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つぐないに一言二言

 「神のことばの仕分けⅡを明日か明後日書く」と言っておきながら、果たせなっかった。面目ない。それにつけても気になるのはやはり主日の聖書だ。12月30日の主日は聖家族の祝日で、福音はルカ2;41-52だが、それは少年イエスが初めて過越祭にエルサレムへ父母と行き、神殿に残って学者たちと議論していたというエピソードの章節だ。
 ところで、それは「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」という52節で終わる。それで思い出すのは、玉川学園の旧中学部校舎だ。その玄関にはこの一節が石に彫られていた。初めて行った時それを見て、私は非常に感動し、この学園の教育理念が瞬時にわかった。人に愛されるだけではない。神からも愛される人に成長してほしい。そういう教育理想だったのだ。この文言に目をつけた創立者はすごいと思った。今はどうなっているのか知らないが、「神のことばの仕分けⅡを明日か明後日書く」と言った約束を果たせなかった償いに、このすばらしい一節を記しておく。
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最初のクリスマス

 2012年度降誕祭の今日、12月25日にカトリック町田教会の11時のミサに与った。しかし、私はすでに12月8日には地の星・ベロニカ苑の降誕祭、同15日には地の星・風の降誕祭、そして同23日にはボーイスカウト町田16団のクリスマス会に出から、今日でもうイエス様のご降誕を4回も祝ったことになる。ところで、前の3回はほとんどがキリスト信者ではない人たちのキリスト聖誕祝いだった。
 そこで自問した。あれは本当の降誕祭だったのだろうか、と。そして自答した。立派な降誕祭だったと。なぜなら、最初に降誕の祝いをしたのはその夜野にいた羊飼いたちだったが、彼らはキリスト信者ではなかった。ユダヤ教徒でさえなかったかも知れない。そして、東の国からやって来たという占星術の学者たちもキリスト信者ではなく、異教徒だったからだ。最初のクリスマスにはキリスト信者はまだ一人もいなかったのだ。でもそれは最高の聖なる赤子礼拝だった。

 最初のクリスマスにはイルミネーションなどなかった。しかし、夜空には星々が輝いていた。どんな人工的イルミネーションも及ばない大自然の光だった。その夜、地上は真っ暗だった。家畜小屋と呼ばれた洞窟は更に暗かっただろう。聖家族にはおそらく焚火か灯心の火しかなかっただろう。産湯もなかったかも知れない。歌の喧騒も踊りもなかった。しかし、天使たちの歌声と舞いはあった。家畜小屋ではごちそうもケーキも無縁だった。食べ物も飲み物も乏しかっただろう。今の人々はその窮状が想像できるのだろうか?
 ところが、救い主はそんな最貧の中で産声をあげられた。神の言はそんな生まれ方で人となって私たちの間に来られたのだ。温かい家で、ご馳走をいただく私たちのクリスマスは本物か?少なくとも主と聖家族に申し訳なく思った。キリスト者でもなかった東方の学者たちと羊飼いに対しては恥ずかしく思う。最初のクリスマスは人間的虚飾が何もなかった。しかし、神の恵みは溢れんばかりにそこにあった。星の光に優る光が地上に降りて来ておられたからだ。

 今日、祭壇の前には家畜小屋の中に嬰児イエス様の人形が置かれていた。もちろん子どもたちの視覚に訴えるためのツールだが、大人にも考えさせた。フロアに作られた家畜小屋には誕生のイエス様、その後背のもう少し高い祭壇の上には御聖体のイエス様、そして、その背後の壁の高い所には十字架のイエス様が見えた。下から上へと一本の線でつなげたら、誕生から最後の晩餐を経て十字架の死へと、イエス・キリスト様のご生涯の要約がそこに見えた。
 こんなお誕生とこんな死をなさった方は他におられない。しかし、その中間の祭壇上におられる聖体の主は、十字架で死んでしまっただけの主ではない。私たちと共に生きておられる神の御子だ。そこに神秘がある。降誕祭はその神秘の始まりだった。ミサに与って、今日はそんな感懐を抱いた。
 

