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働くことと食べること

 11月13日の日曜日は年間第33主日であったが、ミサの第二朗読テサロニケの信徒への手紙3.10に、「働きたくない者は、食べてはならない」という一節があったのに目が留まった。もう昔になるが、戦後すぐの頃は労働組合運動が盛んで、メーデーのデモ行進などではよく、「働かざる者は食うべからずだ」などと気勢をあげていたものだ。彼らはそれをソビエトの建国者レーニンの言葉だと信じていたようだが、実はその言葉の本家は2千年前に使徒パウロが書いたテサロニケの信徒たちへの手紙なのだ。
 ただし、意味は大いに違う。レーニンは労働しないで富を得る王侯貴族やブルジョワは食べる権利はないと言ったのだが、聖パウロは怠惰な信徒たちを戒めて、まじめに生活させるためにそう言ったのだった。間もなく世の終わりが来ると煽られて浮足立ったた一部の信者が、それならもう働いても仕方がないと仕事を放棄したりしていると知ったからだった。これは働けるのに働かない怠け者に対してであって、子どもや病人、老人や失業者などに言ったのではない。
 世の終わりは必ず来る。しかし、聖ペトロは「主のもとでは一日は人の千年のようで、千年は一日のようです」(2ペト3.8)と教えた。預言者や使徒たちは、世の終わりなんて来ないとうそぶく者たちには、「それは近いぞ」と警告したが、逆に世の終わりがすぐだと思って動揺し、仕事を放り出す者たちには、「その日は必ず来るが、神にとっての一日は千年のようなものだ。だから、落ち着いて生活するように。その日の来るのを忘れず、平常通りに生きるのが一番なのだ」と諭したのだ。
 昔、唐の百丈禅師(百丈懐海)は「一日不作、一日不食」を旨としたとか。働かない日は一日食べないと言う意味だ。これは聖パウロの言葉に一脈通じる思想だろう。玉川学園の正門から入ると、坂道になる手前の右側にある城壁風石垣には、この百丈禅師の言葉が刻み込まれていた。今もあるかどうかは知らない。しかし、それは「労作教育」を重要視した創立者の思想の一端を偲ばせる四文字であった。
 
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押しつけ憲法で何が悪い

 今日、11月3日文化の日は現憲法が発布された日だ。この70年間この憲法が日本国民にどれほど幸福をもたらしたかは計り知れない。明治憲法は約60年間続いたが、その間に外国との戦争は5回もあった。その結果、戦争による死者は日本人だけでも数百万人を数える。それに比べ、現憲法下ではそういう死者は皆無だ。いかによい憲法であるかがわかる。それなのに安倍晋三首相らは、これは押しつけ憲法だから、独立国にふさわしい自主憲法を作らなければならない」と主張し、改憲を企んでいる。
 私は彼らが「押しつけ憲法」だから、自主憲法に変えなければならに」という主張を容認できない。間違った論理だからだ。確かに現憲法は敗戦後、占領軍のGHQによって押し付けられたものではある。しかし、そもそも庶民にとって押し付けでない憲法が今まで日本にあっただろうか?それを問うべきだろう。答えは明らかだ。なかった。たとえば、明治憲法はそうだった。伊藤博文が中心になって作り、明治22年に発布されたが、当時選挙権がなかった庶民には押し付け憲法に他ならなかった。
 大日本帝国憲法と言われたその明治憲法は、例えば「第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス。第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス。第20条 日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」などと規定している。しかし、いったい国民の皆が天皇の統治を認めたのか?なぜ天皇は神聖だと言うのか?国民の同意もなしに兵役の義務を課すとは一方的ではないのか?どれも独善的で、権力者が勝手に決め、権力によって国民にそれを押し付けた。それが真実ではなかったか。
 自民党が今用意している憲法草案も同じだろう。私たちのほとんどはその作成に与ってはいないし、意見も求められていない。つまり私たちの、少なくとも私の声は入っていない。だから、仮にそれが国会議員の3分の2以上によって議決されて新憲法になれば、国民の代表による議決だから国民の自主憲法になると言われても、蚊帳の外に置かれた者やそれに同意しない私のような者にとっては、押し付けでしかないことになる。
 では、どう解決したらよいのであろうか?まず、「押しつけ憲法だから良くない」、「自主憲法なら良い」というまやかしの論理から脱却すべきだろう。現憲法を「押しつけだ」と言う人々は、それが自分たちの気に食わないからそう言って変えたがっている。しかし、彼らのいわゆる「自主憲法」が可決され、国民投票で決まったら、それに不満な者にとっては逆にそれはは押しつけ憲法になるだろう。そもそも国民全部が100%同意する自主憲法などなく、むしろどの憲法もある意味では「押しつけ」なのだと悟るべきなのだ。
 従って、問題は押しつけか否かにはないのだ。押し付けの何が悪いのか?何も悪くない。押しつけであろうとなかろうと、よい憲法は良い。自主の名がついてもだめな憲法はだめだ。これを一番大事な判断基準とすべきなのだ。その観点から70年の実績を持つ現憲法を見ると、実に素晴らしいことがわかる。自民党憲法草案よりはるかによい。押しつけであっても良いものなら、拒否する理由はない。私たちはどんな分野でもよい方の選択を重ねることによって現在の幸福を実現してきた。憲法でも同じだ。
 70年前、私は17歳だった。戦後日本の荒廃の中で新憲法は輝いて見えた。だから私たちは喜んでそれを受け入れた。押しつけか否かはどうでもよく、真の幸せをもたらせる憲法だと思えたからだ。そして、実際その通りであることが実証された。私たちの基本的人権や生活は保証され、国の平和も守られて今日に至った。どの憲法もなしえなかった偉業だ。私はそれを高く評価する。そして、新たな自主憲法は不要だと考える。現憲法を押しつけ憲法だと非難する連中は、むしろそれに優る憲法の対案を今日まで提示できない出来た思想の貧弱さを恥ずべきではあるまいか。
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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