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連続と断絶

 今週の日曜日、教会は聖霊降臨を祝った。今も同じかどうか知らないが、かつてのイスラエルではペサハ(過越し)、シャブオート(五旬祭)、スコット(仮庵祭)が3大祭であった。では、キリスト教でも3大祝祭日があるかと問われたら、「ある。復活祭、降誕祭、聖霊降臨祭がそれだ」と私は答える。聖霊降臨はキリスト教にとってそれほど重要な祝日なのだ。
 その重要さについては私がここに縷々書く必要はない。教会のしかるべき専門家たちや指導者たちが昔から語り継いできたし、今も語り、これからも語り続けるに違いないからだ。ただ、聖霊降臨の主日の聖書朗読を聞いて、一つだけ人間の心の成長を激変させる聖霊の働きについて思い出したことがあったから、それを少し考察しておこうと思った。そこでキーボードに向かった次第だ。

 人は、身体や知性等の成長と同じように、心も連続的に成長するものだと考えやすい。しかし、実はそうではないのだ。たしかに身体や知性等は学習や経験や訓練等の積み重ねによって、今日よりは明日、今月よりは来月、今年よりは来年と、少しずつ一歩一歩進歩し成長するものだ。一挙には大躍進しない。連続性がその成長の特長だ。そして、連続的な成長があるかぎり、達成した成長は失われない。しかし、断絶が起こったら、成長は止まるか、あるいは失われることにもなる。身体や知性等の成長は断絶とは相容れない。断絶は敵なのだ。 
 だから、スポーツ選手は練習を継続する。音楽家もそうだ。怠れば後退するからだ。知的進歩でも同じだ。例えば言葉の習得は一挙の達成など望んでも叶うことではない。一歩一歩地道に進むしかないものだ。その代り、一度習得したら急激に退歩することはない。もちろん長らくなおざりにすれば少しずつは退歩する。だが、進歩も連続的な漸進なら退歩も連続的な漸退だ。

 ところが、心の成長は違う。もちろん少しずつの積み重ねはある。特に徳はそうだ。徳とは心の力、「第二の習性」と言われるが、修練や経験の積み重ねで進歩する。知育、体育と同じく、連続的な成長である。しかし、心にはそういう成長の仕方とは異なる成長があるのだ。連続ではなく、断絶による成長である。そして、心の飛躍的成長や変貌はむしろ断絶によることが多い。そこに心の成長の一大特徴がある。
 しかし、それに気づいていない人は多い。教育学者や教師もそうで、人の成長は連続的なものと思い込んでいるようだ。だから、私は大学で道徳教育の講座を担当していたとき、心の成長には断絶の働きがいかに重要かをずっと説いてきた。大したことは成し遂げられなかったが、もし私が何か残した功績があったとすれば、その一つは心が連続と断絶によって成長すると説いたことだとだろう。

 では、断絶とは何かと言うと、それは人がそれまでの生き方、考え方、あり方と断絶すること、つまり以前の心のあり方、思想、行いを否定し、それらから断絶することによって、他の新しいあり方、思想、行い等を受け入れ、生きることを意味する。その好例に「回心」がある。聖書の言葉はメタノイアだが、心の方向を180度変えることだ。それはそれまでのもの(例えば罪の状態)を否定し、それから断絶して、新しいものを選び取ることだ。聖パウロはそれを「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る」ことだと表現した。
 論より実例の方がよいだろう。聖パウロのダマスカスへの道での出来事だ。彼はそのとき天からの光に打たれ、イエス様の声を聞いて地に倒され、視力を失った。やがてダマスカスでアナニアに会い、目から鱗が落ちると洗礼を受けて180度変わった。以前はキリスト者を迫害していた彼が、キリストの福音を宣教する旗手となったのだ。どうしてそんな大変化が起こったのか?それまでの自己の否定、それまでの自己からの断絶があり、新しい自分になれたからだ。では、それはどうして可能になったのか?復活の主と出会ったからだ。
 これは成人になって洗礼を受ける多くの人にとっても言えることだろう。洗礼前の自己を否定し、それまでの自分から断絶して、新しい生き方を選び取る。心の大いなるジャンプである。体も知性も変わるわけではない。だが、心は180度変化する。連続ではなく断絶なのだ。そこに心の成長の特長がある。断絶がなければ、心の飛躍も急成長もないといってよかろう。そして、そういう断絶は何らかの大きな出会い、出来事等を契機にして起こる。
 聖霊降臨もその一つ、しかも超特大な出来事であった。それによって、主の弟子たちは全くの別人に変った。臆病で平凡だった元漁師たちが、怖れない者、雄弁な使徒たちに変貌したのだ。人々が驚嘆したのも無理はない。彼らは聖霊によって、以前の彼らから断絶し、「聖霊に満たされた」新しい者たちになったのだった。私が注目したのはそこだった。断絶によって、彼らの心は激変し、大飛躍した。それは聖霊との出会い、聖霊の力によるものだった。

