FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

一つの岐路

 本日未明、国論を二分していた安全保障関連法案が参議院本会議で可決されたそうだ。新聞の夕刊で知った。この結末は予見できていた。それは3年前の選挙によって、国民多数が安倍政権を誕生させてしまった時からすでに予感していたことだからだ。だから私にはそれほどの驚きはない。だが、やはりそうなってしまったか、数は力なりか、という無念さと危機感はある。

 私たちは今一つの岐路に立たされている。どちらの道をとるか。どちらをもとるべきでないか。

 デモには一度も行かなかった私だが、言動ではずっと安倍政権を批判し、特に昨年の閣議決定後の安全保障関連法案では反対を陰に陽に表明してきた。多くの人たちの声も空しく、この段階では力が及ばなかったことは確かだ。だが、敗退したとは思っていない。こうなっても諦めてはならないと思っている。安倍政権にくみする勢力に反対を続け、彼らに対抗する人々を私は応援し続ける道を選ぶ。
 私はアベノミクスには反対ではない。十分成功しているとは思わないが、経済的立て直しにはある程度成功した。その点はフェアに評価すべきだと思う。しかし、彼らの憲法観とそれに起因する安全保障関連法案には賛成できない。だから反対宣言を更新する。軍が暴走、国民に非道・悲惨・貧困・言論封殺を強いた戦争の時代を体験し、戦後の平和な70年の恩恵を享受できた一人として、黙していることは罪だと確信するからだ。

 これからの反対言論や行動だが、一つは違憲法案を裁判にかけることだ。二つ目は選挙を要求することだ。私が思うに、戦争をするのが嫌だからとか、世界情勢、特に中国からの攻撃を抑止するためだとかいう議論は本質ではないと思う。一番の問題は安倍政権が国の最高規範である憲法を軽視していることにある。憲法9条を解釈改憲で事実上ないに等しくしようとしていることに大問題がある。もしこれが許されれば、解釈次第で基本的人権や言論の自由、思想信条の自由などもすべて解釈次第で名だけのものに無力化できる。
 こんな思想の持ち主に国の未来を委ねておくわけにはいかない。だから要求すべきは、あるいは実現すべきは総選挙で政権を替えることだ。そして、国民の民意を問う。もし、選挙でやはり現与党が圧倒的多数を得るなら、それは国民の選択だから、私はそれに同意する。その付託を受けた新政権が憲法を改正する国民投票を行い、それで憲法が改正されるなら、それも受け入れる。この国は私のものではなく、国民皆のものであり、その多数の選択に従うのが正々堂々のルールだからだ。
 しかし、憲法を無視して、違憲の疑いが濃厚な法案を強行採決した現政権のやり方は不誠実そのものだ。絶対に許してはならない暴挙だ。だから、参議院で可決したからと言って認めるわけにはいかない。従って、総選挙を行い、現政権の思想方針とは反対の結果が出たら、新政権には速やかに今回の安全保障法案を破棄する動きに入ってもらいたいと思う。安倍政権がやったことを全部ご破算にするのだ。
 もう一つは憲法裁判である。すでに法律の専門家たちの間ではその動きが出ているようだが、「頑張れ!」大いに歓迎したい。安倍政権は憲法をもう一度よく読み直すべきだろう。憲法98条はこう書かれている。「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅…(中略)…は、その効力を有しない。」つまり、成立したとされる安全保障関連法案は、最高裁判所で「違憲」と判決が出たら、無効になるのだ。そうなれば、この法案は廃棄するしかないことになる。それを目指すべきだ。
 裁判で問うべきもう一点は、安倍政権とこの法案に賛成した議員たちの「憲法尊重と擁護義務違反」だ。憲法99条はこう述べている。「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」すなわち、総理大臣、国務大臣、国会議員たちは、現憲法のもとでその職責を付託されたのであるから、それを尊重しそれに従って職務を遂行する責任と義務がある。
 ところが、彼ら、特に安倍晋三氏は最初から憲法96条を変えようとしたり、9条が変更できないとわかると、それを解釈改憲で安全保障関連法案を国会で強行採決したりして、事実上無いに等しく換骨奪胎した。これほどの憲法軽視、破壊があっただろうか。彼は憲法を尊重しないばかりか、馬鹿にしている。総理大臣の最重要な憲法尊重と擁護の職務に違反している。
 「彼は違憲ではない」と強弁している。今後もするだろう。しかし、殺人の場合、もしこういう行為をしたら人が死ぬかも知れない、という恐れのある行為を、そうと知りながらした場合、未必の罪を問われる。95%の憲法学者が憲法違反かその恐れがあると断言している法案を、それと知りながら強引に通せば、それは未必の罪に似て、憲法への畏敬の欠如、すなわち尊重の不実行、擁護怠慢、憲法を危険にさらす行為だと見なさざるを得ない。
 今後の反対言論と行動はこの2点を軸にすべきだ。戦争は嫌だとかいう感情論は力にならない。海外のボランティアが危険にさらされるなどという論拠も枝葉末節で無力だ。自衛隊を危険にさらすなどという議論は論外だ。彼らは危険を覚悟の職業を選んだのだからだ。この論戦で一番の力になるのは、最高裁で違憲かどうかを問う違憲裁判と国民全体の信を問う総選挙および国民投票だと思う。
 もし、国民の大多数が憲法を変えようという意思を示したなら、それそれでよい。しかし、違憲が濃厚なのに、憲法を横に見ながらそんな法律を通すことが一番危険なのだ。もし安全保障法案が絶対必要だと考えるなら、まず憲法を改正してから、違憲ではない状態になって、その法制化をすべきだ。それをしない卑怯さが私に安倍内閣を信じさせない。そして憲法裁判で、最高裁がこの法案は「違憲ではない」と判決を出したなら、その時この問題はすべて決着がつく。その時は判決がどちらでも正々堂々とそれに服しなければならないと思う。それでこそまっとうな日本国民と言える。
スポンサーサイト

