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主日にいただいた天啓

 大雪に見舞われて、せっかく花開いた庭の福寿草が埋もれて見えなくなっていた。しかし、雪が解けたら無事だった。そればかりか3輪になっていた。そして、昨日は4輪に増えていた。まだ空気は寒いが、日差しの微笑みが感じられ、確実に春は近づいている。福寿草がその使者だ。
 大雪のため主日のミサに2回行けなかった。こんなことは初めてだった。今日は3週間ぶりに教会に行って、ミサに与かれることがこんなに嬉しいことなのかと実感した。そして、またもや苦悩が生じたので、主の家に行けた機会に、これからどういう生き方をしたらいいかを、主に祈って知りたいと思っていた。そうしたら、その答えが与えられた。2回ミサを休んだので、今日の聖書は前もって知っていなかったが、それを読んで、これが神からの答えだと確信した。
 今日の聖書はレビ記19;1-2,17-18、一コリント3;16-23、マタイ5;38-48だったが、私の選ぶべき生き方はそこにあった。これは預言者、使徒、そして主イエス・キリスト様を通して私に示された天啓だった。しかし、わかっても実践しなければ、価値はない。だから、実践するための覚書として書いておこうと思う。

 レビ記は言う。「あなたたちは聖なる者となりなさい。…心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」
 その中の一句は、イエス様がサマリア人の喩えを話される前に、律法の専門家に「律法には何と書いてあるか」と反問して、「また『隣人を自分のように愛しなさい』と書いてあります」と答えせた箇所である。私も知っていた。しかし、実践は不十分だった。反省し、回心し、初心にかえる必要がある。まずはある会との反目を、相手がどうであれ、私の方からはなくそう。
 「聖なる者となりなさい」とは、恵みにより神の子として聖別された者であることを意味する。だから、恨み、憎み、復讐心を持ち、人を赦さない世人と同じであってはならないと戒めている。それが「心の中で兄弟を憎んではならない。…復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない」という言葉だ。私は率直にかつての仲間を戒めた。それを聞くかどうかは私の問題ではなく、そのために憎まれても、悪に悪で応じてはならない。それが今日得た天啓の一つだ。
 
 聖パウロはコリントの教会の人々に書いた。そこでは争いと分裂が起こっていた。一コリント3;16-23の中で、私が自分への戒めと感じた言葉は、「あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かなる者となりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。…ですから、だれも人間を誇ってはなりませません」という箇所だ。私は思い当たるところがある。だから、何が起ころうとも謙虚にそれを受けようと思う。
 愚かなものになるとは、聖パウロの他の言葉から理解すれば、十字架の主に倣うことだと思う。同じ一コリントの手紙1章23節には十字架につけられたキリストは、ユダヤ人には躓き、異邦人には愚かなものですが、召された者には神の力、神の知恵だと書いている。私は昨年8月に手を貸す運動を一度終止し、十字架につけられた主に倣って自分も手を貸す運動と共に死んだと見なした。手を貸す運動は復活したが、十字架は続く。それが私の道だとわかった。二つ目の天啓。

 マタイの福音書5;38-48は山上の説教の一部だ。そこで主はこう教えられた。
 「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。…求める者には与えなさい。あたなから借りようとするものに、背をむけてはならない。
 …敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。…自分を愛してくる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも同じことをしているではないか。自分の兄弟だけに挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。」
 これに注釈は要らない。誰にもわかる言葉で語られているからだ。最も大事なことはわかることではない。実践することにある。実践は言葉ではないから、いくら注釈によって理解しても、行わなければゼロに等しい。しかし、それを真に受けて実践すれば、単純でナイーフな人間と馬鹿にされるかも知れない。でもそれは聖パウロが教えた神の前の愚かさに当たる。自信はないが、それが私に示された天啓だから、今日それを実戦してみようと心に決めた。 
 
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エレミヤの預言書原典をメモして

 今週も大雪になった。今回は日本全土だ。“雪の降る夜はたのしいペチカ。ペチカ燃えろよ、お話しましょ”と歌いたいところだが、そうする代わりに私は昨日、記録的な雪の降った日を、聖書原点通読メモの記録日とした。
 エレミヤの預言書は昨年8月の予想より少し遅れて、2月1日に読了した。今はすでにエゼキエル書17章まで来ている。だが、それは2,3日休止し、エレミヤの預言書を通読でメモした箇所だけ記録にまとめ、感想がわけばそれをちょっとつけ加えておくことにした。大雪に見舞われたから何にもできないなんて嘆きは私にはない。やりたいことが山ほどあるが、この記録もいつか本気でエレミヤ書を研究するときを夢見てする下準備だ。

