神語と人語

 人となった言(ことば)については考察したが、やはり「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハネ1;1-3)という章節が気になるので、そこについて自分なりに思うことをもう少し書いてみる。

 まず「初めに」という書き出しについて考察してみよう。それが創世記を念頭に書かれたことはほぼ間違いない。ヘブライ文字とギリシャ文字はローマ字で表記するが、創世記1;1の「初めに」はヘブライ語では“Breshit”、そのギリシャ語訳は “en archeh”だ。ちなみに、ラテン語ブルガタ訳は“In principio”、仏語では“Au commencement”、英語では”In the beginning” と訳している。他方、ヨハネの福音書1;1の「初めに」も、ギリシャ語原典ではまったく同じ“en archeh”だ。
 では創世記とヨハネ福音書の「初めに」は、書かれた位置も同じように書の冒頭で、文字そのものもまったく同じだから、意味もまったく同じかというと、そうではないことは少し調べればすぐわかる。では、それはなぜ、そしてどう違うのだろうか?
 私は二つの「初めに」が、その後に来る言葉によって違った意味を持ったと考える。創世記の「初めに」では、その後に「神は天と地を創造された」という一句が続く。つまりその「初めに」は、創造と言う神様の行為の初めを意味している。それは「神はまず天と地を創造された」と言い換えることも可能な時間的「初め」だ。従って「次に…」と続く言葉が想定できる。ところが、ヨハネの福音書の「初めに」は神様の行為の初めを意味していない。天地創造の行為より前にあったロゴスの存在を意味している。創造された世界の出現前だから、そこには時間も空間もない。それは神様のみが存在することを示す存在論的な「初め」であって、時間的な「初め」ではないのだ。
 本当はロゴスには初めも終わりもないのだが、その永遠の存在を表わすため、やむをえず時間的概念を借用したのがこの「初めに」という表現なのだ。「初めに言があった」とあるこの「初め」があったからこそ、「初めに、神は天と地を創造された」とある天地創造の時間的「初め」もあり得たとも言える。ヨハネの福音書はこうして、創世記の「初めに」を超越し、それがよってもって成り立った根源の「初めに」を示した。それは「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである」(黙22;13)と言われる「初め」だと理解すれば納得が行く。

 次に「言(ことば)があった」という一句だ。「あった」は原典ギリシャ語では“Ehn”だ。それは動詞eimi(be, être)の未完了過去形だから、ずっと存在していたことを意味する。しかし、その主語は言(ことば):ロゴスだ。ところで、ロゴスは天地創造の前にあった存在だから、時間を超越している。なぜなら時間は宇宙が創造されたからこそ出現したのであって、天地創造前は存在しなかったからだ。時間と空間とは宇宙万物の存在形態に他ならないから、天地創造と共に出現したものだ。
 従って、時間を超越した存在者であるロゴスには、時間的表現は本来なら当てはまらない。しかし、人間はそれを時間的な表現でしか言い表せない。だから、ヨハネの福音書記者は「存在する(eimi)」という動詞の未完了過去で「あった」と表現するしかなかったのだろう。従って、それは時間が出現する前の過去を意味し、同時に終わってしまった過去ではなく、今も存在が続いていることをも意味する「あった」なのだ。

 ロゴスについては、学者たちの中にはアレクサンドリアのフィロンの影響云々を論じる人がいる。だが、私はそれには興味がない。そんな思想的ルーツ探しよりも、ヨハネ福音書記者がなぜそういう言葉で神の独り子を表現せざるを得なかったかに関心がある。すでに「人となった神の言」で書いたが、いわゆるプロローグと言われるヨハネの福音書1;1-18の目的は、ロゴスのことを語るためではなく、イエス・キリストは神の独り子であり、その出自は神的であると宣言するにあった。
 ところで出自が神的なら、いかなる意味でそれが神的なのか、根拠を示さなければならない。そこで、ヨハネはその根拠を「言」(ロゴス)だと断言した。だから、「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と書いた。肉とは身体を持つ人間、つまり神の独り子イエス・キリストは神言+人間という存在であり、神であると同時に人でもあることを意味する。従って、ロゴスという表現は神の独り子の神性面を示す前提として語られたのだ。だが、それは実に深遠で重大な前提だった。 
 そのように、ロゴスが神の独り子の神性面を示す前提であるのなら、それは神的でなければならない。そこでヨハネ福音書記者は「言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」と続けて書いたのだ。ところで、「神と共にあった」のなら、言は神的ではあるが、神とは別の存在であるとしか受け取れないだろう。だから、彼はすぐ「言は神であった」と書いたのだ。それによってロゴスは神とは別の存在ではなく、神そのものだと言っていることがわかる。

