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バレンタインデーのエピソード

 今日の朝刊を見たら、最近のバレンタインデーの傾向を書いた記事があった。それを読んで、そう言えばこんなことがあったなぁ、あんなこともあったなぁと、もうずいぶん昔のことを二つ思い出した。

 一つはカナダ・ケベック州、シェルブルクの修練院にいた1957年2月14日のことだ。まだフランス語がうまく話せなかった私は、7,8歳年下の同期修練者たちが何をゲラゲラ笑っているのかわからなかった。何のことか1人に尋ねたら、フレールH.Lと同G.Lが調理場の若い修道士Mにバレンタインデーのいたずらをしかけたら、まんまと引っかかったのを面白がっていたのだった。戦後十年と少しの時代、日本ではまだバレンタインデーはあまり知られていなかったから、私はそれって何のこと?とそこから聞かなくてはならかった。だから、そんなことも知らないのかと皆に笑われたが、たちの悪い悪戯で笑い物にされたM修道士に比べたら大違いだった。話を聞いて彼に同情した。
 まだ高校レベルの学業を終わったばかりの18,19歳の修練者たちは、一皮むけば悪戯好きな若者でもあった。修道生活の前の修練期中だったとはいえ、若者の日であるバレンタインデーともなれば、何か茶目っ気のあることをしてみたいという気持ちが、むくむくと頭をもたげたのだろう。そこで、いつも悪戯をしでかす上記の二人は、赤毛の若い平修道士(労働修道士)のフレールMにいたずらをしかける的を絞ったのだった。
 その日、二人はある物を小箱に詰めた。そして、それをフレールMに持って行き、ある女性からこのバレンタインの贈り物をあなたに渡してほしいと頼まれたと言って、彼に手渡したのだ。修道士でも自分に好意を寄せる女性がいるんだと思えば、悪い気はしなかったのだろう。純情だった彼は大喜びで、いそいそと自室にそれを持ち帰った。しかし、少しすると彼がすごい剣幕で現れ、修練長に「あなたの指導しているフレールH.LとG.Lはひどい。処罰してください!」と抗議した。
 わけを聞くと、二人はチョコレートの代わりに豚のしっぽを入れていたのだった。修練長も笑ってしまったそうだが、問題は豚のしっぽをどこで手に入れたかで、むしろ二人はそちらを問題視され罰を受けたとか。フランス語では「悪戯をする」ことを、“jouer un tour de cochon”と言うが、それにしてもまさかバレンタインチョコの代わりに「豚のしっぽ」(queue de cochon)そのものを入れるとは!と、私はその度を超えたたちの悪さに呆気にとられた。
 でもそれについてのお咎めはなかった。当時のケベック人はいじめや悪意の嫌がらせは許さないが、冗談や罪のないいたずらは大らかに笑って済ますところがあったからだろう。今はどうか知らないが、いずれにせよ純情なM修道士が受けたショックは大きかったに違いない。私は今でも気の毒だったなぁと同情する。罪のないいたずらでも、やはり限度はあると思った。やる方には悪意がなくても、される方には屈辱の傷が心に残る。後味が少し悪い、最初の私のバレンタインデーだった。

 もう一つ思い出すのはシエラレオネでのバレンタインデーだ。1991年2月7日に私は初めてこの国を訪問して、3週間滞在した。手を貸す運動の代表だから支援先を見ておかなくてはならないと思って行ったのだが、泊めてもらったのはルンサ市の宣教クララ会修道院だった。2月14日夕食後少しして、シスター達から、バレンタインデーを祝うので来ませんかとお誘いを受けた。へえー、シスター達もそんなことをするんだ。でも、男性がいないのに何をするんだろうなと思った。
 食堂にはシスターたちやポストゥラントたちが集まっていた。男性は私だけ。まさか、皆が私にプレゼントをくれるわけでもなかろうと、いぶかしげに入ると、シスター根岸さんが小声で、「先生、プレゼント交換をしますので、何かお持ち下さい」と教えてくれた。そういうことか、と急いで自室に戻り、何か見つけようとスーツケースを開いた。すると、真冬だったから持って行ったが、暑いシエラレオネでは不要な新品の皮手袋が目に入った。そこで、とっさにそれに決めた。
 シスターたちはもうそれぞれのプレゼントをテーブルの上に置いていた。私もそれにならって自分の品物を並べた。すると係りのシスターが各々の品物の上に番号のある紙片を置いた。次に彼女は「シスター〇〇」などと一人の名を呼んで、後ろに回した片手に持っている紙片を呼ばれた人に一枚渡した。すると紙片をもらった人はそこに書かれた番号を見て、同じ番号の紙片が置かれた品物をプレゼントとしていただくという趣向だった。
 「ミスターサトー」と呼ばれて、私も紙片にある番号の品をもらった。それは「イミタチオ・クリスティ」という本のスペイン語ミニチュア版だった。交換終了後、誰がそれを出したのか尋ねたら、「私です」と答えた若いシスターがいた。それは今シエラレオネ地区長になっているシスター・エリサだった。他方、私が出した皮手袋はシスターL.S.に渡った。ところが、大柄で太った彼女の手はそれに入らなかった。それを見て、心中「もっと考えて出せばよかったのにごめん」と謝った。
 その後はお茶とクッキーの楽しいおしゃべりタイムで、シスターたちのささやかな息抜きだったのだと思う。シエラレオネ民衆にバレンタインデーの習慣があるとは聞いていない。イスラム教徒が多数派の国だからたぶんないと思う。してみると、あのプレゼント交換はメキシコからの習慣だったのか、それともシスターたちが考え出した楽しみだったのか、聞きただしてないから起こりはわからない。でも、世の中にはこんなバレンタインデーもあることを知った。これは良い思い出だ。

