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ライフワーク

 今年の年間第17主日の福音はマタイ13章44-52だ。そこでは天の国の譬えが三つ語られる。先の二つは天の国の価値についてであり、最後の一つは天の国に誰が入れてもらえるかその裁きの譬えだ。第一の譬えについてだけ考えてみようと思う。それは新共同訳ではこう訳されている。
 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」
 原典のギリシャ語とヘブライ語訳で読んでみた。ヘブライ語訳で読んでみたのは、イエス様はこんな感じで話されたのだろうなという様子がよりよく想像できるからだ。残念ながらギリシャ語だと全然イエス様の言葉のようには感じられない。でも現在ではそれが原典だから、それはそれで尊重しなければならないが、やはりヘブライ語の方がいい。日本語訳で言うと、新共同訳はまちがってはいないが、この譬えの最初の部分は「天の国は畑に隠された宝に似ている」と訳したフランシスコ会訳の方が良いと思う。
 原典のκεκρυμμενονは動詞κρυπτω(隠す)の過去分詞だ。だから、「隠された宝」と訳すべきで、「畑に宝が隠されている」と受動現在形に訳すのはやや不適切だと思う。ところで、隠されたと言えば、隠した人がいるわけで、見つけた人が隠したわけではない。もし畑の持ち主が隠したのなら、その畑を売りはしなかっただろう。タラントンの譬え(マタイ25;14-30)の1タラントンを地の中に隠した僕のように、いつかそれを掘り出すつもりだっただろうからだ。それなのに、この譬えの畑は売られた。ということは、畑の持ち主が隠された宝の存在を知らなかったからだと推察できる。
 では誰が隠したのか?と考えると、きっとかなり前に誰かが隠して、そのまま死んでしまったのか、あるいは何らかの理由で掘り出せないままになってしまったのだろうと想像できる。そして時が経ち、その宝の存在を知る者は誰もいなくなって、その畑は何の変哲もない普通の畑と見られていた。ところが何かの偶然から、ある人がそこに宝が埋まっているのに気付いた。自分の畑ではないのに入って見つけたのだから、見つけた人は単なる行きずりの人ではあるまい。畑を耕していた下僕も考えられるが、地主から畑を借りている小作人が一番当てはまると思う。とにかく畑の土を掘り返す機会があった人だ。いずれにせよ、そういう想像をしてこそこの譬えは面白さが増す。通り一遍の解釈ではだめだ。
 ではこの譬えのメッセージは何だろうか?多くの人は天の国の価値がいかばかりかを知らない。ところがそれは畑に埋もれた宝と同じで、畑の表面にごろごろ目につく土くれや石礫のようなものではない。働いた結果か偶然の恵みかは別として、見つけ出さなくてはならないものだ。しかし、見つけた人はその価値の大きさに驚嘆歓喜して、そっと埋もれたままにして家に帰り、自分の所有物を全部処分して、その畑の購入資金を作り、その畑を買う。だが、目当ては畑の中にある宝だ。この譬えを聞く人よ、あなた方も天の国がどんなに素晴らしいかを知ったら、その人のように今持っている全てを売り払って、それを手に入れようとするだろう。そうしなさい。そう勧めているのがこの譬えのメッセージであろう。
 イエス様はよく後で弟子たちに譬えの意味を解説なさったが、ではその伝でいけばこの隠された宝の譬えはどう解説できるだろうか?こう言えるのではなかろうか。宝とは天の国のこと、宝が隠された畑とは福音的人生、あるいは真の教会と言ってもいいだろう。宝をその畑に隠されたのは神、その畑の持ち主も神、天の国という隠された宝をその畑に見つけた人は恵みをいただいた人であろう。その人は宝がない畑のようなそれまでの自分の人生を売り払い、天の国という素晴らしい宝のある人生を選び取る。普通の人生を、福音的人生に買い替えるのだ。
 キリスト教の洗礼はその実現だ。それによって人は新しい人生を始める。天の国と言う宝がある人生の畑で働き出すのだ。そうしなさい、とイエス様はその譬えを話された。譬えの人は宝を見つけた時、「喜びにあふれて」帰り、財産を全部処分してその畑の購入資金を作った。それと同じように、福音的人生を選び取った人は宝の隠された畑を買い取った人のことだ。この譬えには「売る」と「買う」の行為がある。福音的人生を「買う」には既存の所有物をすべて「売る」覚悟が必要だ。だがそれはいわゆる財産のことではない。それまでの物の考え方、生き方のことだ。むしろそれらを処分して、主の福音を信じることにある。