1;4「主の言葉わたしに臨んだ。」
 わたしとはエレミヤのことだ。この言葉はエレミヤ書に非常に頻繁に現れる。イザヤにも似た表現「主はわたしに仰せになった」(イザヤ8;1)があるが、頻度はずっと少ない。
 もう一つ、神の啓示を示す定型的な表現がある。イザヤでは「託宣」(משא: Oracle 21;1等)だが、エレミヤでは「主の言葉」(נאם-יהוה: Say the Lord 13;25,29;14,31;14,16,17等)だ。エゼキエルでは「主なる神の言葉」(נאם אדני יהוה: Say the Lord God 14;11,15;8,16;14,
19,63等)となり、「神の」の一語が入る以外はエレミヤの定型表現とまったく同じだ。出て来る頻度も同じくらいである。三大預言書の一特徴だと言えよう。

1;9「主は手を伸ばしてわたしの口に触れ、主はわたしに仰せになった、『見よ、わたしの言葉をお前の口に授けた。見よ、わたしは今日、お前を諸国の民と諸王国の上に立てた。抜き、壊し、滅ぼし、倒し、あるいは建て、植えるために』。」
 この表現は31章27-28節で再び現れる。それはイスラエルが捕囚から帰る時だ。
 エレミヤの召命でイザヤ預言者と共通する一つに、神が預言者の口を清めた点がある。イザヤの場合はセラフィムが炭火を彼の口に触れ、エレミヤの場合は「神の手」が彼の口に触れて清めた。二つ目の共通点は「語る使命」を与えられたことだ。「行ってこの民に語れ」(イザヤ6;9)「立って、わたしが命じるすべてのことを語れ。」(エレミヤ1;7)この点はエゼキエルも同じだ。「彼らに、あなたを遣わす。彼らに告げなさい。」(エゼ2;4)
 エレミヤでは伝えるべき預言の役割がよく示されている。それは「抜き、壊し、滅ぼし、倒し、あるいは建て、植えるため」であった。エゼキエルでは預言の中身が興味深い比喩で描写されている。それは巻物に「哀歌、嘆き、呪い」として書かれていた。エレミヤの「抜き、壊し、滅ぼし、倒す」に当たる事柄だろう。しかし、「この巻物を胃に収め、腹を満たしなさい」と言われたので、エゼキエルは食べた。すると「蜜のような甘みが口の中に広がった」(エゼ2;3)のだった。神の言葉には甘みがあるという意味もあると思う。
 さて、序文的なことはこれだけにして、ここからはメモの本格的チェックだ。

6;13「まことに、身分の低い者から高い者に至るまで、みな、利を貪り、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っている。彼等は、わたしの民の傷に安易な手当てを施し、平和はないのに『平和だ、平和だ』と言う。」8;11はほぼ同じ表現。
 日本の為政者、指導的立場の人たちにもこれに当たる者がいる。原発は危険なのに彼等は安全だと言い、軍備で作り上げられる本当の平和などないのに、軍備を増強すれば平和が保てると言っている。 

6;20「シェバからの乳香が、遠い国から来る香り高い菖蒲が、わたしにとって何になろうか。お前たちの焼き尽くす捧げ物は好ましくなく、お前たちの犠牲はわたしを喜ばさない。」
 宗教は習慣になるなら価値がなくなる。形式やしきたりは人間のもの、神様には無用。

7;3-4「万軍の主はこう仰せになる。お前たちの道と行いを改めよ。そうすれば、わたしはお前たちとともに、この場所に住む。『これらの建物は主の神殿、主の神殿』という偽りの言葉を信頼してはならない。」
 現代でも同じだ。ただ日曜日にミサに行き、教会に所属していれば神様は守ってくださると考えるのは心得違いだ。主の御心を行ってこそ主はその人と共にいてくださる。

7;22-23「わたしは、お前たちの先祖をエジプトから導き出したとき、焼き尽くす捧げ物と犠牲について語ったことも命じたこともない。ただ、わたしは、このように命じた。『わたしに聞き従え。そうすれば、わたしはお前たちの神となり、お前たちはわたしの民となる。わたしが命じたとおりの道を歩め。そうすればお前たちは幸いを得る』と。だが、彼等は聞き従わず、耳を傾けず、悪い頑なな心の促しに従って歩み、前進するのでなく後退した。」
 何と厳しい糾弾だろうか。神の民イスラエル民族は初心の根本を忘れ、枝葉末節の習慣を実践し、それで神は満足すると思っていた。いや、蔭では違反行為をしていても、表向きの捧げ物をしていればそれで済むと思っていたのだろう。宗教を習慣とする者はそれに等しい。福音を理解せず、キリスト教を教義の総体だと思う信者もこれに似ている。

