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天使のお告げ

 待降節第4主日の福音はルカ1;26-38であった。天使ガブリエルによる聖マリアの受胎のお告げの箇所だ。思い出せば、洗礼に至る前、そんなことがあり得るものかと疑って、躓いていた教えの一つがこのお告げのことであった。しかし、聖母が「神にはできないことは何一つない」と言った天使の言葉によって、お告げの神秘の理解しがたさ乗り越えられたように、私もその同じ言葉でつまずきとなっていたすべての障害を乗り越えることができた。
 ところで、天使ガブリエルは聖マリアの前に現れた時、「おめでとう」と挨拶したとある。もちろん和訳だが、かつて文語ラゲ訳新約聖書は「慶たし(めでたし)」と訳していた。懐妊だから、おめでとうとかめでたいと訳したのは悪くない。しかし、その挨拶は本当はどう言われ、どういう意味だったのだろうか?
 私たちが慣れ親しんでいるのはラテン語訳「アヴェ・マリア」のアヴェだ。これはどういう意味かと言うと、元はラテン語の動詞Aveo(喜ぶ)で、その単数命令形なのだ。従って、「喜べ」ということだ。これは原典ギリシャ語に忠実な訳だと言える。なぜなら、ギリシャ語ではKhairo(喜ぶ)の命令形Khaireだからだ。なぜ「喜べ」と言ったのかというと、マリアは神の恵みを得て救い主の母となるからだったと読める。それに照らすと、フランス語のJe vous salue(あなたに挨拶します)は原典をそれほどよく反映している訳とは言えない。喜べと言う意味が薄いからだ。英語のHailも同じだと言えよう。それに比べ、日本語の方が原典に近いようだ。だが、天使はギリシャ語を話したわけではなく、聖マリアもギリシャ語が分かったわけではない。だから、原典がギリシャ語だからと言って、それを基準にあれこれ言っても、その訳が本当に妥当かどうかは評価できない。
 では、本当はどうだったのだろうか?聖マリアはその時ガリラヤのナザレト村に住んでおられた。ところで、当時そのあたりで使われていた言葉はアラマイ語だったと言われる。しかし、聖マリアはダビデの家計であり、本籍はユダヤにあった。親戚もそこに多く、従妹のエリザベトもその一人だった。イスラエルの3大祭にはエルサレムに巡礼で上ってもいた。従って、マリア様は日常ではアラマイ語を話しておられただろうが、ユダヤやガリラヤの公式言語であったヘブライ語はもちろん話せて、ユダヤに行ったときはヘブライ語を話しておいでだったはずだ。たとえば、従妹エリザベトとの会話はヘブライ語だっただろう。それに、ヘブライ語とアラマイ語は似ているから、両方話すのは苦もなくできたことだろうと思われる。そう考えると、天使ガブリエルも当然ヘブライ語を使ったのではなかろうか。それなら、聖マリアも天使から言われた言葉がよく理解できたはずだ。もし天使がギリシャ語で挨拶していたら何もわからなかっただろうが…
 では、「おめでとう」と訳された天使の挨拶はヘブライ語だったらどうだったのだろうか?そう思ってヘブライ語訳を読んでみたら、(面倒なのでローマ字表記するが)、それは"Shalom lak"と訳されている。まずLakだが、それは"to you"「あなたに」の意味の単数女性形だ。アラマイ語を見ると"Salam leki"と訳してある。アラマイ語を知らない私でも、ヘブライ語とよく似ているから対置すると意味はすぐわかる。次に“シャローム”だが、この一語は実に含蓄に富んでいて、「こんにちは」「さよなら」「お元気ですか」「ごきげんいかがですか」「ようこそ」「よろしく」などから、「平和を」「安息を」「ご健康を」などの意味に至るまで多くの内容を包含する。主イエス様が御復活なさった夜、弟子たちに現れてと言われたのもシャロームだ。「あなた方に平安」(シャローム・アレイヘム)と言われた。大天使ガブリエルも乙女マリアにシャロームと言った。シャローム・ラク(あなたにシャローム)と。これがおそらくもともとの挨拶だったのだ。
