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「あなたの光で、わたしたちは光を見ます。」

 「あなたの光で、わたしたちは光を見ます」とは詩篇36:10のことばだ。これは本当のところ何を意味しているのだろうか?わかるようでわからないままだったから、それはずっと気になっていた。しかし、そこに2つの光があることだけははっきりしている。「あなたの光」とそれによって見えてくるもう一つの「光」だ。Bible de Jerusalemやフランシスコ会訳聖書の注解によれば、「あなたの光」とは「神のみ顏」を指すそうだから、神から出る光と言っていいだろう。では、もう一つの「光」は何なのか?自然界の光なのか?人生を照らす光なのか?それとも人生の明るい希望なのか?そこが何となくはっきりしないままだった。
春の野道
 にもかかわらず、この一節をカナダでのスケッチ「若草の土手」に添えて来た。それをスケッチしたケベック州エルマーの町にあった大神学院の農場には小川が流れていたし、農道の付近には春の光がいっぱいだったからだ。それにこの詩篇36:10のことばが気に入っていたからでもある。もちろんこの詩篇が詠う「光」は自然界の光を除外するものではないだろうが、それが示唆する「光」が自然界の光とは違う意味の光であることは間違いない。では、それはどんな光か?それをしばし考察してみる。

 この詩篇は、前半で悪人の邪悪な生き方、後半で正しい人を導く神の摂理を描いている。悪人と善人の対照だけでなく、前半の悪人の生き方が直接的な言葉で叙述され、後半の神の慈しみや恵みなどが自然界の事物・事象によって比喩的に表現されているのも対照的だ。比喩による表現は、例えば神の慈しみは天から(雨のように)降るもの、また、人が逃れる翼の陰、恵みが溢れる家、渇きを癒せる流れとしても描かれている。そして、神の真実は雲に達するほど高尚で、その恵みの業は山々のように多大、神の裁きは大いなる深淵に喩えられている。
 「光」の比喩が出て来るのはその後半の一節だ。「命の泉はみもとにあり、あなたの光で、わたしたちは光を見ます」と表現されている。従って、前後の文脈から考えると、「光を見ます」の「光」も何かを比喩的に表現していると解釈していいだろう。神のみもとにあると表現した「命の泉」も自然界の泉ではなく、自然界の泉によって比喩的に言い表した目に見えない「泉」だから、「光」もそれと同じく、目に見えない何らかの光を意味しているはずだ。
 おそらく、この詩篇の一節が「泉と光」の比喩で讃えようとしたのはやはり「神の慈しみ」で、それが聖書的な解釈なのだと思う。すなわち「神の慈しみは命の泉であり、それは神のみもとにある。神の慈しみはまた正しい人の歩みを照らす光であり、私たちは神の光によってこそ人の歩みを照らす光を理解することができる」という意味ではないかと思う。

 もっとも 「あなたの光で、わたしたちは光を見ます」とは私の訳で、れっきとした諸訳を見ると、訳によってニュアンスだけでなく、意味すらそれとは違って来て、必ずしも上述のような解釈に至るとは限らない。そこで、どの訳がベターか、ヘブライ語原典は本当のところは何と言っているのかを知らなくてはならなくなる。それを確かめるために、ここでいくつかの訳を比べてみよう。
 まずヘブライ語原典にはこう書いてある。(ちなみにヘブライ語は右から読む。)

"באורך נראה אור:" (発音: “beohrka nerueh ohr.”)

 翻訳で受け止め方が分れるのはヘブライ語の前置詞ב だろう。それは「~において、~のうちに、~によって、~で、~に、~の間」等の意味を持ち、英語やラテン語のinや仏語のenに相当する。だが、inやenが一筋縄ではいかない前置詞であるように、ヘブライ語のבも単純ではない。それをどういう意味に取るかで訳が分れ意味も違ってくる。
 では、諸言語ではどう訳されているか、手持ちの聖書で見てみる。

LXX: “έν τῷ φωτί σου ὀψόμεθα φῶς.” (*ギリシャ語七十人訳では詩篇35:10となっている)
Vulgata: “in lumine tuo videbimus lumen.”
仏語BJ.: “par ta lumière nous voyons la lumière.”
英語RSV: “in thy light we see light.” (*英訳RSVでは詩篇36:9となる)
独語Die Bibel: “in deinem Lichte schaun sie das Licht.”
スペイン語BJ: “y en tu luz vemos la luz.”
新共同訳:「あなたの光に、わたしたちは光を見る。」
フランシスコ会訳:「あなたの光のうちに、わたしたちは光を見ます。」
聖書協会訳:「われらはあなたの光によって光を見る。」
バルバロ訳:「あなたの光において、われらは、光を見る。」
 