8;10「預言者から祭司まで、みな、偽りをなす。」
 預言者にも偽者がおり、真預言者でも偽りを行い得る。人間の低劣さと弱さ。

114;14-15「主はわたしに仰せになった。『預言者たちはわたしの名において偽りを予言している。わたしは彼らを遣わしても、任命してもいないし、彼らに語ってもいない。彼等は偽りの幻と空しい占い、自分の心の幻想をお前たちに予言する。それ故、わたしが遣わしていないのに、わたしの名において予言する預言者について主はこう仰せになる。「剣と飢えはこの地に起こらないだろう」と彼らは言うが、まさにこれらの預言者たちは剣と飢えで滅びる』。」
 真の預言者の証明は、伝えた言葉が実現することにある。現代でも偽預言者がいる。真の教会から任命されても遣わされてもいない教導者である。

16:7「死者の喪に服するひとのためにパンを裂く者はなく…」 
 パンはלחםだが、原典ではלהםとなっている。ミスプリントではないかと思う。あるいは写本の段階で写し間違えて、そのまま伝わって来た可能性もある。今までもすでにミスプリントはあった。ちなみに辞書の王様と言われるラルースの辞書でさえ、ヘブライ語-フランス語辞典では今までに17か所のミスプリントを見つけ、ラルース社に連絡してある。聖書だから一字一句全部間違いがないなどということはないのだ。

28;7-17「だが今、わたしがあなたがたの耳と民全体の耳に語る言葉を聞け。わたしとあなたよりも先にいた預言者たちは、昔から、多くの地と偉大な諸王国に対して、戦い、禍い、疫病を預言した。平和を預言する預言者は、その言葉が実現してはじめて、ほんとうに主が遣わされた預言者であると認められる。」預言者ハナンヤが、預言者エレミヤの首から軛の棒を外して打ち壊した後、主の次のような言葉がエレミヤに臨んだ。「ハナンヤのもとに行き、言え。『主はこう仰せになる。お前は軛の木の棒を打ち壊したが、その代わりに軛の鉄の棒を作ることになる。まことにイスラエルの神、万軍の主はこう仰せになる。わたしは鉄の軛をこれらすべての国の首につけ、バビロンの王ネブカドネェツァルに仕えさせる。」
 …そこで預言者エレミヤは預言者ハナンヤに言った、「ハナンヤ、よく聞け。主はあなたを遣わさなかったのに、あなたはこの民に偽りの安心を与えた。それ故、主はこう仰せになる。『見よ、わたしはお前を地の表から消し去る。今年のうちにお前は死ぬ。主に逆らったからだ』。」預言者ハナンヤやその年の第七の月に死んだ。
 28章は偽預言者ハナンヤとの論争とその結末を語る。偽預言者の罪は重い。ここはエレミヤ書の重要ポイントの一つ。

29;31-32「その時、次のような主の言葉がエレミヤに臨んだ。『捕囚の民すべてに書き送れ。主はネヘラミ人シェマヤにこう仰せになる。シェマヤはわたしが遣わしてもいないのにお前たちに向かって預言し、偽りを信じさせた。それ故、主はこう仰せになる。見よ、わたしはネヘラミ人シェマヤとその子孫を罰する。彼らのうち、この民の中に住んで、わたしがわたしの民に与える繁栄を享受する者は誰もいない。』」
 偽預言者は罰を受ける。他者をも偽りに引き込んだ責任を問われる。

31;29「その日には、彼等はもはや『先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く』とは言わない。人は自分自身の不正の故に死に、酸いぶどうを食べた者は、その人の歯が浮く。」
 非常に面白い比喩で、罪と罰の個人的責任を明言している。「親の罪は子孫にも」ではなく、親の罪は親の罪、その罰は親のみが受けるという思想である。この思想はエゼキエルでもはっきり現れる。

