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電子頭脳とラウダウト・シ            

 最近よくニュースに出てくるものにAIがある。Artificial Intelligence(人工頭脳)の略語だが、昨今碁や将棋の名人を打ち破ったりして、その目覚ましい進歩が注目されている。またIoTという語もしばしば聞くが、それはInternet of Things(物のインターネット)の略語で、様々な物体をインターネットでつなぐことにより相互通信機能を持たせ、自動認識、自動制御、遠隔操作等を可能にすることらしい。門外漢の私の知識は聞きかじりだが、それらがすべて電子頭脳(Electronic computer)によって実現していることぐらいはわかる。
 
 今年1月16日の朝日新聞朝刊には「AIは味方ですか?」という記事があって、二人の論者が意見を述べていた。AIがもっと進歩すれば、人間は大いにそれを利用して助かる。だから人類の味方だ。味方派がそう言うと、懐疑派は、いや、そうだろうか、良い面もあるが、デメリットもある。例えば、人工頭脳に取って代わられれば、多くの人は職を失いかねない。だから、必ずしも味方とは言い切れないと反論し、評価は分かれていた。
 いったいなぜ私たちはAIに関心を持つのだろうか?思うにそれは、人工頭脳が知的存在である私たち人間のあなどれないライバルとして出現したからではなかろうか。それは人知の究極的成果であるが、同時に一抹の怖れや不安を抱かせる存在でもある。だから、私たちは今その出現を自分たちに対してどう位置付け、今後それとどう付き合えばいいかを探っているのだと思う。
 では、なぜ怖れや不安を感じるのだろうか?人工頭脳は人間が自分のために作った物だから、あくまでも人間に従属するはずだが、いつまでも人間の僕でいるだろうか?現在のAIがすでに一流棋士を超えたように、いつか他の分野でも人間を凌駕し、人間の意図から離れて動くようになることはないのだろうか。専門家は何を戯言をと嗤うかも知れないが、要するに人間は優位を保てるのだろうか?と、そんな危惧を覚えるからではなかろうか。私もそのことに関心があるから、今日はそれを考察してみようと思う。 
 
 人間にはラテン語でHomo sapiens (知恵のある存在)、Homo ludens (遊ぶ存在)、Homo faber (作る存在)などと言う定義がある。人類の歴史を振り返ってみると、人間は肉体的には決して強くはなかったが、多くの危険に囲まれながらも生き延びて来た。それができたのは最大の長所である頭脳を使い、手で道具を作って肉体の非力を補うことができたからに他なるまい。まさに人間はHomo sapiensであり、Homo faberなのだ。
 人間が最初に作り出した道具はごく単純だったはずだ。しかし、それは次第に進歩・多様化し、複雑化して行った。そして、やがて多くが機械に変わった。では、道具や機械とは何かというと、私は人間が自分の手足指目耳など、体のどこかの部位の補足や拡張として考え、作り出したものだと定義したい。例えば、土は手ではよく掘れないが、スコップを使えば効率的に掘れる。杭はこぶしではよく打ち込めないが、槌を使えば容易だ。この場合、スコップは手と指の代り、槌はこぶし代わり、あるいはその拡張であると言えよう。
 道具と機械の一番の違いは動力にあると思う。道具にはそれ自体で動く力はない。例えば、スコップで掘り、槌で杭を打つ時、動力は人力だ。鍋、茶碗、ブラシ、鋸、刀等はみな道具だが、どれも他から力が与えられない限り動かない。静止したままだ。ところが機械は違う。それは多種類の部品から成り、それ自身の動力で動く総合的な道具だ。だから、例えば箒は道具だが、掃除機は機械であり、スケートボードは道具だが、自動車は機械だ。しかし、それらすべてを考え出したのは人間の頭脳であり、作りだしたのは手であった。

 考察をしばし楽しむために、それらの具体例をもう少し個別に見てみようと思う。例えば、手は体で最も使われる部分の一つだ。取る、食べる、掘る、耕す、運ぶ、掻く、さする、抱く、切る、射る、殺す等、非常に多種多様な行動は手で行う。痒い所を掻くには孫の手ぐらいの道具があれば足り、機械はいらない。食べるのには箸やフォーク、皿等の道具を使うが、やはり機械は要らない。しかし、土を掘ったり耕したりするには手に代わる鍬やスコップ等の道具を考え出したが、広大な土地には人力と道具では無理だったから、必要に駆られて耕運機やパワーシャベルなどを発明し、大規模の作業を能率的にできるよう対応した。
 赤子を抱き、病人をさするには道具は要らない。手だけで十分だ。しかし、肉を切るには刃物が要る。初めは石を使ったのだろうが、やがて人は金属製の刃物という道具を作るのに成功した。それはとても優れものだったから、人は大喜びしただろう。しかし、狩りや料理に役立つ刃物は、同時に人間同士が殺し合う武器という道具にもなった。そして、争いが部族間から国家間の戦争へと変わっていく過程で、武器も道具から機械に変わって行った。
 弓矢を考え出したとき、人は危険な獲物に接近しなくても仕留められる素晴らしい道具を手にした。だが、戦いでは矢は手裏剣よりも威力があり、弓はそれを飛ばす道具となった。初めてその新型兵器の攻撃を受けた敵はどれほど驚愕したことだろうか。やがて弓矢は銃に代わり、後に大砲に進化し、今は大陸弾道弾ミサイルで他大陸の敵国まで攻撃できるまで発達した。しかし、これは嘆かわしくも恐るべき進歩だった。