 比較してみると、七十人訳、新ブルガタ訳、英訳、独訳、スペイン語訳はほぼ同じで、英語の “in”の意味に訳している。日本語なら、「~において、~のうちに、~に」に相当するから、新共同訳、フランシスコ会訳、バルバロ訳等はそのグループに入っていることになる。それに対して、仏訳BJは “par”と訳している。日本語の「~によって、~で」に相当するから、邦訳では聖書協会訳がそれに該当する。
 どれも正しいと言えるのだが、「~において」と「~によって」では意味が違って来てしまう。そして、新共同訳のように、「あなたの光に、わたしたちは光を見る」と訳すと、「神の光の中に光を見る」ということになるから、その光は神の光と重なってしまい、別な光ではないようにとれる。それでは実質的には神の光しかない。では、「わたしたちは見る」という光は結局神の光であって、神の光によって他の光を見るのではないのか?という疑問が生まれ、意味が曖昧になる。
 これに対し、聖書協会訳の「われらはあなたの光によって、光をみる」という訳は私の訳と同じで、これだと「神(あなた)の光のおかげで「光を見る」のだから、その光は神の光とは違うものだとわかる。ここには二つの光があることになる。
 そこで問うことになる。どちらがベターなのだろうか?と。私は仏訳と聖書協会訳をベターとする。理由はそれには豊かな意味の広がりが期待できるからだ。「あなたの光に、光を見ます」という訳では、神こそ真の光と讃えることで終わってしまう気がする。しかし、「あなたの光によって光を見ます」という訳なら、素晴らしい神の光と、そのおかげで見えてくる他の光があることがわかってくる。だから、私の関心は神の光のおかげで見える他の光に向く。そして、ではそれはどんな光なのだろうか?と問いが続き、豊かな未知の世界につながる。だからベターだと思うのだ。

 人生にはそういうことが現実に起こる。例えば、暗闇のような生き方をしていた者が、ある時友の一言がきっかけで心に神の光を感じ、これという目的があったわけでもないのに教会の門をくぐる。その結果、イエス様の福音を知るに至る。そして、その時から主の福音はその人にとって新しい人生の光となる。これは実際にあったことだ。その場合、この人は神の光によって、心を照らす福音の光を見るに至るのだから、「あなたの光によって、(福音の」光を見る」と言えるだろう。
 他の具体例もある。つい先日、社会福祉法人・地の星の広報に巻頭言を書いたが、その中でこれは「あなたの光によって、わたしたたちは光を見る」の例に気付いた。一つはマタイによる聖誕物語に触れた時だ。家畜小屋に誕生した赤子イエス様は、神のみことばなのに何も話せず、万物がそれによって創られた神の独り子なのに、無力そのものの嬰児として母の腕に抱かれていた。神の光に照らされて見なければ、どうしてそれが神の御子、ユダヤ人の王、人類の救い主であることなど信じられるだろうか。しかし、神の啓示という光によって、私たちはその赤子が暗がりの中で光を放さずに眠っていても、人類を照らす真の光であり、「光りよりの光」(二ケア・コンスタンチノープル信条)に他ならないと信じることができる。だから「神の(啓示の)光で、(赤子イエス様と言う)光を見る」一例と言えるのだ。
 もう一つの具体例は知的障害者と関連する。「知的障害児の父」と呼ばれた近江学園の故糸賀一雄氏は著書や講演で「知的障害児を世の光に」と訴えた。常識なら「この子らに世の光を」と思うところだろうが、その逆だった。「この子らに」ではなく、「この子らを」世の光にしようとしたのだ。では、どうして彼は知的障害児たちを光として見ることができたのか?彼の精神が神の光に照らされて、この子らが実は世の光なのだと理解したからだろう。つまり、「あなた(神)の光で、わたしたちは(知的障害児という)光を見ます」と言うことができるのだ。
 ただし、この場合は知的障害児たちが本当に世の光と言えるのか?という問いに、証明をもって答えられなければなるまい。ではそれに答えられるのかというと、私は答えられると思う。では、どういう意味で彼らは世の光だと言えるのかというと、光ならば人の蒙昧を照らすものでなければならないが、彼らの存在はそれに当たるからだ。
 世には「知的障害者など何の役にも立たない。なぜそんな者たちにお金をかけるのか。生きている価値もないのに」という考えの人々がいる。いや、事実上はそういう人たちが沈黙の多数派かも知れない。しかし、では同じように認知症の老人や働けない病人も役に立たないから、生きている価値のない人間かと問えば、家族の人たちや世論は、いやそんなことはないと猛反発するだろう。
 では人間の価値は何できまるのか?それを論議してつきつめていくと、人の価値は元気に働けるからとか有能だからとか美しいからとか優秀だからとかで決まるものではない。それらも価値があるには違いないが、人間にはだれにも基本的で共通の価値があり、それが基本的人権では誰もが平等だという根源的な結論にたどりつかせる。それを否定すれば、現代の民主主義的人間観は崩壊する。ところで、その思想のルーツを遡ると、「人は神の似姿に創造された。だから、人は能力、健常さ、性別、年齢、貧富、地位等にかかわりなく、だれもが等しく尊いのだという主の福音に行き着くだろう。
 そのように、知的障害者の存在はその思想に至るきっかけになる。いわば、蒙昧な人間観の闇にさす光となり、まともな人間尊重思想を発見させる光になるのだ。そこに「この子らに光を」ではなく、「この子らを世の光に」という主張の根拠がある。ところで、彼らがその思想に至らせる光なら、彼らの人間としての価値をわからせてくれるのはイエス・キリスト様の福音という神の光に他ならないから、これも「あなたの光で、わたしたちは光を見ます」という具体例になるのだ。
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シーランド神父様の講演を振り返って