31;29-31「見よ、その日が来る-主の言葉。わたしがイスラエルの家とユダの家と、新しい契約を結ぶ日が来る。それは、わたしが手を取ってエジプトの地から連れ出した日に、わたしが彼らの先祖と結んだ契約のようなものではない。…これが、その日の後-主の言葉-、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約である。わたしは彼らの内面にわたしの律法を置き、彼らの心にそれを書き記す。こうしてわたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」
 これはおそらくエレミヤ書で最も中心的かつ重要な預言であろう。そして、旧約の中で、その精神がイエス・キリスト様の福音と使徒パウロが理解した主の福音に最も深くつながる箇所だと思う。出エジプトの古い契約を破棄し、新しい契約を預言しているからだ。新しい契約は石の板に刻み込まれた律法ではなく、「内面に」すなわち一人ひとりの心に聖霊によって書きこまれる律法である。
 しかし、エレミヤはその日が来ることを預言したのであって、モーセが古い契約をイスラエルの民と神の間に結ばせたようには、その新しい契約を実現させはしなかった。できなかった。その使命も与えられてはいなかった。その日が来ることを預言しただけだ。
 では、その日はいつ来たのか?主イエス・キリスト様によって実現したというのが答えだ。新しい契約が実現する時、霊によって人は新しく生まれる。イエス様はそのことをニコデモに語られた。(ヨハネ3章)群衆には天からのパンを食べなければ永遠の命はないと話された。(ヨハネ6章)そして、新約の過越しを定められた。(ルカ22章)「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約である」と。
 それはモーゼが犠牲の牛を祭壇と民にふりかけ、契約の書を取って「見よ、これは、主がこれらのすべての言葉に基づいてあなたたちと結ばれた、契約の地である」(出24;8)と言った言葉と対照するとよくわかる。この時、契約の書はイスラエルの民の内心には書かれておらず、外的な物であった。エレミヤはそれに代わる新しい契約、内心に書かれる契約を預言した。しかし、その実現は主イエス・キリスト様の死と復活による救いの御業と聖霊の働きを待たなければならなかった。そして、それを最もよく理解したのが使徒パウロだった。律法は契約の内容であり、新約では心に刻みつけられる。

32;17「ああ、主なる神よ、あなたは大いなる力と伸ばされた腕をもって、天と地を造られました。あなたには不可能なことは何一つありません。」32;26も参照。
 神の全能への信仰。天地創造の確信。ただし、表現は「腕をもって」など比喩的。太陽礼拝も偶像崇拝として断罪された。(エゼキエル8;16)太陽も被造物だからである。

33;6-9「見よ、わたしはそれに回復と修復をもたらす。わたしはそれらを癒し、彼らに全き平和と安らぎを享受させる。…わたしは、彼らがわたしに対して犯したすべての悪を清め、わたしに背いて犯したすべての悪事について彼らを赦す。」
 癒しと赦しの神。破壊の中に投げ出すだけでなく、回復させ、懲らしめるだけでなく癒し、騒乱の中に放り出すだけでなく、平和と安らぎを戻し、ただ赦すだけでなく、人に染みついた悪を清める。それは人にはできないことだが、神にはできる。

35;15「わたしはまた、わたしの僕である預言者たちをお前たちのもとに遣わし、何度となく遣わして言った。『さあ、各々、自分の悪い道から立ち返り、お前たちの行いを改めよ。ほかの神々に従って、これに仕えてはならない。そうすれば、わたしがお前たちとお前たちの先祖に与えた土地に住むだろう』と。だが、お前たちは耳を傾けず、わたしに聞き従わなかった。」
 イスラエル民族の根本問題。これは悪い小作人の喩え(マタイ21;33seq.)や主の嘆き(マタイ23;37)につながる呼びかけだった。またヘブライ人への手紙1;1を想起させる。

