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清々しくもあり艶めかしくもある恋愛詩、雅歌

 旧約聖書原典通読を達成してからほぼ1ヶ月。個々の書の読後感想を書いておこうと思っていたが、諸事にかまけてそれができなかった。諸事とは、4月26日の手を貸す運動Ⅱ総会、4月30日のフィリピン学校給食費の送金、5月9日発行の手を貸す運動Ⅱニュース8号日本語版の編集・印刷・発送、5月12日発行の同ニュース英語版の編集・印刷・発送、5月18日の町田法人会女性部会での講演等だ。その間、旧約聖書原典通読2回目にとりかかり、時間が少しあれば読んで、すでに創世記34章に至っている。しかし、1回目の通読では、ヨブ記以後の各書についてじっくり読後感を書く時間がとれないでいたのだが、今日はそれをはたすゆとりができた。楽しみながら書いてみようと思う。

 ところで、マソラ本旧約聖書ではヨブ記のすぐ後に続くのは雅歌だが、それについての読後感を書くとすれば今ほどうってつけの季節はないだろうと思う。なぜなら、ヨブ記が苦痛に満ちた、暗く重苦しいテーマを突きつける思想書であるのに対し、雅歌はその正反対で、若い命が躍動する明るい書であり、まさに春の風景の中で繰り広げられる愛の語らいと歌唱と抱擁の舞台のような詩劇だからだ。 
 その書名は英語ではSong of Solomon、仏語ではCantique des Cantiques,、ラテン語ではCanticum Canticorum、ギリシャ語ではΑσμαだが、原典ではשיר השיריםと言われる。「歌の歌」という意味だ。仏語やラテン語は原典のままを訳している。英語の題名にある「ソロモンの」という一語は、ソロモン王が作者または主人公だと考えられていたからだが、実は後からの加筆だ。詩編には「ダビデの」と名のついたものがいくつもあるが、雅歌にはソロモン王の名がついたというのも面白い。二人の生きざまを示唆しているからだ。

 読んでみると、雅歌という書は率直に言ってこれが聖書だろうか?という疑問を抱かせる。聖ではない。宗教的な教えもない。深い思想もない。あるのは男と女の求め合う愛の歌だけではないか、と。実際、聖書学の歴史ではそういう疑問は絶えなかった。注釈書によると、1世紀末にこれを神と神の民との愛を象徴的に歌った書だという比喩的解釈が現れた。そのおかげで人間的な男女のエロス的な文学ではないかという疑問は払拭されたと言われる。昔読んだ聖フランソワ・ド・サルの著作にもそういう解釈があったと記憶する。
 しかし、先入観なしに読めば、この書はやはり若い男女の愛を歌った恋愛詩劇に他ならないと私は思う。本来そういう書なのだ。それを神と人との愛に喩えるのはこじつけに思える。雅歌の主役は慕い合う花嫁と花婿だ。二人の口から出る詩的な言葉が縦糸と横糸となって愛の物語を紡ぎ、背後ではそれを囃し立てるかのようにコーラスの乙女たちが歌い、夜警の影がよぎり、兄弟たちの囁きが聞こえる。オペレッタのようだ。だが二人の愛が繰り広げられる舞台は室内でも宮殿でもなく、花々が咲きこぼれる野やぶどう畑の丘である。それも春のとてつもなく明るい大自然の中なのだ。
 花嫁は歌う。「雨はやんでもう去った。大地に花が咲き乱れ、歌の季節がやってきて、山鳩の鳴き声がわたしたちの国中に聞こえる。いちじくの木は初なりの実をつけ、花を咲かせたぶどうの木は香りを放つ。わたしの愛する人よ、美しい人よ、さあ、立って出ておいで。」(2:11-13) まさに春爛漫の大自然の中で二人は心をときめかせ、愛を交わす。かつてイスラエルでキブツに泊まったとき、私も山鳩の声で目が覚めたのを思い出す。春だった。そういう春が背景だからこそ、私は雅歌の感想には今が一番むいていると書いたのだ。 