 それは、その畑に宝があると知っても、現状に執着してそれを断念する勇気がなく、何もしなかったら、天の国という宝は得られないことを意味する。神の教えを知っているだけの学者や、宝のすばらしさがわかっても、今の自分を捨てきれない者はそれに当たる。天の国は自分の古い人生を売り払って、天の国という宝がある新しい人生に買い替えることだ。選択と犠牲と決断がなければそれは実現できない。私は19歳の時そうした。そして、カトリック教会で洗礼を受けた。
 その時、私は過去の全てを処分し、主の福音に従って生きる人生を始めた。それは私における隠された宝の譬えの実現だった。それ以来私は職業を幾つも経験した。奉仕活動も手を貸す運動は34年、ボーイスカウトは30年、ベロニカ苑と地の星への奉仕は計24年行った。趣味で数十年間絵を描いて来た。しかし、どれも私のライフワークではない。私が選び取ったというより神様の恵みで与えられた、素晴らしい宝のある福音的人生を生き切ること、それが私のライフワークだ。そして、それが「畑に隠された宝のたとえ」についての私の理解だ。
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毒麦の譬えから思った「そもそも」

 今週の日曜日は年間第16主日で、福音はマタイ13;24-43であった。それは天の国の一面を語る毒麦の譬えがある章節だ。ある人が畑に良い種を蒔いたのに、芽が出ると毒麦も現れた。下僕たちが主人に、善い種しか蒔かなかったのにどうして毒麦も出てきたのでしょうかと訝って尋ねると、主人は「敵の仕業だ」と答えた。下僕たちが、では毒麦を抜きましょうか?と言うと、主人はいや待て。麦まで抜いてしまう恐れがある。今は育つままにさせよう。しかし、刈り入れの時が来たら刈り入れる者たちにまず毒麦を集めさせて焼き、麦の方は集めて倉にいれなさいと命じよう、と言った。そういう喩えだ。
 神は今の世界では善と悪の混在を許容される。性急に悪を断とうとすれば善をも傷め、結局違う悪を招いてしまう。だから今は善を育て悪には耐え、刈り入れに当たる終末の裁きを待ちなさいというのが、この譬えの主要メッセージだと思う。ただし、そこには刈り入れの時まで待つ「待ちの神様」のテーマも、その時まで待つとは悪人に回心の時を与えているという副次的メッセージもある。そのどれも興味深い。だから、そのどれについても私はすでにコラムで取り上げて来た。だからここでまたそれを詳述しようとは思わない。
 司祭がそれについて説教した時、私は少々気を散らしていて、「ここには『そもそも』をつけられる問いがいくつもあるなぁ…」と思った。ここで取り上げたいのはむしろそのことだ。下僕たちが主人に「善い種しか蒔かなかったのにどうして毒麦も出てきたのでしょうか」と尋ねたのは、省略無しに言えば、「そもそもご主人様は善い種しか蒔かなかったのではありませんか?それなのにどうして毒麦も出たでしょうか?」という問いだった。
 「そもそも」とは「元来」とも言いかえられ、物事の元々まで遡って考えてみればとか、最初の時点のことを考え直してみると、とかいう場合に使う副詞だ。毒麦の譬えでは、下僕は主人に種を蒔いた時点に遡って、あの時は良い種だけを蒔いたはず。毒麦などは混じっていなかったはずなのに…という疑問を口にしたわけだ。そして、私たちがこの譬えを読んだり解説を聞いたりするときに湧く疑問は、「そもそも『敵』なる悪魔はなぜ毒麦を蒔きにきたのだろうか?その前に、そもそも悪魔はなぜ『敵』なのだろうか?そもそも悪魔は本当に存在するのだろうか?」などのそもそも論だろう。
 しかし、この譬えで一番大事なそもそも論は、「そもそもイエス様はなぜこの譬えをはなされたのだろうか?」という問いだろう。7月20日刊のカトリック新聞「キリストの光、光のキリスト」で、下町神父はそれをよく説明している。知りたい人はそれを読めばよい。この譬えで私が付け足しておきたい「そもそも」がもう一つある。「そもそも主はなぜ譬えを多用して話されたのだろうか?」という問いだ。