なぜ手の込んだ奇跡を?

 一昨日、年間第23主日の福音はマルコ7.31-37で、耳が全く聞こえず、話しもよくできない、いわゆる2重障害の聾唖者が癒された奇跡の箇所だった。安保法案のことも気になるし、今私が最も関心をもっている問題は他のことなのだが、今日の福音はミサ中の説教がよく聞き取れなかったので自分なりにあれこれ考えた。だから、とりあえず今日はそのことを書きとめておこうと思う。
 この日の福音が伝える奇跡はマルコの福音書だけにあり、他の奇跡とは非常に違う。イエス様がなさった奇跡は「あなたの信仰があなたを救った。願いどおりになれ」とたった一言で盲人をいやされたり、「静まれ」と一喝して嵐を鎮められたりしたように、単純な言葉や動作だけで成し遂げられたものが圧倒的に多い。ところが、この日の福音の奇跡にはそういう特徴がまったくなく、そもそもその発端からして通常の奇跡とは大いに違って、手の込んだものだ。 

 それは主イエス様がシドン地方からガリラヤに戻って来られた時のことだった。人々はあり聾唖者を連れてきて、彼の上に手を置いてやってくださいと願っただけだった。もっとも按手されれば病は癒えたのだったが、多くの奇跡の場合、「癒してください」と願い、その信仰を見て主は一言で癒されるのが普通だった。ところが、この場合は本人ではなく、他の人々が彼に代って言い、按手を願っただけだった。
 他方、本人は耳が聞こえず、舌もよく回らない障碍者だったから、当然ちゃんとした情報を得る手段も能力もなかっただろう。だからイエス様のこともあまり知らず、何が何だかわからずに皆に連れて来られたのかも知れない。治癒後に感謝や賛美がなかったのもそんな事情があったのではないかと疑わせる。もしそうだったとすれば、耳が聞こえるようにしてほしいと願う発想はなかっただろうし、仮にあったとしても、それをちゃんと伝える能力に欠けていたから、その気持ちを言い表すことはできなかっただろう。
 ところが、通常は病人の方から願って出ないと治癒なさらなかったイエス様が、この時は願われもしなかったのにご自分の方から動き出されたのだ。彼を群衆から引き離して一対一になられたのもまた通常の奇跡の場面とは違っていた。そして、最も違ったのは治癒のなさり方だった。一言で「聞こえるようになれ。物が言えるようになれ」と言えば済んだであろうに、かなり手の込んだ治癒をなさったのだ。では、なぜそうなさったのだろうか?これには、なぜそういう方法をとられたのかという「なぜ」と、なんのためにこの奇跡を自発的になさったのかというもう一つの「なぜ」があると思う。

