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自答してみる

 ルカによる福音書では9章51節に、「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とある。ガリラヤでの福音宣教はそこで終わり、そこから19章46節までは、エルサレムまでの途上であった出来事や語られた教えとして書かれている。しかし、ルカ福音書24章中10章をそれに割いているのは、考えてみると偏っていて不自然ではある。ルカは序文で「順序正しく書いて」と自負しているが、この偏りは実際はそう順序正しくもないことの証拠だと思う。
 彼は文脈が判然としない教えなどはこの10章のどかに、納得できる形で再配置したように思われる。彼が「順序正しく」と言ったのは時系列的順序よりも、むしろ読者が理解しやすい順序だったのではあるまいか。だから、例えば10章のマルタとマリアの話もベタニアでのことだったとすれば、時系列的順序ならザーカイの話がある19章のエリコの町の後に来るはずだが、ルカはより大事なしかるべき理由からサマリア人の喩えの直後に入れたようだ。彼は場合によっては時系列的順序さえ犠牲にした。ましてや教えの順序では尚更だった。マタイの山上の説教でまとめて語られたことの多くが、ルカでは10-19章のどこかに分散、再配置されているのは、そういう理由からだったと理解していいだろう。
 もっともマタイの山上の説教も実際はまとめて語られたものではなかった。では、それらの教えはいつどこでどう語られたのかと言うと、その時系列的な復元は事実上不可能なのだ。従って、マタイとルカにおけるそれらの教えの位置づけはどちらが正しいのかという問いは、問いがあっても答えが得られない問いだと言うしかない。しかし、その問題解決は福音理解の必要不可欠条件ではない。教えそのものが正しければそれで十分だ、とするのが穏当な受け止め方だと思う。

 年間第17主日の福音ルカ11;1-13もそのようなケースの一つだが、その中でイエス様は何をどう祈るかの究極のお手本「主の祈り」を教えてくださった。主の祈りルカ版はマタイ版よりも短い。そこで人はどちらが元々の形だろうかと議論する。しかし、私はそういう問題にはあまり関心がない。それがわかったとて、よりよく祈れるとは思えないからだ。私の関心はむしろ、それが主イエス様ご自身の祈りの核心でもあったに違いないと思えることにある。
 「み名が聖とされますように。み国が来ますように。」(フランシスコ会訳)もちろんこれは主の心から一刻たりとも離れなかった願いであり、関心事であったと断言できる。そして、主はそれを実現なさった。では、「わたしたちの日ごとの糧を、日ごとに、お与えください。わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちに負い目のある人をみな、わたしたちも赦します。わたしたちを誘惑に遭わせないでください」という部分はどうだろうか?それは私たちの立場に立って教えてくださったのだと推察するが、同時に主ご自身も体験しかつ実践なさった内容でもあると思う。
 「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(ルカ9;58)と言われた主だ。「わたしたちの日ごとの糧を、日ごとに、お与えください」の一句には実感がこもっている。荒野の誘惑を思い出せば、「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」の一句も納得だ。では、「わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちに負い目のある人をみな、わたしたちも赦します」の祈りはどうだろうか?私はそれも主が実践なさった祈りだと考える。
 主は「罪を犯さなかった以外は、すべてにおいて、私たちと同じように試みに遭われた」(ヘブ4;15)方だったが、「神は罪とは何の関わりもない方をわたしたちのために罪となさいましたが、それは、わたしたちがその方と一致して神の義を得るためでした」(Ⅱコリ5;21)とある通り、主は私たちの罪を負ってくださった。だから、「わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちに負い目のある人をみな、わたしたちも赦します」も、主には体験と実感のある祈りだったのだと思う。

