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狸出現

 驚いた。今日、わが家に狸が現れたのだ。妻が「狸が来ている!」と書斎へ呼びに来たので、急いでダイニングルームに行ってみると、なるほど窓の下に猫ほどの動物が、ホタテ貝の殻をなめているではないか。茶色よりもグレーに近い毛並で、確かに狸だった。そこにはミニョンのペット用肉の缶詰の空き缶があったので、その臭いも狸を呼び寄せてしまったのだろう。
 しかし、毛並が悪く、毛が抜けているようにさえ見えた。どうもジステンバーにかかっているのではないかと思われた。まだ成獣ではないが、まったくの子狸でもない。親別れしたばかりの若者なのだろう。食べ物にありつけなくて、こんな住宅街にまで出てきてしまったのかも知れない。冬なら丸々しているはずなのに、やせて細かった。
 妻と私が家の中から見ているのに気付くと、急いで垣根ぞいの植え込みに逃げ込み、一度二度振り返ってこちらの様子をうかがっていたが、追われると思ったのか隣の木村家の裏庭に下りて逃げた。庭に出て、隣家の庭をのぞいてみたが、もうどこにも姿はなかった。わが家の近くには奈良北団地の近くにクヌギの林があり、成瀬山公園には広い雑木の林がある。狸たちが隠れ住む場所はなくはない。しかし、彼らが犬に襲われずに一番安心して住めるのは、道路沿いの蓋のある側溝かも知れない。猫以外はそこには入らないからだ。
 思わぬ狸の出現に宮崎駿監督の「平成狸合戦ポンポコ」を思い出した。人間がどんどん山野を開発してしまうので、狸たちの棲むところがどんどん奪われてきた。それを何とか食い止めようと、人間社会にユーモラスとも悲壮とも言える戦いを挑むのがこのアニメだ。それを見ると生き物たちに悪いなあと、繁栄を誇る人間の一人であることに何となく罪悪感のような負い目を感じる。そう言えば、あのアニメはわが家から遠くない多摩丘陵に建設された多摩ニュータウンが舞台だ。
 わが家に来た狸もきっと、きわめて住みにくい環境の中で生きることを強いられているのだろう。憐れだ。うかうか出歩けば散歩の犬に出遭って怖い思いをするだろうし、車にひかれそうにもなるだろう。味方になってくれるものは皆無だろう。人も動物もみんな敵と見るしかあるまい。夜なら少し安心して歩けるだろうが、夜は猫がうろついている。侮れない強敵だ。野良猫は小鳥も捕食できるが、狸にはできない。食物は残飯や虫をあさるぐらいしかないだろう。きっと今日の狸もひもじさに耐えかねて出てきたのだ。
 しかし、憐れんでばかりもいられない。野生動物だから狂犬病や他の病気の予防注射などしていない。どんな病気をもっているかわからないし、ジステンバーらしいのが気になる。わが家のミニョンが庭に出た時に鉢合わせして咬み合いになり、たとえ負けなくても傷を負って、病気をうつされでもしたらと心配だ。明日からはそれに気を付けないといけない。動物は大好きだが、ミニョンに害を及ぼされるのは困る。あの狸、もう一度わが家に現れてほしいような、もう二度と来てほしくないような珍客だった。
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初奉献、初読み

明けまして、おめでとうございます。
2014年は午年なので、天馬ペガサスの絵を掲載します。
天馬ペガサス
  天馬ペガサス 
  天行けば
  今年の希望は
  天高く
  われらの夢も
  天(あま)駆ける
 
 夢の字を見てもらえば、一番下の部分が「夕」の字でなく、「月」の斜体字のようになっているのに気付かれると思います。こんな漢字はありませんが、これは夢は夢でもただの夢ではない。たった一点多いだけだが、その一点で意味がまったく違ってくるのだ。これはドリームというより、ヴィジョンを意味する夢なのだ、ということを表した独特の夢の字です。玉川学園創立者、故小原國芳先生の説の受け売りですが…

 夢 夢を持とう 夢に生きよう 夢がなければ、民は滅びる
 夢 夢があれば 目は輝き 魂も輝く 夢があれば

 ところで午年と書いて馬年と読みますが、それにちなんだ豆知識を一つ。
私たちは一日を午前と午後に分けますが、なぜ12時前を午前と言い、それ以後を午後というのか、ご存知ですか?答えは簡単。午前午後の「午」は昔の刻限では「午の刻」(うまの刻)を意味し、午の刻は現在のちょうど12時に当たるからです。だから、午の刻の前は午前、午の刻を過ぎた時間を午後と言うわけです。
 
 さて、今年は元日のミサに与かりました。私としては珍しいことですが、実は神様に奉献したい事柄があったからです。何かと言うと、手を貸す運動Ⅱを始動したので、それを主のみ心に添うよう捧げて、聖別していただくためでした。初奉献でした。
 旧手を貸す運動はいくつかの欲で歪められてしまいました。手を貸す運動Ⅱは旧手を貸す運動の理想はそのまま継続しますが、福音を分かち合うこと、福音を分かち合うために人々と地上の富も分かち合うこと、という目的を鮮明にします。そして、最も必要なところを支援します。「気張らず、挫けず、穏やかに」がそのスタンスです。
 今日は初読みもしました。旧約聖書原典通読の続きですが、ちょうどさしかかっていたエレミヤ書30章31章です。31章は新しい契約のことが書いてあるすごい章です。「主の言葉:わたしは彼らの内面にわたしの律法を置き、彼らの心にそれを書き記す。」石版や巻物に書かれた律法ではなく、心に書かれた律法。聖パウロが言った心の割礼と響きあいます。しかし、これは主イエス・キリスト様によってしか実現しませんでした。預言者エレミヤは告げただけで、実現とは程遠かったのでした。ここに聖書のメッセージがあります。心満たされた初読みでした。
 みなさん、今年もどうぞよろしく。
 
 
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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