神のことばの仕分けⅠ

 今日は正真正銘の神のことばが旧約聖書にあるかどうか、あるとすれば、本物とそうでないものをどう仕分けできるかを考察してみる。前回はキリスト教信者やイスラエル人たちからふつう「神のことば」として受け入れられているものが、実際は人間の言葉に過ぎない場合が少なくないことを述べた。ところが、それはまだ事柄の半面だったのに、それに対して疑問やご高説が寄せられた。それを送信した方々には、ここからの考察がそれへの返答だと思っていただければ幸いだ。

 さて、旧約聖書には正真正銘の神のことばがあるか?あるとすれば、それをどう見分けることができるのだろうか?そして、例えばどんなことばがそれに該当すると認定できるのだろうか?これが今日の問題提起だ。しかし、それと取り組むには、どんなスタンスでこの問題と向き合うのかを前もって明確にしておく必要があると思う。それは神を信じてそれを問うのか、信じていないのに問うのかというスタンスの問題だ。どういうスタンスかで、対応がまったく違ってくるからだ。
 もしある人が神などいないと確信していたら、上述の問題提起はまず無意味であるはずだ。なぜなら存在しない神なら、語ることもあり得ないからだ。つまり、神のことばは元々存在しないことになる。そういう認識の人にとっては、いわゆる神のことばは、「神が人間に語ってくれた」と妄想する信仰者たちの思い込みであり、客観的にはどれも人間の言葉に過ぎなく思えるだろう。そして、神のことばなど存在しないのだから、この問題自体が無意味で馬鹿らしいことになるだろう。
 しかし、ここではそういう人々は私の念頭にはない。関心が違い、論じ合っても問題以前のところで時間と労力を費やさなければなるからだ。私がこの問題を検証するのは、まず、自分が神を信じているからであり、次に、旧約聖書には神のことばと言われながらもそうではないものがある半面、間違いなく正真正銘の神のことばがあると確信しているからだ。そして、私と同じように聖書の神を信じている人たちも、この問題への関心を共有しているに違いないと推察するからでもある。

 では、旧約聖書には正真正銘の神のことばはあるのだろうか?この問いに対し、証明もせずに、ただ「ある」といくら主張しても説得力はほぼゼロだろう。従って、その肯定的な答えはひとまず仮説にとどめ、順序としてはどういう基準または根拠によってそれを見分けることができるか、それを知るのが先だと思う。なぜなら、それがわかれば、それによって旧約聖書には正真正銘の神のことばがあることを証明できるし、どのことばがそれに該当するかの判定も可能になるからだ。
 ただし、もしその基準または根拠があやふやで信用できないものであるなら、それに依拠して正真正銘だと認定しても、その認定もまた信じるには足りないもの、疑問の残るものにならざるを得なくなる。では、そういう不確かなものではなく、神のことばの正真正銘性を立証し得る確かな基準または根拠はあるのだろうか?これは問題の核心に入る問いだが、答えは「然り、ある」だ。私は消極的な基準を1つと、積極的な基準を3つ挙げられると思う。
 消極的な1基準とは、ある言葉が「神のことば」と見なされ得るためには、それが人類の普遍的にして最良の倫理的価値と相反しない許容性だ。他方、積極的な3基準とは、旧約聖書のあることばを正真正銘の神のことばであると積極的に証明する根拠で、①イエス・キリスト様の引用や確認による正真正銘の神のことばとしての認証。②教会による正真正銘の神のことばとしての認定。③人間の叡智を超越するような感ずべき真、善、美、聖の含有による推定、この3つだ。