 バレンタインとは3世紀の頃の聖バレンティヌス司祭殉教者のことで、教会では2月13日の今日がその祝日となっている。彼は人望が厚かったので、当時のローマ皇帝クラウディウスはローマ教会を潰すため彼を捕え、「なぜローマ帝国に敵対して、キリストの教えを広めるのか」と問い詰めた。するとバレンティヌス司祭は「キリスト信者はこの国の敵ではなく、最も国を愛し、国民の義務を果たしています。皇帝もこの教えの本当のことを知ったら、かならず納得なさるでしょう」と弁明し、天地万物の創造主である神、キリスト様の福音、教会のこと、永遠の生命のことなどを話した。
 皇帝はこれに感動したが、ローマ市長は聖者が先祖の教えを軽んじていると非難した。そこで皇帝はそういう反対者を満足させるため、バレンティヌス司祭の身柄をアステリウスという判事に預けた。ところが、聖者がアステリウスの盲目の娘を奇跡的に癒したことで、一家一族40人がキリスト教に改宗してしまった。皇帝はバレンティヌス司祭が教えを捨てないどころか、判事一族までキリスト教の信仰に導いてしまったことを知ると激怒し、判事一族を斬首で処刑し、聖バレンティヌスはもっと苦しむようにと棒で撲殺させた。BC270年2月14日がその殉教の日だったと伝えられる。
 一説では、皇帝が戦場に赴くローマ兵士に結婚禁止令を出したとき、聖バレンティヌスはその命令を無視し、愛し合う男女の結婚をひそかに助けてやったと言われる。皇帝が怒って彼を殺した理由は、彼が命令に反して兵士たちを結婚させたからだという伝説だ。2月14日のバレンタインデーの起こりはそこにある。チョコレートは商戦が煽るギフトだが、愛情は他の物でも他のやり方でも表せる。何よりも、この日は愛情が法で禁じたり命じたりできるものではないことを教えてくれる。 
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主日の聖書のあれこれ考

 「神のことばの仕分けⅢ」にとりかかっているが、理論的な考察は頭がとても疲れる。そこで、しばし気分転換のつもりで年間第5主日の聖書の3箇所、すなわち第一朗読のイザヤ6;1-8、第二朗読のコリントの教会への第一の手紙15;1-11、そして福音ルカ5;1-11のそれぞれを原典で読み、気付いたこと気になったことを、思うまま気の向くままにあれこれ考察してみた。

 イザヤ6;1-8は預言者イザヤの召命の箇所だ。ヘブライ語ではイザヤはイシャイヤフーと呼ぶ。彼はウジア王の死んだ年、即ちBC740年に、主が天の高座に座しておられる幻を見た。彼が見たのは幻だから主そのものではない。ところで、主とは神を指すが、イザヤはここではヤーヴェでなく、アドナイと書いている。ヤーヴェとは神の御名なので、「神の名をみだりに呼ぶなかれ」というモーセの掟を守るため、神の民がその代わりに使っていたのがこの「主(アドナイ)」という言葉だ。
 高所には翼が六つある天使のセラフヒムたちがいて、彼らは翼の二つで顏を覆い、他の二つで足を隠し、残りの二つで飛んでいた。翼が六つとは奇妙な姿だが、顔を隠すのは神を直視しないため、足を隠すのは聖なる場所を踏まないためだったのだろうか。彼らは「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」と呼び交わしていた。ヘブライ語では(ローマ字書きだが) “Kadosh, kadosh, kadosh, Yahve tsabaoht. Melo kohl-ha-arez kabodo”だ。
 これはグレゴリアン聖歌の “Sanctus”で歌われ、日本語のミサ典礼にももちろん入っている。ただ、ミサ典礼では「主の栄光は天地に満つ」と訳されているが、イザヤ書では「天」の一語はなく、「地に満つ」だけで、少し違う。ところで、「栄光」(Kabod)とは何か?聖書学者のルイ・ブイエーはそれを「神の居場所を示すしるしだ」と書いていた。皆既日食の時、黒い円になった太陽の周りを光が取り巻く。その光の金環は黒い円に隠れた見えない太陽の存在を示す。「栄光」とは見えない神の居場所を明かす光の金環のようなものだという意味だ。なるほどと思える喩えだ。
 イザヤは主の幻を見て、「わたしは汚れた者なのに主を見てしまったから死ぬ」と恐れた。だが、天使が祭壇の火を彼の唇につけ、彼の罪咎を清めてくれた。その後、彼は「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」という主の声を聞く。すると彼は言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と。モーセ、エレミヤ、ヨナ等の預言者は、神が預言者として遣わそうとしたとき、結果的にはだめだったが、何とかしてその役目から逃れようとした。ところがイザヤは逆で、進んで「私が行きます」と言った。こういうタイプの預言者もいるんだなと興味深く思った。