 では、天使はその時どんな意味をこめて「シャローム・ラク」と言ったのだろうか?単なる「こんにちは」だったのか、それとも深い意味をこめてそう言ったのだろうか?おそらくシャロームが含む「こんにちは」「ごきげんいかがですか」「ごあいさつします」「平安を」などの意味が全部含まれていたのだろうと推察できる。それに「ご心配は要りません。安心して」というニュアンスもあったのではなかろうか。この言葉には、聖マリアを安心させようとした天使の気遣いが感じられるからだ。しかし同時に、この一語にはそれを聞くだけでこれは良い知らせなんだと直感させる響きがあった。そして、事実その通りだったのだ。シャロームに続いて天使が告げたのは Meleat khen(あなたは恩寵に満たされています)という言葉だったからだ。ギリシャ語原典はそれをKekharitomeneと表現している。本来ならこちらが訳だったはずなのだが、いずれにせよ、それがギリシャ語やラテン語における「よろこべ」の理由になっている。ところが、ヘブライ語のシャロームはそういう理由を必要としておらず、どちらかというと、「ごあいさつします。良い知らせを持ってきました。驚かないで落ち着いて聞いてください」という感じだ。これが本来だったとすると、今度は一転、むしろフランス語のJe vous salue の方が実際に合致していると言えなくもない。
  Meleat khen(あなたは恩寵に満たされています)の後で言われたことはさらに驚天動地の告知であった。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」と言ったのだ。一人のつつましい乙女にとって、それは驚愕を超えた知らせであったに違いない。それは理解不能な、恐ろしくもある事態だったはずだ。マリア様が「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と疑問を口にし、受け入れを否定しかかったのも無理からぬことであった。しかし、その後どうなったかは福音書の書き残した通りである。
 私たちが教会で使っているアヴェ・マリアの祈りは、ルカによる福音書が記述したままではない。それはこの福音書の伝えと教会の伝統的信仰とが作り上げた合作だと言ってよい。アヴェ・マリアの祈りは「おめでとう、マリア」で始まる。しかし、福音書にはそうは書かれておらず、「おめでとう、恩寵満ち満てる方」と書かれている。それなのに「おめでとう、マリア」と変えたのは、聖書自身によって、この「恵まれた方」は聖マリアのことであることが明瞭だったからだ。だからマリア様への崇敬をこめて、教会はこの祈りの冒頭に、「アヴェ・マリア」とマリアの名前を入れた。
 この祈りの「あなたは女のうちで祝福され、ご胎内の御子イエスも祝福されています」は、天使の言葉ではなく、従妹エリザベトがマリア様の訪問を受けた時に、神の御業を讃えて言ったことばだ。そして、この祈りの後半にあたる「神の母、聖マリア、私たち罪人のために、今も死を迎える時もお祈りください」は、聖母に絶大の信頼を置く2千年来の伝統的信仰が凝縮された、教会のことばである。この祈りがロザリオの祈りをはじめ、信者たちの大いなる拠り所となってきたことは説明の必要がない。この祈りはまさに聖母マリアと私たち信者をつなぐ魂の絆なのである。
 ただ、少し断念なことがある。現代日本の教会のこの祈りの出だしを「アヴェ・マリア、恵みに満ちた方」と改定した。数年前のことだ。その前の改定よりはましになっているが、それでもまだ違和感がある。かつてこの祈りは「めでたし、聖寵満ち満てるマリア」と祈った。しかし、それをやめた上に、「ご胎内の」の表現も捨てた。ひどい削除だと思ったが、再度の改定で「ご胎内の」は復活した。それはよかったが、「めでたし」は捨てたままで、その代わりに「アヴェ・マリア…」とラテン語の祈りの出だしを採用してしまった。なぜそう変えたのかというと、「めでたし」では通夜の時に変だとか、いろいろ反対があったからしい。
 しかし、いくら慣れ親しんでいるとはいえ、アヴェ・マリアとはラテン語だ。私はラテン語が自由に読めるし、この言語が嫌いではない。しかし、原典のギリシャ語でも、マリア様が実際に使った言葉でもないラテン語を、なぜ日本人が祈りで使わなければならないのかと、違和感を覚えずにはいられない。センスの問題もあるが、これではカトリック教会が欧米の輸入品であることを認めるようなものだ。アヴェ・マリアというくらいなら、むしろシャローム・マリア(ミリアム)と言った方がまだましではないだろうか。率直に言って、私は「めでたし」の方がよかったと思う。通夜の時でも「めでたし」で通せばいいではないか。信者の死なら、天の御国に行けるのだから、めでたいと言って何が悪い。信者でない人々に気兼ねして遠慮する必要があるだろうか。もし気兼ねせざるをえないというのなら、「めでたし」の祈りをしなければ済むことではないか。私はいつかアヴェ・マリアの祈りが元にもどることを期待する。
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蟷螂の鎌、ごまめの歯ぎしり

