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終戦71年目の想起 

 2016年の今年も終戦を想い起こす日、8月15日が来た。今でもあの暑かった兵舎の中で、直立不動の姿勢で音声が途切れ途切れのラジオ玉音放送を聞いた記憶が蘇る。しかし、その後の一週間、実は無血終戦のため必死の努力が払われていたのだった。私は今までまったく知らずにいたが、昨日の朝日テレビ放送「ザ・スクープ。緑十字機 決死の飛行」という番組でそれを知った。
 それは8月15日の終戦直後に、連合国進駐軍をいかに迅速に無血上陸させられるかと、それを成功させるために陸海軍と外務省から選ばれた日本政府特使が、マニラのマッカーサー司令官に会いに行った決死の使命だった。その時に乗ったのが双発の緑十字機2機だったのだ。私だけでなく、多くの日本人が今までそのことを知らなかった。だからこそ戦後71年経ってのスクープなのだが、今振り返ると日本の命運はまさにその成功にかかっていたことに戦慄さえ覚えた。
 その時、日本には二つの主な危険があった。一つは天皇の詔勅があっても、厚木基地の小園指令は徹底抗戦を主張し、進駐軍が来れば交戦が必死で、大きな犠牲が予想されたことだ。もう一つはソ連の動きだった。ソ連軍は不戦条約を破って樺太に侵攻、千島列島も歯舞色丹まで占領して、北海道東部の分割占領を要求してきていたからだった。連合国司令官マッカーサーはそれを非常に憂慮し、日本政府に特使をマニラに送って、迅速な連合軍の無血進駐に応じる段取りの会談を求めたのだった。
 しかし、それに応じるのは決死の覚悟が必要だった。戦争が終ったにもかかわらず、徹底抗戦を叫ぶ軍の反乱勢力は緑十字機を撃墜しようとしていたからだ。日本政府特使は8月18日隠密裏に出発して最初の攻撃をかわし、困難に遭遇しながらも伊江島米軍基地に着いたそうだ。そこからは米軍機でマニラに飛び、マッカーサーと面会、意志と段取りを確認して帰途についた。しかし、伊江島から飛び立てた緑十字機は1機だけだったので、全員がそれに乗った。
 ところが、浜松の上空で問題が起こった。燃料切れがわかったのだ。もし、その日のうちに東久邇宮首相の政府に連合国司令官間との合意を報告できなかったら、大変なことになる。事態は彼らが自身が生きるか死ぬかの問題でもあった。しかし、偶然が味方してくれた。月夜であったことと海岸に不時着できる砂浜があったことだ。不時着すると、民間人が救助に来てくれた。特使たちはあらゆる手段を使って何とか8月23日中に東京に着くことに成功、連合国司令官マッカーサーとの段取りを報告できたのだった。
 もし、それが間に合っていなかったら、どんな恐ろしい事態になっていたかを、今にして私たちは知ったのだ。特使の報告を受けるや否や、軍首脳はまず厚木基地の小園司令官を拘束、そこの兵員を全員除隊させることに成功した。次に北海道には米軍を中心とする進駐軍が迅速に展開し、ソ連の侵攻を食い止めることができた。もしそれが遅れていたら、日本は朝鮮のように南北分断されて、内戦の悲劇を招いていたかも知れない。
 私はその時そんな命懸けの任務を遂行していた人々がいたことを知って、非常に驚きかつ感動した。情けないことに、その時の軍は多くが特使たちを阻止する側に回り、緑十字機の撃墜や特使たち殺害を目ろんだ。そして、それがなすべきだ正しい行動だと信じていた。戦争や混乱の時、人はしばしばそういう愚をしでかす。国のためだと思い込んで、本当に国のために尽力している人々を殺害したり妨害したりするのだ。愛国心だと思ってしているが、実は害国心なのだ。
 では、そういう私はそういう愚かな行動をした人々(今もそういう人々はいるが…)を批判できるか?否。できるとは思えない。なぜなら、日本特使たちが決死で飛んでいたいたちょうどその頃、私は海軍特別少年兵第3期生として、かの小園司令官が横須賀鎮守府の命令を拒否、徹底抗戦を主張していた第二相模野航空隊に配属されていて、抗戦はしなかったものの、無為な時を過ごしていたからだ。
 終戦の天皇詔勅を聞いた時、私は「あぁ、戦争は終わったんだ。よかったぁ。もうすぐ家へ帰れる」などと、いやしくも帝国海軍の一員だったのに、国や民族のことなどはまったく念頭になく、自分の目先のことしか考えていなかった。もはや軍規が崩壊したに等しく見えた基地で、その日の食事にありつき、家に帰れることだけを願っていた自分。インターネットのない時代、情報はラジオ、新聞、口コミだったが、少年兵にはラジオも新聞もなかった。だから世の動きにまったく無知だった。15歳の少年だったとは言え、今思うと何と恥ずかしい自分だったことか!それに比べ、緑十字機の特使たちは立派だったと思う。
 
