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旅の途中の一休み

 私は今旅をしている。空間を移動する旅ではなく、時間の中を移動する旅だ。今日は終戦記念日で、68年前戦争が終わった日だが、私の時間の中の旅はそれをはるかに遡る旧約聖書の中の歩みだ。昨年7月31日にヘブライ語原典で通読を始めてから1年とちょっと、今イザヤ書28章にさしかかっている。使っているのはユダヤ教のマソラ本だから、この書は全体のほぼ中間に位置する。そこで、ここらで一休みし、少しばかり感想を書いておくことにした。

 旧約聖書はイスラエル民族が残した壮大で貴重な未来への伝言だと思う。それを読むと、千数百年にわたる中東諸民族の栄枯盛衰、無数の人々の喜怒哀楽に触れることができる。しかし、ここで一休みしてまず感じることは、二千数百年も前に書かれた書なのに、現代ヘブライ語の知識が多少あれば何とか読めるというありがたさだ。日本最古の歴史書古事記や日本書紀はたかだか1300年ほど前の書なのに、私を含めて日本人のほとんどはもはや原文では読めない。ところが旧約聖書はその2倍も古いのに、現代イスラエル人でも容易に読めるのだ。私も今その恩恵のおこぼれに与っている。だから、これはすごいことだと感じ入ってしまう。

 ところで、空間を行く普通の旅では山あり谷あり湖沼ありで、同じペースでは進めないが、旧約聖書通読の旅にもそれに似た面がある。例えば、モーセ五書の出エジプト記やレビ記の祭儀律法などが書かれた箇所は、平坦だが草が繁茂してなかなか前に進めない場所のように思えた。知らない語彙がいっぱい出て来るわりには、内容は「穢れ」だとか「幕屋の仕様」だとか、さっぱり面白くない叙述の連続だった。それに比べ、出エジプト記前半や申命記は山脈の尾根を行く感じで、高尚な内容なのに、読むのはさほど難しくはなかった。
 聖書の構成の違いも体験した。モーセ五書の位置はユダヤ教もキリスト教も同じだが、それ以後はユダヤ教ばかりか、カトリックとプロテスタントでも違う。イザヤ書までで言えば、キリスト教聖書はヨシュア記、士師記、サムエル記上下、列王記上下等を歴史書というカテゴリーにまとめているが、ユダヤ教の聖書には歴史書と言うカテゴリーはない。それらの書を「前期預言者たち」と呼び、イザヤ、エレミヤ等のいわゆる預言書を「後記預言者たち」と呼んでいる。
 キリスト教ではその「後期預言者たち」を「預言書のカテゴリーにまとめている。ユダヤ教の聖書は「モーセ五書(トーラ)、預言者(ネビイム)、諸書(ケトビム)」の三部構成だが、キリスト教は「モーセ五書、歴史書、諸書、預言書」の四部構成なのだ。キリスト教旧約聖書のその構成は、初代教会がギリシャ語の70人訳(Seputaginta)を使用したことに起因すると言えよう。70人訳はヘブライ語がわからなくなったユダヤ人のため、紀元前3世紀にエジプトのアレキサンドリアで完訳された旧約聖書だ。他方、キリスト教の初代教会はユダヤ滅亡後ギリシャ語圏の国々に広がった。当然、旧約聖書はヘブライ語ではなく、ギリシャ語訳が使われた。
 ところで、70人訳はまさに「モーセ五書、歴史書、諸書、預言書」の四部構成」なのだ。この訳は紀元前3世紀のユダヤ人たちのためだったが、ヘブライ語原典の三部構成をとらなかったのだ。キリスト教はその70人訳を採用した。だから、当然ラテン語訳や後世のヨーロッパ諸国語の聖書もその四部構成を踏襲したのだった。ではヘブライ語原典と合わないから、70人訳の構成変更は邪道だったかというと、私はそうでもないと思う。むしろ内容に適って合理的だと評価する。それはヘブライ語原典が「前期預言者たち」と呼ぶ各書の内容を見ればわかる。
 それらはイザヤ書に入る前、私が5か月間読んで来た部分だが、実際の内容はイスラエル民族が「乳と蜜の流れる」約束の地カナンに侵入し、占領後そこに住みつき広がって行った過程の記録だ。ところが、そこでの主役はモーセの後継者ヨシュア、部族リーダーだった士師たち、列王記の王たちだ。確かに預言者は何人も出ては来るが、彼らは脇役で、主役ではない。それを見ると、「前期預言者たち」と呼ぶ各書は歴史書と言う方が妥当だとさえ思えるのだ。
 ところで、これらの書はナレーションが多くて読みやすかった。主語、述語、目的語、補語等がきまった位置にあるからだと思う。他方、内容となると、そこには申命記の影響が強烈に感じられた。特に列王記ではほとんどの王について「主の目に悪とされることを行った」という表現がリフレインのように出て来て、印象的だった。それによって、「主の目にかなう生き方」がイスラエル民族の行動基準だったことがよくわかった。
 では、「主の目にかなう」その基準はどこで示されたかというと、モーセ五書全般だが、申命記で最高潮に達していると感じた。私はここに旧約聖書の山頂があり、分水嶺があると見る。つまり、モーセ五書の他の四書はある意味で申命記に至るための上り坂であり、全ては申命記に圧縮されている。そして、いわゆる歴史書(前期預言者たち)になると下り坂になる。申命記で示されたイスラエル民族の理想の生き方は、カナンの地の現実に触れるや否や偶像教に汚染され、異民族と妥協して堕落背信の坂を下り始めた。その経過が証しされているのだ。
 「主の目に悪とされることを行った」というリフレインはその背信と転落の告発に他ならない。そして、最終的にその行き着く先は王国の滅亡だった。ダビデ王-ソロモン王時代は黄金期だったが、王国は間もなく北のイスラエル王国も南のユダ王国に分裂し、やがて北方の巨大な敵国によって滅ぼされる。イスラエル民族は神の民として生きる最初の実験に失敗したのだ。その理由は申命記の思想に基づく次の叙述によく表れている。
 「こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から導き上り、エジプトの王ファラオの支配から解放した彼らの神、主に対して罪を犯し、他の神々を畏れ敬い、主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国の民の風習と、イスラエルの王たちの作った風習に従って歩んだからである。イスラエルの人々は、自分たちの神、主に対して正しくないことをひそかに行い、…主が『このようなことをしてはならない』といっておられたのに、彼らは偶像に仕えたからである。」(列王下17;7-13)。

