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サマリア人の譬え余考

 先週の月曜日、10月5日の福音はルカ10.25-37であった。サマリア人の譬えのある章節である。手を貸す運動にとっては原点となる箇所なので、気づいたことを書いておこうと思ったが、時間がなくて書かないまま日が過ぎてしまった。運動ニュース10号を出した直後で献金への返事が多く、その上急遽10月11日(日)と決まった手を貸す運動Ⅱ独自のミニバザーがあったからだ。その準備に大わらわだったのだ。
 そのバザーはサーボランたちの献身的な協力と、教会の方々の好意的な受け止め方のおかげで成功裡に終わることができた。そして、ニュース発送後の多忙も一段落し、少し時間的ゆとりができたので、サマリア人の譬えを原典で読んで得た余考を記しておこうと思う。

 この章節は何度も読んだが、初めてギリシャ語原典で接したとき、最も感銘を受けたのはεσπλαγχνισθηという一語だった。新共同訳は「憐れに思い」と訳しているが、故佐久間彪神父は「それでは言語の気持ちが出ていない。『はらわたする』と訳すべきだ。日本語らしくない変な日本語だが、これなら腹の底から湧いて出る憐憫の情が伝わる」と言っていたのを思い出す。これがキーワードの一つであることは間違いない。
 しかし、普通に考えてみると、見て見ぬふりをして通り過ぎた司祭にもレビ人にも、程度の差こそあれ、憐憫の情はあったのではないだろうか、と思えてならない。彼らは悪人ではなかったのだ。だが、憐みを感じたのに、何らかの理由で憐みの情に応じた行動はしなかった。昔も今もそうだが、あることを善だと心で感じたり理解したりしても、それを実行しない人はいる。いや、むしろそういう人の方が多いだろう。
 ファリサイ派の人々や律法学者たちはどちらかと言えばそういう人たちだった。質問した律法学者にイエス様が「正しい答えだ」と言われた通り、彼らは神の掟をよく知っており、正しく答えることができた。だが人には善を説いても、自分はそれを実行しなかった。だからイエス様はあえて彼らと組んでいる司祭やレビ人をこの譬えに登場させたのかも知れない。二人は悪人ではなく、神の掟もよく知っていた。憐憫の情もあっただろう。でもそれを行動に移さなかった。彼らはそれを重大な悪だとは思わなかったのだろうが、強盗達が旅人を「半殺し」にしたのに似て、彼らは彼を「見殺し」にした。それは「何もしない怠り」の大きい悪だったのだ。
 ところが、彼らが日ごろ軽蔑していたサマリア人は、強盗に襲われた旅人を見ると深い憐憫の情を覚え、心に感じたことを実行に移した。私は彼が半死半生の旅人に近寄って手当てをし、宿に運んで、翌朝は宿の主人にお金を渡してまで世話を頼んだ、その至れり尽くせりの親切にいたく感服した。彼の行動にはεσπλαγχνισθηの語と同様、深い感銘を受けた。だから、後に「あの笑顔が甦った」を著した時、私はそれを詳しく解説した。
 しかし、私が最も感銘を受けたのは、この譬えの終わりでイエス様が律法の学者に、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われたお言葉だった。これが一番心に響いた。だから手を貸す運動の思想を理論づけたとき、このお言葉を運動の原点としたのだった。憐憫を感じる心と「行って、同じようにする」行動。この基本は今も変わらない。ここまではすでに何回も書き、何回も話してきたことの要約だと言ってよい。しかし、先週この章節をまた読んで新しく気づいたのは次の余考だった。

 一つは「隣人とはだれか」という問いについてだ。その律法の学者はイエス様に「わたしの隣人とはだれですか?」と質問した。私たちはつい見落としてしまうかも知れないが、ただ抽象的に考えられた「隣人」ではなく、彼は「わたしの隣人」は誰かと問うたのである。それは「わたしの隣人とは?」「あなたの隣人とは?」「彼の隣人とは?」と、具体的に各自が自問しうる問いなのだ。
 いったい、「私にとって」だれが隣人なのであろうか?いつも傍にいる人か?配偶者や家族だろうか?それとも、隣に住んでいる人か?電車で隣に座った人か?道で傍を歩いている人か?いや、すぐ傍にいても私と全く無縁の人もいれば、すぐ傍にいても心が遠い人もいる。要するに物理的にすぐ近くにいても、その人が隣人とは限らないということだ。むしろ私と無縁、無関係の場合が多い。だからイエス様は譬えでわからせようとなさったのだ。
