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絶対に忘れない記念日

 12月8日は私にとって忘れがたい日である。この日を太平洋戦争開戦日として思い出す人も少なくないだろう。私にもその記憶は鮮明に残っている。だがそれは私にとって重要ではない。その日が聖母マリアの無原罪の御宿りの祝日だから忘れない人もいる。カトリックの信者にとってはかなり大事なことだからだ。もちろん私にとってもである。しかし、私にとってこの日が絶対に忘れない日であるのは、それが洗礼を受けた日だからだ。今年で66年になる。
 洗礼とはカトリック信者にとって、神の子として新たに生まれることに他ならない。主イエス様がユダヤ人の長老ニコデモに「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われたのはそのことである。洗礼によって人は新たに生まれる。「あなた方は選ばれた民、王の系統をひく司祭、聖なる国民、神のものとなった民です」(一ペト2;9)とある通り、それは神の国の国籍を得ることを意味するのだ。今66年を振り返ると、洗礼の日以来私の人生にはいつどこでも神が共にいてくださったことを実感する。苦悩のどん底にいた時もそうであった。

 人は肉体として母親から生まれる時、自分で考え、自分で決心して、自分の意志で生まれるのではない。それでも蚊や蛆虫として生まれるのではなく、日本人という人間に生まれることは非常に幸いなことではある。しかし、赤子として生まれる時は、親を選べないし、生まれる国や境遇も選べない。100%受動的なのだ。ところが、洗礼はそこが全く違う。自分で考えに考え、決心して、自分の意志で、神の子として新たに生まれるか生まれないかを選べる。そこが肉体の出生と決定的に違うところだ。
 もう一つ決定的に違う点がある。生まれたものの意識だ。肉体の生を受けて生まれ出た赤子は、生まれた時は親兄弟が誰であるかをまったく知らない。乳を吸わせてくれるのが母であることすら認識していないだろう。父母や兄弟姉妹を知るのは何か月か後だ。しかし、洗礼によって生まれる者はそこがまったく違う。自分が新たに生まれる瞬間から、いやその前からさえ、誰が霊的に父であり母であるか、誰が兄弟姉妹であるか、自分がどんな存在として生まれるのかをはっきり認識している。むしろ生まれる前後の方が明確に意識しているとさえ言えよう。 
 とは言え、いくら熟考し、新たに生まれようとしても、自分だけでは神の子として生まれ出られないのも洗礼である。自分で自分を生むことができない点は肉体の出生と同じだ。洗礼では洗礼を授ける人がいる。しかし、洗礼授与者はしょせん神の道具に過ぎず、真に人を神の子として新たに生まれさせるのは父と子と聖霊にまします神ご自身である。生まれるのはカトリック教会においてだから、神の子となる信者の母は教会であり、父は神なのだ。だから、信者は教会を母なる教会と呼び、神には「天におられる私たちの父よ」と祈るのである。

 洗礼を受けた時、私は19歳だったが、その前の2,3年間は哲学書を夢中で読み漁ったものだった。私が探し求めていたのは人生の意味で、それを哲学に求めたのだ。未熟だったが私は考えた。生まれた以上、自分の人生が無意味であるはずはない。ただ生まれて意味もなく生き、意味もなく死んでいくのなら、なぜ生があるのか。今思い返すと、人生の意味探求は私にとって無意味への抵抗だったのだと思う。だが、哲学に答えはなかった。哲学は根本問題を問う。だが、必ずしもその問いに答えるものではない。答えても誤謬である場合が少なくない。
 私のその探求に最終的に答えてくれたのは主イエス・キリスト様の福音であった。福音は人の生きる意味をなっとくさせてくれた。それは畑に隠されていた宝のようであった。それを見つけた私は持っている物をすべて売り払ってその畑を買った。つまり、私の過去をすべて清算して、その畑の宝に当たる主の福音を信じたのだ。信じるということは目に見える証明があるからではない。イエス様の時代の人は奇跡を見て信じられただろうが、私たちは見ないで信じるしかない。それは一つの賭けだと思う。だが私は主の福音に賭けた。そして、その賭けで敗れることはないと確信している。
 確信しているばかりではない。主の福音を信じて生きる喜びを多くの人達と分かち合いたいと思っている。その思いは私の心の中から洗礼を受けた日以来一度も消えたことはない。66年間続いてきた熱い願いだ。その願いを心に保ちながら玉川で教え、ボーイスカウティングをし、知的障害者施設の手伝いをし、手を貸す運動をしてきた。多くの失敗をし、逆の結果も招いたが、主の福音の喜びと富を他者と分かち合いたい思いはずっと変わらない。
 今日はその思いを新たにする洗礼記念日であった。初心を思い出すために、今年も洗礼記念カードと私を洗礼に導いてくれた恩人Sさんの写真を飾って誓いを新たにした。あとどのくらいの年月が私に残されているのかはわからないが、手を貸す運動Ⅱは最後までやり遂げたい。これは私なりの福音宣教だからだ。洗礼記念日に記す宣言である。
Ebangelizare puperibus. Copiosa apud Eum redemptio.
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プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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