 「前期預言者たち」とはその証言の歴史書に他ならない。そして、「後期預言者たち」はイスラエル民族のこの背反と堕落を告発し、主なる神に帰れと叫び続けた人たちの預言の書だ。その呼びかけの基準はやはり申命記思想だったと言ってよかろう。ところで、申命記はユダの王ヨシアの時に神殿で見つかったとされている(列王下22章)。時は予言者イザヤが活躍した少し後だ。そこで私は想像する。申命記を書き上げた人は誰だったのか?と。そして推測する。ひょっとしたら預言者イザヤか、それに近い預言者だったのではなかろうか?と。律法主義のレビ族司祭たちではなかったことは確かだろう。彼らは預言者たちの批判対象だったからだ。
 モーセ五書の創世記を除く四書では「モーセは言った」とか「神はモーセに言われた」とかいう表現がよく出て来る。モーセ自身が五書を書いたのなら、そうは書かず「私は言った」とか「神は私に言われた」とか書いたはずだ。従って、「モーセは言った」とかいう言い方は、書いた人がモーセではなく、他の人だった証拠だと言えよう。では誰がモーセ五書を書いたのだろうか?ヨシュアや士師が書いたとは思えない。彼らはそういう関心が不在の時代の人だからだ。
 では誰がいつそれを書いたのだろうか?学者たちは旧約聖書が書き始められたのは、ソロモン王の時代だろうと推定しているが、多くは紀元前8世紀以降に書かれたようだ。もしそうだとしたら、BC1400年代のモーセの事跡や言動は700年も後の人によって書かれたことになる。もしそうなら、書かれた内容は果たして信じるに値するのだろうか?そういう疑問が湧いて当然だ。新約聖書は主イエス様の昇天後20年ぐらいで書き始められた。従って、生き証人がまだ大勢いたから信憑性が保証されうるが、旧約聖書は事情が大違いだ。
 しかし、旧約聖書も信憑性はあると思う。「神は言われた」というような中身が、すべて本当に神が言われたのかどうかはさておくとして、史実はかなり信じるに足ると思えるからだ。その根拠はこうだ。旧約聖書にはかなり早い時期から「書記」(Sofer)と言う言葉が出て来る。福音書の「律法学者」も同じSoferだ。それぞれの時代の基本的な出来事や伝承物語は、おそらく彼らが書き残しておいてくれたのだろう。ならば単なる作り話ではない。裏付けがある。
 後世の聖書記者はそういう資料を使って、モーセ五書や歴史書をまとめただと思われる。さもなければ、あれほど多くの地名や人名、出来事を書くのは不可能だっただろう。聖書は無名の書記たちが記録を残して行ってくれたおかげでできた。私はそう思う。そして推測する。モーセ五書や歴史書は、ひょっとしたらイザヤや他の預言者、あるいは彼らの弟子たちが書いたのではなかろうか、と。申命記を基準にした判断の共通性は私にそんなことを思わせるのだ。