 第二朗読のコリントの教会への第一の手紙15;1-11は主の復活に対する聖パウロの証言で、強く印象に残る。そこにはまた聖パウロの率直な謙遜と宣教実績の自負が併存する。彼のこの自己認識は彼を知る一助になる。彼はコリント教会の人たちに、「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます」と書いている。それはそうしなければならなかった問題がコリントの教会にあったからだ。そして、その一つが復活に対する信仰の揺らぎだった。
 主イエス・キリストが復活されたという事実は福音の根幹にかかわる。だから、かれはこの主日の朗読範囲の少し先にこう書いた。「キリストが復活しなかったのなら、あなたたちの信仰は空しく、あなた方は今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」(同15;17-19と。
 しかし、主の復活は疑問の余地がないほど確かであることを、彼は多くの目撃証人を列挙して証明する。具体的には、まずケファだ。聖パウロは使徒ペトロをそう呼ぶ。ペトロのヘブライ語名だ。これはルカ24;34とも合致する。彼は主が「その後12人にも現れた」と書いている。ユダが死んで、本当は11使徒だったのだが、「12人」は使徒団の代名詞のように使われていたからだろう。次いで「500人以上の兄弟たちに同時に現れました」というのはおそらくご昇天前のこと(徒1;6)だろう。
 そして「月足らずで生まれたようなわたしにも現れた」と書いている。この出現は主のご復活直後ではなく、回心後のことだ。なぜなら、彼はしばらくはまだ反対者だったからだ。ここで興味深いことが二つある。一つは聖パウロが復活の主に一番先に出会ったマグダラのマリアや他の女性たちに言及していないことだ。ユダヤ人は男性中心だったから、聖パウロのような人でも女性を目撃証人の数に入れなかったのではなかろうか。でも、立派な証人だった。主の復活については、彼女たちは男たちよりも勇気がある尊い証人だった。彼女たちを証人の数に入れないといけない。
 もう一つ興味深いのは500人余の証人のうち、当時はまだ大部分が生存していたという記述だ。コリント教会への第一の手紙が書かれたのはAD57年春だったから、主の死と復活からまだ20年も経っていなかった頃だ。太平洋戦争の記憶に比べてもわかる。戦後20年時点では戦争の記憶はまだ昨日のことのように鮮明だった。初代教会でも同じで、主の死と復活を体験した人々がそれをまだ昨日のことのように鮮明に思い出して、証言していただろう。嘘偽りなど通らなかったと思われる。
 主イエス・キリスト様の復活が信じるに値するかどうかを問う時、私はこの章節の証言は実に重いと思う。福音書の証言はもちろん重要だが、AD50年代に書かれた言われるアラマイ語マタイ福音書は消失して現存しない。今あるギリシャ語福音書はどれもAD65年以後に書かれたものだから、聖パウロのコリントの教会への手紙より10年も後だ。それを考えるとこの章節の証言の重要さがわかる。ルカ福音書の復活記述などは、むしろ聖パウロの影響を受けているとさえ言えると思う。

