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おだやかな春を迎えて

 福寿草は咲き終わり、今は春黄金花と言われるサンシュユの黄色い花、沈丁花とヒマラヤ雪ノ下のピンクの花が咲き、見上げれば白梅が咲いていて、小さなわが家の庭にも春が来たことを実感させる。まもなくボケが一斉に咲き、ムスカリがお伽の国の万灯のような花穂を見せ、マンサクは線香花火のような花を咲かせるだろう。百花繚乱になる前の早春である。この季節は実にいい。それに今年は心も穏やかでいられる。おだやかな春だ。 
 しかし、人の世は今どちらかと言えば荒れ気味で何となく不安を感じさせる。中東では一か月ほど前イスラム国によって邦人の二人が殺害され、ヨーロッパでは数か国でテロが多発した。日本国内では少年や少女や幼児の殺害事件が頻繁に起き、政権は集団的自衛権をもう当たり前のようにして軍事力の行使拡大を画策し、3・11の衝撃を忘却したかのように原発の再稼働を増やそうとしている。世界でも身近な社会でも、何か異変が進行しつつあるようで不吉な感じが漂う。戦後70年である。変化は致し方ないのかも知れないが、この持続した平和は守りたいものだ。

 にもかかわらず、今年の春は私にとって実におだやかだ。一昨年は信じていた人に裏切られたので最悪の春の一つであった。昨年は手を貸す運動Ⅱは再スタートさせられたが、地の星で辛い問題に悩まされていたので、やはり心の晴れない春であった。それらに比べると、今年は肩の荷も軽くなり、悩みも少ない。小粒にはなったが手を貸す運動は順調で、多少なりとも神の国の福音に役立っていると思われる。だから久々に心穏やかな春なのだ。
 イスラム世界や中国が原因となっている世界の地盤変動や動向が気になる?溶岩流は止めようがないように、それは個人にはどうにもならない動きだ。私が悩むことではない。日本の未来が心配だと?私は自分の時代を駆け抜けてきた。後のことは後の人たちに任せる。老人が心配しても致し方あるまい。あれもこれも私が思い煩うことではないと思うこの頃だ。大事なのはむしろ自分の信仰を真剣に再検討し、残りの日々を個人としてどう生きるかにあろう。

 そのために、ボケ防止も兼ねて2年半前から始めたのが旧約聖書原典の通読だが、最初はなかなか進めなかった。だが、ずっとやっていればこの年でも進歩はあることが最近わかった。そのことをわが人生の一里程標として、ちょっと書いておこう。これまでの通読で、嫌気がささないよう忍耐が要ったのは箴言の書、一番難しく感じ、時間がかかったのはヨブ記だった。だが、そのヨブ記も今年2月6日に読了した。
 ところが、それからは読むスピードが増して、ちょうど一か月の間に雅歌、ルト記、哀歌、コヘレト、エステル記、ダニエル書、エズラ書の7書を一気に読了できた。特にルト記やエステル記のような物語的な書はつかえずに読めた。その主因は辞書のお世話になることが減ったからだと思う。それは知らず知らずのうちにヘブライ語の読書力も進歩があったことを意味し、自信になった。私はこの経験から、老境の人たちには何か知的な挑戦をすることを勧めたいと思っている。知的老化を避けることが可能だし、進歩がなくても退歩しない希望が持てるからだ。