 人体は足もよく使う。長い間、人間は他の動物と同じように、足で移動していた。しかし、人はやがて道具や機械を使って足の能力を大いに拡張した。飛脚よりもっと早く移動するため馬を使い出し、氷の上はスケート、雪の上はスキーという道具を使い、やがて自転車も考え出し、ついにオートバイ、自動車、汽車、電車、飛行機、宇宙船と言う機械を発明し、原初の人が想像もし得なかった遠方まで迅速に行ける、驚異的な移動手段を獲得した。
 手と足を使って運ぶという複合的な働きを補足・拡張する道具も実現した。手では多くを持ち運べないから、人は袋、籠、箱、壺、荷車、舟などの道具を作り出し、運搬の問題を解決した。しかし、人力と道具ではとうてい無理な大量の運搬を迅速に輸送できるよう、やがて機械を発明した。それがすでに言及した自動車、電車、飛行機を含む、貨物船、客船、タンカーなどの大型船、ヘリコプターなど多種多様な輸送手段だ。

 目と耳と口の道具や機械もまた目覚ましい。人は視力を補正するために眼鏡という道具を考え出したが、遠い物体や微細な物体を見るためには望遠鏡や顕微鏡を発明し、暗闇でも見える暗視カメラ、人や事物を保存して時間差で見られるカメラやビデオも考え出し、異なる場所にいる人や事物を見ることができるテレビジョンまで作りだした。スマホやパソコンは更に進んで、海外にいる人と画面で会見することまで可能にした。他方、GPSを使ったコンピューター画面操作で、米軍は米国にいながら中東の敵をピンポイントで攻撃もできる。それは人間が元々の肉眼ではできない能力を驚異的に補足・拡張した恐ろしい例だ。
 耳と口は複合的に働くが、面白いのは口が「入りの時」、つまり食べる時は動物と同じで道具をあまり必要としないのに、「出の時」、つまり話すという発信の時は大いに道具や機械を使うことだ。そこに人間の独特さが見える。逆に耳は「入りの時」、即ち聞く時は大いに機器を使うが、「出の時」、即ち発信の時は働きがゼロだから機器も皆無だ。
 口から出す声の場合は、自然のままだと遠くまでは届かない。だから、人は声をもっと遠くまで届かせるための道具と機械を沢山考え出した。それは遠くて聞こえない声をも聞ける耳の道具や機械と表裏一体だ。生の声を拡大するにはスピーカーやマイクがあり、声の届かない遠方へ情報を伝えるには、かつては太鼓や法螺貝やトランペットなど音を出す道具を使い、目で見る狼煙や手旗と併用した。しかし、やがて声を文字に視覚化させた手紙を使い、モールス信号も考案、ついに電気と電波による電話交信、ラジオ、テレビでの通信、スマホやパソコンなどインターネットを使って交信するまでに至った。驚異的な進歩だ。 

 ところで、考えるのが面白いままに道具と機械の今昔について縷々書いたが、この考察を始めた目的はそこにはない。人工頭脳についてだ。ここまで述べた道具や機械は、すべて人間の手足や耳目等の補足・拡張だったが、それらは人間の五体、五感のほとんどで達成できた。しかし、脳だけはまだだった。ところが20世紀後半になって、初めて脳の代わりをするコンピューターが出現した。電子頭脳である。そして、脳の補足・拡張が始まったのだ。
 それは次第に多様な機器やシステムにコンピューター制御システムとして使われ出した。それはロボットに搭載されれば、工場では人間に代わって人間よりも正確かつ比較できないほど能率的に働くようになり、交通、通信、輸送、武器等にも組み込まれて行った。そして、ついに頭脳のそのものの働きをも持たされ始めた。その一例がアルファ碁の人工知能AIで、それは生身の人間頭脳の最高位にある名人たちをも凌ぐほど進歩していたのだ。 
 振り返ってみると、人類が道具を作り出した歴史は単純から多種多様へと変化し、豊富化へと進歩して行ったが、それは非常に緩い上昇カーブで長い時間をかけていた。ところが、蒸気、化石燃料、電気という動力を使った機械が出現すると、近代文明は過去200年ほどの間に急変した。そして、20世紀後半には電子頭脳が出現すると、産業、生活、運輸、情報、通信、文化、学問、軍事等、人間存在の全般に亘ってだけでなく、自然界に対しても以前とは異次元と言えるほどの驚異的な大変化をもたらした。
 人工頭脳の進歩はディープラーニングによって可能になっているそうだが、おそらくそれは今後も向上するだろう。また、車の自動運転や介護ロボット等ももう夢ではなくなっている。このように進歩が続けば、やがて電車も飛行機も自動運転化し、身近には事務員も受付嬢も販売員もみな電子頭脳ロボットが代行して、人の働く出番がなくなる事態が起こるかも知れない。そうなれば人は大いに楽ができると期待するだろうが、失業問題も起こる。