 新聞には飛行中の緑十字2機の写真があった。日本軍機が撮影したはずはないから、おそらく伊江島の米軍基地から飛び立った米軍機が撮影したものだろう。私には双発の一式陸攻爆撃機を改装したように見えるが、どうだったのだろうか。彼らがこんな重大使命に命を賭していた頃、私たち少年兵はいったい何をしていたのだろうか?この飛行機の写真を見て、終戦直後に相模野第二航空隊で過ごした約1週間を思い出した。神国日本の神話が雲散霧消した一週間だった。大本営発表の大嘘を知るのも間もなくだった。

 8月15日の終戦の天皇詔勅後、米軍機の空襲はぱったり止んだ。厚木基地は蓼川の流れる谷戸を挟んで、大和町(現大和市)側にあった実戦部隊と、綾瀬村(現綾瀬市)側にあった第一、第二相模野航空隊の三つで成り立っていた。搭乗員の実戦部隊は大和基地におり、実戦整備兵達は第一相模野航空隊に、私達練習生は第二相模野航空隊にいた。
 戦争が終わったと知ると、私たち少年兵は口には出さなかったが皆ほっとして喜んだ。死ななくて済むと思ったからだ。それまであった飛行機の整備練習もなくなった。一相空(第一相模野航空隊)の実践整備兵たちはプロペラを外してどこかへ運んで行った。防空壕に埋めてい爆破していたのだと聞いたが、武装解除の一環だったのだろう。まだ十分な知識も技術もなかった私たち練習生は、そういう慌ただしい敗戦処理作業もただ眺めているだけだった。それどころか、ある者はプロペラのなくなった機体の風防ガラスを割って盗み、細工物を作ったりしていた。戦時中だったら銃殺にされた行為だったが、もはや罰する者はいなかった。
 食事は一応出ていた。今思うと、主計兵たちは依然として働いていたことがわかる。ところが、食事は量も質も足りなかったから少年兵たちはいつも空腹で、監視もいなくなった食糧倉庫を荒らした。私も誘われて一度行ったことがあったが、監視のいなくなった食料とは言え、盗むのはやはり気が咎めた。これも戦時中だったら大罰直は免れなかっただろう。しかし、軍規が不在同然になっていた終戦直後の1週間、基地は無法地帯のようであった。規律や懲罰のタガが外れれば、人はこんなにもすぐ乱れるものかと、呆れたものだった。
 TVの緑十字機スクープ番組は、その時の厚木基地が小園司令官の命令で徹底抗戦態勢にあったかのように伝えていた。しかし、実際は少し違った。徹底抗戦を主張したのは大和基地の搭乗員実戦部隊で、少なくとも私が所属していた第二相模野航空隊は降伏に賛成だった。大和基地は飛行機を持っていたから、抗戦に加われと、二相空にも空中からビラを撒いてきた。もちろん私も拾った。上官たちはビラを拾うのを禁じたが、それは少年兵たちが扇動されて抗戦に加わらないためだったようだ。
 その2日ぐらい後だったろうか、血気盛んなパイロット将校が二相空やってきて、徹底抗戦のアジ演説をしたのを覚えている。兵舎の前のベンチ上に立ち、海軍なのに軍刀を下げて、日の丸の鉢巻きをし、「貴様らも俺たちといっしょに戦え!」と、拳を振り上げて絶叫したのだ。後年三島由紀夫が割腹自殺したとき、その姿は私にとってあの青年将校と重なった。しかし、少年兵たちの反応は冷めていた。みんな何を今さらと思っていた。むしろもう帰心矢の如しだったのだ。
 そんな反応への腹いせだったのだろうか、その夜恐怖の夜襲が起こった。TVスクープも、厚木基地の飛行隊員たちが飛行場から対空機関砲や機関銃を乱射した暴挙に言及していたが、その夜は私たち二相空の兵舎が狙われたのだった。もう空襲もないからと、兵舎のハンモックでのんびりと寝ていた私たち少年兵は度肝を抜かれた。「夜襲だ!防空壕へ逃げろ!」という叫びを聞いて、私もハンモックから飛び降り、暗闇の中を裸足のまま半かがみで防空後に走った。
 まさか味方に狙われるとは思ってもいなかった。走りながら見上げると、弾丸は飛行場の方から林越しに飛んできていた。ヒュルヒュルと何本もの光の線が頭上を越えるのが見えて、足がすくみそうだった。味方の襲撃を逃れて防空後を使うとは何という皮肉だったことか。米軍機の空襲は昼間が多く、上から来るのでもうかなり対応に慣れていたが、この時の機銃掃射は水平に来たので肝を潰した。
 しかし、この襲撃事件後、彼らの抗戦行為は急激に萎んだと記憶する。どうしてそうなったか私たちは知る由もなかったが、緑十字機の使者たちがもたらしたマッカーサー司令官との段取り通り、横須賀鎮守府が厚木基地の抵抗を抑え込んだからなのであろう。その後、私たちは命令により、書籍、ノート類をすべて焼却した。極秘書類でもないのに…とは思ったが、燃え盛る火にそれぞれが書類を投げ込んだ。それは戦時の一切を清算する象徴のようでもあった。まだ新しい時代がどんなものか想像もつかない段階ではあったが…