 では、ヨハネ福音書記者はなぜ、ロゴスが神とは別存在のようなのに、神そのものでもあると言う、このように人を戸惑わせる言い方をしたのだろうか?それは神様が父と子と聖霊であることをまだ述べていない段階だったからだと思う。だから1章14節で、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と書いた後には、「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって…」と書いて、初めて神様が父であり子であることの神秘を明らかにしたのだ。
 それがわかると戸惑いは解消する。神様は唯一だが、父と子はある意味で別存在だからだ。後世の神学はこの別存在をペルソナ(位格)として別なのだと説明した。その妥当性がどうであれ、「言は神と共にあった。言は神であった」という一句は、「(独り子であり神である)言は(父である)神と共にあった。(独り子である)言は(父である神と共にいる)神であった」と解釈することができる。2節の「この言は、初めに神と共にあった」という一句は、1節の「初めに言があった。言は神と共にあった」という一句の再確認で、次の万物創造に移るつなぎの短縮文だと見ていいだろう。
 ただ、“kai theos ehn ho logos”「言葉は神であった」という一句は、主客が転倒して、「神は言葉であった」とする訳もある。例えば手元の翻訳聖書を見てみると次のように訳している。
・ラテン語ブルガタ訳 “et Deus erat Verbum.” 「神は言であった。」
・ヘブライ語訳 “ve Elohim haia hu ha-dabar.” 「神は言であった。」
・英聖書協会訳 “and the Word was God.” 「言は神であった。」
・エルサレム聖書仏訳 “et le Verbe était Dieu.” 「言は神であった。」
・同スペイン語訳 “y la Palabra era Dios.”  「言は神であった。」
・ヘルダー独語訳 “und Gott war das Wort.” 「神は言であった。」
・ラゲ日本語訳  「御言(みことば)は神にてありたり。」
日本聖書協会訳 「言は神であった。」
・バルバロ訳   「みことばは神であった。」
・新共同訳     「言は神であった。」
 外国語には日本語訳をつけた。それで比較してみると、ラテン語訳、ヘブライ語訳、ドイツ語訳が「神は言であった」と訳し、他は「言は神であった」と訳していることがわかる。日本語訳はすべて後者の系統だ。どちらでもいいじゃないかと言う人もいるだろうが、それでは済まされない。意味が違ってくるからだ。「言は神であった」と言えば、それは言とはいったい何(誰)かを明らかにすることだが、「神は言であった」と言えば、神様の本性を定義することになるという違いが出る。
 では、どちらを採るべきだろうか?いくつかの注釈書を調べてみたところ、多数意見は「言葉は神であった」と読む方が正しいとしている。その根拠は冠詞にあると言う。語順から見れば確かに「神はロゴスであった」と訳しやすい。しかし、ギリシャ語では主語には冠詞がつき、述語にはつかない。ところが、この一句ではロゴスには冠詞“ho”がついており、神(Theos)にはついていないのだ。従って、冠詞のついている句末の一語ロゴスの方が主語だと結論することができるという三段論法だ。それに、ここはロゴスが主役の叙述だから、私もその解釈の方が妥当だと思う。
 原典のギリシャ語には、いつもなら煩わしく思える冠詞があるから、ここではそれが幸いしている。しかし、ラテン語には冠詞はないし、語順も相当自由だから、理論的にはDeus もVerbumも主語になりうる。でも、どうやら訳は「神」が主語のようだから、ミサなどで何十年間もそれに気付かずに来たことは少々ショックだ。他方、ドイツ語やヘブライ語は語順がほぼ固定しているから、主語が「神」であることは間違いないだろう。そう解釈した理由は私の推察だが、原典の語順通りに解釈したからではなかろうか。

