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裏切り

 手を貸す運動が終止になって、自分では気づかなかったが、やはり気落ちしていたのだと思う。ここに書く気が起きなかった。やっと何か少し書いてみようかなと言う気になって、次の日曜日の福音を見たら、ルカ16;1-13不正な管理人のたとえだった。これは不正な富の使い方とも言えるが、かつてはあまり好きではなく、少年たちのためにはなるまいと思って、「イエスが行く」には入れなかった譬えだ。
 ところが、4年前その受け止め方が変った。この譬えの面白さ、普遍性がわかったからだった。その時に書いたコラム「先のことを考えれば」を読み直してみたら、自分でももうこれ以上は書けないと思うほどよく説明し、そのメッセージを的確に表現してあった。では、もう付け加えることはないか?と自問してみたら、あった。それは真の友と裏切りというテーマだ。しかし、まずは四年前に考察したこの譬えの真髄とメッセージを要約しておこう。

 イエス様は弟子たちにある悪賢い管理人の譬えをお話になった。当時のイスラエルでも不在地主は財産管理や運用を地元の管理人に任せていたので、ひょっとしたらそれに似た実話があって、イエス様はそれを教材になさったのかも知れない。その管理人はある日、主人に呼び出され、「会計報告を出しなさい。もうお前には管理を任せておけない」と言い渡されてしまった。「この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった」とあるから、きっと彼に反感か恨みを持った召し使いが通報したのだろう。
 そこで、この管理人は考えた。「どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ、こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分の家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ」と。そして、悪知恵が本領を発揮した。職を失っても、恩を売って自分を引き受けてくれそうな人に目を付けたのだ。
 彼は主人に借りのある者を呼んで、一人には油百バトスの証文を五十バトスと書き変えさせ、もう一人には小麦百コロスの証文を八十コロスと改ざんさせた。彼は会計の不正ですでに主人を裏切っていたのに、これはその上塗りの呆れた背信行為だった。しかし、ここでまともな借り手なら、「そんなことをしていいんですか?」と、後のことを恐れて諌めるかためらうはずなのに、この借り手たちも狡猾な人たちだったのだろうか、どうやら彼の誘いに乗ったようだ。
 証文の借りはすべて農産物だ。昔は地代を払う代わりに生産物を地主に物納した。借り手は滞納した借りの産物がつけのようにたまってしまい、証文を取られていたのだろう。管理人はそれをうまく利用したが、借り手たちもその不正行為の共犯者となったのだ。もっとも、福音書を読む人の多くはこの点にはあまり気付いていないようだが…
 しかし、「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」とあるから、どうやらこの策謀は発覚してしまったようだが、イエス様はそこから次のようなことを教えて言われた。「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」と。
 イエス様が奨めたのは世の子らの賢さと、朽ちる富を永遠の命のために利用することだ。この譬えが管理人の悪知恵を是認し、褒めているように思えるから、何だか気まずくて嫌だと思うキリスト者もいることだろう。私もかつてはそうだった。しかし、4年前の考察で変った。この譬えで、実社会のそんな汚い密談の譬えから、永遠の命のことを考えさせてくださる主の懐の深さに感銘を受けたからだ。
 譬えの主人と同様にイエス様がほめた管理人の賢さとは、先のことを考えたことだ。この世で生き永らえるためだけだったが、その抜け目なさはやはりたいしたものだった。実際、この世の子らはこの世の命や富のためなのに、実に賢く真剣に考えかつ行動している。管理人はその一例なのだ。それに比べると、光の子らはどうだろうか?この世とは比較にならない永遠の命に招かれているというのに、賢さと本気度ではどうも彼らに及ばない。
 永遠の命という先のことを考えれば、光の子らはこの世の子らよりももっと知恵を働かせ、もっと本気になって生きなければならないはずなのだが、現実はそうしてはいないということだ。きっとその時点の弟子たちも私たちと五十歩百歩だったのかも知れない。だから、主はしっかりしなさいと励まされたのだろう。弟子たちに言われたことは私たちにも言われたことだ。それがこの譬えの主たるメッセージだと思う。

 ところで、主は「不正にまみれた富で友達を作りなさい」と言われたが、それは原文を厳密に読むと、「不正にまみれたあなたの富」だ。それを聞く私の立場で解釈すると、それは私が不正をして得た富という意味ではなく、富とはそれ自体がもともと何か不正に染まっているもので、それが今私の手にあるという意味だろう。多くの人を介在して私に至った物だからだ。そういう自覚があるから、私は持っている富のいくばくかを手を貸す運動を通して貧しい子たちと分かち合って来た。
 それは私にとって「不正にまみれた私の富」を天に積む宝に浄化する「天国へのマネーロンダリング」だった。この運動の「富」によって私は永遠の命という先のことを考え、多くの友達をつくることができた。それは現地の人々と子どもたちだ。しかし、友だと思っていた仲間には真の友ではない人々もいた。彼らは単なるお付き合いの間柄に過ぎなかった。手を貸す運動を終わらせざるを得なくなった苦境の中で、本当の友とはどんな人かを知ることができたのだ。
 真の友と裏切り。ここに前回の考察になかった今回の追加テーマがある。裏切りとは、木を切る時まず裏側に斧や鋸で浅い切り込みを入れる園芸用語だ。そうすると、表から切って行った時、最後まで切らなくても倒したい方に倒せるし、枝ならすとんと切り落とせる。裏切りがあると倒れるやすくなることの比喩から、人を陥れたり失敗させたりするため、陰で工作したり敵に内通したりする背信行為も裏切りと言われる。ユリウス・チェザールも織田信長も裏切りで殺された。
 イエス様も裏切られた。ご受難の時はユダにだけではなく、ペトロにも否定された。この譬えの主人も裏切られた。信じていた管理人に二重の裏切りにあったのだった。そこでイエス様は暗にご自身をこの主人に、弟子たちを管理人に重ねておられる。そして、そういう背信の弟子にはなるな。でもその管理人の知恵の働かせ方だけは見習いなさいと教えられたわけだが、教会史を読むと、この管理人のような高位聖職者もいた。いわば彼らも主を裏切った者たちだったのだ。
 他方、その管理人は証文を改ざんしてやった者達と真の友になれただろうか?疑問だ。たとえなれたとしても、欲得でなった友なら、いずれ裏切ったのではなかろうか?私も友を失ったと思ったが、裏切るような人は真の友ではなく、友達もどきだ。それはこの譬えでもわかる。友達もどきなら失っても悔いることはない。では、世に真の友はいるのだろうか?いる。「慈しみ深き友なるイエス」がそうだ。私たちが主を裏切ることはあっても、主が私たちを裏切ることはない。
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プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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