 それはごく普通の人たちが身近な体験で知っている事柄に訴え、わからせたい真理を、わかりやすいイメージと共感をもって納得させられたからではなかろうか。毒麦の譬えの場合、わからせたかった真理とは、神の国の一面であった。まだ完成途中の神の国は善も悪も混じり、聖者も罪人も共存するという現実を特徴とする。とはいえ、それは永遠に続く状態ではなく、いつかは刈り入れの日、つまり裁きの時がある。しかし、その時までは神は待たれる。それは罪人にとっては生まれ変われるために与えられた猶予の期間である。そういう副次的メッセージも含まれている。
 だとすれば、その譬えで神の国の全てを解釈することは譬えの目的からの逸脱になる。例えば、そこから「毒麦として蒔かれた人は禍だ。初めから救いから除外されている人だからだ」などという「予定説」的な解釈を導き出してはなるまい。仏語は “Comparaison n’est pas raison”という表現がある。「比喩は根拠にはならない」という意味だ。譬えも一つの比喩だから、それをもって真理の根拠としてはならないだろう。むしろ逆で、「そもそも喩えは真理をわかりやすくイラストするものに他ならない」のだ。

 ところで、「そもそも」と振り返らざるを得ないことは世の中にも多い。つい先ごろ、手を貸す運動Ⅱニュース3号を発行したが、私はその冒頭に宣言を掲載した。「支援者の皆様、お元気ですか?本号はシーランド神父様の給食計画からお知らせします。その前に、私は集団的自衛権を容認せず、今、日本の重大な転機に当たり、平和憲法堅持を宣言しておきます」と。安倍政権が集団的自衛権を閣議決定し、内閣の憲法順守義務をないがしろにして、平和憲法を実質的に空文化したからだ。
 多くの人達がこの暴挙に批判の声を上げて来たが、私も黙視できなかったので、私のできることをする意味でその宣言を掲載した。しかし、このところずっと思っている。どうしてこういうことになったのかと言えば、そもそも先の二つの選挙で、多くの人達がこんな危険人物に権力を持たせてしまったからだ。そして、思うのだ。そんな人物をよしとするのは、そもそも多くの人々が戦争前の状況も、平和憲法を終戦直後の人々がどれほど歓迎して受容したかをも知らないからだ、と。
 安倍政権は集団的自衛権を行使したい場合の一例として、掃海艇の機雷除去によるシーレーンの確保をあげている。石油が来なくなれば日本は重大な危機に陥る。シーレーンは日本の生命線であるという論理だ。しかし、戦前も同じ論理があった。America, British, China, Dutchの頭文字をとったABCD包囲網だ。その包囲によって石油や物資が入らなくなると、日本は干上がる。だから、それを突破しようとて太平洋戦争を起こした。そして、一時は南方のインドネシアまで進出して、石油を確保した。だが、結局は敗戦の惨事を招いて元も子もなくした。ではその時、大多数の国民はどうしたか?そういう国策に反対どころか、時の軍事政権に踊らされて戦争に加担したのだった。少年だった私も何一つ真実を見抜けなかった。ほとんどの日本人が愚かだったのである。そして、それがまたくり返えされようとしている。
 その時も政党政治は劣化し、東條英機を顔とする軍事政権が愚かにも戦争を拡大した。私には安倍晋三氏が東條と重なって見える。彼は自民党でも異質な人物ではなかろうか。彼は戦後レジームからの脱却とか日本を取り戻すとか言うが、69年間に及んだ戦後の年月はおそらく日本の歴史で稀に見る平和で良質な時代だったと評価できる。それを否定するなど、実に傲慢で不見識な発想だ。彼が取り戻したい日本とは何か?かつて靖国を崇拝した時代か?そんな時代への逆行はまっぴらごめんだ。あの圧迫感と貧困が支配した忌まわしい戦中、戦前になど絶対に戻ってはいけない。
 平和憲法は戦争や権力の横暴から私たちを守り、繁栄と平和を享受させてきた。だが、安倍晋三氏はそれを否定しようとしている。本音は自主憲法の制定だろう。彼と自民党は今の憲法を米国から押し付けられたもの、日本人が自分から求めたものではないとし、だから自分たちで作った憲法に替えるのだと主張する。しかし、その論旨は間違っている。まず、押し付けであっても良い物はよいからだ。そもそも外来であれ何であれ良い物はどんどん受け入れて来たのが日本人の特徴だ。そういうものがどんなに多いことか。卑近な例では洋服がある。外来の衣服だからやめるべきだ。和服に戻ろうなどと言う人が今いるだろうか?パンも外来品だ。だから排斥し、米を食べようと言う人がいたら、そっぽを向かれるだろう。