 ところで、私が一番感じ入るのは、ヨハネ福音書記者が神の独り子の神性を表わすのに、「言」という一語を選んで書くに至るまで、どれほど苦心しただろかということだ。教会は聖書が神様の霊感と導きによって書かれたと教える。もちろんそれはその通りだと信じるが、彼がその表現にたどりつくまでには、どれほど人間的知恵を使った模索が重ねられ、どんなに深い瞑想と多くの祈りがあったことだろうか。そして、これだと決めて公表する時はどれほど勇気が要ったことだろうか。それを思うと頭が下がる。
 しかし、ロゴスという言葉は彼が最初に使い、ヨハネの福音書の冒頭だけに出てくるのではない。人の言葉や神様の言葉としては聖書の中でかなり頻繁に出てくる。例えば福音書だけでも次のように使われている。
「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。」(マタイ19;11)
「わたしの言葉を恥じる者は…」(マルコ8;38)
「マリアはこの言葉に戸惑い…」(ルカ1;29)
「いったいこの言葉は何だろう。権力と力をもって…」(同4;36)
「神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに…」(同5;1)
「行いと言葉にも力ある預言者でした。」(同24;19)
「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。」(ヨハネ8;31)
「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。」(同14;23)
 従って、言葉(ロゴス)という語彙は旧約でも新約でも珍しいものではない。ただ、それらはすべて神様とかイエス様とか人々とか、どれも誰かの言葉だ。ところが、ヨハネ1;1-3に出てくるロゴスは違う。誰かの言葉ではなく、言葉そのものなのだ。だから、日本語訳はそれ表現するために、読みは「ことば」のままだが、言葉の「葉」という軽い要素を取り去って、「言」とした。苦心の末の造語だったと思う。従って、ヨハネ福音書記者が、質的に違う誰かの言葉にヒントを得てそれを発想したとは到底思えない。

 では、他のヒントがあったのだろうか?旧約聖書には「知恵」を、天地創造の業にかかわったものとして述べた個所がある。この知恵は誰かの知恵ではなく、擬人的に独立した存在として描かれていて、どこかロゴス(言)に通じるところがあるようにも思える。例えば次のような個所だ。
 「わたしは知恵。…主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先だって。永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先だって。わたしは生み出されていた、深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。…」(箴言8;12,22-24)
 「知恵は永遠の光りの反映、神の働きを写す曇りのない鏡、神の善の姿である。知恵はひとりであってもすべてができ、…神の友と預言者を育成する。…知恵は地の果てから果てまでその力を及ぼし、慈しみ深くすべてをつかさどる。…知恵は神と共に生き、その高貴な出生を誇り、万物の主に愛されている。」(知恵の書7;26-8;3)
 「知恵は自分自身をほめたたえ、その民の中で誇らしげに歌う。…この世が始まる前にわたしは造られた。わたしは永遠に存続する。」(シラ書24;1,9)
 これらはヨハネ福音書記者に多少の影響を及ぼしたかも知れないが、彼がそこからヒントを得てロゴスという表現に行き着いたとはやはり考えられない。ヨハネ1;1-3を読むと、何よりも印象的なのはその極限までの簡潔さと、確信に満ちた断定だ。饒舌も装飾も一切ない。ところが、箴言、知恵の書、シラ書などに共通するのは饒舌気味の表現、詩的に飾った想像だ。だから人為的だということがすぐわかる。そういうものを手本にして、あのようなヨハネの福音書が生まれたはずがない。それらは知恵を擬人化して賛美した思想であって、肉となるロゴスとは深淵の開きがあるからだ。

 もちろん神的な霊感の導によるのだろうが、ヨハネ福音書記者をロゴスという表現に思い至らせたもので、最も強い影響を与えたのはやはり創世記1章だったと私は思う。創世記1章は神様による天地創造を語るが、そこにはロゴスという語彙はまったく出て来ない。しかし、神様が「光あれ」、「水の中に大空あれ」と言われた言葉が出てくる。傍から見ると、それは神様の言葉、神様のロゴスに他ならない。創世記には「初めに、神は天と地を創造された」とあるが、初めにあったのは神様のロゴスであり、それによって天と地が創造された。ここでそれはヨハネ1;3と完全に重なる。
 「初めに」という同じ表現の用法と相まって、「万物は言葉によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった」という叙述は、ヨハネの福音書1;1-3が創世記1章を強く意識し、そこをロゴスという表現の発想源とし、そこを解釈したものであることを強く示唆ししている。私はそう見る。従って、その3節前半はこう敷衍して言うことができよう。「万物は(天地創造のとき、『光あれ』、『水の中に大空あれ』、『地は草を芽生えさせよ』のように言われた神の)言によって成った」と。
 しかし、そこで一つの疑問が湧く。創世記の場合、神が「光あれ」のよう言われたから、人はそれを神の言葉と呼ぶが、原典に書かれている“Iehi ohr”(光あれ)はヘブライ語だ。しかし、ヘブライ語はイスラエル民族の言語で、神語ではない。人語の一つだ。それなのに、なぜ人は何の疑問もなく無神経に、それを「神の言葉」と言えるのだろうか?それはギリシャ語原典でも同じだ。それらがこの上なく貴重なことは勿論だが、人間の言葉である限りそれも神語ではない。それはどの訳語についても言える。
 では、いかなる意味でそれらは「神の言葉」と言えるのだろうか?イエス様のお言葉なら問題ない。人となられた神なる言(ロゴス)のお言葉だから、人であるイエス・キリスト様の言葉であると同時に神の言葉でもあると言えるからだ。しかし、預言者たちを通して語られた神様の託宣などは同じには言えない。ヨハネ12;28-30にあるように、神語は人にはわからない。だから神様のメッセージは預言者が話す人間の言語を介して伝えられた。彼らは通訳だったのだ。その場合、預言内容は神様からだが、彼らが語った表現は神様の言葉ではなく、人間預言者の言葉、人語なのだ。
 そうなると、私たちが通常「神の言葉」と言っているのは、内容が神様から来るからこそそう言える比喩的な表現に過ぎないことがわかる。そこで人は「初めに言があった」と言うロゴスが、いかに卓越した表現であるかに気付く。これこそまさに比喩ではない神様のことばそのもの、まぎれもない神語なのだ。「言は神と共にあった。」だから父なる神様はロゴスを通して、かつては預言者たちによって語り、終わりの時代には御子によって語られた(ヘブ1;2)のだ。その意味で聖書には神の言葉がある。ロゴスはその源泉だ。だが、「神であった」ロゴスそのものは人間の理解を超える。