 ところで、後期預言者たちの書の文体は歴史書(前期預言者たち)と比べるとずいぶん違う。もっとも第一イザヤに関してだけだが、そこではしばしば文法的な形が無視され、言葉は多彩豊富だ。だから、私は「預言書は難しい。なかなか進めない」と痛感している。預言書はまだイザヤ書に入っただけだが、預言は詩文的だ。詩篇とまったく同じくだりもある。預言詩と言っていいくらいだ。詩的だから比喩的表現や言葉が饒舌なくらい多い。私がフランス語で知らない語彙が頻繁に出て来る。そうなると、いちいち辞書を引かなくてはならない。だから疲れる。
 それにイザヤ書では活用形の原型が分からない動詞が少なくない。ところが原型がわからないと意味が特定できないから原型を探すのだが、ある時は一つの動詞の原型を突き止めるのに、2時間も費やしたことがあった。執念と意地で探したが、これではなかなか前に進めないわけだ。それに輪をかけて、旧約聖書には動詞の独特な用法がある。例えば「モーセは言った」と過去のことなのに、聖書ヘブライ語では「モーセは言うだろう」と奇妙にも未来形で表現する。それにも慣れなければならなかった。でも、私にとってはやはり古事記や万葉集よりは易しい。おかげで二千数百年前の書の世界を旅行できている。つくづくありがたいと思う。

 ありがたいと言えば辞書と訳本の存在がある。まず辞書だが、その編纂はどんなに大変だろうか!校正を想像しただけでも溜息が出てしまう。だから私は辞書編纂者には畏敬の念を覚えるのだが、ヘブライ語にも辞書はある。日本語ではキリスト教聖書塾の辞書しか知らないが、これは実に貴重だ。ただ所収語彙不足のため、これだけで聖書原典を読むのは難しい。しかし、この辞書にはユニークな長所がある。とても使いやすい動詞の活用表が付録されていることだ。そして、各動詞にはその活用表への指示が明記されていて便利だ。
 しかし、私にとって一番役に立っているのは、ラルースのヘブライ語―フランス語辞書だ。辞書にしては仏語のミスプリントが少々あるが、99.99%満足のいく辞書だと思っている。使い過ぎて表紙の背が崩れてしまったため、今年の2月頃、装丁をやり直してもらった。ところが、その不在の1ヶ月ほどは不明な語彙があっても飛ばして進まなければならなかった。何度不自由を感じたことか!この辞書は私のこの旅路では地図に当たる必需品だと見なしている。
 ところで、原典通読では私はヘブライ語で読んでいるだけではない。目の前にはいつもフランス語訳La Bible de Jerusalemと英語訳Revised Standard Versionがある。そしていつも手が届く書棚にはラテン語訳のNova Vulgataとギリシャ語訳Septuaginta(70人訳)があり、日本語訳の聖書も五種類ある。一部始終ではないが、私はその6か国語の聖書をヘブライ語原典と並行して読んできた。オリゲネスにあやかって言えば、この通読方法は私のヘクサプラということになる。もっとも私の場合は研究と言うよりは、ヘブライ語原典を私が正しい意味で理解したかどうかを確かめるためというレベルに過ぎないが・・・
 しかし、それでもこの通読の仕方のおかげでわかったことがある。まず、ラテン語のブルガタ訳だが、それがヘブライ語原典に非常に合致していることが確認できた。この通読のおかげでブルガタ訳が、いかに的確ですばらしい訳かも再認識し、かつてカトリック教会はこれを公用聖書にしていたんだと深い感銘を受けた。そして、ヘブライ語とギリシャ語を読み比べながら、たった一人聖地で聖書をラテン語に完訳した聖ヒエロニムスにあらためて畏敬の念を覚えた。
 フランス語訳La Bible de Jerusalemはずっと名訳だと思っていたが、原典と並行して読んでみたら、ヘブライ語g原典よりもむしろギリシャ語の70人訳寄りだということがわかった。しかし、それが名訳であることに変りはない。特にその注釈は優れていて役に立つ。英訳Revised Standard Versionはどちらかと言えばヘブライ語原典寄りだ。しかし、原典そのものも語彙や表現に毀損(corrompu)があり、意味が通じないことがある。そういう場合は70人訳に合わせてもいる。そして、かなりよい注釈があることも魅力だ。日本語訳では昨年刊行されたフランシスコ会訳が一番評価できる。訳そのものもわかりやすく品格があるが、特に注釈がいい。ただし、紙の質には少し落胆している。薄くてめくりにくい紙だから指先に唾をつけてめくると、指の触れた箇所が縮んでしまうのだ。刷りを重ねる時に改善してもらえたらと希望している。
 さて、次元の低い話題で終わるのは格好悪いが、感想はここまでにしようと思う。今真夜中少し前、何だか目がしょぼしょぼしてきて、もうキーボードを打ち続けられそうにないからだ。では、また明日から旧約時代の中で旅を続けよう。それは現実の悩みをしばし忘れられる旅だ。
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原爆投下の年の記憶