 昨日、衆議院議員選挙があった。その結果は何とも残念なことに、自公の大勝であった。がっかりした。安倍氏の顔がTVに現れるたびに、チャンネルを替えたい思いに駆られた。見たくない顔だ。私は自民党には投票しなかった。私の考えとは絶対に相容れない自主憲法制定を党是としている党だからだ。今回の選挙では、私はアベノミクスによる経済的な回復は評価していたが、戦後レジームの維持賛成、集団的自衛権には反対、原発ゼロに賛成、消費税10%に賛成、円安誘導に反対、沖縄の辺野古に基地を移すことには反対、県外移設賛成だから、自民党に投票できるわけがなかった。
 しかし、残念ながら私が投票した候補者は次点で落選してしまった。これで安倍政権があと4年間やりたい放題の政治をしていくのかと思うと実に腹立たしく、やりきれない。でも、民主主義のルールだから、選挙で決まった以上、今は致し方ない。我慢するしかないと自分に言い聞かせている。
 報道によれば、自民党の今回の総得票数は2009年に大敗したときの総得票数を下回るそうだ。その時の方が総得票数は多かったのに当選者は119名だったが、今回は総得票数で下回ったのに290名もの当選者を出せた。変な話だ。その原因の一つに、選挙に行っても何も変わらない、などという愚かな有権者たちが投票に行かなかったことがある。投票率は52%台だった。もし残りの48%中、半分でも投票に行っていたら、結果は大いに変わっていただろうに・・・そう思うと残念でならない。もう一つは、今の選挙制度にも問題がある。今の制度は有権者の意思が公平かつ十分に反映されにくいものだと思う。見直す必要がある。しかし、間接民主主義では見直すのは国会議員たちだから、今や多数派を確保してしまった党が自分たちに有利な制度を見直すわけがない。そこに問題がある。
 驕る平家は久しからず。いつまでも今のままだとは思わない。しかし、今圧倒的多数派を形成した安倍自民党が、勢いにまかせて憲法改正や原発の推進、戦前のような日本への回帰に拍車をかけないかと懸念する。それなのに、私ができることと言えば、牛に向かって蟷螂が鎌を振り上げ、ごまめが歯ぎしりするに等しい、こんな批判で対抗することぐらいだ。普通の個人の力とは情けないものだ。次回の選挙の時は、できれば今までの棄権者が大挙投票所に行ってほしいものだ。投票しても何にも変わらないというが、何にも変わらないのは棄権者が大勢いるからだ。彼らが変われば政治も変わる。選挙結果に衝撃を受け、思いつくままを吐露してみた。