 さて、ここからは空想だが、では、もしいつか何でも自分でできる人型電子頭脳ロボットが完成したらどうだろうか?それは人間の究極作品と言えるだろう。だが、いかに進歩したとしても、それに電源を入れるのは人間だから、少なくても始動だけは人間に依存している。エネルギーの電力があり、その電源を入れるスタートボタンを押してもらわない限り、電子頭脳ロボットは動き出せない。従って、人間に従属している、と人は思いたいだろう。
 しかし、何でも自分ですることができるということは、もう作り主の人間のお世話には一切ならないという意味だから、始動も自分でできるということだろう。では、そんなことは可能だろうか?これは門外漢の単なる空想だが、電気がないと動かないという問題は、人が発電のノウハウをプログラミングしてやれば、電子頭脳が自分で発電装置を作り、自分で充電するようになって解決するかも知れない。始動させることだけは人間だと言うが、電子頭脳が自分で始動するようプログラミングしてやれば、自分で始動できるかも知れない。
 もしそういうことが可能になったら、どうだろうか?思うに、私たちはそんな人工的存在物の実現を“素晴らしい!”とばかりは言っていられなくなるだろう。むしろ怖さを感じないではいられなくなるのではなかろうか。なぜなら、そうなれば、その電子頭脳存在物はもはや人間を必要とせず、人間から完全に独立して人間と対等になり、独自の思考、選択、行動を開始し、ひょっとすると人間に敵対し始めるかも知れないからだ。
 電子工学の専門家たちがこの考察を聞いたら、何とまあ荒唐無稽なSF的空想をしていることよ、と嗤うだろう。しかし、電子科学に無知な私でも、あらゆる分野のコンピューターシステム化が今や人類に産業革命以来の大激変を起こしていることや、このコンピューター革命が人知の素晴らしい到達点であって、その成果が人類の生活、産業、文化にいかばかり役立っているかは十分認識し、同時にそこにある危険もわかっている。

 その驚異的な成果は私が縷々述べるまでもないから、ここからはデメリットだけに焦点を当てよう。そして、上述のSFまがいの空想は横に置こう。デメリットは、人間のコントロール下にある現状ですでに現れているからだ。電子頭脳が産業を飛躍的に増大化させた結果、現代の人類は自然からの収奪を加速させ、自然を破壊・疲弊させ、地球の温暖化を招き、それに伴って生物の減少や絶滅をも顕著にした。それは人が単純な道具で生きていた時代にはあり得なかった事態で、文明の機械化と電子頭脳化が原因となっている。
 人間社会では電子頭脳のお陰で、多国籍企業が国家を超越した経済的・社会的影響力を波及させるグローバル化が起こった。そして、それは貧富の差を拡大した。なぜなら今日の世界では、富や権力は電子頭脳を活用した情報、通信、生産ができる少数者に集約され、大衆は彼らに使われるだけの立場に置かれ、不平等、貧困、失業等を強いられるに至るからだ。そして、そこに不満や憎悪が生まれ、分断や対立やテロも起こる。
 例えば、この数か月間に一つの由々しいデメリットが顕在化した。トランプ米大統領のツイッターや側近が発信する多数の情報が真偽混交のまま、途方もない範囲に拡散されてきたからだ。昔はどんな情報も限られた範囲にとどまった。だが今は電子情報網で、瞬時に全世界の無数の人々に伝わり得る。では、その最大の悪は何かというと、その発信の安易さ、伝播の迅速さ、数量の膨大さゆえに、むしろある情報が真実かどうか確認し難くし、真実と虚偽をわからなくしていることにある。つまり、多く知っても、全部嘘かも知れないのだ。 
 しかし、最も恐ろしいのは人間の傲りかも知れない。人間は電子頭脳を組み込んだ機器や武器や宇宙衛星の成功によって、自分たち人間を超卓越した存在だと思い込みがちだ。そして、「神は人間を万物の霊長として創造し、地上の動物も植物もすべて治めよと言って人間に与えた。だからそれらはすべて人間のためにある」という創造説話の間違った理解がその傲りに輪をかけている。その結果、人は地球の自然と生き物に対して暴君的に振る舞ってきたが、そんな考えを続ければ、やがてそれは人間自身の滅亡を招きかねないからだ。