36;4「バルクはエレミヤが口述する、主がエレミヤに語られた主の言葉をすべて巻物に書き留めた。…バルクは彼らに答えた、『エレミヤがこれらの言葉すべてを口述し、わたしはそれをインクでこの巻物に書き留めました。』」
 36;10,12では、二回も書記官という役職も出て来る。バルクの行為は当時イスラエルではすでに読み書きが日常的に行われていた証拠の一つ。もちろんインクはあったわけだが、何でできていたのだろうか?巻物はパピルス紙だったのだろうか、羊皮紙だったのだろうか?文書を書き読み、保存するということができていたから聖書もできた。これは聖書の成り立ちについて貴重なヒントを与える。
 ヤコブの祝福(創世記49章)、モーセの祝福(申命記33章)、デボラの歌(士師記5章)などを読むと、人々の間に伝承されてきた感じがする。ヘブライ語も古い感じで難しい。それは記述化された伝承になってものを聖書記者が利用したのだと推察できる。聖書記者はヤーヴェ伝承やエロイスト伝承などに基づいて、そのイスラエルの正統信仰の立場から歴史、預言メッセージ、詩的祈り、教訓録、文学を書いた。そのまとまりがやがて旧約聖書になったのであろう。紀元数百年前にそれが行われていたことは驚きに値する。
 それにしても、では誰がそれを書いたのか?つまり聖書記者は誰だったのか?トーラ(モーセ五書)はモーセが書いたのではないことは明白だ。彼の死後少なくとも数百年して書かれた書だろう。単なる書記官に書けるわけがなかった。レビ記などはおそらくレビ族の司祭階級の誰かだったに違いない。しかし、申命記はイザヤやエレミヤのような思想の人でなければ書けなかっただろう。いったいトーラを書けたような人は誰だったのだろうか?「主の言葉が彼(エレミヤ)に臨んだ」のような書きぶりを見ると、エレミヤ書は彼自身が書いたのではないことは確かだろう。彼の言葉を書き留めたり手紙をもっていたりした人が彼の死後まとめたのだろう。それはバルクである可能性はある。だとすると、申命記はエレミヤが書いたのかも知れない。あるいは第一イザヤが書いたのかも知れない。あるいは無名だがイザヤやエレミヤに匹敵するような人物が書いたのかも知れない。
 いずれにせよ、エレミヤ書では偽預言者がいっぱい出て来る。だとすれば、聖書に収録された預言者は神から遣わされた正真正銘の預言者だということになる。しかし、彼らを正真正銘の預言者だと断定できたのは誰であろうか?
 イエス様のご昇天後まだ40年も経っておらず、主の言行の生き証人がまだいた時代に書かれた新約聖書とは違い、モーセの死後数百年後に書かれ始めた旧約聖書は、いったい誰がそれを書いたのか、書かれたことが言葉や事跡が本当に神からのものだと誰が決め、誰が保証したのか確証がない。カトリック教会とは違い、誰も保証していないのだ。イスラエル民族がそうだと信じて来たからという理由は、私にとっては聖書が真実を語っている証拠には全然ならない。ユダヤ教のラビたちがそれを本当に神の言葉だ、神のなさったことだと言っても信じる根拠にはならない。彼らにその権限があるとは思えないからだ。
 それは紀元90年にヤブネに生き残ったラビたちが集まってヘブライ語の現マソラ本聖書を定めたことにも通じる。彼らが決めたからこの聖書に権威があるなどと言えるだろうか?彼らは学者だったが、預言者でも神から遣わされた者でもなかった。そうなると、旧約聖書はなぜ神の言葉と事跡を伝えるものだと信じ得るのか?という問題に直面する。
 私が旧約聖書を神の言葉と事跡を伝えるものとして信じ得るのは、教皇様をいただく、唯一、聖、公、使徒伝来の教会がそうだと保証してくれるからだ。その教会はイエス・キリスト様から全世界に福音を宣べる付託を受けた。だから権限があり、その保証は信じるに足る。私はそう思っている。もしイエス・キリスト様を約束された神の子、マーシアーハとして信じないならば、聖書も信じるに値しなくならざるをえない。たとえどんなに興味深い書であるとしても。バラクが巻物に書いた行為から連想して出てきた考察である。

41;9「イシュマエルが打ち殺した人々の死体すべてを投げ入れたのは、ゲダルヤの水溜めであった。それはアサ王がイスラエル王バシャに対する備えとして作ったものであった。ネタンヤの子イシュマエルはそれを殺された者たちで満たした。」(フランシスコ会訳)
 ある字句や事柄などについて、解釈が原典と翻訳書、あるいは翻訳書間で別れることは少なくないが、エレミヤ書ではそれが他の書よりも多いと感じる。ここはその一例だ。
 まずゲダルヤという人名だが、ヘブライ語ではגדליהו(Gedal’iahu)、ドイツ語はGedalja、英語はGedali’aとして、ヘブライ語発音に近い。しかし、ギリシャ語訳LXXではΓοδολιας(Godolias)と表記した。ラテン語はそれを受け、Godliasと書き、仏語はGodoliasとした。邦訳でもドンボスコ訳はゴドリアと表記している。
 ところで、ヘブライ語原典をそのまま訳すとこうなる。
「イシュマエルがゲダルヤの手で打ち殺した人々の死体すべてを投げ入れたその水溜めは、アサ王がイスラエル王バシャに対する備えとして作ったものであった。ネタンヤの子イシュマエルはそれを殺された者たちで満たした。」
 英仏語訳を比べてみる。
“La citerne où Yishmaël avait jeté tous les cadavres des gens qu’il avait tués était une grande citerne, celle que le roi Asa avait aménagé contre Basha, le roi d’Israël. C’est elle que Yishemaël, fils de Netanya, emplit de cadavres.”
 この仏訳はギリシャ語LXX訳とラテン語ブルガタ訳とまったく同じ内容だ。フランシスコ会訳はune grande citerneの所をゲダルヤの水溜めとしている点が違う。
 では英語はどうか?(RSV版)
“Now the cistern into which Ish’mael cast all the bodies of the men whom he had slain was large cistern which King Asa had made for defence against Ba’asha king of Israel; Ish’mael the son of Nethani’ah filled it with the slain.”
 英訳もほぼギ、ラ、仏訳と同じだ。それは何を意味しているだろか?ヘブライ語原典の「ゲダルヤの手で」を認めないということだ。原典とは言え、それまで伝わって来たある写本を、ユダヤ人学者たちが紀元90年に「これが標準本(マソラ)だ」と定めたものに過ぎない。間違いや意味不明箇所がないわけではない。そして、ここはそのケースなのだ。
 ところで、イシュマエルが「ゲダルヤの手で」人々を打ち殺したと言うことは歴史的にあり得なかった。だから、どの訳もそれを受け入れなかったのだ。ゲダルヤは征服者のバビロン王から信任されて占領地ユダヤの統治を任された総督だった。いわば親バビロニアだった。イシュマエルは逆に反バビロン派で、やがてゲダルヤを暗殺し、エジプトに逃げた。ゲダルヤが彼を手伝って人々を殺すわけがなかった。第一イシュマエルがその水溜めに死体を投げ込んだとき、ゲダルヤはもう暗殺されていた。事実が不可能を証明している。
 しかし、「ゲダルヤの水溜め」と訳すことは根拠があるのだろうか?ちなみに、ドンボスコ訳は英仏訳に似るが、新共同訳は「ゲダルヤの名を使って」としている。いずれにせよ、ギリシャ語訳、ラテン語訳などはそこにゲダルヤの名を一切出していない。
 フランシスコ会訳はこの点についてp.2123注釈(2)で、『「ゲダルヤの水溜め」は、彼の暗殺と遺体の廃棄のためにそう呼ばれるようになった。ヘブライ語のテキストは「ゲダルヤの手によって」と読むが、これを「ゲダルヤとともに」または「ゲダルヤのことにあたって」と解する者もいる。ほとんどの現代語訳は、言葉を二つとも変えて、「大きな溜池」と読む。本訳は「手によって」のみを「水溜め」に読み替えた』と説明している。
 私としてはドンボスコ訳が一番良いと思う。共同訳のように、原典にもない意味を加えて、「ゲダルヤの名を使って」とするのは邪道だと思う。他方、フランシスコ会訳は一つの考え方だが、もともと「ゲダルヤの手で」が間違いであるなら、ゲダルヤの名にこだわる必要はなく、ほとんどの現代語訳に準じればよかったのではないか。「ゲダルヤの水溜め」と呼ばれるようになったいわれは注釈に書けば十分だったと思う。いずれにせよここは、本当はどう書かれているか、翻訳は正しくされているかを考えるきっかけの一つになった。