 さて、ロゴスは人間の認識能力も表現能力も超えるから、最終的には信じるしかない方だが、同時に人間の五感で捉え得る宇宙万物につながっておられる。「万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった」からだ。しかし、その宇宙万物もやはり究極的には人間の能力を超えている。最近テレビ番組のコズミックフロントなどで、宇宙がどう誕生したかなどと盛んに述べているが、あたかもそれを自然科学的に解明できるかのような論調が多い。だがそれは虚しい期待だと私は思う。
 宇宙がビッグバンで膨張していることや、恒星の出現と終焉など、天文学的に確かに言えることは多いし、ブラックホールなどのように未知のことも多々ある。最近では万物の質量の起源を理論的に説明可能にするというヒッグス粒子が話題になった。朝日新聞の解説では、「宇宙誕生のビッグバン直後に、光速で飛び回る質量ゼロの素粒子に、ヒッグス粒子が水あめのように抵抗を与えて動きにくくした。この動き難さこそ、素粒子が質量を持ったと言うことだ」そうだ。
 その他にも光速を超える素粒子が発見されたとか、地球に似た温度22℃ぐらいの星があるとかの興味深い話題もあった。科学は宇宙がどのようなものか、そこに何があるか、それがどのように変化するか等を探求できる。つまり誕生後の宇宙を解明することはできる。だが、その誕生そのものは解明できない。科学は存在する未知のものを、存在する既知のものによって証明できるが、存在しない無が相手では証明の梃子の支点がないからだ。それが出来るのは思索と信仰だけだ。
 聖書は神様が宇宙万物を創造されたと語る。無からの創造だ。それは「光あれ」のような神様の言葉によってできた。ヨハネの福音書冒頭はそれを「万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった」」と喝破した。無は有を産み出せない。産む主体そのものが無いからだ。しかし、天地創造では万物を産みだす主体があった。全能の神なるロゴスだ。だから、宇宙は誕生した。ひとりでに出現したのではない。また、それを無に帰させることができるのも言なのだ。
 そして、最初に「光あれ」と宇宙に光の素粒子を創造されたロゴスは、人間にとっても「世に来てすべての人を照らす」(ヨハネ1;10) まことの光りとなった。その「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」神であるロゴスは人間には本来認識できないが、肉となられたので、それ以来ロゴスは人が目で見、手で触れ、耳で聞くことができる存在となられたのだ。その口から出た言葉はもはや預言者の翻訳ではなく、人の言葉でありながらもロゴスご自身の神の言葉となった。ここに受肉の神秘がある。

後記
 ここまで読んでくれた奇特な人がいたとしたら、さぞかしうんざりしたのではなかろうか。しかし、書いた私は考えるって何と楽しいのだろうと、思索の楽しさを満喫した。だんだん物忘れがひどくなってきてはいるが、82歳になってもまだこのように思索できることを実にありがたいと感謝する。誰に?もちろん神様に、産んでくれた両親に、そして生きることを可能にしてくれている人たちすべてに。

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プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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