 あっと思う間に、あれから早や10日が過ぎた。あれとは9月28日に開催した神言会員ジョン・シーランド神父様の講演のことだ。終わって2,3日は疲れが出て何もできず、その後は事後処理に追われたため、記録は今になった。だが、再始動した手を貸す運動にとって大いに記念すべき行事だったので、記録と発表だけはぜひしておかないといけないと思い、ここに少し書き残しておく。
 手を貸す運動Ⅱ主催のこの講演は4月の総会で、フィリピンの学校給食援助を新支援対象として決めると同時に発表し、6月頃から準備を進めてきた。講師はもちろん支援先の責任者シーランド神父様であり、場所はカトリック町田教会の大聖堂をお借りした。日時は9月28日(日)午後1時半からで、講演はDVDの説明も含めて約70分、演題は「フィリピンにおける私たちの教育支援と学校給食」であった。ここでいう「わたしたち」とはNPO法人RASA-Japanのことだ。

 その実現にあたり、手を貸す運動Ⅱのサーボランたちは長い準備期間も当日も実によく一致協力して動いた。私は代表として、講演の後、彼らの見事な働きを心からねぎらい、感謝し、誇りに思った。
 この計画を発表したときは、はたして実現するだろうか?実現するとしてもどの程度のものになるだろうか?もしも大きな聖堂の中に僅かな聴衆しかいない侘しい講演会になったとしたら、神父様に申し訳ないな、などと心配がなかったわけではない。しかし、失敗を恐れていたら何も出来ない。だから、神様の祝福を信じて準備を進めてきた。
 ところが、講演当日になってみたら、何と聖堂には大勢の人々の姿があった! 数えてくれた人によると、ほぼ90名近かったそうだ。主日のミサが終って2時間も待たなくてはならない午後1時半という時間帯だったから、おそらく信者さんの出席はあまり期待できないだろう。手を貸す運動の支援者と町田市近辺の一般市民も入れて、50名も来てくれれば上出来だろう、と私は思っていた。それなのに、そんなに聴衆が多かったことはちょっとした驚きだった。手を貸す運動の支援者の出席は期待したより少なかったが、町田教会の信者さん達は予想よりもずっと多く来てくださったのだ。

 神父様は故郷ペンシルバニアのことや神学校に入って司祭になるまでのいきさつ、なぜ、そしてどのようにしてフィリピンで学校建設や奨学金による教育援助をし、学校給食をしているか、それらのことをユーモアも交えてわかりやすく講演された。少し耳が遠くなった私には聞き取れない時もあったが、聴衆はメモを取るなどして、熱心に聞いていた。何よりもお人柄が好感を与えたようだ。しかし、講演内容は運動ニュース5号で取り上げるから、ここでは詳しく触れないでおく。 
 一言で総括すると、この講演は成功だった。大成功と言えば言い過ぎだろうが、少なくとも私の想定をはるかに超えていた。だから、私はそこに神の祝福を感じた。また人々からも手を貸す運動の試みが祝福されていたように思う。想像していたよりもずっと多くの人たちが来てくれたことがその証拠だ。特に、今まで一度も教会に入ったことのなかった一般の方々が来てくださったのは実に嬉しいことであった。 