 その譬えのまとめで主は「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問われたが、その答えを示唆する対照的な言葉がある。「道の向こう側を通って行った」と「近寄って(来て)」の2語だ。「道の向こう側を通って行った」は、司祭とレビ人の行動だったが、ギリシャ語ではαντιπαρηλθενという一語で表現されている。それは動詞αντιπαρερχομαιの能動態アオリスト三人称単数だ。他方、「近寄って(来て)」はサマリア人の行動だったが、それはπροσηλθωνという語で表現されている。それは動詞προσερχομαιの第2アオリスト能動分詞だ。両語は同じ動詞ερχομαι(行く又は来る)に接頭語が付いた合成語である点で共通する。
 しかし、接頭語の意味は正反対だから、両語の意味も正反対になる。ηλθεν(行ったまたは来た)はερχομαι(行く又は来る)のアオリスト(フランス語の単純過去に相当する過去形の一つ)三人称単数形だが、それに「~に反して」と「~に沿って、~の傍に」の意味の二つの接頭語αντι-παρ(anti-par)が付くと、αντιπαρηλθεν「反対側に沿って行った」の意味になる。他方、ηλθων(行って、来て)は同じερχομαι(行く又は来る)の進行中の行為を表す男性単数の分詞だが、それに「~の方に、~のために」の意味を持つ接頭語προσ(pros)が付くと、προσηλθων「~の方に来て、~に近寄って(来て)」の意味になる。
 祭司とレビ人が取った行動は「反対側に沿って行く」ことだった。それに対し、サマリア人は「近寄って来る」ことだった。手当や介抱をする前に、どの方向に行くかでもう心の在り方は決定的に違っていた。αντιπαρηλθενのαντι(anti)は単なる「反対側」ではなく、「反対側に向く」という意味である。それを知ると、司祭とレビ人の行動が目に浮かぶようにわかってくる。車の往来がなかった昔は左右通行のルールなどなく、人々は道の真ん中を歩くのが普通だっただろう。歩きやすいからだ。だから司祭もレビ人も道の真ん中を歩いて来たに違いない。初めから道の向こう側を歩いていたのではなかった。ところが倒れている旅人を見ると、彼らは急に反対側に方向を変えたのだ。憐れに思ったかも知れないが、その情には動かされず、関わり合いを避けてみて見ぬふりをし、旅人から遠い側へと故意に逸れたのだ。それに接頭語παρ(par:paraの短縮形)「~に沿って」が加わると、「反対側に沿って過ぎ去る」の意味が完結する。こう見てくると、そうか、それが「道の向こう側を通って行った」の真相だったのか、とわかってくる。
 他方、サマリア人も道の真ん中を歩いて来たに違いない。そんな時、彼も倒れている旅人に気づいた。すると彼は前の二人が道の反対側に向きを変えたのとは逆に、旅人の倒れている側に近寄って来たのだ。接頭語προσには「~のために」の意味もあることでわかるように、その近づき方にはすでに目的性が表れている。
 立場を変えて、倒れていた旅人の方から見れば3人はどう見えただろうか。司祭が来たとき、彼は助けてもらえると期待したのではなかろうか。神の掟をよく知っているはずの人だったからだ。だが彼はわざわざ避けて行ってしまった。「死んでいるかもしれない。死者に触れたらその日の聖務に支障が出るから関わらないようにしよう」と思ったのかも知れない。これはユダヤ人作家ベン・シャロムがその著書Mon Frère Jésus(兄弟イエス)に書いた好意的解釈だが、理由はどうであれ、その司祭は旅人にとっては同胞ユダヤ人を見殺しにしていった人だった。レビ人も神殿に仕える人だったのに、旅人にとっては同じく期待外れだった。
 3番目に来たのは犬猿の仲の異民族であるサマリア人だった。動けない自分だから日頃の敵対関係の報復をされるかも知れないと、彼が近寄って来たときに恐怖を感じたかも知れない。だが、彼の顔には憐憫の色があった。そして、手当てをし、至れり尽くせりの対応をしてくれた。半死半生の旅人にとって誰が自分の隣人かは明らかだった。その時まで、そのサマリ人は旅人と無縁の人だった。だが、関心と憐憫の心を持って近寄った瞬間から、彼は旅人の隣人となり、旅人も彼の隣人となったのだった。
 さて、イエス様の問いに戻ってみよう。「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか?」主は「だれがその人の隣人だったか?」とは問われず、「隣人になったか?」と問われた。隣人とは「なるもの」なのである。質問した律法学者は答えた。「憐みを施した人です。」(フランシスコ会訳)それは正しい答えだった。たとえ軽蔑するサマリア人でも、そう答えざるを得ないほど答えは明白だったのだ。司祭もレビ人も一瞬は旅人の間近にいた。でもそれは物理的に近かっただけで、隣人にはならなかったのだ。ちなみに新共同訳は「その人を助けた人です」と訳しているが、それは ‛O ποιησας το ελεος μετ’ αυτουという一句の正確な訳ではない。