 この主日の福音はルカ5;1-11で、シモン・ペトロの奇跡的漁と召命の場面だ。これについてはもう何回も書いているので、全体的な説明をするつもりはない。ちょっと気付いたこと気になったことだけを取り上げてみる。
 気付いたことの一つはイエス様に対するペトロの認識の変化だ。彼の舟に乗せてもらったイエス様は、民衆への話を終えると、ペトロに舟をもっと沖に出し、網をおろして、漁をするようにと言われた。するとペトロは、「先生(Epistata)、お言葉ですから網を降ろしてみましょう」と言った。epistataは「先生」よりも、「お頭」とか「親方」に近い敬称だ。ところが、奇跡的漁の後では、「主よ」(Kurie)と言っている。敬語のこの変化からだけでも、彼の認識が一変したことがわかる。
 二つ目は、ペトロの兄弟アンデレの存在だ。福音書には言及がなく、日本語には動詞の複数がないので気付きにくいが、原典やラテン語、仏独語等だとそれが明瞭だから、彼も同じ舟にいたことと、彼が何をしたかもわかる。イエス様が「沖に漕ぎ出して」(Epanagage; avance)と命じられたのは単数形だから、ペトロにだけ言われたことになる。しかし、「網を降ろし、漁をしなさい」はKalasate ta diktua(lâchez vos filets)で複数の命令形だから、ペトロと他の誰かに命じられたことが分かる。ところで、同じ舟にいた他の誰かと言えば、兄弟アンデレの他にはありえなかった。
 ペトロは主に「先生、わたしたちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と答えたが、その時「わたしは」ではなく、「わたしたちは」と一人称複数で言っている。それは仲間のヤコブやヨハネではない。生活のためだったから、兄弟で漁をしていたのだ。つまり、「わたしたち」とは「アンデレとわたし」のことだった。そして、漁のため網を入れるのは一人ではできないことを主もご存知だったから、「網を降ろし、漁をしなさい」(Khalasate ta diktua)と二人に言われたのだ。
 それに対して、「お言葉ですから網を降ろしてみましょう」(Khalasow ta diktua; Je vais lâcher les filets)と答えたのは単数で、ペトロだけの発言だ。しかし、「漁師たちがその通りにすると…」と、網を打ったのは複数の漁師だったことがわかる。複数と言っても、その舟にいた漁師はペトロとアンデレ兄弟だけだった。そこで、「もう一そうの舟にいる仲間に合図した」(kateneusan; ils firent signe)が、合図したのは複数だから、ペトロとアンデレの2人でしたことがわかる。
 でも、アンデレが舟にいたことに何か意味があるのだろうか?ある。証言を2倍確かにしたと思うからだ。ペトロ自身も舟の上でイエス様と話したこと、奇跡の漁のこと等を使徒たちや弟子たちに話しただろう。しかし、自分のことは自慢になるから少し控えめに話すものだ。しかし、アンデレは違っただろう。その時に見聞したこと体験したことを皆に十分話したに違いない。それはペトロ本人が話すよりも説得力があったかも知れない。それは見落とない証言の一つだったと思う。
三つ目に気づくのはペトロの聖なるものへの感性だ。彼は夥しい魚が取れたのを見て、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言ってひれ伏した。同じ舟にいたイエス様がただ者でないことを直観して、彼の全身には畏れが走ったのだろう。聖なるものへの感性は優れた宗教者に共通する。モーセも、イザヤも、パウロもそれを持っていた。ペトロもまたそういう一人だった。主が無学な彼を見込んだのも、彼にそういう資質があったからではなかろうか。
 四つ目は気になった点で、「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われた主のお言葉だ。マタイもマルコもシモン・ペトロの召命のことを伝えるが、奇跡的な漁のことを書き残したのはルカだけだ。そして、ルカではイエス様のお言葉も少し違う。マタイとマルコでは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ4;19、マルコ1;17)というお言葉は同じで、文字通り「人間をとる漁師」(alieis anthropown; pêcheur d’hommes, fisher of men)だ。
 ところが、同じ表現はルカにはない。新共同訳は「あなたは人間をとる漁師になる」と訳しているが、ルカ福音書原典にはここに「漁師」(alieis: pêcheur, fisher )という一語はないのだ。ここを直訳すれば「人を捕える者になる」(anthropous esei zowgrown: Ce sont des hommes que tu prendras: You will be catching men)となる。ギリシャ語の動詞zowgreowは魚に限らず、何かを生け捕りにすること一般を意味する。しかし、ここでは魚との類比だから、フランシスコ会訳が「あなたは人を漁るようになる」と訳したのは正しい。ちなみにヘブライ語訳も”bnei adam tadug lehaiim”(生きている人の子らを漁る)で、フランシスコ会訳とほぼ同じだ。
 五つ目も気になった点だ。「ヤコブもヨハネも同様だった」とあるが、これは魚の大漁に驚いた点で同様だったのか、それともペトロが「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と言った畏怖で同様だったのだろうか?私は前者だと思う。なぜなら、主が「恐れることはない(Meh phobou)」と言われたのは単数で、ペトロに対してだけだったからだ。もし彼ら皆がペトロと同じように畏怖を覚えていたからだったら、主は複数で「恐れることはない」と言われたに違いない。
 ところが、主が「あなたは人を漁るようになる」と言われたのはペトロに対してだったのに、「そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」とある。ここが面白い。もちろん主は彼らにも「わたしについてきなさい」とは言われたが、彼らはペトロに言われたことを自分達のことと受け止めて行動を共にしたようだ。それは奇跡の漁が彼らにいかに強いインパクトを与えたか、そして、彼ら仲間同士の連帯感がいかに強かったかを裏書きする。以上主日前の雑考だ。

砂金採り式論法

 昨日、2013年2月3日、年間第4主日に読まれた聖書は、第一朗読がエレミヤの預言1;4-5,17-19、第二朗読が使徒パウロのコリントの教会への第一の手紙12;31-13;13、福音がルカ4;21-30だった。そのどれもが興味深かったので、主日のふさわしい過ごし方になるかとも思い、それぞれの章節について少しばかり考察してみた。

 まずエレミヤの預言だが、目下、「神のことばの仕分け」を続行中ということもあって、ここにも『神のことば』の問題があるなと注目した。私の旧約聖書原典通読は今モーセ五書の段階だから、まだ預言書まで至っていない。「神のことば」と書かれていても、そうではないものがあるのではないかと疑問を覚えた「神のことば」は、モーセ五書の祭式や刑罰関連の記述に多い。しかし、それは預言書にもあるはずだと思っていたが、このエレミヤの預言はその一端に触れさせてくれた。
 そこには「主の言葉がわたしに臨んだ。『わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。…』」とある。従って、話者が神であることは間違いない。原文を読み直してみると、1;4-5は神のことば、1;6はエレミヤの返事、1;7-19は神とエレミヤの対話だ。その部分は全部が正真正銘の神のことばと見ていいだろう。しかし、その後に延々と続く神のことばは、はたしてその全部が正真正銘の神のことばなのだろうか?そういう疑問は当然湧く。
 預言者たちは背反を重ねたイスラエル民族に神のメッセージを伝えた。その表現スタイルは「預言文学形式」と呼ばれる。ところで、教会はそれを通して神のことばが人に伝えられたと教えている。従って、そこに正真正銘の神のことばがあることは、信仰者なら信じなければならない。しかし、同時にそういう文学形式で伝えたメッセージである以上、そこには預言者の考え方や感じ方、経験や知識が、正真正銘の「神のことば」に混じっていることも否定できない。つまり、神のことばは預言者の人間的材料で水増しされていることも事実だろう。預言書をそんな風に読んでみた。 

