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ヨブ記を原典で読み終えて

 昨年の今頃は旧約聖書原典の通読ではエゼキエル預言書を読んでいた。そして、T会が雇った弁護士とのやりとりや地の星で続いていた問題などで、私は精神的に疲れ切っていた。しかし、今年は大いに違う。旧約聖書原典通読は昨日ヨブ記を読了し、雅歌に入った。ずいぶん進んだものだ。T会とのことは片付き、地の星での肩の荷も降ろさせてもらったので、心の空には曇りがなく、気持ちはずっと楽になっている。残るは手を貸す運動Ⅱだけだが、これは順調にいっているから励みになり、充実感がある。健康にもまだ問題はなさそうだし、あとは人の毀誉褒貶を気にせず、欲を出さず、与えられたタラントンを支援活動に淡々と誠実に活かせばいいのだ、と独語している。

 ところで、ヨブ記だが、昨年12月24日に読み始めて、今年2月6日に読み終わったから、44日かかったことになる。しかし、この間には降誕祭があり、年末の仕事があり、正月の三ケ日があり、地の星の会議や手を貸す運動ニュースの編集・発送作業等もあったので、まったく読めない日もかなりあった。それらを計算に入れれば、ヨブ記は42章だから、平均一日一章のペースで読めたことは確かだ。
 それにしても、よく読み通せたものだと我ながら思わないでもない。なぜなら、この書のヘブライ語は今までで一番難解だった上に、意味がはっきりしない語や句が非常に多いからだ。おそらく写本段階で誤りが入ったのではないかと推察するが、一つの語を理解するためだけに20分も30分もかかったことが何回もあった。どうしても理解不能で、スキップした句節もある。20章ぐらいまで到達した時だったが、もうギブアップして次の書に移ろうかなと思ったこともあった。でも、続けてよかった。苦労したからこそ、「やったぞ!」という達成感がある。

 ところで、どの書もそうしているが、ヨブ記でも読みながらフランス語で克明にノートをとってきたから、いつかその比較研究を書きたいとは思うが、今日は時間がない。したがって、ここでは一つだけ感想を書くにとどめようと思う。その感想とは、この書の最後の方に出てくる「神の言葉」についてだ。
 東日本大震災の直後、私は聖母の騎士誌に、「もしヨブが今ここにいたら」という考察シリーズを書いた。その時、ヨブ記をもういちど丹念に読み返して(その時は日本語訳だったが)、ヨブの問いはすごいと感動を新たにしたが、その解決は不完全で弱いと思った。いや、弱いだけではない。問題に答えていない、ごまかしていると感じた。しかし、今回原典でもっと丹念に読んでみて、いや、ごまかしているのではなく、ヨブ記作者には本当の答えが見つかっていなかったのだと確信した。
 ヨブの問いに対する答えは、35~37章にあるエリフの言説と38~42章にある「神の言葉」、そして42章のヨブの言葉の中にある。特に38~42章にある「神の言葉」は鍵だと言ってよいと思う。ところが、その肝心の「神の言葉」が、とても本当に神の言葉だとは思えないのだ。ヨブ記は見事な宗教文学だ。傑作である。しかし、一番格調高く崇高であるべき部分のこの大事な38~42章こそ、まさにヨブ記の最大のウイークポイントだと、私は今回の原典通読で結論せざるを得なかった。
 私がカギ括弧付きで「神の言葉」と書いたのはそのためだ。すなわち、これは本当の神の言葉ではない。これはヨブ記作者が「神の口を通して語らせて書いた」ヨブ記作者の言葉に過ぎない、ということを意味する。聖書に神の言葉だと書いてあるのに、それを否定するとはとんでもないと憤る人がいるかもしれない。しかし、私はそういう結論に達した。もしも私の結論に疑問を抱く人がいるなら、その人はその章節を読んでみるといい。そうすれば、たしかにそうだとわかるだろう。
 そこに語られる「神の言葉」は、人間がいかに無知で、真実を知らないかを証明するために語られている。 ところが、読んでみるとがっかりさせられるのだ。「神が語るその真実」とは、「大地や海がどうなっているか」、「光や自然現象がどうなっているか」、「天の星座がどうなっており、どう動いているか」、ヨブを含めた人間がそれらについていかに知らないかを縷々述べるにある。
 その論理は、「人間は自然界のことすらよく知っていない。それなのに神の奥深いご意思を知ることなどできるであろうか。できっこない。それをとやかく抗議するとは何事か。おこがましいにもほどがある。神の思いは人知を超え、そのご計画ははかりがたい。だから、神が人を愛してくださっていること、試練を与えても最後は善に至らせようと導いてくださることを信じて、神が与えてくださる現実を受け入れよ」というにある。それはわかる。しかし、それを証明するために「神の口から」語られるその大地や宇宙の真実は当時の世界観に過ぎないのだ。現代ではもう通用しないそういう知識を果たして神が語ったであろうか?真に神が語られたのなら、もっと説得力のある真理が話せたはずだと思う。だがそれがない。
 そして、もっと次元が低くなるのは動物たちについての叙述だ。登場するのは山羊、野ロバ、野牛、ダチョウ、馬、鷹と鷲、カバ、ワニだが、それらについてたくさんの形容詞と比喩を使った叙述が続く。しかし、そんな話題を延々と語って何になるだろうか?神がそんな陳腐な話をするだろうか?神はそんなに饒舌なのだろうか。私は否だと思う。だから、私はそれらが本当の神の言葉ではなく、ヨブ記作者の知識に他ならないだろうと見るのだ。しかし、それがヨブ記作者の深い信仰から出た言葉であることは間違いない。その信仰の視線の先には彼が最後に到達した神理解による神の姿がある。
 いずれにせよ、これは預言書ではない。その38~41章に出てくる神の言葉が、真に神の言葉ではなかったとしても、それでヨブ記の価値が下がるわけではない。これほど深く人間の苦悩を描いた書があろうか。それも今から2千数百年前だ。それだけでも価値がある。この書は善人が不幸で苦しみ、悪人が恵まれて富み栄えるのはなぜだ。なぜ神はそんな不条理を許しておかれるのだと呻吟して、大胆にも神に向かって議論を挑んだ。釈迦牟尼仏が、なぜ生病老死の四苦があるのかと問い、解脱を求めたのと似ている。この書には不滅の価値がある。しかし、その価値は答えにあるのではなく、問いにあるのだと思う。それが私のヨブ記評だ。
 ところで、その深刻かつ切実な問いに100%対応する答えは、ヨブ記の中でも全旧約聖書を通しても与えられなかった。だがやがて新約の実現によって与えられることになる。そして、それを与えてくださったのが、まさに救い主イエス・キリスト様だったのだ。だからそれは真の福音と言われる。ここに旧約と新約のつながりがある。In Vetu Novum latet, in Novo Vetus patet.(旧約の中には新約が潜み、新約の中には旧約が表に出る)
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プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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