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よかった!

 昨日、新しい教皇様が選出された。アルゼンチン国籍のイエズス会士、ホルヘ・ベルゴリオ枢機卿で、フランシスコ一世を名乗られる。私の率直な気持ちは「よかった!」だ。
 一般の新聞、テレビもこれを好意的に報じているが、必ずしも称賛ばかりではない。教会には確かに今いくつかの深刻な問題がある。しかし、初代教会以来重大な問題が絶えたことはなかった。“闇の力”の手先たちは意地悪く、それを喜ぶかの如くに誇張して言い続けるが、私たちはそれに耐えて、悔い改めると同時にそれに影響されないよう毅然と生きなければならない。ベネディクト16世前教皇様には感謝を、新教皇フランシスコ一世には神のご加護を願おう。Viva Papa!

 ところで教皇選出では、新教皇が決まると、コンクラーベが行われたシスティナ礼拝堂から白い煙が上がり、同時に“Urbi et orbi”に向けて、“Habemus papam”という発表があった。これらのラテン語についてはどんな意味でどんな語形かわからない人が多いのではないかと想像するが、私はラテン語には慣れ親しんできたから、いつもは自分のために書いているブログの「思いつくまま気の向くまま」を、今日は人様のためにラテン語の知識をちょっぴり分かち合おうと思う。

 まずコンクラーベだが、Conclaveと書く。システィナ礼拝堂に「閉じ込められて」新教皇が選出するまでは何度も投票を繰り返すから、まさに“根くら~べ”だが、もちろんもとはラテン語で、ちゃんと意味がある。ConはCum(共に、~と、avec,withの意味の前置詞)のことで、それを他の言葉とつなげて造語する時の形だ。そうしてできた合成語が英語になった単語は、たとえばConsert (コンサート)、Contest(コンテスト), Consensus(合意)、Constitution(憲法)等だ。
 それと合体したClaveとは「鍵、錠」のことで、主格はClavisだ。強変化第三類の女性名詞だから、その単数は次のように変化する。clavis(主格), clavis(所有格), clavi(与格), clavim(目的格), clave(奪格)。ところで、前置詞Cumは名詞と結合する時は、その奪格とだけくっつき、形をconと変える。そこでcon-claveという合成語ができるわけだ。そして、「鍵をかけて」という独特な意味を生み、システィナ礼拝堂が外部から遮断された密室になったことを現わす。

 次は“Urbi et orbi” だが、それは「市と世界に」を意味する。urbi と orbiはそれぞれ強変化第三類の名詞で、主格はurbs とorbisだが、前者は女性名詞、後者は男性名詞で、変化は若干違う。しかし、与格は両方とも似ていて、urbiとorbiになる。ではなぜ、“Urbi”(市に)となるかというと、この場合urbs(市)はローマを指すが、教皇様は全世界の教会の指導者であると同時にローマの司教でもあるからだ。だから「ローマ市と全世界へ」と呼びかけるのだ。

 三番目は、“Habemus papam”という表現だ。新聞には「法王を得た」と訳してあった。間違ってない訳だが、気持ちが足りない。「私たちはパパ様を持てた」「私たちには今やまた教皇様がいる」の感じだと思う。Habemusは第二活用の動詞Habere(持つ。Have, Avoir)の能動態、直説法現在、一人称複数の形だ。ラテン語の動詞は単純な英語と違い、フランス語やスペイン語と同じような活用をする。Habereの直説法現在はhabeo,habes, habet,habemus,habetis,habentと活用する。それはフランス語なら、j’ai, tu as, il(elle) a, nous avons, vous avez, ils(ells) ontに相当する。ラテン語は日本語と同様、こういう場合主語が要らない。だから、Habemusだけで、「私たちは持っている」“Nous avons”を意味することができるのだ。
 他方、Papam(お父さんを、教皇様を)は弱変化第一類の名詞で、主格はpapaだ。その格変化はpapa(主格), papae(所有格), papae(与格), papam(目的格), papa(奪格)となる。つまりpapamは目的格で、「~を」を意味する。そういう文法的な形はともかく、日本語では「教皇」などといかめしい称号で、メディアなどはもっとかけ離れた「法王」という称号で呼ぶが、信者たちにはPapa(お父さん)なのだ。欧米語はその実感、親近感を現わしている。
 教皇様の正式称号はPontifex maximus(最高の司教)だが、そう呼ぶ人は皆無に近い。それにPontifexは「司教」のことだが、もともとこの語は「橋を架ける人」の意味だ。神と人の間の架け橋となる人のことに他ならない。しかし、やはりPapaの方がよい。何はともあれ、新教皇様のもと、また聖霊の新しい息吹が教会の中に吹くことを願ってやまない。フランシスコは平和と自然を愛した聖人。新教皇名にはその精神がメッセージとして込められているのではないかと思う。
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贅沢とその代償