 まず、なぜそういう手の込んだ方法を取られたのかという方の「なぜ」だが、それはその人が聾唖者だったからだろう。耳が聞こえないのだから、いくら口で「良くなれ」と言ってもわかるわけがない。言っても無意味だった。しかし、彼は耳と口はだめだったが、目はちゃんと見えていたし、肌の感覚も健常だった。当然ながら、彼にはイエス様の動作がちゃんと見えていたし、指で触れられた接触はちゃんと感じ取れていた。
 だからこそイエス様は、その人がよく理解できる手段として、まず両耳にご自分の指を入れられたのだろう。原典では耳だけでなく、指も複数で書かれている。おそらく両手の人差し指を同時に両耳に入れられたのだと想像できる。そして、イエス様が右利きだったとしたら、次は右手の指を耳から抜いてそれに唾をつけ、彼の舌に触れられたのだと思う。
 舌に触れるには口を開けさせる必要があったが、言葉ではわからないから、口をアーンの形にして見せて開かせたのではあるまいか。彼はイエス様の指が自分の両耳に入り、次に指先が自分の舌に触れたとき、主が自分に何をされているのかを目で見、舌の感覚でそれをよく感じ取れたはずだ。言葉が通じない相手だったからこそ、主はご自分が彼にしようとしていることをわからせるため、そういう手の込んだ動作をなさったのだと推測できる。

 そしてその後、主は天を仰いで嘆息されると、「エッファタ」と言われた。ローマ字表記で書くと原典のギリシャ語では“Effatha”、 ヘブライ語訳だと“Hipathaha”だ。アラマイ語は“Ipathaha”らしい。だとすると、原典ギリシャ語の発音はどちらかといえばアラマイ語の音に近いと言えよう。いずれにせよ、これは主が口にされた元のままの数少ない貴重なお言葉で、「開け」の意味だ。すると、その聾唖者の耳は聞こえ、舌はもつれなくなってはっきり話せるようになった。奇跡が起こったのだ。 
 それを目撃した人々は驚嘆し、イエス様が言い広めるなと言われたにもかかわらず、むしろ口止めすればするほどかえって言い広め、「この方のなさったことはすべて素晴らしい。」イザヤが言った「聞こえない人の耳が開く。口の利けなかった人が喜び歌う」(イザ35.5-6)預言が実現したとばかりに、その偉業を称賛してやまなかった。ところが、当のイエス様はそれを喜ぶどころか、むしろ渋い顔をなさっていたように思われる。
 主の非常に抑制的なその対応は、頼まれもしなかったのに自発的にその聾唖者の治癒を開始されたこと、エッファタと言う前に天を仰いで嘆息されたこと、誰にもこれを口外するなと口止めされたことなどで一貫している。主はなんのためにこの奇跡を自発的にしようと思い、なぜ天を仰いで嘆息し、なぜ人々が称賛しているのに、その業が知られないよう口止めされたのだろうか?そこにこの奇跡の真意があると思う。

 この奇跡の直前にマルコはカナンの女のエピソードを記録している。シリア・フェニキアのその女は娘の悪霊を追い出してくださいとしつこく願った。しかしマタイの福音書によれば、主は「わたしはイスラエルの家の失われた羊にしか使わされていない」と、にべもなく断り、振り向きもなされなかった。しかし、「食卓の下の小犬も子供のパンくずをいただきます」と答えた女の信仰に感心して、結局は娘を治癒なさった。
 それに対して、聾唖の人の奇跡はまるで正反対だった。頼まれもしないのに、ご自分の方からその男を癒しにかかられた。なぜ主は自発的にこの奇跡をなさったのか?思うに、その男はまさに「イスラエルの家の失われた羊」の象徴のような障碍者だったからではあるまいか。耳が聞こえず、舌もよくまわらない。律法と預言者が伝えてきた神の言葉も、人々の賛美と感謝の祈りも聞くことができず、ともに祈り喜び感謝を言い表すこともできないその人は、自分から救いを求めることができないほど救いが必要な人であった。そして、それこそ神に背き続けた結果、「目があっても見えず、耳があっても聞こえない民」(エレ5.21)に堕したイスラエル民族の姿を象徴していた。
 だからこそ主はご自分の方からその人を癒されようとなさったのではあるまいか。そこには独り子を遣わすほど世を愛した神の救いの意図が象徴されていた。人が救いによって心の耳も開かれ、福音を聞くことができるように、そして心の舌のもつれから解放されて感謝と賛美をはっきりとささげられるように、その象徴的奇跡として主はこの聾唖者の耳を開かれ、舌の縺れを解かれたのだと私は考える。

