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ルソン島縦走記

 6日前フィリピンの学校給食視察旅行から帰国した。強い光と暑さで目をやられてしまったが、よくなったのでとりあえず走り書きの略報を届ける。
 行く前は、やれ置き引きが多い、強盗、殺人もあるぞ!などと脅かされて若干緊張していたが、案ずるよりは易しで無事に戻れた。むしろ心配だったのは、マニラ~カンドン間だけでも車で9時間かかる走行に、この老体が耐えられるだろうかという点だった。でも、それもクリアでき、充実した視察ミッションを果たせたので、思い切って行ってよかったと満足している。
 
 私達一行は3人だった。旅程は5泊6日で、2月14日に成田からマニラに飛び、その日はマニラのホテルに一泊しただけだった。フィリピンのタクシーはぼったくりが多く要注意だと聞いていたが、幸い知り合いのフィリピン人が迎えに来てくれていたので安全なタクシーを選べた。
 翌日からの4日間はルソン島をほぼ縦走する旅だった。私達は地図上に矢印で示した通りの行程を、現地人運転手付きのレンタカー・トヨタハイエースGRで動いた。それが一番安全だし、第一私達は現地の地理に不慣れだったからだ。行程は成田→マニラ→カブヤオ→マニラ→バギオ→カンドン→ヴィガン→カンドン→マニラ→成田の順であった。

フィリピン旅程地図 

 2月15日(水)午前中は、マニラから南へ車で約1時間のラグナ州カブヤオ市に行き、私たちの資金援助先の一つであるサウスビル1小学校の給食現場を訪問した。100名の児童達は2交代で皆嬉しそうに給食をいただいていた。私たちのメインの目的はルソン島南部の同校と北部カンドン市にあるもう一校の学校給食を視察することにあった。しかし、それについては後日あらためて書くつもりだから詳述を省き、むしろここでは旅の副次目的だったバギオ市とマニラのバクララン教会でのことに焦点を当てようと思う。
 サウスビル1小学校の学校給食の視察後、私たちは午後すぐバギオ市へ向かった。マニラとバギオとカンドンを結ぶと細長い三角形になり、カンドンへ行くにはバギオ回りは遠回りだった。それなのになぜそこへ寄ったかというと、太平洋戦争中の1945年に、私の長兄が軍属としてそこで戦病死したからだ。私の家族でこの地を訪れた者は一人もいない。そして私ももう一度来られるとは思えなかった。だから今回の旅行を利用して、ぜひそこに立ち寄り、兄の慰霊をしてやりたいと願ったのだ。
 ところが、行ってみると机上の時間算定がいかに甘かったかを思い知らされた。カブヤオ市からバギオに行くには、マニラをもう一度通過してルソン島を北上することになるのだが、マニラの渋滞はまさに想像を絶するものだった。それがまず誤算だった。マニラ通過だけで1時間も費やしてしまったからだ。そんなわけで、マニラからバギオまでは5時間ほどと聞いていたが、平野を過ぎてから山地に入ると延々と九十九折りの道が続き、やっとバギオ市の夜景が眼下に見えた時は何ともう夜9時過ぎだった。その日は同市のホテルに泊ったが、強行軍の一日に疲れ果てた。結局カブヤオ市から約8時間も車で走ったのだった。

 翌2月16日(木)は、早朝のバギオ大聖堂前で長兄と何万もの日本人戦没者を想って慰霊した。どんな祈りをしようかと思って行ったが、兄はキリスト者ではなかったものの、主の祈りに勝るものはないと思い、それを祈ろうと心に決めていた。するとその時、大聖堂から祈りの声が聞こえた。そこで急いで入ってみたらミサの最中で、何と主の祈りが始まる直前だったのだ。これは不思議なタイミングの一致だと思って、会衆といっしょに祈った。ただし私は日本語でだったが・・・

