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落ち穂拾い

 見る見る春爛漫になってしまった。歳のせいか、何だか季節の変化に追いついていけない感じもするが、今年は春を楽しむ心のゆとりがある。昨年は春の喜びなど味わえないような、苦渋でいっぱいで、わが人生最悪の春の一つだったが、今年は違う。もう元の自分に戻れた感じがする。また絵も描きたい。
 近況をちょっぴり書くと、復活祭の前日は諏訪市に行った。昔、茅野聖母幼稚園の先生だった一人のご婦人が洗礼を受けたからだ。彼女は年賀状に、「ご復活祭に洗礼を受けることになりました。神様は四十年待ってくださいました」と書いて来た。「神様は四十年待ってくださいました」の一言に感動し、私は「その日には駆けつけるからね」と答えた。その約束を実行した次第だが、エプソンの保養所に泊めてもらったりして、むしろ迷惑をかけてしまったかも知れない。
 受洗者は四人だった。Mさんが洗礼を受けた時はとても感動した。まさか洗礼を受けるようになろうなどとは想像してもいなかったからだ。神様の恵みは働くということをまたもや学んだ。「待ちの教育」という本を書いた人がいたが、神様こそ待ちの教育の元祖だと言ってよかろう。昔の先生たちにも会えた。46年ぶりだったので、みんな老境に入っていた。でも昔の面影は残っていて懐かしかった。ただ、Yさんから「小羊たちを捨てて先生はどこへ行ってしまわれたんですか?」と詰られた時は、積年の思いがひしと感じられて非常にこたえた。
 私はMさんに洗礼記念として特注の十字架を持参した。陶芸家のTさんが製作してくれたものだが、主イエス様の姿像は付けず、אני התחיה והחיים とヘブライ語を焼き付けてもらった。「わたしは復活であり命である」(ヨハネ11;25)とマルタに言われた主のお言葉だ。十字架は焼成の際に少し反りがはいってしまったが、それはむしろ主の苦悶を表していると説明した。備前焼のような茶褐色の陶器の感触がとても素敵だと喜んでもらえた。洗礼前であったが、Mさんご夫妻は私をご自宅に呼んでくれた。その時フルートが2本テーブルの上に並べてあった。なぜだろうと思っていたら、会話のあと、ご夫妻が娘さんのピアノ伴奏でフルート2重奏をし、「アメージング・グレース」他2曲を演奏してくれたのだった。帰宅してから家内にそれを話したら、「それって最高のおもてなしよ」と言われた。思い出に残る2日であった。

 復活祭のミサはいつも感動的だ。今年はカトリック上諏訪教会で与かった。司祭はジラール神父だった。立派な司祭だ。ところで、高田三郎先生の典礼聖歌は素晴らしいが、ただこのミサで歌われる日本語の続唱だけは好きではない。歌うと疲れる。どうしてもラテン語の素晴らしいグレゴリアン聖歌Victimae pascali laudesが歌いたくなってしまう。この日のミサで私が好きなもう一つのグレゴリアンの曲は〝Et valde mane una sabatorum veniunt ad monumentum orto iam sole, alleluia”と歌う聖体拝領唱だ。それは女性たちが主の葬られていた墓に出掛けて行った早朝の空気を感じさせる。
 ところで、日中ミサの聖書は味読に価する個所が限りなくあった。しかし、この章節については沢山の人が書いているし、私自身もう何回も取り上げてきた所だから、今回は気付いた点をいくつか拾い上げるだけにしようと思う。いわば聖書の落穂ひろいみたいなものだ。