 コリントの教会への第一の手紙12;31,13;13は、聖パウロの手紙の中で最も傑出した章節の一例だ。そこには彼の途方もなく深い信仰と福音理解の深さが現れている。同時に聖パウロのここが嫌だという一面もある。「わたしはあなたがたに最高の道を教えます」とある通り、そこにある愛の教えは、まさにイエス・キリスト様の教えの真髄そのものだ。主の福音は「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である」の言葉で表せるからだ。
 私たちは主日のミサで説教の後、二ケア・コンスタンティノープル信仰宣言または使徒信経を唱える。しかし、あえて言えば、あれは信仰の真髄ではない。だから、あれだけ信じても救われない。信仰の真髄は愛なのだ。そして、救いに与れるのは愛を信じて実行する者だ。従って、本当は信仰宣言の前に、「神よ、わたしはあなたが愛であることを信じます」と表明すべきなのだと思う。神が愛であるからこそ、信仰宣言で唱えることも意味を持ち、神に希望を置くこともできるからだ。 

 ところで、聖パウロが愛について書いたこの章節を読むと、私はそれが砂金採り作業に似た論法に思えてならない。砂金採りは川で小石混じりの砂を器に掬うと、比重が重い金が残るよう砂を洗い流し、小石はつまんで捨てる。そして最後に残った金だけを集める。聖パウロはそれに似た手法で最後に残るのは愛だと教えた。他の使徒や聖人もみんな愛を教えたが、聖パウロのような消去法で愛をわからせ、その大いなる価値を際立たせることに成功した人は他にいないだろう。
 彼は否定によって愛でないものを消去することから論じ始める。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしい銅鑼、やかましいシンバルに等しい」と。次は預言の賜物、神秘の知識、山を動かすほどの信仰をもっていようとも、愛がなければ無に等しい。全財産を貧者に施し、教えのため命を捧げても、愛がなければ何の益もないと、愛がなければどんなに価値ある物事でも無益だと論じ進める。金ではない石礫、砂粒と同じだという論法だ。 
 では、肝心の愛はどう見分けられるか?それは金の分別方法と共通している。金が水中で重く沈み、金色に輝くのと同じように、愛は忍耐強い、情け深い、ねたまない、自慢せず、礼を失せず、恨みを抱かず、真実を喜ぶ等の特色で輝く。そして、愛はけっして滅びない。最後に残るのは信仰と希望と愛だが、その中で最も大いなるものは愛だと結ぶ。砂や石礫を排除して金だけを残す砂金採り式論法だ。こうして彼は消去法で最も際立たせたい愛を具体的に教えた。実に見事だ。 

 ただ、聖パウロのここが嫌だという一面もここに出ていると思う。例えば「{愛は}すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」というくだりだ。私は異論を唱えたくなる。すべてを信じる?では異教をも信じるのか?すべてを望む?では、他人の不幸をも望むのですか?「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(一テサ5;16-18)という一節もそうだ。私は物事を十把ひとからげに言う聖パウロの癖が好きになれない。
 いつも喜べ?最愛の人が死んでも、ですか?絶えず祈りなさいですと?真剣に経理の仕事中でも祈るのですか?どんなことにも感謝する?東日本大震災のような天災にも、ですか?人には悲しい時も、怒っていい時も、祈ってはいられない時もある。それを「いつも」ということばで一括りにするのには無理がある。物事はもっときめ細かに見るべきなのに、「全てを」とか、「いつも」とか、「何でも」とか、強調して、全称的に一括する傾向は聖パウロの欠点だと思う。

 さて福音だが、それはイエス様がナザレトの会堂でイザヤの巻物を読んだ時の後半だった。イエス様が読み終わって、「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」と話し始めたら、人々は皆その「恵み深い言葉」に驚いた。驚いたのは素晴らしいと感心した意味だろう。この時点では会堂の空気はたいへん好意的だったと見ていいと思う。ところが、誰かが「この人はヨセフの子ではないか?」と小声で言った。それが雰囲気を急変させるきっかけになったようだ。
 ところで、「皆はイエスをほめ」とあるが、この「皆は」という一語は曲者だ。この時も「皆」の中には心からほめた人も、ほめはしたがすぐ「でも・・・」と、信じることを留保した人たちもいたはずだ。「この人はヨセフの子ではないか?」と言ったのはそんな留保組の一人だったのだろう。「そうだとも。大工の子がどうしてこんな話ができるのか?もし噂通りなら、ここでも奇跡をするだろうか?」などと言う者も出て、多少の妬みと畏敬を欠いた好奇心も手伝い、彼らは主の品定めを始めた。
 だから主は不快感を示し、「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と言われたのだ。「皆」の中にはしばしば二種類の人々が混じる。一方は味方、他方は敵に回る人々だ。エルサレム入城の時の「皆」は「ホサンナ」と歌った。だが、その中には敵対者も混じっていた。ピラトの法廷前の「皆」は「十字架に付けろ」と叫んだ。だが、その中には主を信じる味方も混じっていた。ところが、少数派は多数派に圧倒されて声が出せない。だから、沈黙して存在しないかのようになる。
 ナザレトの会堂でもそうだったと思われる。最初は感嘆の声が圧倒的だったから、それが「皆」だったが、「この人はヨセフの子ではないか?」という疑問が起こると、不信の眼差しの人が多数の「皆」になった。そして、イエス様から昔の預言者たちがイスラエルの民にではなく、むしろ異邦人に恵みをもたらした話を聞くと憤慨し、主を崖から突き落として殺そうとまでした。しかし、主は彼らの間を抜けて立ち去られた。「皆」の中には主の身を案じた人々もいたはずだから、主が去るのを見て胸を撫で下ろしただろう。でも、去りゆく主の後姿から「皆」は何を読み取ったのだろうか?