DSCF4234.jpg バギオ大聖堂の前で
DSCF4232.jpg 碑の上に日本の水を撒く
DSCF4242.jpg バギオ市はこんな山地にある。

 生き残った戦友は兄を大木の下に埋めたと姉に言ったそうだ。しかし、行って見るとバギオ市は大きく、大木はあちこちにたくさんあった。それに72年前の大木だ。もう伐採されてしまってないかも知れない。だから、そんな不確かな目印を探しても仕方がないと思って、教会の花壇わきにあった碑に日本から持って行ったボトルの水をかけた。「兄貴、これでいいよな」と心中で言いながら…その碑には"For God and For Mankind"と刻まれていた。
 長兄は死んだ時26歳だったそうだ。おそらく数え年のことだろう。いずれにせよ、ふと思った。今その時のままの兄が出てきたらどうだろうか、と。26歳と言えば、私から見れば孫のような年代だ。それが兄で弟が87歳の老人では、実に奇妙な出会いになるだろうな。どんな会話をしたらいいか、こちらも困るだろうが兄はもっと戸惑うだろうななどと、想像してみた。そして、遺骨代わりにそこの石を3個拾って来た。

 その後はカンドンサウスセントラル小学校の給食に間に合うよう、午前11時頃にはカンドン市に着く予定で先を急いだ。ところが、運も悪かった。バギオ市は山の中腹にある町で、道路はバズル状に複雑だった。日本軍が米軍に追われてそこに逃げたのもうなずけた。戦車や軍用車両が入りにくいので迎え撃つのに好適だったからだろう。しかし、食料補給が難しい弱点もあっただろう。日本軍は飢えと病気でほぼ全滅したようだ。
 その上、今は車の渋滞がひどい。フィリピンの都市はどこも日本では考えられないほど渋滞が慢性的だが、バギオはその最たる一つに思えた。この2つの理由で、カンドンに向かう道がなかなか見つからず、フィリピン人なのに運転手は30分も堂々巡りをして時間を無駄にした。それに道程も予想より長かった。だから、3時間の見込みがここでも5時間以上かかってしまい、学校に到着したのは何と午後1時過ぎだった。
 いくらなんでももう給食は終わってしまっただろうなと落胆しながら、カンドンサウスセントラル小学校に着いた。すると、何とシーランド神父様がまず出迎えてくれた。それは予想していなかった。そして、その後ろに子供たちや先生たちが揃って出迎えてくれていた。その上、私たちに見てもらおうと、子供たちは給食を食べずに何と1時間以上も待っていたのだった!それを知ったとき私は非常に感動した。
 お腹がすいていたのだろう、児童たちはすぐ給食をいただき始めた。メニューは米飯、鶏肉、スープ、リンゴだった。サウスビル1小学校より少し見劣りしたが、彼らは夢中で食べていた。戦中戦後の飢えの時代を知る私には、その子たちの気持ちが推測できた。受給人数は30名に限定されているが、どの子も痩せ気味で、日本の子たちより発育が遅れているように見えた。給食が必要だと言う神父様の言葉は納得できた。
 食事後、子供たちはそれぞれが手書きで作った絵カードを私に進呈してくれた。私達も彼らにと持ってきたお土産のボールペンとマーカーを一人ひとりに配った。その他にもいろいろあったが、それらは他の機会に詳述するつもりだから、ここでは割愛する。
 その日の午後はフリーだったので、カンドンから車で1時間ほど北にあるヴィガン市を訪問した。今度の訪問旅行でいろいろ事前準備をし、旅行中は添乗員代わりを引き受けてくれた陶芸家のTさんに報いるためだった。なぜなら、そこは陶芸でも知られた町だからだ。私はそこで初めて巨大な蛇竈を見た。また歴史遺産も見学できた。惜しかったのは、そこの人たちが私達見せたがった海のサンセットを見損なったことだ。

 2月17日(金)はカンドンからマニラまで帰るだけの1日だった。シーランド神父様もいっしょに乗った車は一路南下した。途中3回ほど休憩停車したが、約9時間の走行は87歳の私には少々こたえた。