 第一朗読は使徒たちの宣教10;34-43だ。ペトロがカイザリアのコルネリウスの家に行き、集まった人々に語る場面だが、ケリグマ的説教の典型だと見る。イエス様のなさったことをこれほど見事に要約した説教は他に類がない。実に感動的で説得力がある。簡潔だが力に満ちているのはなぜだろうか?体験した事実を率直に話し、聖霊が共に働いておられたからだと思う。イエス様が約束なさった通りのことが弟子たちに実現していたのだ。
 37節~41節までは主イエス様ご復活なさった後までのことで実際の出来事だ。だから福音書でも知られている。しかし、42節は少し違う。これが今日拾う落穂の一つだ。ペトロはこう語った。「イエスは、ご自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました」と。「生きている者と死んだ者との審判者」とはすでに過ぎたことではなく、これからのことだ。
 それはマタイによる福音書28;18「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と言われ、弟子たちをすべての民に遣わされた派遣命令と響き合っている。そして、私がここで特に興味深いと思ったのは主イエス様が「生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた」という言い回しだ。それが使徒信経の「生ける人と死せる人を裁かんために来たり給う主」という表現とそっくりだからだ。
 ルカが福音書の続編として「使徒たちの宣教」を書いた頃、すなわち主の御昇天後40年ぐらいした初代教会では、おそらくもうこの信仰の表現が定着していたのだと推定できる。ルカはペトロが確かにそう語ったからそう書いたのか、それとも初代教会ではそういう表現がもう定着していたからペトロがそう語ったように書いたのか、その真相はルカに聞かないとわからないが、確かなことは「生きている者と死んだ者との審判者」という表現がもう定着していたことである。
 もう一つ気付くことは、ルカがペトロのこの説教をどうして書くことができたかだ。人からの又聞きではこれほど的確かつ臨場感あふれる叙述はできなかったと思う。おそらく資料収集のため、ルカはどこかでペトロに会い、ペトロが主イエス様から聞いた話や目撃したり体験したりした主の事跡を聞き書きしたに違いない。その蒐集資料があったからこそ、彼はユダヤ人でもなく使徒でもかったのに、福音書と使徒たちの宣教をあのように書けたのだと思う。

 福音書はヨハネ20;1-9だ。ここで気付くことがある。ヤコブの影の薄さだ。復活の朝、マグダラのマリアは墓から走り返り、「主が墓から取り去られました」と知らせた。それを聞いて走り出したのはペトロとヨハネの2人だった。では、ヤコブは何をしていたのか?主がヤイロの娘を生き返らせた時も、山上で変容された時も、その場にいることを許されたのはペトロとヤコブとヨハネの三人だけだった。いわば側近中の側近だったのだ。ところが、主の最も大事なご受難から復活後にかけて、ヤコブがいったい何をしていたのか、まったく言及がない。福音書注解も説教もそれに触れたものは皆無だが、ヤコブの存在感のなさが気にならないのだろうか?
 その関連でわかることがもう一つある。3人は主から「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と口止めされていた。しかし、それがその日解除されたことだ。なぜなら主は復活なさったからだ。もう隠しておく必要はない。その出来事の目撃者はこの3人だけだった。使徒であっても、他の8人は目撃者ではなかった。では、3人はいつ、どんなきっかけでその事実を他の使徒たちに明かしたのだろうか?
 推測だが、おそらく復活の主が使徒たちに現れて、その復活体の不思議を目撃した後ではなかろうか。使徒トマスは主が初めて出現されたとき、その場にいなかった。だから、彼は主が復活して現れたことを信じなかった。そこで主の出現の場にいた10使徒たちと言い合いになった。そんな時にヨハネかペトロが、そういえば山上で変容した時もそうだったと、復活した主のお姿と変容の時との相似を話したのではなかろうか。しかし、ヤコブも証言したのだろうか?もししていたら、他の弟子たちから「そんな特典を受けていながら、マリアが墓から走り返った時、なぜあんたはペトロとヨハネといっしょに墓に走らなかったのか?恩知らずではないか!」と責められたのではなかろうか。その後ヨハネが兄のヤコブとではなく、常にペトロと行動を共にするようになったのは、見損なったとそんな兄に失望したからかも知れない。いずれにせよ、そんな想像をめぐらして読むと、福音書はもっと面白くわかってくる。
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最近の福音書ところどころ

 数日来、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」という主のおことばを考えていた。誰かが他者の右頬を打つということは、身体的に痛めつけるよりも、むしろ精神的なダメージを与えるのが目的だろうと思う。侮辱のための打撃だ。なぜなら、多くの人が右利きだとすれば、他者の右頬を右手で打つには手の平ではなく、手の甲を当てなければならないからだ。その打撃力は手の平よるよりも小さいが、侮辱的な意味では衝撃はずっと大きいだろう。
 だから、左の頬も向けなさいということは、侮辱されたら侮辱で返してはいけない、更なる侮辱も受け入れなさいという意味だと理解すべきだろう。そこから二つのことに気づいた。その一つは、左ほほを出して打たれる時は手の平で打たれるのだから力が強く、衝撃もより強いだろうということ、二つ目は左頬も打たれるにまかせるときは、同じ人に打たれるとは限らないということ、つまり別の人が打つ場合もあるということだ。相手が複数人ならそうなるだろう。
 しかし、主はなぜ右頬を打たれたら左頬も出せと教えられたのだろうか?そのキーワードは「悪人に手向かってはならない」にあると思う。悪に悪で応じるな。だから打たれても打ち返すな。むしろ右の頬をも出しなさい、と言われたのだ。「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。…求める者には与えなさい。あたなから借りようとするものに、背をむけてはならない」という教えもその延長線上にある。
 でも皆がそんなことをしたら、悪人はつけあがり、悪がはびこるだけになるのではないか?いや、そうではあるまい。悪に対して悪で対応しても悪はなくならないだろう。人の世から悪を絶滅することはおそらく無理だと思われるからだ。では、なぜ「悪人に手向かってはならない」のかと言えば、最終的には神の裁きを信じるからだ。それは神にお任せすると言うことだ。悪に対する裁きは神様に任せ、人は悪人に手向かうのとは違うことをする。
 それが「…敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。…自分を愛してくる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも同じことをしているではないか。自分の兄弟だけに挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか」」ということだ。悪に勝つ近道はそこにある。

