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人の子の再臨について

 前回のコラムから早や一か月が経ってしまった。時の過行く速度が何と早いことかと痛感する。秋も深まり、教会の典礼暦年も終わりに近づき、今年度の主日はあと2回だけだ。だからだろうが、明日の年間第33主日は第一朗読も福音も世の終わりについてだ。今日はその前日だが、第一朗読のダニエル書12.1-4,9はヘブライ語で、第二朗読のヘブライ人への手紙はギリシャ語で、福音のマルコによる福音書13.24-32はギリシャ語とヘブライ語訳で読んでみた。

 この福音は世の終わりと人の子の再臨を伝えている。そこで、それについてだけ若干の考察をしてみたい。この福音の直前の章節13.1-23では、神殿崩壊の予告、終末の徴、大きな苦難の予告がある。その神殿崩壊は西暦70年に現実となった。歴史家ヨゼフもユダヤ戦記でそれを述べている。そのような戦争、飢饉等が起こった激動の時代、使徒たちや初代教会の信徒たちは迫害や困苦、家族分裂等の苦汁を嘗めた。そして、ユダヤは滅亡した。これらはすでに実現した歴史上の事実だ。
 他方、「見よ、ここにメシアがいる」「見よ、あそこだ」と言う偽メシアや偽預言者出現の予告も実現してはいるが、これは現代にいたるまでまだ継続中でもある。これに対し、年間第33主日の福音マルコ13.24-32はまだ全く実現していない未来の出来事を予告している。それが世の終わりと人の子の再臨だ。これは主イエス様の予言だし、使徒信条にも「生者と死者を裁くために来られます」とある信仰箇条だから、これを真実だと信じなければ、キリスト者とは言えない。 

 マルコによれば、イエス様は世の終わりを「太陽が暗くなり、月が光を放たず、星が空から落ち、天体が揺り動かされる」と、天変から話し出されている。「星が空から落ち」等の表現は当時の宇宙観に従ったからだが、要するに暗い異様な天変があるということだ。しかし、これは全宇宙体に及ぶ変動というよりは、地球から見える範囲の宇宙的異変だと解釈すべきではなかろうか。
 太陽や月が光を失うというのも、必ずしもそれら天体自体の異変ではなく、地球に異変が起こるから太陽や月がそう見えるととれないこともない。例えば、天変地異を現代的に解釈して、戦争で何千発の原子爆弾が爆発した場合だ。その厚い爆雲や埃がたちこめて地球を覆うせいで、太陽が暗くなり月が光を失うという想定はあり得ないことではない。いずれにせよ、世の終わりには世界は荒廃変貌する。だから、動揺するのは他の天体よりも、むしろ人類の生存環境である地球なのだ。
 全宇宙が短期間に大変動することはあり得ないことではないだろう。しかし、地球が人為的または自然的原因で大変動すること、そしてそのせいで太陽が暗く、諸天体が揺れ動いて見えることならあり得なくはない。長いスパンで見れば、地球が今のままずっと存続することは考えにくく、いつかは大変動が起こると予想するのは妥当な推論だ。それが福音書の言う世の終わりだと言うわけではないが、今の地球に終わりが来ることは確かだろう。その場合、世の終わりとは宇宙の終わりではなく、人類世界の終わりを意味する。

 要するに世の終わりには天地に大異変があるということだが、マルコの福音書は、人間がまさにそんな状況に置かれるとき、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて、雲に乗って来る」と予告する。そして、この予告の方が天変地異よりもずっと重要なのだ。人の子とはイエス・キリスト様のことだが、その再臨の予告はキリスト教の信仰箇条の一つであるだけでなく、私たちにとって大いなる希望を呼び覚ます約束だからだ。主の再臨は神の最終的裁きと体の復活の序章なのである。
 私はここで福音史家ルカが使徒言行録で描いた主のご昇天を思い出す。その時は半ばひそかな別離のようで、主を見上げていたのは弟子たちだけであった。そして、雲が覆ったので、昇り行く主は見えなくなった。それに比べ、再臨はその時とは大違いで、多くの人々に見える形で、主は力と栄光を帯び、雲に乗って荘厳にやって来られる。そして、天使たちを地の果て天の果てまで派遣し、選ばれた人々を四方から集めるとある。昇天時とは対照的だ。しかし、主の再臨は「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(徒1.11)と言われたことの実現なのである。
 では、私たちはそれをどう理解したらよいのだろうか?主は、その日その時がいつ来るか誰も知らない。知っておられるのは天の父のみだと言われたが、私たちは、再臨がいつあるのかを知らないだけではなく、それはどこか特定の場所にでなければ実現しないはずだが、そこがどこなのか、また、どのように来られるのかについても何も知らないのだ。それらについて常識的に考えると、疑問は次々と湧く。
 例えば、福音書は「雲に乗って来る」と伝えるが、そもそも雲は水蒸気の塊だから人はそれには乗れない。従って、それは比喩的な表現だと解釈するしかないが、だとすれば、本当はどのように来られるのかは全くわからないのだ。仮に雲に乗れたとしても、ではどこに来られるのか。また、多くの人々が再臨の主を見るとあるが、地球は丸いのだから、地球の裏側の人々はその場に居合わせることはできない。ならば、ならば全人類にどう臨まれるのだろうか?
 疑問は尽きないが、しかし確かな答えはない。わかっていることは世の終わりがあることと、そのとき主が荘厳な形で来られるということだけだ。ならば、私たちはそれにどう対応したらいいのだろうか?この主日の福音は「その日その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」(13.32)で終わるが、私はその次の節まで読むと、対応の答えを得られるのではないかと思う。そこには「気をつけて、目を覚ましていなさい」とあるからだ。
 これは主のアドバイスだ。肉体的には眠らないで済む人などいないから、「目を覚ましている」とはもちろん精神的な意味だ。ところで、「眠っていても私の心は目覚めていました」(雅歌5.2)とあるように、心は目覚めていられるから、主が来られるのを待って生きることができる。しかし、再臨はいつかわからないので、まずは主のみ国に行くことを考え、ベストを尽くした生きるべきだろう。今月は死者の月だが、主を信じて生きた人々も皆そうした。そして再臨と復活を待っている。
 もし主の再臨が自分の生きている間に実現するのであれば、それがいつでもいいように目覚めて備える。しかし、生きている間に来られないなら、主のみ国に入れていただけることが先になる。ならば、そのためにはただ目を覚ましているだけでは足りない。預かった1タラントンを2倍にする努力が要る。つまり、主の再臨についての疑問にこだわり、空しく答え探しをするより、天に宝を積んで生きる方がいいということだ。それが主の再臨に対応する現実的な結論だろうと思う。

 思うに、こんな考察をすること自体、世間一般の人々からすればバカバカしいことかも知れない。しかし、主の福音を信じる者にとってはそうではない。カルディナル・ニューマンだったと記憶するが、「永遠の命を計算に入れると、人生の意味はまったく変わってくる」と書いた人がいた。私も神の国での命を計算に入れ、その希望をもって生きてきた。だから、使徒たちのように天に上げられる主を見なくてもその再臨を信じる。信じるとは賭けだが、これからも私は賭けて生きる。
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プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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