 その実践の一例はご復活の主の行動に見られる。私はかねがね、なぜ主はご復活後ユダヤの大祭司、長老、律法学者などに出現されなかったのだろうか?と少し不思議に思っていた。もしそうなさっていたら、彼らは驚愕し、自分達が間違っていたことに気づいて平伏し、改心したかも知れないのに…彼らに捕えられた使徒ペトロとヨハネが最高法院で彼らの前に立たされた時、もし復活の主ご自身が現れてくださっていたら、二人が「わたしたちは、見たこと聞いたことを話さないではいられないのです」(徒4;20)と弁明する必要もなかっただろうに…と。
 しかし、主は復活のお姿を彼らにお見せにならなかった。もし見せたら、十字架の下で「他人を救ったのに自分を救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。そうれを見たら信じてやろう」(マルコ15;31)と侮辱した彼らは、恐怖で顔面蒼白になり、赦しを乞うただろう。だが、それは復讐に現れたともとられかねなかっただろう。イエス様の福音は「敵をも赦せ」にある。主が彼らに出現なさらなかったのは赦した証しでもあったのだ。「わたしたちに負い目のある人をみな、わたしたちも赦します」の祈りを実践なさったのだ。これがこの問いへの私の自答だ。
 もちろん主が彼らに出現されなかったのはそのためばかりではなかった。なぜなら、限られた使徒たちなどにしか出現なさらず、ほとんどの一般人にもご復活体をお見せにはならなかったからだ。その理由は、長く続く教会の歴史ではほとんどの人が「見ないで信じる人」にならざるを得なかったことにあると思う。大祭司、長老、律法学者なども例外ではなかった。使徒の証言を聞いて「見ないで信じる人」にならなければ、神の国には入れない。しかし、改心して「見ないで信じる人」になれば、彼ら大祭司、長老、律法学者も救われるというメッセージだったのだ。
 復活の主が自分を十字架につけた人々に現れなかったのは、「復讐しない。赦す」ことの見事なお手本だと思う。罪と欠点まみれの人間ではあるが、私もそういう主を見倣わせていただこうと今思っている。誹謗中傷され、大切にして来たものをそっくり与えて、結果としてそれを全部失っても、十字架の上の主を見倣いたい。呪わず、侮辱にも侮辱で応えず、「わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちに負い目のある人をみな、わたしたちも赦します」の祈りを実践していきたい。
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見落とされていた一つの問い

 年間第16主日の福音ルカ10;38-42のマルタとマリア姉妹の話には、解説や説教で見落とされている一つの問いがある。書く気が起こらなくて怠けていたが、この週が終ってしまわないうちにそれだけはここに指摘しておこうと思う。
 それはどんな問いかというと、「マリアは主の足元に座って、その話に聞き入っていた」とあるが、いったいその時、主イエス様はどんな話をなさっていたのだろうか?という問いだ。それは非常に興味深い考察対象ではなかろうか?なぜなら、マリアが聞き入ってしまって、つい姉マルタの手伝いをすることさえ忘れてしまうほど、彼女の心を惹きつけた内容だったに違いないからだ。ところが、それを取り上げた説教を私は未だ聞いたことがない。なぜその問いに気付かないのだろうか?
 ところでこの時、主の話を聞いていたのはマリアだけだったのだろうか?どうもこの箇所の注釈や説教は、そこにいたのがイエス様とマリアとマルタの三人だけだったように語るものが多い。しかし、実際はそうではなく、家の中には主と共に来た弟子たちがもう大勢いたのではなかろうか。だとすれば、マルタが食事の準備に大わらわだった間、主の話を聞いていたのはマリアだけではなかったと考える方が自然だろう。主はむしろ弟子たちに何かを話しておられたのではなかろうか?もしそうだったとすれば、主の話の内容はその前後の文脈からある程度は察しがつく。
 ところが、それはマリアにとって非常に興味深かったのだろう。だから彼女はそれに聞き入ってしまったのだと思う。主はマルタのあくせくした心の乱れをたしなめられた。しかし、彼女の接待活動を否定されたのではない。それは隣人愛の業だった。また、マリアも何もしていなかったわけではない。主の言葉を聞くことも立派に一つの活動だからだ。どちらも活動していた。だから、マルタとマリアを活動か観想か、人間的煩悩か神への愛か、などと典型化して対比させるのは的外れだと思う。
 対比すべきは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る言葉で生きる」という点にある。マルタが準備していたのは体のパン、マリアが頂いていたのは神の言葉という魂のパン。だから主は「必要なことはただ一つだけである。マリアはよい方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言われたのだと思う。ただ、マルタを諭された後、主はきっとマリアには「お姉さんの手伝いに行きなさい」と言われたに違いない。福音の精神でするなら、体を養う食事もまた尊いことだからだ。