 それに日本で米が食べられるようになったのは昔からではない。貧しかったかつての日本では、私もそうだったが、麦や粟、稗などの雑穀を食べていた。米は金持ちだけの食物だったのだ。憲法も然り。かつての明治憲法では天皇だけが特別視され、民衆は十分保護されていなかった。その前は憲法すらなかった。戦後、連合軍によって提示された憲法は、米国さえ実現できなかった理想に近い平和憲法なのだ。それを否定して、いったいどんな日本を取り戻すというのだろうか。
 そもそも彼らが「今の憲法は押し付けだから自主憲法に替える。そして集団的自衛権を使えるようにする」という事自体が矛盾しているのだ。それに気付かないのであろうか?彼らは今の平和憲法を押し付けだから否定すると言う。しかし、それを戦争ができる憲法に変えようとしているのは、米国の要求があるからではないか。もし平和憲法を押し付けだから拒否するというのなら、それを戦える憲法に変えて我々と一緒に戦えという米国の要求をも拒否すべきではないのか。なのに、戦う軍隊を持たせたい米国の意向に添った憲法を作ることは、もう一つの押し付けを受け入れることではないか。
 そもそも米国は利己的下心があって、敗戦した日本が再び武力をもって立ち上がらないように、陸海空軍はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めないという条文の、戦争を放棄した憲法を押し付けたのかも知れない。おそらくそうだろう。しかし、米国は朝鮮戦争が始まるとそれを後悔し、日本を再軍備させようとした。吉田茂首相はそれを拒否し切れず、自衛隊を創設をしたが、初めは「戦力なき軍隊」などという珍妙な論理で批判をかわした。そして、国民も戦後すぐの民衆は(私も含め)、押し付けられた憲法でも良い物は良いと、大喜びでそれを受け入れたのだった。安倍氏等が、押し付けられて嫌々受け入れたように言うのは嘘で、真実ではない。歴代指導者たちは殆どが自民党だったが、一度受けいれた平和憲法を盾に、再軍備を迫る米国の押し付けをかわしてきた。憲法が禁じているからと言う理由のおかげで、湾岸戦争にもアフガン戦争にも戦力としての自衛隊派遣を断ることができた。それはすばらしい知恵であり、したたかさだったと思う。
 ところが、安倍晋三氏はそれを放棄しようとしている。いや、戦後の日本が自らを守るために発揮してきたその知恵としたたかさの価値を理解せず、押し付けられた憲法だからと言ってそれを否定し、ずっと米国が望んできた日本の再軍備という二度目の押し付けを進んで実現しようとしている。愚かだ。現憲法を押し付けだからと拒否するのなら、再軍備させたい押し付けも拒否するのが筋ではないか。彼の論理は整合性を欠いている。
 原発の再稼働にしてもそうだ。そもそも原発が人間の手におえないエネルギー源であることを彼は直視しようとしない。要するにそんな人物に日本の舵取りを託したのが、そもそもの間違いだったのだ。仮にしばし日本が経済的に栄えても、将来は不幸になる日本人が出るに違いないと懸念する。
 そもそもと言えば、手を貸す運動にもそれが言える。残念ながら昨年一度消滅したが、どうしてそういうことになったかを振り返ってみると、そもそもの原因は私に人を見る目がなかったことにある。もし私にそれがあったら、あの時あのようなことはしていなかっただろうにと、今思えば悔やまれることがいくつかあった。選挙で日本国民が安倍晋三総理を誕生させてしまったのに比べれば些細な事だが、選択と決断の難しさを今更ながら痛感する。でも覆水は盆に返らない。ならば、事後にどう対応するかが大事になる。それがせめてもの次善の行動だ。安倍政権には次の選挙で思い知らせることができよう。では、手を貸す運動は?盆には水を汲み直した。わずかずつだが運動には進展がある。理解者に感謝、感謝だ。
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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