 今日、8月9日は68年前、米軍機が長崎に原爆を投下した日、忘れてはならない日だ。投下を許可したのは当時のトルーマン大統領である。東京裁判と同時に国際裁判で裁かれてしかるべき、人道に反する大罪であった。歴史の証人である一老人の私はそう確信する。しかし、長崎に原爆が投下されたことを、68年前の私は知らなかった。私も無知で愚かだったのだ。戦争の要因はあれこれあるが、そういう無知と愚かさが戦争の悲劇にかかわっていることは確かで、それは正しい情報から目隠しされていることによると思う。

 私が広島に原爆が落とされたことを知ったのは、二日後の新聞によってだった。私はその時少年整備兵として海軍相模野第二航空隊(通称二相空。現在の厚木航空基地)にいた。海軍に入って1年3か月の間に私が新聞を読めたのは2回だけだった。最初は長崎県の針尾海兵団にいた時で、ルーズベルト米大統領が死に、トルーマン副大統領が大統領になったというニュースだった。次が原爆が広島に落とされた2日後だ。情報統制されていたのに、この二つは掲示板に貼ることが許可されたのだろう。それほど大きなニュースだったのだ。味方の戦意高揚に役立つと思われたのかも知れない。
 原爆投下の見出しは「広島に新型爆弾投下」のようなものだったと記憶する。きのこ雲の写真が掲載されていた。それを読んだのは500キロ爆弾の直撃にも耐えられると言われていた、航空基地内地下12メートルの防空壕の中であった。その防空壕は現在の綾瀬市から大和市の方向に掘られ、500メートルほどの長さがあって、何百人もが寝泊まりできる設備の地下住居になっていた。空襲がある度に私たち兵士はそこに逃げ込んでいたのだ。
 だが、原爆投下の記事を読んでも、その時の私は「大変なものができてしまったんだな」ぐらいにか思わず、たいした危機感もなかった。正しい情報に接することもなく、しっかりと現実を認識する知力もなかったからだ。ことの重大さがわかり、自分の無知と愚かさを思い知ったのは、敗戦の結果除隊となり、航空隊から復員した後だった。当時の少年兵たちは本当のことをほとんど知らされていなかった。そして、日本は神国だから必ず勝つと信じ込まされていた。将軍様を絶対視する北朝鮮の人たちと見ると、当時の自分たちと重なって見える。情報から隔絶されているということは、権力者にいいように操られるということなのだ。それを身に染みて知った。これは私が戦争から得た一つの貴重な教訓だ。