 2月18日(土)は学校が休みなので、旅の副次目的だったマニラ市バクララン教会と福者高山右近の足跡を訪ねた。バクララン教会を訪ねたのは大学時代の友人で、故人となった西本至神父がそこの墓地に葬られていると聞いたので、墓参したかったからだ。
 教会へ行ったら、白いスータン姿の白人老神父がちょうど庭を横切るところだった。そこで、「西本神父様をご存知ですか?」と聞いたら、何と長い間一緒に働いていたから良く知っていると言われた。これは幸いだと思い、「私は彼の友人で、墓参をしたいのだが、墓を教えていただけますか?」とお願いした。すると、「私は今ミサをたてるところだから、他の司祭に頼んであげましょう」と、もう一人の神父様を紹介してくれて、その方が私たちを墓地に案内してくれた。
 墓地は教会事務所棟の後ろにあった。広くはなく、髭面の西本神父の顔を刻んだ墓碑はすぐに見つかった。彼は私より4歳年下だったが、大学では共に学び、初台教会の小神学校では4年間寝食を共にした。よく衝突した相手だったことを思い出す。校長のB神父は私達二人のことを「あなたたちは雄鶏のようです」と言った。でも似た者同士の「仲良くケンカしな」的ケンカだったのだ。司祭になった彼は後にフィリッピンに渡り、そこで困難に遭う日本人たちのために働き、多くの業績を残しながらそこで生涯を終えた。
DSCF4248.jpg

 彼が「夜の神父」という本を出版した時、フィリピンから一時帰国したので、昔の仲間がわが家に集まったことがあった。その賑やかな集いの終わりに、誰かが小神学校時代の就寝前に毎日歌ったあのラテン語の歌を歌おうじゃないかと言った。そこで、皆で懐かしく歌ったが、彼と会ったのはその時が最後だった。それを思い出して、今回は一人だけだったが、バクララン教会の彼の墓石の前で、私はその同じ歌を歌った。声量も艶もなくなり、情けない声になり果ててはいたが、歌詞は忘れていなかった。こうだ。

"In manus tuas, Domine, commendo spiritum meum. Redemisti nos, Domine, Deus veritatis.  Commendo spiritum meum. Gloria Patri et Filio et Spiritui Sancto. In manus tuas, Domine, commendo spiritum meum."
(訳:「主よ、わが魂をあなたの御手に委ねます。あなたは私たちを贖ってくださった真理の神です。私の魂を委ねます。栄光は父と子と聖霊に。始めのように、今も、いつも世々に至るまで。主よ、わが魂をあなたの御手に委ねます。」)

DSCF4255.jpg 野点をするTさん

 その墓地の開けた場所には野外ミサ用らしい石造の祭壇があり、同じく石造のベンチが3脚ほどあった。陶芸家で茶道家の同行者Tさんはそこで野点ができると思うと、ポータブルの茶道具をそこに広げて、私たちをお点前に招いてくれた。偶然そこにはアンケートの質問に来たフィリピン人女子高校生が4人いて、私たち日本人3人、そしてミサから戻って来た85歳のロン・マレー老神父(オーストラリア人)も茶席に連なったのだった。西本神父の眠る墓地で彼と共に働いた老神父様と共に野点に与れたのはいい思い出になった。
 私たちは福者高山右近の足跡も訪ねた。彼がマニラに上陸した地点と言われるサンチャゴ要塞近辺を訪ね、マニラ大聖堂では折よく開かれていた高山右近展等も見ることができた。しかし、これは他の人が書くだろうから、私はこれだけにとどめる。
 私たちはたったの4日間だが、ルソン島の中心部を南北に縦走した。だが、このブログでは主目的とは関係がないことばかりを書いた。考えてみると、それは死んだ人たちのことがほとんどだった。戦争中に戦病死した長兄、フィリピンに骨を埋めた西本神父、そして約400年前、信仰を守って地位も富も捨ててマニラに来た福者高山右近。本当は彼らの人生の旅路こそが語るに相応しい、より価値のある縦走なのだと思う。
 いずれにせよ、私たちは2月19日、無事日本に戻って来られた。私達自身の人生の縦走を続けるために。
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早春のベソラー                