 一念発起して、昨年7月30日から旧約聖書原典通読を始めた。モーセ五書は今年の2月中に読了したいと思っていたが、予想よりも早く2月15日に終った。たった半年でもヘブライ語での読解力がついたからでもあると思う。初めは一日一章のつもりだったが、申命記は一日3章も読み進めた。もっとも申命記32,33章は古い記録らしく、読解が難しくて歯が立たず、半分以上もわからないままに読み通した。そこにイスラエル民族の古い記憶があるように思えたからだ。 
 ところで、その間2,3回、疑問が湧いたことがあった。「この歳で旧約聖書最後の書、歴代誌下まで読み通すことなどできるだろうか?それに、もしこれを全部読み通せたとしても、それがいったい何になるのだろうか?読んだ結果を研究発表するわけでも本にするわけでもなく、ただ読んで終わるだけなら時間の浪費ではないか?」という疑問だった。その答えは私なりに見つかった(と思っている)。「いや、浪費ではない。これは私の『贅沢』だ」という答えだった。
 そもそも贅沢とは何かと考えてみると、寒いから着る衣装、死なないために食べる食事、生活のための仕事、出世のための学問などは贅沢とは言わない。贅沢とは、必要もないのに買いまくる衣装、美味しさだけが目当てのグルメ、お金にも職業にも関係なく好きでする趣味の仕事などだ。そうだとすれば、私の旧約聖書原典通読もその一つになるだろう。実際、それは読むほどに楽しくてたまらなくなった。だからやがて、こんな贅沢は滅多にあるまいと自己満足して続けてきた。

 しかし、贅沢にはしばしば代償が待っていることを忘れていた。こんな歳でもまだヘブライ語で進歩できることに気をよくし、読む内容も面白いので、ついつい読書の度を過ごしたらしい。パソコンの使い過ぎも影響したらしいが、贅沢の報いを受けてしまった。モーセ五書を読み終わった2月15日から激し頭痛に見舞われた。頭全体がしびれ、わけても左のこめかみの辺りが痛んだ。2日経っても治らなかったので、医者に診てもらったが、原因は特定できなかった。
 とりあえず痛み止めの薬をもらって服用したが、痛みは止まらなかった。パソコンを開くと目がくらくらして画面を受け付けず、頭ががんがん痛んだ。一切を中断し、頭を休ませるしかなかった。そんなわけで、読むのは朝夕の新聞だけ、パソコンはメールの確認以外は開かず、本コラムは今日まで3週間余り休んでしまった。おかげで2週間過ぎた頃から頭痛は次第におさまった。パソコンも短時間なら目が耐えられるので、久しぶりに今日はここに書いた次第だ。
 明日町田市民病院でMRI検査を受けるから、間もなく本当の原因がわかるはずだが、私としてはおそらくあの激しく長かった頭痛は、旧約聖書原典通読に根を詰め過ぎ、同時にパソコンで書き過ぎたから、つまり目を酷使したのが原因だったと思っている。「頭痛は贅沢の代償だったのだ」と。脳内に異常があるからではないことを願うが、いずれにせよ贅沢は知的なものでもほどほどにしないといけないことを痛感した。今後は自制しながら旧約聖書の原典通読を続けようと思う。 
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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