 四旬節第3主日の福音はヨハネ4章1-42であった。それは主イエス様がシカルにあったヤコブの井戸の傍でサマリアの女と出会った時のエピソードを伝える。その内容についてはいろいろ語られているが、特に私の記憶に残っているのはフルトン・シーン枢機卿の解説だ。それは実に優れていた。しかし、このエピソードがなぜ伝えられたのかについての解説は読んだことがない。いったいそれはどうして言い伝えられたのだろうか?私はそこに興味を覚えた。
 弟子たちは彼女がイエス様と交わした会話を聞いていない。みんな町へ買い物に行っていて、彼らが帰って来た時、女は甕を置いたまま走り去った。だから弟子たちは主と女がどんな話をしたのか知る由もなかった。しかし、イエス様が女とどんな話をしたかを彼らに語られた形跡はない。だとすると、その会話の内容を知っていたのは彼女と主以外にはいなかった。従って、あのエピソードは彼女が後になってみんなに伝えたに違いないという結論になる。
 しかし、彼女はどうして初代キリスト教会のみんなにその時の会話を話せたのだろうか?考えられる可能性は、彼女がキリスト教信者になって、主とどんな会話を交わしたかを証言したことだ。その時シカルの住民がイエス様を歓迎したので、主も2日ほどそこに滞在した。そして、人々は彼女に、貴女から聞いたからでなく、私たち自身の耳で聞いたからこの方をメシアだと信じたと言ったことがわかっている。すでに主の福音を信じた人々がサマリアにはいたのだ。
 ところで、聖霊降臨後、弟子たちが福音を世界に伝えるため散って行った時、サマリアには使徒フィリッポが行って宣教している。だとすると、すでに主の教えを聞いて潜在的に主の福音を受け入れる用意ができていた多数のサマリア人たちが、同使徒から洗礼を受けて早々と初代教会を形作ったことは容易に推測できる。かのサマリアの女もその中にいたのではないか。そして、あのエピソードを皆に伝えた。だとすると、あのエピソードがどうして後世に伝わったのか納得できる。

 四旬節第4主日の福音はヨハネ9章の盲人の癒しだった。ところで、そのエピソードには変ではないかと思われる言葉がある。それは盲人が後で「あの方が唾で土を練って、私の目に塗り」と話した証言だ。まだ目が見えていなかった時なのに、盲人はどうして「あの方が唾で土を練って」と言えたのだろうか?イエス様のそんな行動が見えたはずはなかったのに、彼は本当にそう言ったのだろうか?あるいは目撃していた使徒ヨハネが、うっかりそう書いてしまったのだろうか?
 いや、うっかり書いたとは思えない。盲人は本当にそう証言したと考える方が妥当だと思われる。もしそうだったとしたら、おそらくそれはシロエの池で目を洗って見えるようになった時、一緒に行った人が彼にイエス様のなさった行動の一部始終を教えてやったからだろう。そう教えてもらった盲人は自分がどう癒されたかがわかったから、あたかも自分が見たかのように証言してしまったのだと思われる。実際、彼は盲人だったから、シロエの池に行くにも誰かに連れて行ってもらわなければならなかっただろう。そして、「その誰か」は盲人の目が見えたのに驚嘆し、事の次第を全て彼に教えたのだと思う。そこには盲人をシロエの池まで連れて行ってやった隣人愛の行為も脇役として存在したのだ。