 今日は立春。まだ寒さは残るが、陽ざしはもう早春だ。人間世界はトランプ米大統領のツイッターやら中国の海洋進出やらテロやらと騒がしいが、自然は何と泰然としていることか。悠久の宇宙はゆったり動き、大地はその営みを黙々と続けている。紺碧の青空の下、目を庭の一隅に落とせば、今年も早やそこには早春のベソラーがある。ベソラーとはヘブライ語で“知らせ”とか“音信”の意味で、福音はベソラット・カドシャ「聖なる音信」だが、早春のベソラーとは春先にいち早く咲く草花たちのことだ。その穏やかな音信を聞き取るため、いくつかの花に目と耳を近づけてみよう。

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 早咲きの水仙はもう1月から咲いている。今はもう満開だ。

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 ヒマラヤユキノシタは葉の付け根に花が咲く。そこは防寒用の嚢のようにふくらんでいて、寒い間はそこに蕾が包まれている。だが、春の気配を察知して嚢が開くと、花たちは用心深そうにまとまって顔を出すのだ。

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 草地でよく見かけるベロニカ、和名オオイヌノフグリは実に愛らしい空色の小さな花。大地のつぶらな瞳に見える。

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露地の福寿草は枯れ葉の下から三輪目も顔を出した。花は陽ざしの集光パラボラアンテナのように光色。陽ざしのある間だけ開く。

 小さな花たちのささやきが聞こえましたか?
 悠久の宇宙の動きが感じ取れましたか?

“エ プルーリブス ウヌム”

 かつて米国を旅行したとき、同国の硬貨には"E PLURIBUS UNUM"の印刻があるのに気づいた。“エ プルーリブス ウヌム”と発音する。ラテン語だから意味はすぐわかった。なるほど「多数から一つに」か。原住民や多くの移民で成り立っているからこそアメリカ合衆国なのだ、という国の成り立ちを端的に表し、国璽の文言でもある。だが、トランプという大統領の出現で、そのUNUM(一つに)が今二つに分裂しかかっている。 
 現在の米国は奴隷制廃止か存続かで世論が真っ二つに割れた南北戦争前みたいだ。しかし、あの時とは違って今の分裂は米国内だけでなく、世界中に波及している。あの時の大統領リンカーンは奴隷解放の側に立ち、他者排斥とは逆だったが、現大統領は白人と自分の利益本位の利己主義に立ち、排除の論理で動いている。かつての分裂は南北間だったから南北戦争と言われたが、もし今の分裂が戦争にまで行くとしたら何戦争と呼ばれるだろうか? 
 自分たちのことしか考えないから、利己主義戦争とでも呼ばれるのだろうか?それとも、自分たちの利益、安全、繁栄を脅かす他者は全部排除するから排他戦争?あるいは、移民が来なければ安全で失業がなくなると妄想するから妄想戦争とか、嘘ももう一つの事実だと強弁するから、独りよがり戦争とか呼ばれるかも。アメリカ第一主義なら、当然他の皆は損を蒙る。そうなれば皆がアメリカを憎み、嫌い、そっぽを向き、その損はやがてアメリカにはね返るだろうに、それを賢いと思って他者と交渉を強行するなら、それこそ愚行だ。
 彼には高邁な理想がない。役立つか無駄か、得か損か、好きか嫌いかぐらいの単純な基準ですべてを判断し、得になるなら嘘も平気、人を傷づけても意に介さない。利害が相反し、意見が衝突し、信念が違う無数の人々を一つにまとめ、和ませ、分かち合わせてこそトップなのに、むしろ逆を行なっている。その支持者が国民の半数だというのも情けない。彼らに言いたい。硬貨にある"E PLURIBUS UNUM"をもう一度よーく見つめてみたらどうか。
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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