 では、それにはどんな答えがあるのだろうか?私はフランシスコ教皇が一昨年出した回勅「ラウダウト・シ」を挙げる。それは上記の問題を概観し、人類は今それをどう理解し、何をなすべきかを提案しているからだ。このタイトルはイタリア語で、“ラウダウト・シ、ミ・シニョーレ”(わたしの主よ、あなたは称えられますように)と歌ったアシジの聖フランシスコの讃歌から取られた。カトリック中央協議会版訳本にはあまり一般化されていないパラダイムという用語が頻繁に出てやや違和感があるが、内容そのものは画期的だ。
 かつて私はカナダの大神学校で、卒論にSalut Cosmique (宇宙的救い)というテーマを選ぼうとしたことがあった。当時の欧米キリスト教社会では、救いは人類だけのものであり、他の宇宙万物は人間のために創られたものだが、救いには関係がない。神は人間に空の鳥、海の魚、地上の動物を支配せよと言われたのだから、それらは人間に役立つために存在し、永遠の命に招かれてはおらず、救いからは除外されている、という思想が支配的だった。
 私はそれに反発を覚え、いや、聖パウロはローマの教会への手紙8.19-21で「被造物は、神の子たちの現れるのを切に望んでいます。…被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています」と書いているではないかと、当時一般的だった思想に異を唱え、この箇所を根拠に論文を書こうとした。
 しかし結局、ウルス・フォン・バルタザルの著書以外に目ぼしい文献がなかったため、断念せざるを得なかった思い出がある。だから、回勅ラウダウト・シが出た時、これこそ待っていた教えの明快化だと喜んだ。なぜなら、それは地球が上げている叫びに耳を傾け、人類共通の住み家である地球を保全し、文明が持続可能でインテグラルな発展ができるよう、「環境的回心」を呼びかけている回勅だからだ。74-75頁にはこう書いてある。
 「人間以外の生き物たちを、人間の恣意的な支配に服する単なる客体とみなすのもまた間違いです。自然を利潤や収益を生む元金としかみなさないなら、それは社会にゆゆしき結果をもたらします。『力は正義也』というものの見方が、途方もない不平等や不正義、そして人類の大多数に対する暴力を生みます。資源は一番乗りした者や権力者に握られることになるからです。つまり、勝者がすべてを取るのです。イエスによって提示された調和、正義、友愛、平和といった理想は、こうしたモデルとまったく相容れません。」

 この回勅は、まず今起こっている地球規模の汚染、廃棄物、気候変動等による環境の悪化を的確に分析した後、生物多様性の喪失、社会の崩壊、地球規模の不平等、人々の反応の鈍さ等を指摘し、「教会は何よりも自己破壊から人類を守らねばなりません」(p.73)という責任感から、問題の解決を提案している。つまり、使い捨て文化という消費主義からの脱却、個人主義の克服、限りなき進歩という思想の訂正、規制のない市場主義や利益追求の競争主義からの決別、環境教育等のメッセージだ。 
 ところで、この回勅は文明の進歩をこう評価している。電子頭脳の問題と関わる箇所だ。
 「人類は、技術躍進が重大な決断を迫る岐路に立たされる新時代に入りました。わたしたちは、この二世紀の間、蒸気機関、鉄道、電信、電気、自動車、航空機、化学工業、近代医学、インフォメーション・テクノロジー、ここ最近では、デジタル革命、ロボット工学、バイオテクノロジー、そしてナノテクノロジーといった、大変革の波から恩恵を受けてきました。『テクノロジーは、わたしたちにすばらしい可能性を与える、神が授けたもうた人類の創造性の驚異の産物』ですから、こうした進歩を喜び、わたしたちの前に広がる無限の可能性に興奮するのは正当なことです。有用な目的のための自然改変は、人類家族をその原初から特徴づけるものでした。…テクノロジーは、人間を傷つけたり制限したりするのが常であった、数え切れない害悪を取り除いてくれました。」(93-96頁)
 「しかしまた、核エネルギー、バイオテクノロジー、I.T.、人間のDNAに関する知識、また、獲得してきた多くの能力によって、わたしたちは絶大な権力を手にしてきたということもわきまえておかなければなりません。より正確に言うと、これらが、知識を持った人々、なかでもそれらを利用する経済力のある人々に、人類全体と全世界に及ぶ強大な支配権を与えて来たのです。…少数の人々がそうした権力を握ることになれば、きわめて危険です。権力を狂った方向に用いる可能性が、不断に増大しているのです。」
これらの評価と懸念は私が考察したことと重なる。だから私はこの回勅のメッセージに答えを見るのだ。

 さて、私はこの考察を聖書の天地創造説話との関わりで終わろうと思う。創世記は第1章で、「神はご自分に似せて人間を創造された」と記しているが、人間もまた自分に似せて電子頭脳を作り出したのだ。それは神の人間創造と類似している。神が人の創造主なら、人は電子頭脳の作り主に他ならない。
 ところで、神は人に「園にある木の実はどれを食べてもいいが、園の中央にある木の実だけは食べても、触れてもいけない」と、一つだけ禁止を設けた。では、人間も人工頭脳にこれだけはしてはならないという禁止を設けるべきであろうか?私はそれを否定しない。しかし、禁止は電子頭脳にではなく、むしろ人間にすべきだと考える。人類への危害とか、人間への不服従とかを電子頭脳にプログラミングすることの禁止だ。なぜなら、真に恐るべきは電子頭脳ではなく、それに悪をすることをプログラミングする人間の方だからだ。
 ラウダート・シは人類を破滅から守ろうと勇気ある声を上げた。それは私の願いでもある。しかし、人間には必ず非倫理的な者がいる。時には悪魔的だ。彼らは倫理規範的な禁止をしても無視するに違いない。従って、そのような禁止をしても実効性はないかも知れない。核爆弾が一度できてしまったら、放棄が不可能になったように、一度できてしまったら、電子頭脳による害悪も除去がほぼ不可能になると危惧する。それでもしてはならないことの禁止はあるべきだろう。