 まとめとして、ヘブライ語原典マソラ本とギリシャ語LXX訳を比較考察してみる。
 エレミヤ書が他の書と大いに違う点は、ヘブライ語原典マソラ本とギリシャ語LXX訳で章の並べ方が非常に違うことだ。現代諸国語訳はヘブライ語の章節と同じである。それはラテン語のブルガタ訳にならったからだろう。しかし、ギリシャ語LXX訳は25章13節以後がまったく違い、錯綜している。それについては、「行間伝いの聖書自問自学」No.12「エレミヤ書を学び直す」で書いたので繰り返さないが、ギリシャ語LXX訳は内容の量がヘブライ語マソラ本より約十分の一少ないと言われる点もある。
 では、ギリシャ語LXX訳はヘブライ語原典を省略して訳し、勝手に章節の順序を変えたのだろうか?もしそうなら、信用できないのだろうか?ところが、答えは逆のようなので興味深いのだ。なぜそんな答えになるのかと言うと、ギリシャ語LXX訳は紀元前250年ほど前に、エジプトのアレキサンドリアで70人の訳者によって翻訳された。だからLXX(Septaginta:70)訳という訳だが、ヘブライ語マソラ原典は紀元90年にユダヤ人学者たちによって標準聖書として定められたものだ。原典とは言え、元々の原本はとうの昔に擦り切れてなくなっていたであろうから、連綿と書き写されて来た「写本」の一つであることには変わりがない。オリジナルではないのだ。それもLXX訳より350年ほど後の写本だ。つまり、LXX訳はヘブライ語マソラ原典から訳されたのではない。
 従って、省略した事実はなかったことになる。それだけではない。LXX訳は紀元前250年前にあったヘブライ語原典の写本を訳したはずなのだから、300年前のヘブライ語原典の写本はずっと後に決まったヘブライ語原典マソラ本よりずっと先輩であり、より原本に近いからより貴重であるとさえ言える。少なくともヘブライ語原典マソラ本が決まる300年前には、章節が現在のヘブライ語原典とは別の、十分の一短い写本があったことが推定できる。
 では、その写本は現在のヘブライ語原典と違うから間違っていると言えるかというと、そうではない。むしろ、300年前の写本の方が本物に近かった可能性も否定できない。そうしてみると、LXX訳はギリシャ語だが、内容は300年も古いヘブライ語原典写本を反映しているから、非常に貴重だと思われる。仏訳La Bible de Jerusalemはどちらかというと、ギリシャ語訳を非常に尊重しているが、以上の考察からすれば、私はそれをたいへん思慮深いスタンスだと思うようになった。現在のヘブライ語原典マソラ本は絶対ではないのである。ラテン語ブルガタ訳はそれを最大限尊重した訳で、そこがまたブルガタ訳の素晴らしい点だが、ギリシャ語LXX訳も実に尊敬すべき個性のある訳だと思う。