 そのそれぞれについて説明する。消極的な1基準は、蓄積総合された人類の叡智に照らしたとき、どう見ても「神のことば」とは思えないものを消去する基準に過ぎず、いわばガラクタの掃除役だ。従って、この基準で許容されたからと言って、それが神のことばと認定されるわけではない。人類には偉大な宗教家や哲学者たちが輩出した。彼らにも誤謬や未熟さがなかったわけではないが、彼らの叡智の総合と蓄積は人類を成熟させ、一定の倫理的価値を共有するに至らしめ、善い生き方を求めて来させた。従って、それと対立する言葉、例えばもし殺人を推奨するような言葉が語られたとしたら、それは正真正銘の神のことばではあり得ないと断じ得る。そのような消去の基準だ。
 それに対し、積極的な3基準は、旧約聖書のある言葉や命令などを「正真正銘神のことばだ」として積極的に肯定させる基準だ。これによって旧約聖書のある言葉は神のことばだと認定できる。しかし、その3基準は同等ではなく、差があると言わなければならないだろう。最も確実な基準または根拠は①イエス・キリスト様の引用や確認であり、次が②教会による認定、最後が③人間の叡智を超越するような感ずべき言葉からの推定という順になるのではなかろうか。

 まず①イエス・キリスト様の引用や確認による正真正銘の神のことばの認証を検証してみよう。頻繁ではなかったが、イエス様はその教えで旧約聖書の文言を引用したり、論争の際に神のことばとして確認したりしてなさった。例えば律法学者が最も重要な掟について質問した時(マルコ13;28-34)、金持ちの男が永遠の生命を受け継ぐためには何をしたらよいですかと尋ねた時(同10;17-20)、人間の戒めと神の掟の軽重について話された時(同7;6-13)などがそうだ。
 この認証はイエス・キリスト様によるものだから最も確実で強力だ。なぜなら主イエス様を父なる神から遣わされた独り子だと信じる者にとっては、そのお言葉は人間の特定の言語であったと同時に、神ご自身のことばでもあったからだ。そればかりか、イエス様ご自身が人となられた神の言(ヨハネ1;14)であるなら、その方が神のことばとして教えに援用したり、議論で確認したりされた旧約聖書の神のことばは、正真正銘だと太鼓判を押されていることに他ならないからだ。
 とは言え、この基準はイエス様を神の御子と認めない人々には効力がないだろう。例えばユダヤ教徒だが、彼らは唯一の神を信じても、イエス・キリスト様を「神と等しい者」(フィリピ2;6)とは認めない。彼らにとっては、イエス様が引用や確認によって、旧約聖書のあることばを真に神のことばとして認証なさっても、それはあくまでも一人間の認証に過ぎず、絶対に確かだなどとは言えないのだ。ただ、私は主が神の御子であることを前提にしている。だから、その基準は私には絶対だ。 

 次は②教会による正真正銘の神のことばとしての認定だが、教会はイエス様から間違いなく人々を導く聖霊の恵みをいただいた。従って、聖書そのものを正しく教える権限と能力を保持しているから、当然どのことばが正真正銘の神のことばか、どれがそうではないかの判定ができる。これもイエス・キリスト様を信じ、その後継者である教会を信じる人にしか正真正銘の「神のことば」を見分ける有効な基準とはならないが、信じる者にとっては確かで信頼できる基準だ。
 その身近な例は新約聖書の使徒言行録にある。使徒ペトロの聖霊降臨の時の説教(徒2;17-21)にも、神殿で民衆にした説教(同3;22-26)でも「神は言われる」と、旧約聖書にある神のことばを引用し、聖ステファノもその大説教(同7;1-51)で、旧約聖書で語られた「神のことば」を多数引用している。
 ところで、教会は新約聖書があったから生まれたのではなく、その逆で、教会があったから新約聖書の正典がある。従って、その教会が正典と認める使徒言行録が「神のことば」として伝える旧約聖書のことばは、正真正銘であることの証明でもある。同じようにして、教会は約2000年にわたって、真の神のことばを保ち伝える任務を果たし、次々と現れた異端思想から人々を守り、聖書の正しい解釈を教えて来た。従って疑義のある場合は、教会の見解が仕分けの頼れる基準となる。