 四旬節第5主日の福音はヨハネ11章、死んだラザロの蘇生の奇跡物語だった。そのメッセージは近づきつつある主のご復活祭を念頭に、神には死者を復活させる力があることを信じさせるにあると言えよう。しかし、私がここで疑問視するのはイエス様が2回も「心に憤り」(ヨハネ11;33、38)を覚えたとしている訳のことだ。今回が初めてではないが、これは不適切な訳ではないかと思えてならないのだ。なぜなら、親しい人の死を悼んで皆が泣いているのを見たら、ともに泣き悲しむのが人情なのに、主がそれを「憤った」と言うのはどう考えてもおかしいからだ。
 イエス様は柔和だったが、怒るべき時には怒った。しかし、この時は憤る理由があっただろうか?私はなかったと思う。たしかに神学者や聖書学者たちは憤った理由をいろいろ挙げて解釈しているが、どれもこじつけ的で説得力はない。人々がラザロの死を嘆き悲しんでいた時に、主が「憤った」という表現はやはり納得しかねる。まず考えられるのは誤訳の疑いだが、立派な学者たちが訳して公的にも認められた新共同訳聖書なのだから、それはありえないだろう。 
 では、何なのかと考えると、とりあえずの答えは「誤訳ではないが、良訳ではない」ということではなかろうか。実はこの疑問は6年前にも取り組んだことを思い出したので、その時の考察を読み返してみた。そうしたら、何と自分なりに納得できる解決をすでに得ていた。それをすっかり忘れてしまっていたのだ。しかし、ついでだから、もう一度ここにそれをなどってみることにする。

 その時、私は聖書原文と手持ちのいくつかの翻訳を比較してこの箇所を検証する方法をとった。その結果わかったことは、いくつかの日本語訳聖書にはこの箇所を「感動して」とした訳と「憤って」とした訳の2種類があるということだった。ところで、それらの諸訳が参考にしたと思われる諸外国語の訳を調べたら、そこにも「感動」系と「憤怒」系の2系列があることがわかった。そして、その2系列は元々ギリシャ語原典のενεβριμήσατοという一語にその二つの意味があるので、そのどちらを選択するかによって出来た分離だということもわかった。
 ヨハネの福音書ギリシャ語原典11章33節のその一句はενεβριμήσατο τω πνευματι(エネブリメーサト・トイ・プネウマティ)と書かれている。τω πνευματιは「心の中で」だから問題はない。問題はενεβριμήσατοの意味だが、当面の問題は「感動して」と訳すのが妥当か、それとも「憤って」と訳す方が正しいのかにある。「感動」系の訳は「感動して」と訳すのが妥当と見てそう訳し、「憤怒」系の翻訳は「憤って」がベターだと考えてそう訳したことは間違いない。
 ところで、その一語の意味を調べると、新約ギリシャ語辞典(岩隈直著)はその動詞の基本形εμβριμαομαιを「【馬が怒って鼻を鳴らす】;㋑鼻息荒く叱る㋺不機嫌になる、憤激する、つぶやく」の意味だと説明している。もしそれだけだとしたら、「憤って」とした訳は、たとえその場の状況にそぐわないとしても、正しいと言わなければなるまい。こところが、Dictionnaire Grec-Français(希仏辞典:V.Magnien-M.Lacroix著)によれば、その動詞は「1. de chevaux,(馬の関係では) frémir(ぶるぶるっと震える), gronder(怒鳴る). 2. de pers.(人間の関係では) être très ému(非常に感動する). 3. avec dat.(与格を伴った場合)faire des reproches violents(激しく非難する) 等の意味だ」と書かれている。
 私にはこの説明の方が新約ギリシャ語辞典よりも納得できる。では、この辞書の意味に従ってヨハネ福音書の一語を解釈してみるとどうなるだろうか?3. avec dat.(与格を伴った場合)は消去していいだろう。τω πνευματιは与格だが、イエス様がご自身を非難するわけがないからだ。残るは1.と2.の場合だが、1.も消去していいと思われる。なぜならこれは動物の場合ではなく、人間の事柄だからだ。してみると、残るは1.のニュアンスを残しながらも、2.の「非常に感動する」の意味になる。
 ラテン語のブルガタ訳はそれをfremuitと訳した。ところで、fremereを羅和辞典(田中秀央著)は「唸る、ぶんぶん言う、鳴り響く、つぶやく」等の意味だとしている。その意味では新約ギリシャ語辞典に近い。しかし、CasselのLatin Dictionaryはそれらを動物や事物に関する場合とし、人間について使う場合は喜びや侮辱に「震える」の意味があると述べている。してみると、翻訳聖書の長女であるラテン語訳もギリシャ語同様二つの意味をそのまま残したことになる。