 では、なぜ天を仰いで嘆息なさったのだろうか?その奇跡は罪からの人の解放を象徴したが、その解放即ち救いは主の死の復活の成就を必要としていた。だから、その思いが主の脳裏をよぎったからではなかろうか。「嘆息された」(エステナクセンστεναζωの不完了過去三人称単数)という動詞は「呻く、ため息をつく」という意味だ。
 「嘆いて」という言葉は次章のマルコ8.12にも出てくる。人々がパンの奇跡を体験したばかりなのに、天からのしるしを求めたからだった。マタイはその時のお言葉を「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」(マタイ16.4)と書いている。ヨナのしるしとは死と復活のことだった。復活はまさに主イエス様が父から遣わされた救い主であることのしるしの中のしるし、公言されるべき大奇跡であった。だから他の奇跡はさほど重視せず、むしろ言い広めるなと口止めされたのだろう。イエス様はこの少し後あたりから受難と復活の予告を始められる。
 それと照らし合わせると、主が嘆息されたわけは、聾唖の人が神の恵みから疎外されて救いを待つ人の象徴に見え、その救いにはご自分の十字架と死が不可欠だという思いが念頭をよぎったからではないか。私にはそう思えてならない。
 興味深いことに、イエス様は次章のマルコ8.22-26ではこの聾唖の人の治癒とよく似た方法で、今度は盲人を癒される。これは聾唖の治癒と対をなす奇跡だ。この場合も人々が一人の盲人を主のもとに連れてきて、触れてほしいと願う。治してくださいとは頼んでいない。それなのに、主は盲人の手を取って村の外に連れ出された。なるべく人目を避けられたのだ。そして、またもや手の込んだ治癒をなさった。
 まず聾唖者の場合と同じく、彼の目にご自分の唾をつけられた。それから両手を彼の上に置くと、「何か見えるか」と問われ、盲人が「人が見えます。木のようですが、歩いているのがわかります」と答えると、もう一度両手を彼の目に当てられた。すると、彼の目は完治した。しかし、彼が喜んで感謝したかどうかには言及がない。最後は彼を村に入らせず、家に帰したが、それは口止めのためだっただろう。その点も聾唖者の奇跡に似る。とにかく、目耳口の手の込んだ奇跡はこれで揃った。

 では、目耳舌の手の込んだ奇跡的治癒には、どんなメッセージがあるのだろうか?それは信仰に対する報いとしての奇跡ではなく、罪から新しい福音の生き方へ生まれ変わることを励ますメッセージの奇跡だったと思う。そもそも目耳舌は人をどんなにしたかというと、人祖堕罪の伝説では、誘惑者の甘言を耳で聞き、舌で会話に乗り、目で善悪の木の実を見て、口で食べ、神に背かせる役割を演じた。以来、人類は耳と目と舌でどれほど罪悪を重ねてきたことだろうか。
 聾唖者も盲人も、聞こえず見えず話せなければ、目、耳、舌で積極的に罪を犯すリスクは少なくて済んだかも知れない。しかし、同時にそれは救いの福音を聞き、その御業を見、感謝し賛美する恵みからも疎外されることであった。反対に、神様の恵みと導きがあるなら、耳、耳、舌は人に福音的な生き方を実践させるすばらしい道具になる。耳で福音の言葉を聞き、目でその実現を確かめ、舌で感謝をささげ、福音を証し、かつ福音の喜びをまだ知らない人々に告げ知らせることができるからだ。主はこのような奇跡的治癒で聾唖者や盲人もそういう生き方ができる恵みに招かれたのだ。こうしてどんな人々も救われるためにこそ主は来られたのだからだ。彼らは救いの形の一象徴だった。
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索
RSSフィード
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。