 神の人間創造と人の電子頭脳創作の間には類似性があると指摘したが、そこには逆に絶対的な違いもある。最後はそれに注目しよう。その違いとは、神の創造は絶対無からの創造だったが、人の創作は無からではなく、有からであることだ。人は神が創造してくれた既存物を加工するに過ぎない。厳密にいえば、人はもう天地創造の当初から存在していた法則や物体を発見し、法則に則って物体に手を加え、新しい存在を出現させる。それが発明なのだ。 
 ボーイスカウトでは宝探しというゲームをする。宝物はリーダーが前もってあちこちに置いて置く。すると、子供たちはそれを探して見つける。しかし、宝物は子供たちが見つけた瞬間に存在したのではない。大人が置いた瞬間から存在している。発見や発明もそれに似ていて、神が天地創造の原初に既に隠して置いてくれた法則や仕組みを見つけ出すことに他ならないのだ。人間にとっては発見だが、神の前には法則も電子頭脳やDNAのような物も、人間が出現する遥か前の天地創造の最初からもう潜在的に存在していたのであって、人間は今頃それを発見し、それを使って何かを作り出すに過ぎない。それに気付くと、人はもう少し謙虚になれるのではなかろうか。
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聖書の物原 -その2-

 ゴミ箱とか掃きだめなどというと、その傍に長居はしたくない気がするが、物原というと暖かい陽だまりみたいで、そこにいても悪い感じがしない。過日そんな個人的感覚から、聖書の部分や聖書に関する文書文献で、本物でないもの、不出来なもの、低価値なものなどの処分先を聖書の物原と名づけたが、私はこれが気に入っている。駄目な物でも「灰にするが可」などと全否定せず、何らかの価値は認めてやり、存在は是認してやりたいからだ。
 過日は、ある邦訳聖書の誤訳部分をそんな一例として聖書の物原送り1号にしたが、本当は真っ先に物原に送り出さなくてはいけないものがあった。偽典である。いわゆる偽物の聖書だ。多くの人はその存在を気にしないが、ある聖書が正典と認定されたことは、それが書かれた前後にかつては偽物もたくさんあって、真に信ずべき内容を偽物から守る戦いと研究の努力があったことを物語る。そういう淘汰を経て、正典の聖書は現代の私たちに伝承された。だから、私たちは今、これは本物だろうかなどと悩まされることなく、聖書を読むことができる。それは同時に、多くの経典が教会の権威や先達によって偽典と断定されたおかげだ。感謝しなければならないと思う。
 そこで、今日はそういう偽物の聖書を物原にまとめて送り出そうと思う。おそらくこんな話題に興味のある人は多くはないだろうが、これは人のためではない。私自身の知的整理のためだ。

 外典(正典外聖書)は英語ではApocryphas、偽典(偽聖書)はPseudepigraphに当たると思っていいだろう。どちらも元はギリシャ語だ。それらは旧約にも新約にある。これらの書は正典聖書を補充するとか、信者を励ますとか、ある教義を強調するとかの意図で書かれたものだ。ユダヤ教とプロテスタントはカトリック教会が正典の続編(deutrocanonic)として認める旧約聖書のトビト記、知恵の書等数書を外典とする。しかし、私はカトリック教会が認める通りそれらを正典と見なしている。

