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一つの偉業

 今日、わたしは偉業を一つ成し遂げた。もっとも、それは自分にとってだけの偉業に過ぎないが、旧約聖書原典を1頁から最終頁まで通読し終わったのだ。達成感がある。日本語はもちろん、フランス語、スペイン語でも全聖書通読はしているが、ヘブライ語の原典で読み通すことは正直のところ初めは疑問符つきだった。それでも始めたのは2012年7月30日。私のマソラ本聖書は1362ページあるが、章にすると全部で924章だ。ならば私の語学力でも一日一章平均のペースで進めば、3年で読み終えることができるだろうと予想して始めた。そんな試みを思いついたのは、旧約聖書を原典で徹底的に確認しなおすと同時に、ボケ防止も兼ねる目的があったからだ。しかし、実際は予想よりも3か月早く達成できた。
 振り返ってみると、レビ記の途中では投げ出したくなったことがあった。イザヤ書とヨブ記でも難しくて、挫けそうになったことがある。日本語でさえあまり使わない言葉や表現が頻繁に現れ、根気が尽きかけたからだ。しかし、それは手を貸す運動が一度消滅し、数々の苦悩に見舞われていた時期でもあったから、この通読は私の気力を鍛えてもくれた。そして、読み進むうちにヘブライ語にもすっかり慣れ、エズラ記以後は読むスピードが加速した。知っている語彙が増し、辞書の世話になる回数が減って行ったからだろう。私にはこの年でもまだ多少進歩の余地があったわけだ。ありがたいと思う。
 しかし、通読しただけではいけないので、ヨブ記以後の書のコメントはまだだったから、近いうちに書くつもりだ。ちなみに、旧約聖書原典通読のメモは大学ノート16冊になった。それには知らなかった語彙、感動した言葉、記録に値する事柄などを書き留めた。もう先もそう長くはないはずの年だから、2度目の通読ができるかどうかはわからないが、もしそうすることがあったら、その時に役立つだろうと考え丹念に記録してきた。そのノートを見ながらコメントするのは楽しい反芻だ。

 
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復活祭2015の感想

 今日は2015年の復活祭だ。「だった」といった方がよいかも知れない。もうその日の夜だからだ。福音書の中では、復活された主イエス・キリスト様が部屋の戸が閉まっていたのに、弟子たちに出現されて彼らを驚かせ、次に彼らを言いようのない喜びに満たした時間でもある。
 いつもと同じカトリック町田教会の10時半のミサにあずかったが、やはり普段と違って聖堂内は信者で満杯であった。復活祭だからだ。復活祭とクリスマスにしか来ない信者は不届きだなどと責めることはない。復活祭だけにでも来ればよく来たと迎えるべきなのだ。復活祭に大勢が来るのは、クリスマスのようなムードに浸りたいからではないだろう。それは復活祭が、信仰とは何か、いったいキリスト者は何を信じているのかを一番省察させる祝日だからではなかろうか。
 信仰とは何か?私たちキリスト者が本当に信じているのは何か?今年のカトリック新聞4月5日号の一面で山本 眞神父様の「今信じる」という文はこの問いに非常によく答えている。曰く。信者が信ずべきなのは教義体系でもなければさまざまな宗教的規定でも習慣でもない。「イエスが復活され、今、生きておられるということ。そのイエスによって私たちは生かされているということ。それを私たちは信じている」単純な事実なのだと。そして、「いろんなことを知りすぎたわたしたちは、皮肉なことに神から遠ざかってしまっている。神を遠ざけてしまっている。…ごくごく単純な真理である『主が、今、共に生きて』くださっていることが見えなくなっている。これだけでいいのに。これに気づきさえすればいいのに」とも。
 その通りだと私も思う。だが、信ずべきことはそれよりももっと単純だと私には思えてならない。「神は愛だ」と信じること、これである。もしも神が愛でなかったら、救いの歴史など何も起こっていなかったはずだ。それどころか、人間の存在は恐怖の中に置かれていたことだろう。しかし、実際はその正反対だった。神は私たちを愛してくださったのだ。だから、救いの歴史が実現した。イエス・キリスト様の死と復活もその文脈の中でこそ理解ができる。
 そして、神は今も私たちを愛してくださっている。神は愛である。従って、キリスト者が信ずべき究極の信仰は、それを最も単純に言うとすれば、「神が愛であることを信じる」ということに尽きる。神は人類を愛されたからこそ、独り子を救い主として送ってくださり、その独り子イエス・キリスト様は私たちのために十字架で苦しみを受けて死なれ、復活された。そして、今、私たちと共におられるのだ。今日のミサでは復活の神秘の根源が神の愛にあることをもう一度思った。

 日中のミサで読まれた第一朗読は使徒言行録10章34~43節だった。使徒ペトロがカイザリアで百人隊長コルネリウス家の人々に話したケリグマティックな説教の典型だが、これほど簡潔かつ見事に、主イエス・キリスト様の福音宣教生活および死と復活の神秘を証言した要約は他にあるまい。その簡潔さに私はその証言の信ぴょう性見る思いがする。
 第二朗読は使徒パウロのコロサイの教会への手紙3章1~4節だった。それはキリスト様の復活が福音の根幹であることを力強く述べている。私があらためて注目したのは「そこ(上)では、キリストが神の右の座についておられます」という表現だった。それは信仰箇条に入っている。これを見ると、使徒パウロの手紙は単なる手紙ではなく、新約の教えそのものだったことがわかる。神には位置としての右も左もないのだが、右に座すとは父なる神と相並ぶ権能を持つという聖書的な表現である。それは主イエス・キリストが人であると同時に神でもあることを意味し、使徒たちが健在の頃からすでに、復活し昇天された主に対する当然の信仰となっていたことを示している。
 福音は毎年のことだがヨハネの福音書20章1~9節だった。そこには復活の朝のできごとがどの福音書よりも生き生きと描かれている。実際の体験者でなければとうてい語れない内容である。だが、この章節についてはもう何回も書いたことがあるのでここでは繰り返さないことにする。
 ミサ後のパーティには非常に多くの人たちが参加した。こんなに和気あいあいと信者が共に喜びを分かち合えるのはなんとは幸せなことだろうか。カトリック町田教会はすばらしい共同体だ。この雰囲気がいつまでも続くことを願ってやまない。

 今日は午前中にローマのシスター・Gにメールを書き、運動ニュース6,7号を添付で送った。そして、ミサから帰宅した後は、S神父様、友人のMさん、知人のFさん、Hさんにご復活祭を祝うメールを書いた。そして、そのいくつかには次の言葉を入れた。それが私の御復活祭2015の実感だったからだ。
Surrexit Christus spes mea, praecedet suos in Galileam,
Schimus Christum surexisse a mortuis vere, tu nobis, victor Rex, miserere. Amen. Alleluia.
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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