 終戦から1週間ぐらいしてからだっただろうか、他の少年練習兵たちと共に、私も「帝国海軍兵長に昇進、予備役を命ず」という辞令と110円の退職金をもらった。今思うと、こんなに混乱を極めていた時点でも、辞令作成や経理の処理を最後までちゃんと遂行した人々がいたんだと再認識し、改めて感服する。全部がめちゃめちゃではなかったのだ。退職金をもらうと、兵士たちは帰郷を急いだ。しかし、焼け野原になった都市と燃料不足の鉄道網では、九州、北海道などへ帰った人はどれほど苦労したことだろうか。
 一人去り二人去りして、いつの間にか兵舎はがらんとしてきた。おそらく私のいた中隊では私が一番最後だったかも知れない。わが故郷は厚木基地からたった4,5キロの藤沢市用田(旧御所見村)だったので急ぐ必要がなかったのだ。それに、班長の家族は当時わが家に間借り生活をしていたので、私は班長の荷物の始末も任されていたからだった。
 ところで、航空隊を去るには二相空の正門を通らなければならなかったが、その瞬間のことは今でも忘れない。正門を出入りす時、私たちはいつも緊張したものだった。身体検査があったからだ。だから、それが習性になっていて、その時も緊張して正門に近づいた。その時私は班長が残していった自転車に荷物を積んでいた。今思うと、どのようにしてハンモックや衣嚢を全部自転車につけられたのか不思議でならない。とにかく、いつもとは違うので衛兵に咎められないかとドキドキしていた。
 ところが、正門真ん前に来ても衛兵の姿がないのだ。どこかに隠れているのではないか?と訝しみ、私は停止した。そして、見回した。しかし、誰も出てこない。そして、しばしして合点した。「そうだ、衛兵も故郷に帰ったのだ。だから、もう誰もいないし、身体検査もないのだ」と。急に何の束縛もない自由になったのだと思うと、かえって実に妙な気分だったことを覚えている。
 しかし、脱走は銃殺と叩き込まれていた習性は恐ろしいもので、頭ではわかっていても、その自由が信じらえなかった。無人の正門を通り過ぎたときは、もしや「こら止まれ!」と銃を構えられるのではないかと、やはり恐れていた。だから、自転車をそろそろと引いて十数歩歩き、誰も呼び止める者がいないか確かめた。大丈夫だった。「航空隊はもう本当に空なんだ。」そう再確認すると更に数百メートル行って、私はまた後ろを振り返った。追ってくる衛兵はいなかった。その時私は叫んだ。「おれは自由だ!」と。自ら選んだ軍隊の束縛から、自由を取り戻した、と実感した瞬間だった。
 故郷の家に帰ったのが何日だったかは記憶が定かではない。8月24日前後だったと思う。しかし、8月30日にマッカーサー元帥が厚木基地に到着した時、その飛行機と護衛戦闘機群がわが家の向かいの峰の林の上を低空通過するのは確かに見た。わが家は厚木基地に着陸する航空機の進路上にあったから見られたのだ。ただ、その無血進駐が緑十字機のミッションのおかげだったことは、私が知る由もなかった。その時の私は今の高1年代の少年だったが、まだ1,2年は同じように無知なままであった。

 さて、ずっと後になってから、私は自分がいかに無知で愚かであるかに気付いて、過去を振り返り、将来を考えるようになったが、自分も渦中にあった戦争のことに関しては、後に毎年8月15日前後になるとコラムを書いて、特に2人の人物を非難するようになった。310万人もの国民を死なせたのに退位しなかった昭和天皇と原子爆弾の投下を許可したトルーマン米大統領である。私は昭和天皇を卑怯軟弱だと軽蔑し、トルーマン米大統領を人道に反する大罪を犯した人物だと見なしたからだった。
 しかし、今年私は二人に対して、そういう一面的な見方だけで評価していはいけないことを学んだ。昭和天皇が実は退位しようとしたのだが、できなかったことを知ったのだ。彼は皇位にあることが国のためにベターだと確信したから、退位をしないという苦渋の選択をしたようだ。また、トルーマン大統領はルーズベルト大統領が1945年4月に急死したため、急きょ副大統領から大統領に昇格し、秘密裏に製造していた原子爆弾についてはよく知らされていなかったようなのだ。疑問を持ちながらも軍に押し切られた形で投下を承認したというのが真相のようだ。もっとも投下後彼はそれを正当化し、今に至るまで原爆投下を正当化する間違った米国世論を流布させた罪は残る。
 しかし、そういう事情があったのであれば、昭和天皇を卑怯軟弱者呼ばわりし、トルーマン米大統領を人道に反する犯罪者だと責めるのは当を得ない非難だと気付いた。そうでなくても、主イエス様の福音は「人を裁くな」と教えている。だから、私はこの際、今まで書いた二人に関する批判コラムは、今後はRetractandumの対象としすることにした。すなわち、事実上撤回する。
 
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ある金持ちのたとえ