A .まず旧約関連ではどんなものがあるかを列挙してみよう。
(1) キリスト教でもユダヤ教でも外典またや偽典と見なされている旧約の書物で、歴史ジャンルの文書には次のようなものがある。私は読んではいないが、ほとんどは史実価値のない伝説であると言われる。
 ヨベルの書 (Liber Jubil.)、第3エズラ記(Liber Esdrae 3)、アダムの約束(Testamentum Adam)、モーセの黙示録(Apocalypsis Moysis)、イザヤの昇天、ヨブの約束、ソロモンの約束、アリストの手紙、第3マカベ書等。
(2) 宗教教育や教義的ジャンルのものには次のような文書がある。
 12族太祖の約束(Testamentum X11 Patr.)、詩編151、ソロモンの詩編(Psalmus Salomonis)、マナセの祈り、第4マカベ書、ヨブ記付録
(3) 黙示録ジャンルの文書はかなり多い。
 ヘノク書、モーセの昇天、第4エズラ記、アブラハムの黙示録、エリアの黙示録、バルクの黙示録、ソフォニアの黙示録、エゼキエルの黙示録、アブラハムの約束、シビリン文書等。
B. 次は新約関係だが、これは新約聖書の構造に応じ、福音書関連、使徒言行録関連、使徒たちの手紙関連、黙示録関連に分けて挙げてみよう。2世紀以後に書かれたものが多く、グノーシス異端の影響がしばしば見られる。
(1) 福音書関連:ペトロの福音書、12使徒の福音書、マティアスの福音書、フィリポの福音書、バルナバの福音書、ニコデモの福音書、偽マタイの福音書、ヤコブの先行福音書、幼年期イエスの福音書、ヘブライ人の福音書、エジプト人の福音書、エビオン人の福音書、大工ヨゼフ物語等がある。
(2) 使徒言行録関連:ペトロの言行録、パウロの言行録、ペトロとパウロの言行録、ヨハネの言行録、アンドレの言行録、トマスの言行録、フィリポの言行録、マタイの言行録、バルナバの言行録、ペトロの説教等がある。
(3) 使徒たちの手紙関連:エデッサ王アブガルとイエスの交信、使徒たちの手紙、パウロのラオデシアの信徒たちへの手紙、パウロのアレキサンドリアの信徒たちへの手紙、パウロとコリントの信者たちとの間の手紙、パウロとセネカとの往復書簡等がある。
(4) 最後は黙示録関連だが、このジャンルの偽典は幻、夢、恍惚状態、天使の出現などの形をとり、次のようなものがある:ペトロの黙示録、パウロの黙示録、トマスの黙示録、ステファノスの黙示録、マリアの黙示録等だ。

 もっともこれらの書で私が読んだものは僅かしかない。それは正直に白状しておかないとフェアではないだろう。私は長い歴史を通して多くの研究者たちが地道に続けて来てくれた研究の結果を信じて、-と言うことは、これも一種の信じる行為だと言えるが、-後駆者の一人として上記の整理をしたに過ぎない。それは無駄な探求をしなくてすむためだ。なぜなら、正典でさえ探求しきれないほど探求対象が山積しているからだ。
 なおこの問題の研究は、正典の中にも偽典の痕跡が散見すると言う。例えば、ユダの手紙9節にはモーセの昇天の痕跡があり、同14-15節にはヘノク書1,7の影響が窺われる。これら偽典または外典は本物ではない聖書だ。従って、本来なら物原に送られてしかるべきものだ。だがそうとわかっていれば、今はもう気にすることもないだろう。それよりも聖書を読む気にもならない信者の無関心さこそ聖書の平原に送るべきかも知れない。

最低の米大統領就任

 1月11日の朝日川柳に、「就任へ天に向かって唾を吐く」というのがあった。そのトランプ氏が2月20日(日本時間の21日未明)第45代米国大統領に就任した。不快な時代の到来を予感させる。
 品性下劣な男である。敬意に値しない。哲学者のアリストテレスは「嘘はいついかなる所でついても悪である」と言ったが、トランプは嘘を真実と言いまくる虚言者だ。仮に大統領になって態度が変わったとしても、彼が口から出してしまった汚物のような言葉の数々は消えない。撤回しても、人々の記憶からは消せない。
 彼の就任演説を読んだ。事実に反する嘘が多い。確かにまともなことも沢山言っているが、嘘を平気で言う人物がいかにまともなことを言っても、それが信じられるだろうか。否だ。そこに嘘をつく者の報いがある。虚言者は長く続かない。なぜなら人から信をかちとり得ないからだ。ヘッジファンドの有名な投資家ジョージソロスは「トランプは経済政策で失敗する」と予告しているが、私は嘘で失敗すると思う。預言者ではないから、これは単なる推測だが、まさに天に向かって吐いた唾、即ち大言壮語、他者への誹謗中傷、平気でついた嘘、根拠薄弱な知識で口にした断言などが彼に天から落ち、いつか汚れにまみれるだろう。
 ただ一つ彼がやるかも知れないことで良いことがある。台湾を中国の一部ではなく、一国として、あるいは準一国として扱うかも知れないというスタンスだ。台湾には2,300万人もの国民がいて、中国語を話しているが、文化も生活も政治形態も共産中国とは大いに違う。ヨーロッパやポリネシアにある小国よりはるかに大きく、国としての立派な資格があるのだ。なのに中国はそれを認めない。これは国際的パワハラだと思う。だから、私は台湾の独立を応援し、米政権がその力になるのなら、その外交方針を歓迎する。だが、その他の点では私は彼を一切評価しない。彼を最低の米大統領だと思っている。

御所見富士

 1月6日、車にスケッチブックと絵具を入れ、生まれ故郷の旧御所見村用田(現藤沢市用田)へ一人だけで行った。新年早々の富士山を描こうと思い立ったのだ。日本一の山なのに今まで描くことを避けてきた山だ。崇高な気高さを平凡な絵で貶めたくはなかったからだ。しかし、私の中にはいつも富士山を描くならあそこだという場所があった。少年の頃、学校へ行く時いつも見た富士山だ。特に雪に輝く冬は気品があった。頂上しか見えない富士など富士じゃない。近過ぎて山全体が見える富士もこれ見よがしではしたない。富士はやはり丹沢山系の背後に悠然と立つわが故郷の富士が一番いい。それが御所見富士だ。
 しかし、実際に行って見ると思っていたのとは少し勝手が違った。その日、富士山そのものはよく見えたが、スケッチにいい場所だと想定していた所にはがっかりするほど家が増えていたり、脳裏にあった眺めのいい道路わきは車の往来が激しすぎて停車していられなかったりで、ああ75年もいないと故郷もこんなにも変わってしまうものかと、嘆息させられたのだ。それでも、「あそこなら…」と期待した場所があった。榎木塚のある高台だった。神社の脇を上り、塚の傍に出ると、果たせるからな、そこにはこの絵の風景があった。 