 今振り返ると、何と愚かだったのかと思うことの一例はそれと関連する「神風神話」だ。まだ15歳だったとは言え、少年兵たちはみな本気でそれを信じていた。当時の小学校では先生たちが子供たちにそれを教えていた。かつて弘安四年の蒙古襲来の時、十万余の敵を乗せた大船団を前に、日本の武士団は全く劣勢だった。だが、その時幸運にも暴風雨が襲来し、海上の船団を全滅させ、日本は侵略から救われた。この天佑体験から、日本は神国だからいざと言う時には神風が吹いて助けてくれる、という神話ができた。先生たちはまことしやかにそれを教えていた。いや、教えざるを得なかったのかも知れない。しかし、当時の子供たちは情報手段が少なかったから、先生の話を信じた。私も例外ではなかった。
 1945年春ごろには下っ端の私たち少年兵でも、戦争が敗色濃くなっていることを感じ始めていた。なぜなら、空襲警報が出る度に、大和基地(当時の実戦部隊基地)からは戦闘機雷電などが飛び立つのだが、それは敵機迎撃のためではなく、本土決戦に備えて戦力を温存するための避難であるとを知っていたからだ。しかし、飛び立ちそこなった地上の飛行機が機銃掃射されて炎上しているのを見たりすると、もう日本はだめかなと心中思うこともあった。それでも私たちは土壇場では神風が吹いて、最後は日本が勝つと信じていた。いや、信じようとしていたと言った方がよいかも知れない。
 考えてみれば神風神話ほど馬鹿げたものはなかったのだ。元寇の時の暴風は、おそらく北九州地方を直撃した大型台風だったのだろう。しかし、台風は敵だけでなく、味方にも打撃を与える。元寇の時は敵が全部海上にいて、味方が陸地に陣取っていたから、敵には大打撃、味方は小被害で済み、天佑となった。しかし、敵味方が同じ条件下にいる時なら、台風は双方に五分五分の被害を与えるに決まっている。それに一、二回の「神風」が吹いたところで、そんなものは現代の戦争では大して効果がない。そんなものはやり過ごして、好天気の日に敵を攻撃すれば済むことだからだ。そういうことに思い至らず、なぜ大人たちまで神風神話に疑問を持たなかったのだろうか?恥ずかしいくらい愚かだったと思う。
 振り返ってみると、私たち15,6歳の少年兵の上官は25~30歳ぐらいの下士官たちだった。その上はもう少し年配の職業軍人将校たちだったが、いずれにしても今の私の年齢から見れば、彼らは30代の青年たちにすぎなかった。その彼らも私たち同様に軍国教育を受けた者たちだった。まともに思考し、判断できなかったことは想像に難くない。そういう血気盛んな青年たちが根拠のない精神主義で互いに戦意を高め合っていたのだ。まことに危うく愚かであった。
 政治家たちは靖国神社を参拝する口実として、国のために尊い命を捧げた英霊に感謝するためだなどという。しかし、実際はどうだっただろうか。戦闘の最前線に駆り出され、無念の死を遂げた人たちが多かったのではないか。尊い死などではなく、犬死に近い無駄な死だったに違いない。。だから戦争は二度としてはいけないと率直に言う方が誠実だと思う。敗戦前の日本は国民に正しい情報を伝えず、嘘をついて戦わせた。そこに昭和天皇と当時の指導者の大罪がある。国民には正しい情報を伝え、正しい選択をさせなければならない。軍国少年を経験した今83歳の私は痛切にそう思う。

 日本がそれから68年、戦争で誰一人殺さなかった。このことは世界に誇れっていい実績だ。平和憲法のおかげである。だからこれは日本の宝物。何としても守らなければならないと思う。これは占領軍に押し付けられた憲法ではない。彼らに手伝ってもらったが、日本の政治家たちが出した憲法試案は大したものではなかったから、当時の私たち日本人が今の平和憲法を喜んで受け入れたのだ。私もその一証人だ。当時の私たちは戦争の愚かさ、無意味さをいやというほど実感していたからだ。
 忘れずに米国にも忠告しておきたい。原爆によってあの戦争が終わった。原爆投下は正しかったなどと、いつまでも自国民を欺く教育をしていてはいけない。アメリカにはわが家の友が何人もいるが、彼らは基本的には善良で情報制限をされている国民ではない。だが米国政府と在郷軍人会は別だ。自国民を言いくるめている。彼らは原爆投下のの罪悪を認め、謝罪すべきなのだ。米国には多くのキリスト信者がいる。どうして彼らは原爆投下を正当化する偽善を告発しないのだろうか?米国が国民に正しい教育をせず、原爆投下の罪悪を正当化の色メガネで見させ続けるなら、このことに関する限り、米国もかつての日本の大本営発表や現在の北朝鮮の情報統制と同列である、と言われても仕方がないと思う。
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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