 最後は③の人間の叡智を超越するような感ずべき言葉から、それを「神のことば」だと受け止めてもおかしくないとする推定だ。これは人それぞれの価値観や主観によっても左右されるから恣意的ではある。だが、人類には神的なものを感じる直観的なセンスがある。だから、人間的なこの基準も評価しなければならないと思う。ところで、旧約聖書には人間が決して思い及ばなかったことば、人間の想像と創作を凌駕する驚くべきことばが、神からのものとして書かれている。
 例えば、創世記1章の「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」の1節がそうだ。世界開闢神話は世界中にいくつもあるが、こんなに荘厳で見事なことばは他に類がない。人間がそれまで想像も発明もできなかったものだ。だから感動を呼ぶ。神がホレブ山でモーセに啓示された神の名前「わたしはある」もそうで、実に驚くべき深遠さだ。それらの言葉は人間の言葉かも知れないが、その崇高さからして、人知に照らしてもこれぞ神のことばだと言われるにふさわしい。
 旧約聖書を読んで感じることの一つは、なぜ神はこんな民族を選民にしたのかと疑いたくなるほどのイスラエル民族の低劣さ、欲の強さ、狡さ、淫乱さ、残酷さ等だ。だからこそ厳しく細部まで縛る律法が必要だったのだろう。そんな民族から高尚な思想など望むべくもないと思える。ところが、そんな彼らの旧約聖書には信じがたいほど崇高な思想とビジョンとメッセージがある。それを見ると、これはこの民族からではなく、至高なる神から来たからこそこのように崇高なのだと言う方が理にかなっている。そういう人知による推理が旧約聖書のあることばを「神のことば」と認定するのが3番目の積極的な基準だ。
 
 ではそれらの基準または根拠によって正真正銘の神のことばを仕分けできるとすれば、具体的にはどこに書かれているどんな言葉がそれに該当すると認定できるのだろうか?これは今日問題提起した三番目の問いだ。しかし、それを扱うととても長くなってしまう。そうでなくても今日はもう相当長くなったし、考察にも疲れた。そこで、今日はここで休止する。ここまでを「神のことばの仕分けⅠ」とし、続きは「神のことばの仕分けⅡ」として、明日か明後日に書くつもりだ。
 しかし終る前に、明日の待降節第4主日の福音ルカ1;39-45を読んだ感想を一言。それは聖母マリア様のエリザベト訪問だが、旧約聖書に比べると気付くことがある。旧約聖書ではいわゆる「神のことば」が氾濫しているのに対し、新約聖書ではイエス様の洗礼やご変容の時などにあるだけで、ごく稀であり非常に抑制的であることだ。それは実に対照的で印象に残る。聖霊に満たされて語る場合も、語るのは人だ。その代り新約聖書では、イエス様のお言葉はすべて神のことばでもある。

人の言葉と神のことば

 主日の聖書についてはしばらく書かないことにしていたが、やはり気になるので典礼C年の待降節第3主日の福音をみたら、ルカ3;10-18だ。民衆が洗礼者ヨハネに「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と聞くと、彼は「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者にわけてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えて、分かち合いを思い出させた。徴税人には「規定以上は取り立てるな」と奨め、兵士たちには「金をゆすり取ったりだまし取ったりせず、自分の給料で満足せよ」とアドバイスした。すべてが正義と隣人愛を基調にしたアドバイスだった。
 そして、メシアを待ち望んでいた民衆が心中、もしやこの人がそうではないかと考えていることを察知した彼は、はっきりと自分はメシアではない。その方は私の後から来られる。私はその方のサンダルの紐を解く値打もないと告白し、「その方は聖霊と火であなたたちに洗礼を授ける」とイエス・キリスト様のおいでを予告した。実に謙虚だ。そして、「他にもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた」のだった。何と力強く説得力があることか。
ルカで「福音を告げる」ευαγγελιζωという語彙が出て来るのはここが3回目だ。1回目はルカ1;19の天使ガブリエルの言葉で、「この喜ばしい知らせ」と訳され、2回目は同2;10の天使たちの言葉で、「喜びを告げる」と訳されている。その福音に偽りはなかった。