 聖マザー・テレサは「愛の反対は憎しみではありません。無関心です」と言ったそうだが、確かにそれはこの場合に当てはまる。二人は倒れた旅人に関心を示さず、サマリア人は関心を示して近づき、好意を持って接した。好意は憐みに表れた。関心を持ったことは隣人愛の蕾、憐みの情は隣人愛の開花、近寄って世話をした行為はその結実であった。律法学者は「わたしの隣人とはだれですか」と質問したが、半死半生の旅人の立場に自分を置き換えてみれば、答えは自明だったのだ。ある人が自分の隣人になるかどうかの最初は、自分がいる「道の向こう側に避けて通る」か「近寄って来る」かによって決まる。自分がある人の隣人になるかどうかもそのどちらを選ぶかで決まる。この譬えはそれを教えている。
 そして、それは支援活動にも当てはまる。助けの必要な人々は倒れた旅人、支援者はサマリア人に当たるのだ。たとえ支援を受ける人々が物理的に遠い外国の会ったこともない人々や子供たちであろうと、支援者たちが彼らの困苦に関心を持ち、「はらわたする」心情で助けの手を貸すなら、それは「近寄って」隣人になる行為であり、支援を受ける人たちも支援者と隣人になるのだと言えるからである。支援者は「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われたお言葉を実践していることになるのである。

 余考の二つ目は、そのサマリア人のその後についてである。彼は譬えの中の人物だからフィクションで、その後のことを詮索するのは無意味かも知れない。しかし考えてみると、実際にそれに似た例があったからこそ、イエス様はそれを譬えに利用して話されたと思えなくもない。その譬えはそれほど現実性があった。そこで、もしそのサマリア人が実在の人だったとしたらと仮定してだが、その場合、彼はその後どうしただろうかと想像してしまうのだ。彼はいつまでその旅人と関わりを持ったのだろうか?
 想像するに、彼は誠実な人だったようだから、直近のその後としては、エリコでの用事が済んだら、帰路、例の宿屋に立ち寄ったことだろう。そして、頼んだ世話の不足金があったらそれを主人に払い、傷が癒えかけた旅人をロバに乗せて家に送り届けたか、あるいは宿の主人にもっとお金を出してもう暫く世話を頼んだか、何らかの手を打ったことだろう。しかし、その旅人の傷が完治したなら、いつまでも彼を助け続けはしなかっただろうし、旅人の方もいつまでも彼の助けは受けなかっただろう。私はそう想像する。
 それからもう一つ、あのサマリア人が人生でそのようにかかわったのは、あの旅人だけだったのか?という問いが残る。もちろん、あくまでも彼が実在していたとしたらという仮定での話だが、私には彼が助けたのはかの旅人だけだったとは思えない。無関心な人はどんなに苦しんでいる人がいても助けないが、苦しんだり困ったりしている人がいれば手を差し伸べる人は、一度だけと言うことはない。できる限り何回も人助けをするものだ。だから、彼も他の機会には他の人を助けたに違いないと思うのだ。
 ところで、それは現代における私達の支援活動のあり方をも示唆する。手を貸す運動は一度中止したが、その原因の一つは考え方の根本的な違いにあった。当時私が代表を託していた人は、私が支援とはサマリ人が傷ついた旅人をとことん世話をしたようにするものだと説いたことを間違って理解し、手を貸す運動の援助を当時メインにしていたシエラレオネだけにしぼり、いつまでもそこだけを支援することだと考えた。しかし、サマリア人がいつまでもその旅人を助けはしなかったように、私の考えも「支援先はいつか自立すべきで、援助はいつまでもすべきではない」というものだった。シエラレオネが今もまだかなり支援を必要としていることは認めるが、30年前とは違う。もうかつてほど援助が要らなくなった所をいつまでも同じように支援し続けるのは、「行って、あなたも同じようにしなさい」の間違った理解である。
 そして、サマリア人がかの旅人だけではなく、他の人をも助けたであろうように、支援すべき新しい対象が現れたら、ためらわずにそれに対応していく。私はそれがあの譬えの余考から導き出せるもう一つの正しい実践だと思うのである。シエラレオネはもう私達からの教育援助も給食援助も要らないと言って来た。だからもうしない。しかし、それに代わって、フィリッピンの子たちの給食に支援が欲しいという神父様が現れた。これは神様のタイミングのいいお引き合わせだったと思う。だから手を貸す運動は昨年からそこの支援を始めた。これも「いつまでも」ではない。不要になる時までである。が、必要な限りは続ける。そして、次の新しい支援の必要が現れたら、またそこも支援する。それがサマリア人の譬えの余考から導き出せる支援のあり方だと思うのである。
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プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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