 花嫁と花婿はありとあらゆる比喩をふんだんに使って、恋する相手がいかに美しく愛おしいかを言いかつ歌う。比喩に出てくるのは、シャロンの水仙、谷間の白百合、サフラン、ザクロ、ぶどうの花、なつめ、いちじく、サファイヤ、タルシュシュの宝石、金の環、アラバスタ、象牙の塔、乳香、没薬、ナルド、肉桂、酒、乳、蜂蜜、ぶどう酒、小鳩、小鹿、カモシカ、雌羊、城壁、ダビデの塔、湧き出る井戸、レバノンから流れ下る清流等、当時の彼らにとってどれも好もしく素晴らしいと思われていた花、植物、宝石、動物、香料、建造物、自然などだ。もっとも、知らない言葉が夥しく出るので、外国人は原典を読むのに苦労する。
 全8章はいわゆるストーリーらしいストーリーにはなっていないが、愛し合う二人が共にいる場面から花嫁が花婿を待ち、探し回る場面に変わり、見つけると愛の言葉を交わし合う。だが、今度は花婿が花嫁を訪ねる。それは「開けておくれ。わたしの妹、わたしの愛する人よ。私の小鳩、わたしの汚れない人よ。わたしの頭は露に濡れ、わたしの髪の毛も夜露に濡れている」という言葉でわかる。ところが、彼女が戸を開けると花婿は踵を返して去ってしまう。彼女は気を失うが、気が付いて愛する人を探すが見つからない。話の筋は互いが隠れ、探し、追いかけ、見つけ、求め合う動きになっている。
 そして、最終章は二人が出会って愛し合う場面になる。花嫁は言う。「わたしは、リンゴの木の下で、あなたの目を覚まさせました。そこは、あなたの母が身籠った所、そこは、あなたを産んだ方が身籠った所。わたしを、印章のように、あなたの胸に、印章のように、あなたの腕につけていてください。」花婿の母がしたことを今自分がしているという表現は、人間が続けてきた生の営みの神秘を実に見事にかつ赤裸々に表現している。
 もしも聖書が神聖な書だというのなら、雅歌は全然聖書らしくない。そもそも雅歌には「神」という言葉が一度も出て来ないのだ。当然神の啓示もない。そればかりか、旧約聖書特有の「救い」「罪」「反逆」「殺戮」等の言葉も皆無だ。溢れんばかりに繰り返されるのは二人の愛の言葉ばかりで、それも精神的な愛ではなく、なまめかしい愛そのものである。それなのに不純さを感じさせず、どこか気品が漂ってすがすがしいのは不思議だ。それが聖書に入れられている所以だろうか。私はそこには神の教えではなく、美しくも情感豊かな人間の賛歌を感じる。雅歌はそう読めばいいのではないかと思う。なまじっか神秘的に解釈すべきではなかろう。そもそも旧約聖書は神の言葉を含む書だとは言え、人間の書でもある。これは私が旧約原典通読で得た結論の一つだが、特に雅歌はそれが当てはまる。

 この書にはとても記憶に残ることばがある。例えば次のようなものだ。
「わたしの愛する人を目覚めさせるな。揺り起こすな。彼女がそうしたいと思う時まで。」(2:7、3:5)花婿のリフレインだ。
ところが花嫁は言う。「わたしは眠っていましたが、心は目覚めていました。」(5:2)
 ふふふと笑えるのは、花婿が花嫁の容姿をたたえる次の比喩だ。
「あなたの臍は、混ぜ合わせたぶどう酒を、いつもたたえている丸い杯。あなたの腹は、ゆりの花で囲まれた小麦の山。」(7:3)現代では女性の姿の美しさを褒めるときにへそだとか腹だとかに視線を当てない。この当時の男だからこそこんな賞賛の仕方をしたのだろう。でもそれはお臍やお腹を見ていたから称えたのだろう。その直截さが可笑しい。そして、最後に思う。こんな愛の詩が歌えたのも、平和に生きられていられたからこそであろう、と。
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プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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