 ところで、明日は衆議院議員選挙の投票日だ。日本ではこの2週間ほど、12の政党が入り乱れて、何と多くの言葉を語ったことだろうか。彼らも日本国民に「よい知らせ、喜ばしい約束」を語っていた。つまり、「福音」だ。しかし、どれだけが信頼に値し、どれだけが偽りのないものだろうか。民主党は日和見主義者が出て行って、本物が残った。だから私は今後に期待して支持する。他方、偽預言者と似ている安倍晋三は信じない。彼は自分の過去を反省もせず、謝ってもいない。
 それを臆面もなく、「私に任せれば日本は救える。あなたがたに幸せが来る」みたいな巧言令色をよくも叫べたものだ。洗礼者ヨハネと何と違うことか。ところが、残念ながら多くの人が今回は彼に好感を持っているらしい。だが、もし彼が政権を取れば、軍備に財力を費やして日本を害し、インフレによって老人を脅かすだろう。私は彼に怒りを覚えるので、ここに反安倍を鮮明にしておく。彼は許容できない。民衆も民衆だ。正義や分かち合いよりも、自分の利益ばかり考えている。

 過去2週間、日本では特に政治家の言葉が溢れ、それに連動して新聞やテレビの伝統メディアからツイッターやフェイスブックのIT新メディアに至るまで、何と多く人間の言葉が泡のように溢れたことか。幸い捨て所のない原発の放射性廃棄物とは違って、今や地上に飽和状態の人の言葉は、ほとんどがそれほどいつまでもなくならない害は残さず、やがてどこかに消えてしまう。ひょっとしたらそういう言葉の屑の山は、地獄の火のよい燃料になっているのかも知れない。
 それに対して、旧約聖書では「神のことば」が溢れている。今日は、民数記5章を通読中だが、ここまで創世記、出エジプト記、レビ記を原典で読んできて感じたことの一つは神のことばの多さだ。今読んでいる民数記もそうだが、出エジプト記、レビ記では特に「神のことば」が延々と続く章節がある。記述の半分は出来事とか旅路のナレーションだが、他の半分は神がモーセとアハロンに語られた言葉だからだ。神は何と多くをモーセに語られたことか!という印象が強い。
 ところがそこで一つの疑問が湧いた。本当にこれらは全部神のことばなのか?という、ある意味で恐れ多い疑問だ。そして、考察の結果、次のように考えるほかはないという結論に至った。すなわち、旧約聖書に書いてある「神のことば」は全部が全部神のことばではなく、イスラエル民族の指導者、特にモーセの言葉に他ならない。彼らは民族の掟、習慣、宗教的務め等を守らせるため、本当は神が語られたのではない事柄までも、神のことばとして民に伝えたのだ、ということだ。
 しかし、一方ではそうだが、他方では正真正銘の「神のことば」があることも事実だ。そもそもそれを否定したら、聖書はもう聖書でなくなってしまう。とは言え、ここで留意しておかなくてはならないことがある。真の意味での神のことばは、旧約聖書ではわからないということだ。どういう意味かというと、新約聖書では、イエス・キリスト様が父から遣わされた神の独り子だと信じる限り、神のことばが聞ける。イエス様が語られたお言葉はある特定の民族の言語ではあるけれども、同時に神の御子が語られたのだから、正真正銘の神のことばそのものだと言える。ところが、旧約聖書ではそうではなく、実際にあるのは「人の言葉」だけだからだ、という意味だ。
 そもそも神は人間の言語で語られるだろうか?それは神を擬人法的に考えての言い方にすぎない。百歩譲って、神がことばで語られることを前提としても、人間の誰がそれを理解できるだろうか?それは本来ヘブライ語でもギリシャ語でもなく、人間が話す他のどの言語でもなく、「神語」で話されるのだろうから、通常ならそれがわかる人は誰もいないはずなのだ。つまり、たとえ神が話されても、神語で話されるのだったら、人にはさっぱりわからないはずだということだ。
 従って、モーセは神語がわかる特別の恵みを頂いていたのだろう。そして、彼に話された神のことばとは、ありのままの神語ではなく、モーセによってイスラエル民族の使っていたヘブライ語に翻訳された「神のことば」であったに過ぎないことがわかる。しかも、「神のことば」として書かれているものも、実際はすべてがそうではなく、モーセやアハロンが民族の掟や習慣を「神のことば」として、民に守らせようとした「民族の伝承」に過ぎないものが多いことが分かる。出エジプト記、レビ記、民数記等に書かれている「神のことば」のほとんどは、むしろその類のものであって、真の「神のことば」ではないと言って差し支えないだろう。それが私の到達した結論だ。