 しかし、断絶は必ずしも心を良い方向に変えるとは限らない。悪に転落させ得るものでもある。事実その例は枚挙にいとまがないほどだ。嘆かわしい意味で、俗に「人が変わった」と言われるのはそれで、体や知性は変わっていないのに心が悪変してしまうケースだ。それは良い自己を否定し、良い自分から断絶して、心が悪に変動することから起こる。
 なぜそういうネガティブな断絶、以前の自己の拒絶ともう一つの違う自己の選択が起こるのかというと、心に断絶をもたらす要因は主イエス様や聖霊との出会いばかりではなく、物凄く不幸な体験、不条理な出来事、耐えがたい現実、驚愕の天変地異などもあるからだ。それらは人にそれまでの自己を否定させ、断絶を起こさせる。それまで温和だった人を憎悪に化身させ、純真だった人を猜疑心の塊にする。悪と不幸の方向に断絶を起こすのだ。
 とは言え、同じそういうファクターがすべてそういう断絶を起こすかというとそうでもない。物凄く不幸な体験、不条理な出来事、耐えがたい現実等に遭遇しても、心が素晴らしい方に飛躍する場合もある。そういうファクターを「断絶因」と呼ぶとすれば、そういう心の飛躍成長はそれらの断絶因を上回る断絶因に出会うからではないだろうか。その上回る優れた断絶因とは、素晴らしい人物や生ける神との出会いだと私は考える。聖霊もそれだ。
 そういう出会いは不幸な体験、不条理な出来事、耐えがたい現実等を乗り越えさせ、心を憎悪、復讐、猜疑、呪詛の心にではなく、むしろ忍耐、信、望、愛、赦し、祝福、祈りの心へと変貌させ得る。心の教育者は人の心の成長が連続的にだけでなく、断絶によって良くもなり悪くも変わる。しかも、短時間で激変が起こることを知らなくてはなるまい。残念ながら多くの教育者はそれに気づいていないようだ。教育は連続性だけでよいと思っている。
 小原國芳先生は偉人教育を大事にした。それは人の心の成長で、出会いがどんなに大きな役割を演じるかをよく理解していたからだろう。達観だったと思う。人間形成は誰に、何に出会うかによって大いに違ってくる。聖霊降臨はそのことを思い起こさせてくれる出来事だ。臆病で欠点だらけだった使徒たちを、民衆の前で堂々と語り、大祭司たちの前で物怖じしない信念の人に変えた。聖霊と出会えてこそ人は古い自分と断絶し、新しい人になれる。
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日々の聖書

 毎日の聖書原典黙読をずっと続けている。今週の日曜日は主のご昇天の主日、今度の日曜日は聖霊降臨の主日だ。それに挟まれた今週平日の聖書は第1朗読が全部使徒言行録、福音がヨハネのよる福音書が続いている。そんなわけで、第一朗読に旧約聖書が出てこないから、福音だけは毎日ヘブライ語訳でも読んでいる。そうするとよりよく理解できるからだが、ヘブライ語から遠ざからないためでもある。
 ところで、今日5月11日(水)の第1朗読は使徒言行録20章28-38節だったが、その一部分である35節は手を貸す運動と大いに関わりのある1節なので、今日はそれを特記しておこうと思う。その35節とは、「受けるよりは与える方が幸いである」という一節だ。
 聖パウロは3回目の宣教旅行の帰途、エフェソの長老たちに別れを告げたあいさつで、最後をこう結んだ。「あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように。また、主イエスご自身が『受けるよりも与える方が幸いである』と言われたことばを思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました」と。
 「このように働いて」とは、「わたしが働いたように働いて」という意味だ。実際、聖パウロはテント職人の技術を持っていたので、福音を告げながらもテント製作の仕事をしたりして、自分の生活は自分で稼いでいた。だから、「わたしは他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存知のとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです」とも語った。主の福音を生活の糧にはしなかったのだ。
 
 「受けるよりは与える方が幸いである」というお言葉は福音書には書き残されなかった。このように福音書に書かれていない主イエス・キリスト様のお言葉はアグラファと呼ばれる。今日でも真正と認められるアグラファは非常に少なく、実際には4つか5つしかないと言われるが、このお言葉は最も代表的なアグラファの一つだ。原典のギリシャ語では次のように書かれている。
与えるは 1与えるは 2
ヘブライ語訳ではこうだ。おそらく主は実際にはヘブライ語訳のような言い方で教えられたのであろう。
To give is happier than to receive 1To give is happier than to receive 2
 
 果たして受けるよりも与える方が幸いかどうか、その受け止め方は人によって違うだろう。共感する人もいれば、そんなバカな、と冷笑する人もいるだろう。しかし、人々の受け止め方がどうであろうと、その言葉は手を貸す運動にとっては実に大事な支えなのだ。サマリア人の譬えの「行って、あなたも同じようにしなさい」という結びの一語が原点なら、「受けるよりは与える方が幸い」というお言葉は手を貸す運動のエネルギー源なのである。
 私は今日またそれを読んだ。そして、それを糧にした。だからそれを魂のエネルギー源として、謙虚に実践を続けて行こうと思う。



 
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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