ナザレとの会堂で話すイエス

 ここは私にギリシャ語の再学習を決心させた章節でもある。30年ほど前だったが、ボーイスカウトの野外聖劇のため川原謙三神父に勧められて、「劇で学ぶイエスの生涯と教え」を書いた。後に「イエスが行く」という書名で1989年に、燦葉出版社から刊行した3巻の本の原本だが、その時、手製の皮表紙(上掲の絵)にナザレトの会堂で話されたイエス様を描き、「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」というお言葉をギリシャ語で書いた。
 ところで、その文中にωσινという一語がある。「耳」の複数与格であることはわかっていたが、さてその基本形となる単数男性形主格が思い出せなかった。ショックだった。大学でギリシャ語を第二外国語でとった時は100点満点だったのに、聖書はフランス語やラテン語で読めればいいやとギリシャ語から疎遠になっていたつけで、力がガタ落ちしていたのだ。もちろんωσινの単数男性形主格がουςであることはその日にわかったが、これではいけないと独学の再学習を始めた。
 その後必要に迫られてスペイン語の勉強を始めるまで、3年間ほどは暇さえあればギリシャ語の猛勉強を自分に課した。50歳後半の年齢では記憶力を必要とする言語の勉強はらちが明かない。しかし、石の上にも三年とはよく言ったもので、努力していれば少なくとも退歩することはない。今は主日の福音は必ずギリシャ語原典で事前に読み、ヘブライ語訳、仏訳、そして日本語でも読むことにしている。辞書のお世話になりながらも、新約聖書を何とか原典が読めるのは、ルカの福音書4;16-30があの時ショックを与えてくれたおかげだ。そんな思い出がある章節でもある。

神のことばの仕分けⅡ

 さて、自分の宿題だった神のことばの仕分けⅡに挑戦しようと思う。だが、前のことを忘れているから、再確認の必要がありそうだ。その第一はこの考察の発端だ。旧約聖書には「神はこう言われた」のような表現で、余りにも「神の言葉」が溢れているが、どう見ても神の言葉とは思えないものもある。そこで、それらは神の言葉というよりは、人間がある掟や考え方に権威を持たせるため、神が言われたかのように書いたのではないかという疑問が湧く。この疑問が考察の発端だった。
 実際、出エジプト記やレビ記等で「神からモーセに言われた」とされる掟や戒めは、申命記では多くの場合モーセが民に語った事柄とされている。同じ事柄が一方では「神のことば」、他方では「モーセの言葉」となっているのだ。これはどちらが正しいのかというより、大元は神からモーセに言われた「神のことば」だが、具体的な細部はモーセがそれを説明した「モーセの言葉」(人の言葉)だと思われる。従って、「神のことば」とされていても、実際は違う場合があるということだ。
 それに、モーセ五書でさえモーセが直接書いたものではない。数百年後の聖書記者が書いたものだ。だから、内容の多くは本当にモーセが語ったことだとしても、全部が全部モーセの語ったままではありえないだろう。ましてや「神のことば」となればなおさらだ。聖書記者はモーセがそれを神から聞いたと伝えている。自分がその場にいて直接聞いたわけではない。それを数百年後の記者が書いたのだ。「神のことば」とて、全部が正真正銘だとは思えないもう一つの理由がそこにある。
 しかし、だからと言って私は正真正銘の神の言葉があることを疑ってはいない。むしろ逆で、信じている。だからこそどれがそれであり、どれが違うかを検証しようとしているのだ。そもそも神を信じない人なら、神そのものの存在を認めないのだから、当然「神のことば」などあるはずもなく、それは信者がそう思い込んでいるに過ぎない「人間の言葉」だと見なすだろう。それに対し、私は聖書を通して語りかけ人類史に介入された神を信じている。そうでなければ、正真正銘の神のことばを検証しても空しい。だが私は信じている。だからこの考察をしている。以上が再確認しておく事柄だ。

 さて、旧約聖書中の「神のことば」」を正真正銘と認定できる基準として、私は仕分けそのⅠで、①イエス・キリスト様の引用や確認、②教会による認定、③人智を超越するような感嘆すべき内容による推定の3つを挙げた。ところで、それらの基準によって正真正銘の神のことばが判別できるとすれば、具体的にはどこに書かれているどんな言葉がそれに該当するのかという問いに直面せざるを得ない。この問いは前回提起した三番目の問題に当たるものだ。
 ところが、それは旧約聖書を最初から最終頁まで、逐一検証していくことを意味し、不可能とは言わないが、膨大な作業で、容易にできることではない。それにそういう検証では、たとえ上記の基準があっても、判断する人の主観も入るから、ある人にとっては神の言葉に思えることが他の人にはそうではないことも起こり得る。つまり、はっきり神のことばだと断定できる場合と曖昧な場合が出て来るということだ。従って、ここでは頭に浮かぶ数例を選んで検証するにとどめようと思う。そして、検証は積極的な基準として挙げた上記①、②、③の順序で進めてみる。