春を待つ

 節分の翌日、わが家の小さな庭の片隅に福寿草が2輪開いているのに気付いた。露地だから遅いのだが、毎年この季節になると、明るい黄色の花を咲かせる。何という律義さだろうか。この花は早春の使者、日差しの微笑みを集めてくれる地上の小さなパラボラアンテナのように思える。

 ところが今年は天候がガラリと変わった。2月8日は朝から大雪になり、都心でさえ28㎝も積もった。49年ぶりとか。町田辺りではおそらく30㎝にはなったのだろう。9日の日曜日にはそれでも教会へ行こうと、難儀してバス停まで歩いたのに、何とバスは運休だった。帰宅してからの雪かきも大変だった。雪国の人たちの苦労をちょっぴり味わった。80歳過ぎて屋根の雪降ろしをするなど危険でもあるし、どんなに骨の折れる作業だろうかと思いやられた。おかげで、福寿草は雪に埋もれてしまった。どうなっているかはわからないが、春到来はしばしお預けとなった。 

 しかし、精神的な面では今年は今が早春の感じだ。まだうすら寒い空気が時々どこからか流れて来る感じはするが、もうそれは気にしないことにした。精神的な早春とは、手を貸す運動Ⅱが軌道に乗り始めたことだ。ずっと何も書かないで来たから、そのことに少し触れておこうと思う。
 手を貸す運動Ⅱは文書面では2013年12月15日に立ちあがったことになっているが、初会合は1月13日にカトリック町田教会で開かれた。再スタート趣意書や規約を配り、15人で和気あいあいのうちにいろいろのことを決めることができた。
 1月25日は運動Ⅱニュース1号を発行した。外国にも送るので、英語版も作ったが、全部でA4 用紙10頁にもなって重労働だった。でも、まだまだこんなにできると、自信になった。日本語版は650部印刷した。これはあるシスターの手紙のことともう一つの問題があったので、手を貸す運動清算人として旧手を貸す運動全支援者にそれを知らせるためだった。その返事は2通の抗議以外すべてが喜びの反応で、支援者の数は日々増え、何よりの励ましになっている。
 そして、2月9日付のカトリック新聞は「新生・手を貸す運動Ⅱ」のタイトルをつけ、6段抜きの記事で、この再スタートを取り上げてくれた。これは手を貸す運動を真に継続するのは、手を貸す運動Ⅱであることを知らしめるカトリックでのお墨付きになり、私たちにとって大きな力添えだった。この記事はまるで私たち支援活動の世界に、春が来たぞと知らせる福寿草のようでもあり、神様の恵みの微笑みを集めるパラボラアンテナのようでもあった。実際、その記事を読んだ方々からぼちぼちと反応が届いている。ありがたいことだ。神様が祝福してくださっているのだと感じる。

 手を貸す運動Ⅱそのものについても少し書いておこう。
 これは新生手を貸す運動だ。だから、旧手を貸す運動の理念も方法もほとんどは踏襲になる。だが、全部をではない。よくなかった点は捨てた。例えば、その一つにボランティアの人たちを「スタッフ」とか「運営委員」とか呼んでいた仕組みがある。それを踏襲しなかったのは、それが私の失敗だったからだ。
 旧手を貸す運動のスタッフとは、ほとんどが年に4,5回の手伝いか3回の委員会に出るだけで、献金もさほどはしていなかった人たちだったのに、一般支援者たちは彼らが「いつも本部に詰めているスタッフ」とでも理解していたらしく、振替の短信によく「スタッフの皆様ご苦労様です」などと書いてきた。そういうねぎらいを読む度に、「それほどのことはしていないのに…」と、私はそう誤解させてしまったことを申し訳ないと思ったものだ。
 今だから言えるが、そんな「スタッフ」らに手を貸す運動の方向を左右する議決権が与えられていたのは分不相応だったのだ。これが私の一番の失敗だった。運動の精神も過去もろくに知らず、たいして献金もせず、たかが年に数回集まるだけの委員やスタッフが、彼等よりもずっと長年月支援に参加し、比較にならないほど貢献していた一般支援者を差し置いて、あれこれ議決するのはおこがましいことだったのだ。ましてや創始者の意志し反したことまで多数決で決めるとは、最たるおこがましさだった。
 だから手を貸す運動Ⅱではスタッフという呼称は捨てた。その代わり、実働してくださる方々はサーボランと呼ぶことにした。Server(仕える者)とVolunteer(自発的奉仕者)を足して略したServolunという私が考案した新語だ。それには人々に「自発的かつ謙虚に仕える者」という意味が込めてある。言い換えれば、創始理念の尊重と、全支援者の召使であるという自覚が求められているのだ。ただ、これからその精神で実践していかなくてはならないので、たぶんこれが一番難しいことの一つとなるだろう。