 ついでだから、読了した上記7書について、思いつくままの感想を少しばかり述べておこう。
 教会のかつての書物では、雅歌は神と人との愛を象徴して歌ったものだという解説が多かった。だが率直に言って、これはどう読んでも若い男女の恋愛詩以外の何物でもないと思う。もちろん気品も香りもある。が、きわどい表現もある。なぜこのような書が聖書の一部なのだろうか?それは聖書を聖なる書ときめつけて見るから出る疑問だと思う。イスラエル人は聖書をセフェル(本)と言う。つまり、最も大事な本だが、本は本であって、内容も全部を「聖」とはしていないのだ。この本は彼らの信仰と歴史文化遺産に他ならない。そう考えれば、彼らの信仰や生き方が記録されている本だから、雅歌のような書が所収されていても何らおかしくない。そう納得できる。
 ルト記は短いが興味深い。イエス様の人間的な先祖を遡るとダビデ王に至るが、彼の曾祖母はルトというモアブ人だった。ルト記はその女性の物語だが、ダビデ王の家系、つまりイエス様には実はその血が流れていたのだ。彼女の落ち穂拾いはレビ記(19;9)や申命記(24;19)と関連している。それは律法で命じられていた「貧しい人の取り分」だった。その2点が注目に値する。
 哀歌はエレミヤの嘆きと言われてきたが、イスラエルが滅亡し、ユダ族が捕囚となったのは神への背反の罪ゆえであることを繰り返し述べる。打ち捨てられて自己の罪に気付いた者の呻吟である。それは申命記の教えと預言者たちの告発に呼応している。
 コヘレトは見事な書だ。その発想と考察の切り口の斬新さは多くの人に影響を与えた。「空の空なるかな、すべて空なり」とか、「天の下に新しきものなし」とか「すべてに時がある」などの名句は人口に膾炙してきた。般若心経と共通する思想的雰囲気がある。しかし、今回原典で読んでみたら、5章以後は箴言的で、あまり面白くないと思った。そして、最終章では少し失望した。ちなみにその最終章12章1節を小原國芳先生は「汝の若き日に汝の創造主を覚えよ」という訳で教え、青少年期の宗教教育の大切さを教えられた。フランシスコ会訳は「お前の青春の日々に、お前の造り主を心に刻め」と訳しているが、ただ、コヘレトは人がやがて悩みや空しさの年代になってしまうから、若いうちに学べと物憂い理由でそう書いたようで、小原先生の意図とは違った。
 エステル記はペルシャ帝国時代のユダヤ人捕囚の様子がわかり、物語としては大変面白い。しかし、迫害されていた立場から一転勝者になると、政敵とその一族を皆殺しにしてしまう叙述がある。ところが、そのことで神に感謝し、神を讃えている。私はその神経に非常に違和感を覚えた。まるで今イスラム国の連中がやっている野蛮非道な所業と同じではないか。なのに、そういう行為を当然とし、是認しているところに旧約聖書の大きな不完全さ、または瑕疵があると思った。
 ダニエル書も異邦の人々の間にあったユダヤ人捕囚の生き様を教える。物語も史実の背景があって、ペルシャ時代の中近東古代史に触れられるから興味深い。ただ、この書の3章~7章はアラマイ語で書かれている。ヘブライ語とはおそらく沖縄弁と東京弁の違いぐらいなのだろうが、文字は同じでもやはりよくはわからないので、該当の章は仏語とラテン語で読んだ。なおユダヤ人の使うマソラ本では、ダニエル書は12章までしかない。キリスト教の聖書とはだいぶ違う。
 エズラ書はユダヤ人が捕囚からユダヤに帰還して、エルサレムの再建にとりかかる記録だ。それは彼らにとって第二のエクソドスだったに違いない。そこには出エジプトを記録した民数記との対比がある。ただし、出バビロンはスケールがずっと小さくなっている。出エジプトの時は20歳以上の男だけでも60万3千余人と記録されている(レビ1;46)が、エズラ書ではたったの4万2千余人(エズラ2;64)だけだ。しかし、ここには「残りの者」の概念がある。救われて残った者たちのことだ。だから少なくて当たり前なのだ。「招かれた者は多いが、救われる者は少ない。」エズラ書も4章~7章はアラマイ語だ。この書を読むと、レビ族が大きな影響力を持ち出したことが感じられる。エズラは司祭であった。王は不在で、王族だったユダ族や他の部族はずっと影が薄い。

 手を貸す運動Ⅱやその他のことをしながら、個人的にやるべきことを持てていることは幸いだと思っている。旧約聖書原典通読はあと4か月で終わるだろう。ヘブライ語のマソら聖書はキリスト教の聖書と順序が大いに違い、エズラ書の後はネヘミヤ書と歴代史上下の3巻しかないからだ。すでにネヘミヤ書の通読に入っているが、あと約120頁ほどだから、毎日1頁平均で読み進めば、7月には全旧約聖書原典読了となるだろう。ではその後は?次にやるべき知的挑戦はもう決まっている。やるべき事にはこと欠かない。気力もまだ十分ある。

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プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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