【1】 最初は上記①の「イエス・キリスト様の引用や確認によって、正真正銘と認定できる旧約聖書の神のことば」だ。旧約聖書でこれに該当する「神のことば」はそれほど多くはない。
●まず出エジプト記20:2-17または申命記5;6-21にあるモーセの十戒が挙げられる。なぜそれを正真正銘の神のことばだと認定できるかというと、イエス様がそれを「神のことば」であることを前提に話されたからだ。ある時、ある金持ちの男がイエス・キリスト様に「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねた(マルコ10;17-22)。すると、主はモーセの十戒の要点を引用してそれにお答えになった。それは十戒を神からのことばとして認証なさった明らかな証明になる。 
●モーセの十戒については、マルコ7;6-13にあるもう一例が頭に浮かぶ。ある日、イエス様の弟子たちが手を洗わずに食事するのを見て、律法学者たちが「あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事するのですか」と非難した。すると主は答えて、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。…モーセは『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのにあなたたちは言っている。『もし、誰かが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで、神の言葉を無にしている」と言われた。この場合はモーセの十戒の第四戒だけだが、それでもそれで正真正銘の神のことばがわかる。
●三つ目の例はレビ記19章2-18にある神の命令も、正真正銘の神のことばだと見ることができる。その数節は前述の出エジプト記や申命記の章節と重なるが、18節にある「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という命令は、主がある律法学者に「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねられた時に言及されことばだ。「神を愛せよ」という第一の掟は申命記6;4-5の引用で、これはモーセの言葉だが、第二の掟は神のことばとして書かれている。ずるく頑迷だった出エジプト時期のイスラエル民族が、こんな高尚な人道的掟を考え出せたはずはがない。このレビ記19;18は注目に値する。明らかに神のことばだと見ていいと思う。
●四つ目はすでに「仕分けⅠ」で言及したが、「わたしはあるという者だ」(出3;14)という言葉だ。これは正真正銘の神のことばだと言い切れる。「ヤーヴェという神の名」の語源となった一語で、これが正真正銘の神のことばでなければ、旧約聖書そのものが存在理由を失うほど重要な言葉だ。ところで、イエス様はユダヤ人たちに「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」(ヨハネ8;58)と、その一語を口になさった。
 それは彼らが主を父なる神から遣わされた子であると信じなかったので、ご自分の神性を証明するために言われたのだったが、その根拠となるその一語が彼らにとって揺るぎない真理でなかったら、証明は不発に終わる。従って、主がそれを証明の切り札になさったということは、それが揺るぎない真理、すなわち正真正銘の神のことばが数ある中でも、ずば抜けて正真正銘度が高い神のことばであることを意味する。そう認識されていたからこそ、主はそう言われたのだ。
 この一語については預言者イザヤも「わたしは主、これがわたしの名」(イザヤ42;8)と言及している。それは「主の僕の召命」の箇所に書かれている「神からのことば」で、預言者のことばではない。これを見ると、そこに書かれている他の「神からのことば」はさて置き、『わたしはある』(出エジプト記3;14)を暗示して言われたイエス様の言及は、このイザヤ書に出て来る神のことばをも、関連する出エジプト記3;15のことばをも、正真正銘の神のことばだと認定させる。そう結論していいと思う。