サマリア人のたとえ補遺

 約1ヶ月前、主日の聖書考察を再開したが、あれこれと心労が重なり、その後は書く気になれないでいた。しかし、明日、年間第15主日の福音はサマリア人の喩えがあるルカ10;25-37で、ずっと手を貸す運動の源泉であり続けてきた箇所だ。従って、ここだけは書く気の如何にかかわらず、何か書いておかなくてはなるまいと、義務のようなものを感じる。ただ、この話題ではすでにほとんどのことを語り尽くしてしまっているので、今回はいくつか補遺を加えるだけにとどめようと思う。

 補遺の一つはサマリア人と言われた人々起源だ。私は過去約1年間、旧約聖書原典の通読を続けて来て、今は列王記下を通過中だが、偶然と言おうか、昨日読んだ列王記下17;23-33がちょうどそのサマリア人たちの起源を伝える箇所だったのだ。いわばこの譬えの遠景描写ていどの価値しかないが、私としては次の主日にはサマリア人の喩えが読まれるんだなぁという意識があったから、列王記のその記述とルカ福音書10;30-37の喩えの一瞬の交錯には興奮を覚えた。
 列王記下17章はこう伝える。当時イスラエル民族は北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂していて、サマリアは前者の中心だった。ところが、北の大国アッシリアのシャルマナサル王が攻めて来て、イスラエル王国は紀元前721年に滅ぼされてしまった。そこで、「アッシリアの王はバビロン、クト、アワ、ハマト、セファルワイムの人々を連れてきて、イスラエルの人々に代えてサマリアの住民とした。この人々がサマリアを占領し、その町々に住むことになった。」(列下17;24)
 では、それまでサマリアにいたイスラエル民族はどうなったかというと、「アッシリアの王はイスラエル人たちを捕えてアッシリアに連れて行き、ヘラ、ハボル、ゴザン川、メディアの町々にとどまらせた。」(列下18;11)つまり、アッシリア王はメソポタミア等の征服地で捕えた諸民族をサマリアに連れてきて、サマリアに居住していたイスラエル民族をメソポタミアに連行し、入れ替えを行ったのだ。それは被征服者が反抗しにくいよう再起の基盤を奪うアッシリアの占領政策だったのだ。
 そんなわけで、遠いメソポタミア、カルディア、メディアなどから連れて来られた被征服民族の人々はばらばらで、それぞれの故国の神々を崇めていた。「彼らはそこに住み始めたころ、主を畏れ敬う者ではなかったので、主は彼らの中にライオンを送り込まれ、ライオンは彼らの何人かを殺した。」(列下17;25)そこで彼らは王に願い、イスラエル人祭司一人を派遣してもらって、どのように主を畏れ敬ったらいいかを教えてもらった。
 その結果、彼らは一方ではイスラエル人たちの神である主に敬意を表し、モーセ五書は受け入れるようになった。しかし、他方では「それぞれ自分の神を造り、サマリアに築いた聖なる高台の家に安置した。…このように彼らは主を畏れ敬うとともに、移される前にいた国々の風習に従って自分たちの神々にも仕えた。」(列下17;29-33)要するにどっちつかずの節操のない宗教態度で身を処していた。だから、唯一の神しか信じない正統的ユダヤ人たちは彼らを軽蔑したのだった。
 その上、サマリア人たちはバビロンの捕囚から帰還したユダヤ人たちが祖国を再建したとき、何かと妨害行為をした。もともと民族が違い、宗教が違ったから、イエス様の時代には疎遠なだけでなく、いがみ合う間柄だったのだ。ところで、彼らがサマリア民族と言われなかったのは、もともと連れて来られる前の国や民族がばらばらで、決して一つのまとまった民族ではなかったからだろう。だからイエス様に対する対応も地域差があったのだと想像される。例えばルカ9;52のサマリアの村は歓迎しなかったが、ヨハネ4;4-42のシカルの町はそうではなかった。

