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来し方、行く末のあれこれ

 朝日新聞が今バッシングに遭っている。それは二人の吉田という人と関わりがある。一人は従軍慰安婦について虚偽の本を書いた人だ。それを信用して報道したことが誤報となり、それを長年放置したことが批判されている。二つ目は福島第一原発の吉田調書を歪曲して報じたことが原因だ。三つ目は慰安婦問題について謝罪すべきだと論じた池上彰氏のコラムを掲載しなかったことだ。どれも厳しく非難されて致し方ない失敗だ。
 だが、私はこういう動きにはくみしない。「角を矯めて牛を殺す」という諺がある。ある欠点を力ずくで直そうとして、牛を死なせてしまうリスクを言うが、今、朝日をバッシングしている人たちはそれをしかねないおそれがあるからだ。特にこの時とばかり商売敵を叩いている同業の新聞社や、朝日から批判されていた政治家たちの仇討ちみたいな言動は石打ちの刑のようだ。しかし、己を省みて恥じることのない者が朝日新聞に石を投げよ、と言いたい。 
 慰安婦の問題は日本の戦争中からの来し方を思い起させるが、そもそも戦前の日本が他国を占領したのが間違いの始まりだったのだ。吉田清治氏の証言が虚偽であり、たとえ一般的な意味での軍による強制連行がなかったとしても、従軍慰安婦がいたことはまぎれもない事実であった。吉田氏の虚偽証言や朝日の失態を声高に非難することによって、そういう事実から衆目をそらせ、偽の愛国心を正当化しようとする政治家やある新聞のような傾向の方がずっと危険だと思う。かつて戦前の軍部は同じ愚を犯した。そういう時代の過ちに鈍感になってきているような現今の風潮を思うと、この国の行く末が思いやられる。

話題は変るが、昨日は敬老の日だった。もう大威張りで「俺は老人だ」と言える年齢になってしまったが、旧約聖書原典通読を再開したら ― というのは旧手を貸す運動の清算完了作業や手を貸す運動Ⅱニュース4号の編集・発行やらで、過去2週間ほどはほとんど旧約原典通読を中断していたからだが ― ひょんな偶然か、何と詩篇71(70)から読むことになったのだ。フランシスコ会訳の聖書にはこの詩篇に「老人の嘆願と賛美」というタイトルがついている。これはまさに旧約時代の老人が神に切願し、またその恵みを讃える詩篇なのである。その中ほどにこんなくだりがある。
 「神よ、年老いたわたしを見放さないでください。力衰えたわたしを見捨てないでください。敵はわたしについて語り、わたしを狙う者らは企みます、『神は彼を見捨てた。追いかけて捕えよう。助け出す者もいない』。神よ、離れた所にいないでください。わたしの神よ、急いで助けに来てください。わたしに逆らう者を大いに辱め、不名誉と恥辱で覆ってください。わたしは常に望みを抱き、ますます、あなたをたたえます。」
 実体験かどうかはわからないが、これは四面楚歌の中にいる老人の叫びを表現したものらしい。私も老人で、昨年から今年にかけて辛い目にあわされて来た。しかし、この詩篇の「わたしは常に望みを抱き、ますます、あなたをたたえます」という一節には共感するが、その他の言葉には同感ではない。この言葉通りに祈ったら、本物のキリスト者ではないとさえ思うのだ。悪意を持つ人達が『神は彼を見捨てた。追いかけて捕えよう。助け出す者もいない』と策謀することは今もあるだろう。自分たちが正しいことをしていると思い込んで、人を苦しめる「善魔」もいるからだ。しかし、本物のキリスト者なら、「わたしに逆らう者を大いに辱め、不名誉と恥辱で覆ってください」などとは神様に祈らないはずだ。敵を赦し、呪う者のために祈りなさいと主が教えられた福音的勧めを知っているからだ。
 今日も清算報告書が受け取りを拒否されて返送されてきた。信じ難いが、その一通はカトリック信者からだった。おそらく彼女は主の教えを本当には理解していないのだろう。だからそのような行為ができるのだと思う。しかし、私はそれに憤慨はしない。ましてや詩篇71の作者のように「大いに辱め、不名誉と恥辱で覆ってください」などとも願わない。できればいつか誤解が解け、「すみませんでした」と言ってもらい、「いや、いいんですよ」と答えられる日を待っている。それまでは「あなたを憎み呪う人のために祈りなさい」という主のお言葉を実践するしかない。
 旧手を貸す運動の34年は去る8月23日の清算完了で完全に終止符が打たれた。その来し方を思い返してみると、感慨は尽きない。しかし、同時にこれほど長い間信じ合って来た人たちが、どうしてそういう過去がなかったかのように憎悪を抱き拒絶できるのだろうかとつくづく思う。人間は素晴らしい半面、何と情けない存在だろうとも感じる。たとえ彼らが私に憎悪と拒絶をあらわにしても、私は同じ対応はしない。そう心に決めている。本物のキリスト者は主の福音に従い、赦し合うことを知らなければならないからだ。私たちの行く末は神と人の赦しの中にある。私には詩篇71のような心情はない。

 詩篇の作者は「年老いたわたしを見放さないでください。力衰えたわたしを見捨てないでください」と神に哀願しているが、これにも私は共感しない。確かに年老いた実感はある。だが神様が信じる者を見放したり見捨てたりしないことを確信しているから、そういう祈りはしない。ただ寝る前には詩篇31;6のように、「主よ、わたしの霊を御手に委ねます」“In manus tuas, Domine, commendo spiritum meum”とは祈る。私の就寝の祈りだ。
 私は「年老いた」などという弱音も吐きたくない。なぜ年老いたことを神様に言わなければならないのか?神様は「私よりも私をよく知っている」(アウグスチヌス)ではないか。そんな祈りで知らせなくても、神様はもう全部ご存知だ。力が衰えたら衰えたでいいではないか。命はいつかは終わりが来る。その前に衰えがくる。裏返せば、それはこんなにも長く生きられたという証拠だ。そう思えば、老いや衰えは弱音や嘆きの理由にはならない。むしろ感謝をささげる理由になる。
 それにしても、思えば私も何と長く生きてきたことか!昭和の初めからのほぼ85年だ。風呂は薪で焚き、水は井戸から汲み、草履をはいて学校に行き、相模野航空隊のゼロ戦が青空で空中戦の訓練を始めると、畑で草むしりの手を休めて見上げた戦時中の少年時代。登記所で働き夜間中学・高校に通った5年間、充実していた大学時代、人生で最良の日々だったカナダ留学の7年間、教会で働いた数年、玉川の24年間、ボーイスカウト指導者の30年間、旧手を貸す運動の34年間、そして何よりも46年間の結婚生活。何といろいろなことを行い、何と長く生きて来たものよ!自分でも驚き、遙か自分の来し方を思い、行く末も考える。
 敬老の日のためらしく、孫娘が「おじいちゃん、おばあちゃんへ。いつもありがとう。いつまでも元気でね」と書いた可愛いカードをくれた。あと何年生きられるかはわからないが、こんなに長く生きて来られたことは何とありがたいことか。では、その後は?神の国に入れていただけることを願う。そこにこそ真の老後があるからだ。だがその前に、今は手を貸す運動Ⅱと地の星のために働かなければならない。誰よりもよく働く老人でありたい。真の老後はその後だと思っている。
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プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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