 ところで、この講演はシーランド神父様の快諾、町田教会の理解、信者さんたちのコラボがあったおかげで実現したのだが、何よりもサーボランたちが周到に準備を重ね、当日は各自が誠実かつ臨機応変に、手際よくそれぞれの役割を果したからこそ成功したのだった。その連携と協力は見事だった。私はその経験が今後に役立つと思っている。
 この講演では一人の幼稚園女児Sちゃんが手作りのビーズ細工を教会玄関で売って、神父様に献金するという飛び入り貢献もあった。嬉しいハプニングだった。旧手を貸す運動でも、幼稚園児や小学生がお結び弁当やお年玉献金で支援に加わっていた。このSちゃん献金は私にそれを思い出させ、そういう動きが手を貸す運動Ⅱでももっと広がればいいなと思わせた。ほほ笑ましいだけでなく、「童心神に通ず」だからだ。

 私がこの講演計画を提案したのは、いくつかの目的があったからだった。第一は、フィリピンの学校給食支援を決めた以上、まず手を貸す運動の支援者自身にその実際をよく知ってもらいたかったからだ。第二は、私たちの支援金を委ねる神父様に直接会って、そのお人柄に確信を持ちたかったからだ。第三は神父様に謝礼で支援金を稼ぐチャンスを与えるため、第四はこういう成功体験によってサーボランの自信を深め、結束を強めるため、第五は、こういう催しによって新支援者の増加をはかるため、そして第六はこういう経験によって手を貸す運動内に飛躍への活力が蓄積できると期待したからだった。
 振り返ってみると、第二、第三、第四、第六の目的はほぼ達成できたと思う。神父様とは直接会えて、信じるに足る方だと確信が持てたし、支援金贈呈や謝礼で支援の助けもできた。他方、サーボランたちはこの経験によって、難しそうなことでも、できると信じてやれば、事は成る。ただしそのためには神様のみ心を確かめ、その祝福を謙虚に願い、準備をしっかりとやって人事を尽くす必要があることがわかったと思う。もしそうなら、それはこのイベントの最も貴重な収穫だったと言える。それに比べ、第一の目的はやや期待はずれだったし、第五の目的はこれからのことだ。ただし、新しい支援者は早や何人か増え、旧支援者も数人が復帰してくれた。一つの成果ではある。

 講演の後はささやかな懇親会があった。そこである人から質問が出た。「支援はしたいが、支援金が本当に必要な相手に届くのか。誰かのポケットに入ってしまうかも知れないという疑念があるとためらいを感じる。どうしたら支援金が間違いなく活かされると思いますか?」
 私は答えて言った。「他団体のことはわかりませんが、私たちは現地には行かず、現地の支援に責任をもつ神父様やシスター達に直接支援金を送り、それによって援助に参加しています。間に人や団体を介しません。だから、支援金を託する神父様やシスター達が信用できるかどうかは最大の関心事です。ところで、今提携している宣教クララ会のシスター達やシーランド神父様は信用に価します。だから責任を持って支援金を送っているのです。手を貸す運動に関する限り、託された支援金は間違いなく助けの必要な人たちに届き、活かされています。誰かが横領するようなことは絶対ないです。また中間に人や団体が介在しませんから、支援金は最短で送られ、少ししか目減りしません。30余年間の実績がそれを証明しています。要するに、支援金を贈る時はそれを託す人や団体が信用できるかどうか、支援金の一部を事務所費や旅費や給料に使って多くを目減りさせる団体や人物ではないか、支援先の現地責任者が信用できる人または団体か、それらの点をよく確かめることです。そうすれば支援金は間違いなくそれを必要とする人々に届き活かされます」と。
 手を貸す運動Ⅱは組織よりも、信用に価する人によって成り立つことを是とする。そして、サマリア人の譬えの結びで、「あなたも行って同じようにしなさい」と言われた主の福音的勧めを原点とする。そういう人たちの活動である。
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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