 イエス様はそんな過去のあるサマリア人を、わざわざ律法を真に実践する者のお手本として、あの喩えをお話になったのだった。新約の福音ではもうすべての人が神の愛に招かれており、神と隣人を愛する者は、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと「命を得られる」(ルカ10;28)ことをわからせるためだった。だから、最も重要な掟の議論を「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイ22;40)と締め括られたのだ。サマリア人の喩えはその一つのイラストだった。
 ところで、「行って、あなたも同じようにしなさい」の一言は手を貸す運動の心であり続けてきた。だから、その来し方行く末を思うと深い感懐を覚えるが、この喩えについて私はもう多くを書くことはできない。何回もコラムに書き、二冊の本「この笑顔を消さないで」と「あの笑顔が甦った」にも書いたからだ。特にこの後者ではもうこれ以上はできないと思えるほど、存分に書いたつもりだ。しかし、今回それを読み直してみて、補足しておいた方がいいことが二つだけあるのに気づいた。
 その一つはあのサマリア人が同じ人助けを繰り返したとは書いてないことだ。もちろん喩えだから、それを事実と混同して結論を引き出してはいけないが、イエス様がこの喩えをたまたま通りかかった人の反応と実践を問う具体例として話されたことは確かだ。ところで、こういう場面は誰にとっても「たまたま」出遭うもので、「いつも」ではない。それは何を意味するかというと、この喩えは人助けを常時の仕事にしたり、生き甲斐にしたりすることを奨励しているのではないということだ。
 手を貸す運動も「行って、あなたも同じようにしなさい」のお言葉を実践に移した支援活動だから、倒れて助けを必要としている人たちがいれば、手を貸して助ける。しかし、その結果、その人がもう自力で歩けるようになれば、いつまでも支援する必要はない。むしろ手を引くべきなのだ。支援など不必要になるのが一番望ましいことだからだ。一度助けたら「いつも、いつまでも」同じ人助けを続けると言うのは、サマリア人の喩えの歪曲になる。支援屋にならないよう自戒が必要だ。
 二つ目はサマリア人の喩えをいくらよく理解できても、それを実践しなかったら何にもならないが、逆にいくら人助けの支援活動を実践しても、それが称賛願望とか自己満足とか充実感等のためであって、神と人への真の愛から出たものでなかったら、そのような活動はサマリア人の喩えとは似て非なる実践だと言うことだ。しないよりはましだろうが、福音的ではない。「たとえ全財産を貧しい人のために使い尽くそうとも、…愛がなければ、わたしに何の益もない」(一コリ13;3)のだ。

その後の稚金魚たち                    

 金魚の2番稚魚たちが孵化してから2ヶ月だった。1番稚魚たちは4分の3が死んでしまったが、2番稚魚たちは約70%が生き残っている。1番稚魚多数死滅の原因はやはり水槽の質と光の欠如だったようだ。両方を一緒にしたガラス水槽では、今1番稚魚約10匹、2番稚魚約50匹が成長を続けている。しかし、1週間違いの差は大きい。1番稚魚でも大きいものはもう2センチほどで、すっかり魚らしくなっている。ところが、2番稚魚の小さいものはまだ1センチあるかないかだ。死なずに多くが生き残ったから、発育不良の稚魚も多いのだろう。それらはまだ横から見るとヘリコプターの胴体型で、泳ぎもツンツンと拙い感じだ。
 金魚のべビーフードも孵化してまもなくの頃は、100匹に耳かき1杯とペットショップで教えられたが、今は耳かき2杯にし、回数も1日数回にしている。食欲は旺盛で、2,3分できれいに食べ終え、底に沈んだ物を逆立ち型になってしきりに拾って食べる。見ていて飽きない。
稚魚2か月目_mini

 でも、ふと思う。この稚魚たちは何か考えているだろうか、と。彼らの命は水槽の中に条件づけられている。人はその水槽を割って彼らを死なせることも、彼らを網ですくって殺すこともできる。彼らの命は人に、具体的には私か家内に握られている。彼らが生きるか死ぬかは、人の意思一つにかかっているのだ。私たちは彼らを守り、何匹かの死を悼み、生き残って来た彼らを慈しみ、養い育てている。しかし、口には出さなくても、人は彼らにとって恐ろしいこともできる存在なのだ。彼らはそんなことを思ってみることがあるだろうか?いや、きっとないに違いない。自分たちに食べ物をくれる者が誰かを考えたことすらあるまい。何も知らず、何も考えず、ただ入れられた水槽で生きているだけに思える。神から見たら、人間もそれと五十歩百歩なのかも知れない。
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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