 ところが近代外国語訳になると違ってくる。どちらかの意味を選択するようになったのだ。例えばフランス語のBible de Jerusalemはそれを“frémit”(震えた)と訳している。ラテン語のfremereを祖先とする語だが、意味は変わって来ている。喜びや恐怖などに震える意味だ。英語のRevised Standard Versionも“deeply moved”( 「深く感動して」と訳している。これらの訳はギリシャ語原典やブルガタ訳にある二つ目の意味、すなわち「非常に感動する」「感動して震える」の意味の方を選択した結果だと言えるだろう。
 そして、いくつかの日本語訳聖書はそれらを参考にしたのだろうが、例えば日本聖書協会訳は「激しく感動し」と訳し、バルバロ訳は「感動し」とし、ラゲ訳も「感激して」と訳している。ニュアンスの違いは多少あっても、これらは「感動」の系譜につながる訳だと言ってよいだろう。 
 それに対して新共同訳は「心に憤りを覚え」と訳した。フランシスコ会訳も「憤りを覚え」と訳している。これらは「憤怒系」と言えよう。ドイツ聖書協会訳も“zornig”(立腹し)だから、憤怒系に入る。しかし、感動と憤怒では全然違って、対立的でさえある。では、憤怒系はなぜそう訳したのだろうか?ギリシャ語原典のεμβριμαομαι(エムブリマオマイ)は「(馬が)鼻を鳴らす、ブルブルッと震える、憤る、怒鳴る、大いに感動する等の意味だが、おそらくその主だった意味の「憤る」を選択したからだろう。それは間違ってはいないが、結果的に「感動」を排除してしまっている。ところがεμβριμαομαιには「大いに感動する」の意味もあるから、多くの近代語訳が「感動して」と訳したのもまったく正しい。
 ちなみに、問題のその語はヘブライ語ではどう訳されているのだろうか?新約聖書のヘブライ語訳があることはあまり知られていないが、ちゃんとあるのだ。そして、それは大変参考になる。なぜなら、ユダヤ人の心情はユダヤ人が一番よく知っているはずなので、適切な訳が期待できるからだ。では、どう訳されているかと言うと、 “ニスアル”と訳されている。ニスアルとは「心が騒ぐ」「感動する」「荒れる」等の意味だ。どちらかと言えば「感動系」に近いと言えよう。ということは、言葉だけで判定するならば、「感動」も「憤り」も両方共に正しい訳だと言えることがわかる。そうなると、どちらが適切か、あるいはどちらでもなく、もっと妥当な訳があるだろうとしてそれを見つけるかは、その時の状況や文脈からみて判断しなければならないということになる。
 ところで、「憤って」も変だが、「感動して」もまたその場にはそぐわない表現だと言わざるをえないのだ。なぜなら、イエス様が「感動した」というその感動がふつうの意味の「感動」なら、非常識に他ならなくなるからだ。つまり、ラザロは死んだばかり、姉妹は悲嘆に暮れ、人々も同情で悲しんでいた。そういう時、人は心を痛めこそすれ、感動はしないものだからだ。Frémit、deeply moved等は感動以外の意味を含むからいい。しかし、「感動」という日本語はそうではない。従って、この場面では「憤って」と同じように「感動」もあまり適切ではないと思われるのだ。
 こう考察してみると、「感動」も「憤り」も単独ではどちらも満足とは言えない。言葉そのものの訳は間違ってはいなくても、その場の状況には合っていないのだ。どちらも単独ではイエス様の心の動きを十分に伝えられていなし、誤解すら生みかねない訳ではあるのだ。そこで私は、「感動」か「憤り」かという二者択一の訳のよりも、両方の意味を含有したもっと妥当な訳を探す方がベターではないかと考えたのだ。では、具体的にそれはどう訳したらいいのだろうか?
 私ならその一語は「憤って」でも「感動して」でもなく、「感極まって」と訳す。「身震いするほど感極まって」と訳してもいいだろう。事実、原典ギリシャ語のエムブリマオマイは、本来は「(馬が)鼻を鳴らしてブルブルッと震える」意味だ。それをヘブライ語の「心を揺さぶり動かされる」というニスアルの意味とブレンドすると、「身震いするほど感極まって」ということになる。それは単純な感動でも憤りでもない。 
 人間は感極まると、言葉を失ったり、涙が抑えられなかったり、鳥肌が立って身震いしたりする。それは魂を揺さぶるほど激しい感情が人格の全存在に充満する時だ。この場面のイエス様はまさにそうだったのだと想像する。親友ラザロが死んだことは知っておられたが、いざ彼の死と家族の嘆きを目のあたりにし、マリアが泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見たら、身震いするほど感極まられた。それは単なる感動の「感」だけでも憤りの感情だけでもなく、救い主としての使命を帯びて人となられたみ言葉の全存在を揺り動かした感情だったのだ。

プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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