 今週の日曜日、年間第18主日の福音はルカ12.13-21であった。ある人が遺産分与にお力添えをとお願いして来たとき、イエス様はその頼みをきっぱり断り、その場にいた一同に向かって、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。あり余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と戒められた。
 そして、ある金持ちのたとえを話された。大豊作だったので大きな倉を新築し、そこに収穫物と財宝を所蔵し、もうこの先何年も安泰だと思い込んだ金持ちのたとえだ。ところが「神は『愚かな者よ、今夜お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったい誰のものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と、教えられたのだ。
 その日の説教がどんな内容だったかは思い出せないが、私がそのとき心中で、「私ならソフトバンク副社長の退職金やジョージソロスの言葉を引き合いに出して、イエス様のたとえを現代向けに解説するんだがなぁ」と思ったことは確かだ。少し前、アローラ氏がソフトバンク副社長を辞し、退職金を68億円もらったことが世間で話題になった。庶民が一生かかっても無縁の巨額だからだ。手を貸す運動Ⅱなど、たった500万円ていどの年間支援額をつくるのに苦労に苦労を重ねている。それを退職金だけでも68億円とは何という差!そんなお金をいったいどうするのだろうか?と思わないでもなかった。しかし、それは妬んだり羨んだりするに値することだろうか?
 米国ヘッジファンドの大物、ジョージソロスは彼以上の大富豪だ。1997年のいわゆるアジア金融危機は、米国のヘッジファンドがアジア各国通貨の空売りで惹起した通貨の暴落により、アジア各国経済に大打撃を与えた出来事だったが、その中心にいたのが彼だ。まさに貪欲の典型的な行為だった。
 彼はユダヤ系ドイツ人だったが、第二次大戦中父親が捕虜収容所で同胞のユダヤ人を取り締まる役目だった。だから生き延びられたのだと言われる。息子の彼はその生き方を父から学んだ。後年彼は言ったそうだ。「私は貧しく生まれたが、貧しくは死なない」と。実際、巨額の富を稼いだ。だが、貧しいままでは死なないと豪語しても、果たして巨額の富を携えて死を越せるだろうか?否としか言いようがあるまい。神は彼にも言われるだろう。「お前が用意した富は、いったい誰のものになるのか」と。
 私ならこのような現代の実例から、主イエス様が人々、ひいては現代の私たちにも、何をわからせようとなさったかを皆に考えてもらっただろう。だが、誤解してはいけない。主イエス様は富を否定なさったのではない。基本は「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6.20)というお言葉にある。しかし、主は「不正にまみれた富で友達を作りなさい」(ルカ16.9)ともお教えになった。この日の福音のお言葉も、よく注意して聞けば肝心なことは何かがわかる。主は「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言われたのだ。ここに愚かな金持ちのたとえを理解する鍵がある。
 「神の前に豊かになる者」とは、神の前に富を積む者と同じ意味だ。死の前では貧乏人も富豪も公平で、無一文で死を通過する。しかし、神の前に積まれた富は死ぬ時には持っていけない世の富とは違って、神が預かっていてくださる富だ。だから、「いったいだれのものになるのか」とは言われないし、その持ち主は愚かな者よとは呼ばれない。その人は地上では貧者でも、天では富者になれる。主は「そのような者になれ。富むなら神の前に富め」と教えられたのだ。これがこの日の教えである。
 ジョージソロスは単なる大富豪ではなく、各種の基金を設けたりして社会に貢献している。元ソフトバンク副社長アローラ氏も同じかも知れない。彼ら金持ちはみんな金の亡者で、善行は何もしていないなどと、知りもせずに裁いてはいけない。しかし大事なことは社会貢献ではなく、神の前に富を積むことだ。たとえ彼らの1億分の1の富でも、もし神の前に積んでいるなら、その富には不朽の価値がある。そして、こう言えるだろう。私達のほとんどは大富豪にはなれないが、神の前では僅かな富をもって豊かになれる、と。
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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