御所見富士
    (.著作権佐藤余生風。コピー不可)

 幸いにも塚の下には駐車スペースがあった。そして、富士山が一望できる畑の方には近くに人家も電柱もなかった。そして「おお!」と、感嘆できる富士山が彼方に見えた。畦道には残念ながらフェンスがあり、眼下の少し遠くには家々がかなりあった。だが、それらは絵には描かなかった。人が作った物だから、人が抹消しても差し支えないと思ったからだ。もう一つ残念だったのは、この日の富士山には左側に雲がかかっていたことだ。伊豆天城山の方から湧いてきていた雲だ。しかし、これはそのまま描いた。自然は敬い、人がそれを恣意的に変えてはいけないからだ。
 御所見富士を遠望していたら、この塚の上で遊んだこともあったな、近くの畑で麦踏をしたこともあったな、などと遠い少年の日のことが脳裏に甦った。啄木もおそらく沢山のことを思い出したから詠んだのだろう。「ふるさとの山に向かいて言うことなし ふるさとの山はありがたきかな」と。それは私の実感でもあった。
 2017年は早々といいものを見て始めることができた。新たなる年ぞ今年もよきこと多かれ。

年初雑考 ‐ 時の尺度

 年が2017年になって早や11日も過ぎた。思うに、年を新たにするという時の区切り方は、地球の公転自転に合わせているとは言え、人が心機一転をはかるために考え出した見事な装置だ。それは特に大晦日と元日の落差でわかる。この連続した二日は、時の流れから見れば普段の「昨日と今日」と変わらないのに、実際は大違いで、大晦日は押し詰まった年末のピークを感じさせるが、元日はすべてをご破算にして解放されたかのようなゆったり気分になる。人はこのように人為的な区切りを定め、年末には自分を追い込むが、新年には自己を開放して大きな心機一転を図る。これは社会と人心にメリハリをつける生活の知恵だ。
 しかし、新年の心機一転も3が日を過ぎれば、すぐ普段の平板な時の流れに戻る。だから、その新鮮さをもう少し長引かせるため、昔の日本では1月7日は七草粥、11日には鏡餅を入れた汁粉を食べ、14日か15日にはドンド焼きをして正月の飾りを燃やし、その火で団子を焼いた。だから私の故郷(神奈川県高座郡旧御所見村)ではドンド焼きよりむしろそれを団子焼きと呼んだ。これらはみな正月行事で、いわば新年の新鮮感を引き延ばす装置だったと言える。地震に喩えるなら、元旦の祝いは本震で、それら行事は余震みたいなものだと思う。

 だが、時を流れのように見なし、そこに人間が人為的に新年の元日や三月、五月の節句のようなアクセントや目印をつける「時」とはいったい何なのか?年初にちょっとその考察をしてみたい。 
 そもそも時とは存在物の「在る」という持続そのものを示すディジタルな属性だと言えよう。だが、そういう理解だとイメージはしにくい。だから、人は時を流れるもの(川の水、風雲等)に喩えて表現し、空間的な動きをする天体を基準にして、アナログで空間的な尺度または目盛りを時の計測基準として人為的に決めてきた。それが分秒であり、月日であり、年であり、干支であり、世紀等なのだ。
 人は長い年月とか短い時間とか言うが、時を長短で表現することが多い。しかし、長短は元々空間や物体を○○キロ、○○メートルと計測する尺度で、時間を長い短いと言うときは、空間の長短から借用して比喩的に表現しているに過ぎない。だからと言って、空間や物体を表す形容詞がすべて時間にも当てはまるわけではない。空間や物体には、長い短い、広い狭い、高い低い、厚い薄い、硬い柔らかい、重い軽い、早い遅い(水などの流動体、矢などの移動物体)、などの性質があるが、「広い時間、狭い時間」などという表現は成り立たない。時間に当てはまる比喩的表現は、長い、短い、早い遅いぐらいのものだ。他方、水や空気などがいっぱいになる状態に喩えて、時は「来た、満ちた」などとも表現される。しかし、これらもまたすべて類比表現に他ならない。
 時間は実在する物の持続であるから実在ではある。しかし、空間や物体と違って、見えない、触れない、嗅げない、味わえない、聞こえない、要するに五感では直接に感知できない。存在物そのものではないからだ。では時間の存在は何によって確認できるか?知力によってである。時間の存在と推移は、五感で認知できる空間や物体の変化や動きを通して、知力によって察知ができる。従って、時間とは実在物(Ens realis)というよりも、「考えられた存在」(Ens rationis)に類するものだと私は考えている。なぜなら、時間は人間の頭の中で考えられてこそその存在が認知されるからだ。時間は「ここにある。あそこにある」と言って証明できる存在ではない。では何によって証明できるかというと、存在物が存在し続けること自体によってだ。存在の持続が時間だからだ。