 手を貸す運動Ⅱは新ビジョンも掲げた。その一つが「主の福音の分かち合い」だ。旧手を貸す運動でも私個人の中ではこれが一つの目的だった。しかし、それは表に出さず、もっぱら最貧国の子たちの教育支援を目的に掲げていた。給食援助は教育を促進させるためのインセンティブになるからやったし、教師たちへの緊急援助も教育を推進するためだったのでやった。それは手を貸す運動Ⅱでも維持する。いや、この目的でなら他宗教の人も無宗教の人も参加できるので、むしろこれは共通目的として大切に維持しなければならない。
 しかし、それだけでは人道主義、博愛主義の団体と同じだ。そういうためならユニセフなどに参加すればいい。わざわざ手を貸す運動Ⅱを立ち上げるまでもない。ところが、カトリック信者の私たちだからこそできることがある。だから、小さくてもよいと言う思いで、手を貸す運動Ⅱをスタートさせた。カトリック信者の私たちだからこそできることとは、それこそが「福音の分かち合い」だ。だから、それを新しい目的として鮮明に表明したのだ。
 福音の分かち合いとは、ステレオタイプの言葉で言えば「福音宣教」のこととなるだろう。しかし、私はその用語は使わない。もたらす側からは「教える」感じが強く、受ける側には「押し付け」の感じがするだろうからだ。昔は宣教を布教と言った。織田信長が武力で天下統一を計ったのが「天下布武」なら、宣教は教えで天下統一をねらうような「天下布教」の感がある。私の気持とは合わない。
 言葉も使っているうちに垢で汚れ、最初とは違う意味合いになってしまうことがある。例えば「貴様」だが、貴は高貴の貴、様は殿様の様、2字で最高の尊敬語になる筈なのに、旧軍や戦前の警察が「貴様!」と怒鳴る時に使ったから、以後「貴様」は尊敬どころか、最たる罵声を浴びていると受け取られるようになった。布教にも宣教にもややそんな感じがある。少なくとも言葉が痩せて硬い。
 そんな言葉を無神経に使うことは耐えられない。だから私は「福音の分かち合い」と言う。私は主の福音を「天の父からの最高の贈り物、魂の糧、神の国の朽ちない冨」だと受け止めて来た。そんな素晴らしいものなのだから、できればそれを知らない人たちに気づいてもらい、それを分かち合いたい。無理強いはしない。でも、求める人とは喜んで分かち合う。それが私の言う「福音の分かち合い」だ。それはフランシスコ現教皇様が一番望んでいる願いとも重なる目的だと思う。
 だから、私はこれを新しいビジョンの一つに掲げた。ところで、これはイエス・キリスト様による福音の分かち合いだから、キリスト者にとっては崇高な目的とはなるが、同時に他宗教や無宗教の方々には受け入れ難い目的になるのは想像に難くなかった。果たせるかな、その点が準備段階で問題になった。非キリスト者の方々から「この目的には同意できないが…」という声が聞こえたのだ。言い換えれば、その目的は手を貸す運動Ⅱの独自性または存在理由になるが、同時に障碍にもなる得ることを意味していた。
 そこで私が導き出した解決は、教育で科目に必修と選択があるように、手を貸す運動Ⅱの目的でも必須と選択を設け、選択の自由を明言することだった。この運動の目的は単一ではなく複数あるからだ。具体的に言えば、教育、給食、医療支援などの人道援助は必須目的だが、それに対して「福音の分かち合い」は選択目的とした。後者は推奨されるが、視野に入れなくてもよい目的だ。選択は自由。前者は共通だが、後者は特殊だ。
 共通目的を拒むなら手を貸す運動Ⅱには加われないが、特殊目的になら同意しなくても加われる。また共通目的も、共鳴するのは教育支援だけだから、それにだけ賛同するというのなら、それでも十分。どれか一つに賛同できれば、他の目的や活動に否定的でも構わないという解釈だ。この問題はこのような理解で解決した。

 何はともあれ、手を貸す運動Ⅱはこうしてスタートした。今後どうなるかはわからないが、想定できること対しては覚悟ができている。何が起ころうと、気張らず、挫けず、穏やかにやっていきたい。いつまで関わっていても仕方のない人たちの団体とは、もう関わりをやめることにした。ローマのシスターの手紙にも「もうそのことは忘れて、主にお任せなさいませ」とあった。彼らを赦し、そのあとは視野から外すようにしようと思う。
 久しぶりの近況を綴った。今は春を待つ。今年は穏やかな春であってほしいと願いながら…

プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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