【2】 次は②教会による正真正銘の神のことばとしての認定を見てみる。ただし、諸公会議の記録の精査や教父たちの著作を検証することは私の能力の及ばないことだから、取り上げる例は新約聖書の使徒言行録、使徒たちの手紙、二ケア・コンスタンティノープル信仰宣言に限定する。使徒言行録には旧約聖書にある神のことばを引用したくだりがいくつかある。
●その一つは聖霊降臨の時の使徒ペトロの説教(徒2;17-21)だ。彼はその冒頭にヨエル預言書3;1-5を引用した後で、「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」と、イエス様こそ待ち望まれていた約束の救い主であることを力強く話し始めた。では、なぜ冒頭にその預言書を引用したのかと言うと、それが終わりの日に起こる救い主の出現の時の徴だったからだ。ペトロの引用とは若干違うが、そこにはこう書かれている。
 「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。天と地にしるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。主の日、大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変る。しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」と。
 この章節は「主は言われる」という言葉で括られているから、神のことばとして語られたことになっている。そして、教会の初代の首長であった使徒ペトロが引用したのだから、それはそこに語られている内容が神から語られたこと、つまり「神のことば」として認定されていることを意味する。もっとも、「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」以下は預言者ヨエルの言葉だと思われる。なぜなら神がご自分のことを「主の御名を呼ぶ」などとは言わないだろうと思われるからだ。
●また、同じ説教の終盤で、使徒ペトロが引用した詩編110;1の言葉も教会が正典と認めた使徒言行録の一節だから、正真正銘の神のことばだと認定できる。それは神がダビデ王に言った予言だとされているが、ペトロの引用では、「主はわたしの主にお告げになった。『わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで。』」と言われている。少し物騒な表現だが、こういう神のことばが必要な歴史的状況もあったのが現実だ、と言わなければならないだろう。
●使徒ペトロとヨハネが神殿で民衆にした説教(同3;22-26)では、モーセが神から言われた申命記18;15,18-19の予言がこう引用されている。「モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし断たれる』と。」使徒たちはその預言者こそイエス様だ。だから、今こそ主を信じて従いなさいと勧めたのだ。ところで、この場合は神がモーセに言われたのだから、これは神のことばであり、教会が正典と認めた書に書いてあるのだから、これも正真正銘の神のことばだとはっきり認定できるケースだ。
 ちなみに、この引用元の章節申命記18;19の続きを読むと、興味深いことがこう書いてある。「彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する。ただし、その預言者がわたしの命じていないことを、勝手にわたしの名によって語り、あるいは他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない」と。これは預言者も真の神の名によって語らない場合も想定された但し書きだ。
 そして、モーセはこう言っている。「あなたがたは心の中で、『どうして我々は、その言葉が主の語られた言葉ではないということを知り得るだろうか』というであろう。その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたのではない」と。この章節からは、その当時すでに「その言葉が主の語られた言葉ではないということを知り得るだろうか」という、私がここで検討している疑問と同じ疑問があったことがわかる。それが非常に興味深い。
●使徒言行録から正真正銘の神のことばだと認定できる4つ目の章節は聖ステファノの大説教(同7;1-51)だろう。彼はイスラエル人たちにイエス様が彼らに約束された神の御子であること、しかし彼らが先祖と同じように聖霊に逆らっていることを、旧約聖書の神のことばを多数引用して証明した。その説教はまるでイスラエルの民が先祖アブラハムの時代から歩んできた歴史のレジュメの感がある。そこに引用されている「神のことば」は次のような章節である。
 「わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、『あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け』と言われました。」(徒7;2-3.創12;1)
 「そのとき、まだ子供のいなかったアブラハムに対して、「いつかその土地を所有地として与え、死後には子孫たちに相続させる』と約束なさったのです。」(徒7;5.創12;7)
 「神はこう言われました。『彼の子孫は、外国に移住し、四百年の間、奴隷として虐げられる。彼らを奴隷にする国民は、わたしが裁く。その後、彼らはその国から脱出し、この場所でわたしを礼拝する』と。」(徒7;6-7.創15;2-14.出3;12)
 「四十年たったとき、シナイ山に近い荒れ野において、柴の燃える炎の中で、天使がモーセの前に現れました。…近づくと、主の声が聞こえました。『わたしは、あなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である』と。…そのとき、主はこう仰せになりました。『履物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる土地である。わたしは、エジプトにいるわたしの民の不幸を確かに見届け、また、その嘆きを聞いたので、彼らを救うために降って来た。さあ、今あなたをエジプトに遣わそう。』」(徒7;30-34.出3;1-2)
 聖ステファノの大説教はさらに続いて、イスラエルの民の反逆時代に達すると、預言者アモスの預言から神が民の背反を責めたことばをこう引用した。「イスラエルの家よ、お前たちは荒れ野にいた四十年の間、わたしにいけにと供え物を献げたことがあったか。お前たちは拝むために造った偶像、モレクの神輿やお前たちの神ライファンの星を担ぎ回ったのだ。だから、わたしはお前たちをバビロンのかなたへ移住させる」(徒7;42-43.アモス5;25-27)と。
 そして、最後の引用はイザヤ預言書の神のことばだ。「主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこにわたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。これらはすべて、わたしの手が造り、これらはすべて、それゆえに存在すると主は言われる。」(徒7;48-50.イザヤ66;1-2) 以上の旧約聖書引用はみな教会が正典と認める使徒言行録にある。だから、教会によって正真正銘の神のことばと認定されていると見ていいものだ。
●教会によって「神のことば」の正真正銘性を知ることができるものに、信仰宣言または使徒信経も上げることができる。それには必ず「天地の創造主、全能の父である神を信じ」という一文がある。ところで、天地の創造主と言えば、前述のイザヤ預言書66;1-2も含むが、何よりもまず創世記第1,2章の内容に他ならない。特に1章にある神の天地創造の言葉は正真正銘の神のことばだと受け止めなければならないだろう。 
 しかし、そこには問題がないとは言えない。なぜならアブラハムやモーセに言われた神のことばは人に語られたので、人が理解できる特定の言語で語られた。彼らの場合はヘブライ語だった。とは言え、ヘブライ語は神のことばではない。聖書原典のヘブライ語もギリシャ語も人間の特定の言語で、神のことばそのものではない。ただ、それらは人間に語られたので、特定の言語に訳された神語だと解釈できる。ところが、天地創造の時のことばはそれとは状況が違った。
 つまり、人間がいない時の神のことばなのだ。だとすれば、人間にわからせる必要はなかったから、「光あれ」とか「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」などと人間の言葉を使う必要もなかった。そのような人間の言葉にせず、ただ天地万物を創造する意思をお持ちになりさえすれば、十分だったのだ。それだけで天地は出現したはずだからだ。なのに、なぜ人間がいなかった時に、「光あれ」のように、人間の言葉で創造なさったのだろうか?それは後で人間が理解できるためだったと私は推察する。従って、天地創造の時の神のことばは正真正銘だが、上述のような解釈で受け止めるべきだと考える。 

 さて、いくつかの例だけで、まちがいなく正真正銘の神のことばだと信じることができるものを検証したつもりだが、それでも長すぎてしまった。だから、【3】人智を超越するような感嘆すべき内容から、ある神のことばが正真正銘だと推定できるケースは、「神のことばの仕分けⅢ」として考察したいと思う。もしこれを読んでくれる人がいるとしたら、私にとって興味深いだけで、その方にはくそ面白くない話題に違いないと推察する。だから、申し訳ないと謝っておきたい。Sorry.
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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