待降節第3主日の福音自問自答

 今日は待降節第3主日、別名「喜びの主日」で、福音はヨハネ1;6-8, 19-28であった。教会でその朗読を聞いたとき、おやっと思った箇所が二つあった。一つは、祭司やレビ人たちが「あなたはどなたですか?」と言った質問に、洗礼者ヨハネが「わたしはメシアではない」と答えたことだ。彼等が「あなたはメシアですか?」と質問したのなら、その答えでいいが、質問は「あなたはどなたですか?」だった。「メシアですか?」とは聞いていない。それなのに、洗礼者ヨハネはなぜ「わたしはメシアではない」と答えたのだろうか?
 二つの解釈が考えられると思った。一つは、すでに「「あなたはメシアですか?」という質問が出ていたが、洗礼者ヨハネがすぐに答えなかったので、彼らが答えを催促するために「あなたはどなたですか?」と、前の質問にもう一つの質問をかぶせたのではないかという解釈だ。もしそうだったら、だから洗礼者ヨハネは前の質問に答えて「わたしはメシアではない」と答えたのだろうという推理が成り立つ。
 もう一つは次の解釈だ。「あなたはどなたですか?」という質問は、洗礼者ヨハネがメシアかどうか、彼らが知りたがっていたことを、ヨハネがもう察していたからだという解釈だ。はっきり「あなたはメシアですか?」と聞かれなくても、洗礼者ヨハネにはすでに民衆がひそひそ噂したり、祭司やレビ人たちもそういう耳打ちをしていたりしたのが聞こえていた可能性がある。だとすれば、「あなたはどなたですか?」という質問に、「「わたしはメシアではない」と答えたことは大いに考えられる。むしろこの方が当たっているかも知れない。 
 おやっと思った二つ目の箇所は、洗礼者ヨハネが彼らの「あなたはエリアですか」という質問にも「違う」と答えたとき、彼らが「あなたは、あの預言者なのですか」と聞いた質問だ。そこで思った。あの預言者とはいったい誰をさすのだろうか?と。説教者はそれに言及しなかったが、それはおそらく預言者モーシェのことだと思った。が、確信ではなかったので、帰宅して調べてみた。やはりそうであった。申命記18;17にはこう書いてある。
 「主はそのとき、わたしに言われた。『彼らの言うことはもっともである。わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立てて、その口にわたしのことばを授ける。』」と。神がモーシェに「あなたのような預言者を立てて」と言われたのだから、その預言者とはモーシェであることに間違いない。ちなみに、この場面に出てくるエリアと「あの預言者」即ちモーシェは、主が山上でご変容なさった時に現れた二人である。

 ところで、上記二点の自問自答はいわば重箱の隅をつつくような、枝葉末節の問題に過ぎない。それに対して、「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」という一節は、この章節における最も大事なメッセージだ。
 当時のヨルダン川の水辺にタイムスリップしたつもりで洗礼者ヨハネの言葉を聞いてみると、「あなたがた」とはそこに居合わせたユダヤ人やガリラヤの群衆のことになる。他方、「あなたがたの知らない方とは、ナザレトのイエス様のことであることを洗礼者ヨハネは知っていた。その方こそメシアであることも知っていた。でも、人々はまったく知らないどころか、想像すらできなかっただろう。ヨハネはイエス様がまだその場にはおられなかったので、そのような暗示的言い方をした。しかし、そういう言い方によって、彼は間もなく現れるメシアの存在を人々に予感させたのだ。彼らの心中に主の道を備えたのである。
 今の私たちは2000年前に起こったことを知っている。だから、「あなたがたの知らない方」とは誰かをも知っている。それはナザレトのイエス様であった。でも、私たちは本当に主がどんな方かを知っているだろか?そう開き直って問われると自信がゆらぐ。そして、もし本当に知っているとしたら、それにふさわしい態度を表明しているだろうか?と問われると、もっと返事をためらう。だが、そう自問し、悔い改めなくてはならない。待降節だからだ。さもないと、洗礼者ヨハネの洗礼を受けに行った群衆にも及ばないことになると思う。

絶対に忘れない記念日

 12月8日は私にとって忘れがたい日である。この日を太平洋戦争開戦日として思い出す人も少なくないだろう。私にもその記憶は鮮明に残っている。だがそれは私にとって重要ではない。その日が聖母マリアの無原罪の御宿りの祝日だから忘れない人もいる。カトリックの信者にとってはかなり大事なことだからだ。もちろん私にとってもである。しかし、私にとってこの日が絶対に忘れない日であるのは、それが洗礼を受けた日だからだ。今年で66年になる。
 洗礼とはカトリック信者にとって、神の子として新たに生まれることに他ならない。主イエス様がユダヤ人の長老ニコデモに「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われたのはそのことである。洗礼によって人は新たに生まれる。「あなた方は選ばれた民、王の系統をひく司祭、聖なる国民、神のものとなった民です」(一ペト2;9)とある通り、それは神の国の国籍を得ることを意味するのだ。今66年を振り返ると、洗礼の日以来私の人生にはいつどこでも神が共にいてくださったことを実感する。苦悩のどん底にいた時もそうであった。

