み、一日遅れ二日遅れで読むことになる。当然その日の聖書には入れず、どんどん実際の日付とずれてしまうのだ。それも読もうとすると、まるでノルマに急かされている感じになる。10日ほど実践してみてそれを体験した。こういうところが旧約聖書通読と違う。
 そんなことから、私の力量ではこの3年計画は無理かな…?という疑念も湧いたが、二つの原則で対応する解決策をたてた。一つは毎日の聖書を読みきる努力をすることで、これは理想だ。無理はしないがそれが普通になるよう努力するという原則だ。しかし、読み切れないときは、読み残しは捨て、新しい日の聖書に移る。それがもう一つの原則だ。読み切れなかった分は残飯と思うことにした。それは時間ができたときに読めれば、それはそれでいいが、何も無理をすることはない。せっかくの計画がノルマのように気持ちを圧迫するとしたら意味がない。残飯は捨てる。そういうものだと思えば気が楽になる。

 そういう心づもりで、聖霊降臨祭後の一週間を新3年計画の皮切りに実践してみた。だが、またもや問題に遭遇した。福音はマルコ10章、11章だったが、その原典のギリシャ語はそんなに難しくはない。辞書を使いながら、私でもまずまず読めるから、特段の問題はなかった。ところが、第一朗読の旧約聖書はシラ書(集会の書)で、箇所は17章から51章までの飛び飛びの抜粋だったが、それに問題があったのだ。まず、それはユダヤ教では正典とされていないためヘブライ語のマソラ本に所収されておらず、ギリシャ語の七十人訳で読むしかなかったことだ。ところがそのギリシャ語は難しかった-いというより、私の知らない語彙が多くて、頻繁に辞書の世話にならないと前に進めなかったのだ。私の力不足からだが、進み方がまるで蝸牛の動きだった。当然、その日のうちに読み切れず、“残飯”が増えるばかりだった。これが二つ目の問題だった。
 “残飯”は捨てて先に行けばよいと発想を変えたから、この問題は解決した。しかし、これではギリシャ語ばかりで、ヘブライ語との接触機会がない。そこで、こういう場合は福音書をヘブライ語訳でも読むことにした。今、それは実践中だが、これは一石二鳥でもある。なぜなら、ヘブライ語のブラッシュアップになると同時に、イエス様の言葉をよりよく実感できるからだ。
 ちなみに福音書原典はギリシャ語だが、忘れてはならないことがある。よく原典ではこうだとかああだとか言う学者や司祭がいるが、ギリシャ語はイエス様の話しておられた言葉ではなかったことだ。従って、福音書原典にあるそのお言葉は、主が話されたままではなく、しょせん翻訳に他ならないのだ。もちろん原典は最高に貴重で、どんなに尊重されても尊重され過ぎることはない。しかし、私にはギリシャ語だとイエス様のお言葉が何だかイエス様のものではないように感じられてならない。それも事実なのだ。主は普段はアラマイ語を使っておられたようだが、ヘブライ語でも話された。だから、ヘブライ語訳だと、「主は、実際はこんなお言葉で話されていたんだ」と実感が増すのである。

 今週は新計画の二週目で、第一聖書はトビト記だが、これもシラ書と同様ヘブライ語聖書にはないので、ギリシャ語の七十人訳で読んでいる。今まで創世記や申命記、イザヤ書などはギリシャ語訳でも部分的に読んだことはあるが、トビト記は初めてだった。ところが読み始めたとき、各ページの上下が常に2分割されていて、上段にBAバージョン・トビト記、下段にSバージョン・トビト記が並列で印刷されているのに気が付いた。調べたら、上段はシナイ写本のトビト記、下段はバチカン写本のトビト記だと知った。今頃それに気づくとは聖書研究の末席にいる者としては恥ずかしいことだと思う。
 ラテン語訳がバチカン写本を選んで一本化したため、それ以後の翻訳聖書には七十人訳のような二段だての掲載はない。仏語のLa Bible de Jerusalem、ドイツ語聖書協会のDie Bibel、ヘルダー社のDie Bibel等もラテン語訳に追随している。日本語の聖書では新共同訳、フランシスコ会訳、バルバロ訳など、それぞれ原則的にはラテン語のブルガタ訳に準じている。しかし、英語のThe Bible, RSVや日本聖書協会の聖書にはトビト記そのものがない。プロテスタントは原則としてそれを正典と認めていないからだ。だから新共同訳では、カトリックが第二正典として認めている関係上、妥協の産物として続編に掲載されてはいる。
 私としては、ギリシャ語トビト記はSヴァージョンの方を選んだ。ラテン語訳以後の近代語訳も邦訳もそれを選択しているからだ。いずれにせよ、旧約聖書原典通読の各書感想を書くことがまだ宿題みたいに残っているが、それはそれでおいおい果たすこととして、個人的新三年計画の方は決心してやり始めた以上、挫けずに実行していこうと思う。とにかく、その日その日に指定されてくる聖書がどの箇所であり、何語であろうと、どれもご縁があればこその出会いだと思って向き合っていく。こんなことができる幸せをいただけていることに感謝しつつ。
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プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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