 人はその時間を視覚化し、計測できるようにしてきた。新年のような心機一転のためばかりではなく、生活のリズム、生産、信仰など様々な目的があって、時の流れに様々な区切りや尺度をつけてきたのだ。例えば日本の暦には大寒、春分、雨水、穀雨などと時期を示す24節気がある。これは農耕社会の生産と深く関わった時間の目盛りだ。祝祭日や盆暮れなどは生活に適度な盛り上がりとリズムをもたらすためだっただろう。おかげで日々は単調な連続にならない。まさに生活の知恵のなせる作為だ。
 私が生活のリズムで特記に値すると思うのは7日制の週システムだ。日本人は自分たちが聖書やイスラエル民族の習慣で生活しているなどとは思ってもいないだろうが、実は明治以後の日本人はその習慣で生きている。なぜなら、7日という週のサイクルは旧約聖書から来ているからだ。週6日間働き、土曜日を聖なる日として休む生活リズムは、初めは神がイスラエルの民に宗教的な目的で命じて実行させたものだが、やがてキリスト教を通して欧米に広まり、今日では全世界に行き渡っている生活習慣で、実に興味深い時の使い方なのだ。
 信仰を実践するために定められた時の尺度もある。仏教では彼岸や盆がそれだが、キリスト教では典礼暦年が時の流れを決めている。典礼暦年の一年はそれを道程に喩えると、行く手には二つの大きな山脈と一つの谷間、そして一つの平原がある。最初の山脈は待降節という上道の後、クリスマスという頂点に至り、聖誕節という下り道になる道程だ。その後にはしばし谷間のような普通の日々があり、やがて復活祭を頂点とする二つ目の大山脈が来る。それは前半の四旬節と聖週間の後、復活祭でピークに達し、後半は聖霊降臨祭、聖体の祝日などの節目を経て山脈が終り、次の待降節までは広く長い平原のような通常の日々が続く。こういう祝日や行事期間は、追体験によって信徒の信仰がより堅固になるようにと、教会が定めた時の区切りや尺度に他ならない。
 時の尺度には12進法、10進法、6進法が混ざっているように思われる。12進法に類するのは1年12ヶ月、干支の12種、午前午後の12時間などがあり、多数派だが、世紀は10進法、一時間と分は60が単位で6進法的だ。もし1ヵ月が全部2月のように28日なら、1週7日のサイクルとはぴったり合うが、1ヵ月は30日、31日、閏年の29日もあるから不揃いで整合性がない。だから週の7曜日とも合わない。時の尺度は起源や元々違う暦などが複雑に混じり合って今に至っている。それらのルーツは時間のDNAのようだ。
 
 さて、こんな考察が何になるのかと思う人もいるだろうが、時は哲学の重要な考察対象なのだ。その考察は自分とは何者か、自分は今どこにいるのか、と自分を位置づけるために欠かせない。宇宙が存在し始めた瞬間から時間は始まった。宇宙の出現と時間は同時なのだ。宇宙の持続そのものが時だからだ。宇宙科学者は宇宙の出現を百数十億光年前だと言う。私自身はその中で87年存続してきた。それが私の微々たる人生なのだが、その中の少年時代とか青年時代とかを考える時、生まれてから今までの全歳月はそれを絶対時間だと言えるだろう。方や宇宙の時間を基準にして計測するなら、私の人生の歳月は相対時間だとi言える。
 宇宙には多数の銀河がある。ある光が非常に遠い恒星から数百光年もかけて地球に届いたとしよう。ここには光年という時を計測する上での最大の尺度がある。しかし、人は知っているだろうか?その恒星の光が数百万光年かけて今地球に到達したとすれば、それは数百年前の光、すなわち足利時代にその星を出発した光であって、今のこの時その星にある光ではないことを。その星はもう変わってしまっているかもしれないのだ。そう考えると、私たちは実に短い時のスパンの中で生きていることがわかる。まさに「主のもとでは一日は千年のようで、千年は一日のよう」(2ペト3.8)なのだ。
 宇宙時間の壮大なスケールから見れば、たったの一年に過ぎない2017年の新年など、微々たる現象に過ぎないと言えなくもない。しかし、最後に気付いていいことがある。それは、干支や月、週の曜日、一般歴の祝祭日や24節気、教会歴の祝祭日などは循環性の尺度であって、一巡するとまた元に戻るが、年や世紀は一回性で、二度と繰り返さないことだ。それは一度終了したら永久に過去となってしまう。例えば、2016年は二度と繰り返せない。年の積み重ねである人生も同じで、終わったらもうやり直せない。たとえ宇宙時間に比べたら超短かい存在であっても、それはかけがえがないものなのだ。そこに年初で雑考する意味がある。
 
 
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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