 人は肉体として母親から生まれる時、自分で考え、自分で決心して、自分の意志で生まれるのではない。それでも蚊や蛆虫として生まれるのではなく、日本人という人間に生まれることは非常に幸いなことではある。しかし、赤子として生まれる時は、親を選べないし、生まれる国や境遇も選べない。100%受動的なのだ。ところが、洗礼はそこが全く違う。自分で考えに考え、決心して、自分の意志で、神の子として新たに生まれるか生まれないかを選べる。そこが肉体の出生と決定的に違うところだ。
 もう一つ決定的に違う点がある。生まれたものの意識だ。肉体の生を受けて生まれ出た赤子は、生まれた時は親兄弟が誰であるかをまったく知らない。乳を吸わせてくれるのが母であることすら認識していないだろう。父母や兄弟姉妹を知るのは何か月か後だ。しかし、洗礼によって生まれる者はそこがまったく違う。自分が新たに生まれる瞬間から、いやその前からさえ、誰が霊的に父であり母であるか、誰が兄弟姉妹であるか、自分がどんな存在として生まれるのかをはっきり認識している。むしろ生まれる前後の方が明確に意識しているとさえ言えよう。 
 とは言え、いくら熟考し、新たに生まれようとしても、自分だけでは神の子として生まれ出られないのも洗礼である。自分で自分を生むことができない点は肉体の出生と同じだ。洗礼では洗礼を授ける人がいる。しかし、洗礼授与者はしょせん神の道具に過ぎず、真に人を神の子として新たに生まれさせるのは父と子と聖霊にまします神ご自身である。生まれるのはカトリック教会においてだから、神の子となる信者の母は教会であり、父は神なのだ。だから、信者は教会を母なる教会と呼び、神には「天におられる私たちの父よ」と祈るのである。

 洗礼を受けた時、私は19歳だったが、その前の2,3年間は哲学書を夢中で読み漁ったものだった。私が探し求めていたのは人生の意味で、それを哲学に求めたのだ。未熟だったが私は考えた。生まれた以上、自分の人生が無意味であるはずはない。ただ生まれて意味もなく生き、意味もなく死んでいくのなら、なぜ生があるのか。今思い返すと、人生の意味探求は私にとって無意味への抵抗だったのだと思う。だが、哲学に答えはなかった。哲学は根本問題を問う。だが、必ずしもその問いに答えるものではない。答えても誤謬である場合が少なくない。
 私のその探求に最終的に答えてくれたのは主イエス・キリスト様の福音であった。福音は人の生きる意味をなっとくさせてくれた。それは畑に隠されていた宝のようであった。それを見つけた私は持っている物をすべて売り払ってその畑を買った。つまり、私の過去をすべて清算して、その畑の宝に当たる主の福音を信じたのだ。信じるということは目に見える証明があるからではない。イエス様の時代の人は奇跡を見て信じられただろうが、私たちは見ないで信じるしかない。それは一つの賭けだと思う。だが私は主の福音に賭けた。そして、その賭けで敗れることはないと確信している。
 確信しているばかりではない。主の福音を信じて生きる喜びを多くの人達と分かち合いたいと思っている。その思いは私の心の中から洗礼を受けた日以来一度も消えたことはない。66年間続いてきた熱い願いだ。その願いを心に保ちながら玉川で教え、ボーイスカウティングをし、知的障害者施設の手伝いをし、手を貸す運動をしてきた。多くの失敗をし、逆の結果も招いたが、主の福音の喜びと富を他者と分かち合いたい思いはずっと変わらない。
 今日はその思いを新たにする洗礼記念日であった。初心を思い出すために、今年も洗礼記念カードと私を洗礼に導いてくれた恩人Sさんの写真を飾って誓いを新たにした。あとどのくらいの年月が私に残されているのかはわからないが、手を貸す運動Ⅱは最後までやり遂げたい。これは私なりの福音宣教だからだ。洗礼記念日に記す宣言である。
Ebangelizare puperibus. Copiosa apud Eum redemptio.
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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