 では、「神のことば」として書かれていることが、実はそうではなく、民族の掟や習慣を守らせたい指導者たちの言葉に他ならないことを一例で実証してみよう。邦訳や仏訳などで読んでいた時はすいすい読んでいたので気付かなかったが、原典では知らない語彙が次から次へと出て来た。例えば、レビ記1;1-2にはこう書いてある。「主は臨在の幕屋から、モーセを呼んで仰せになった。『イスラエルの人々にこう言いなさい。』…」と。つまり、モーセが民に語るそこからの言葉は、「神から託されたことば」として語られている。そして、その続きを読むと、こう書かれている。
 「牛を焼き尽くす捧げ物とする場合には、無傷の雄を献げる。…奉納者が献げ物とする牛の皮をはぎ、その体を分割すると、祭司アハロンの子らは祭壇に薪を整えて並べ、火をつけてから、分割した各部を、頭と脂肪と共に祭壇の燃えている薪の上に置く。奉納者が内臓と四肢を水で洗うと、祭司はその全部を燃やして煙にする。これが焼き尽くす献げ物であり、燃やして主にささげる宥めの香りである。」(レビ記1;3-9)
 さて、どれほどの日本人がこの章節を和英辞書なしで英訳できるだろうか?焼き尽くす、無傷の、奉納者、皮を剥ぐ、薪、内臓、煙、宥め等の語彙をどれだけの人が知っているだろうか?ましてやヘブライ語だから、私は辞書を何度も引いて調べなければならなかった。しかし、そのスピードの遅さが私にむしろ疑問を持つ機会を与えてくれた。「変ではないか。果たして神がそんな細かい事柄、どうでもいい点まで指示されただろうか?あり得ない。ならばこれは何なのか?」と。
 そして、次のような答えを出した。それは神がこう命じられたとして語った指導者モーセの言葉に過ぎない。もっと正確に言えば、モーセの言葉として伝えたイスラエル民族の伝承を、モーセより数世紀後の聖書記者が書いた言葉に他ならない。だから、神のことばでも何でもなく、当時のイスラエル民族が実践していた宗教的習慣を、「神のことば」という権威で神聖化したに過ぎないのだ。従って、私たちはそれらすべてを神のことばとして受け止める必要はない、と。
 このレビ記の章節を読むと、それがかつて遊牧民だったイスラエル民族の宗教的慣習だったことは歴然としている。牛や羊を奉納し、それを切り裂いて血を祭壇に振りかけるなど、農耕民族だった日本人の感性には血なまぐさくて耐え難いが、彼らにはそれが当たり前の価値ある行為だったのだ。そして、脂肪の燃える香りを「宥めの香り」と感じたのだろう。ヘブライ語では ריח ניחוחと言い、「いい匂い、好ましい香り」の意味だ。彼らは自分たちにとってそれが良い匂いだから、神にとっても良い匂いになると信じて、そういう献げ物をしたのに違いない。そして、それを神聖化するために、「神のことば」で命じたのだと解釈できる。
 もしも真の神への献げ物が絶対にそういうものでなければならなかったとしたら、日本人にとってそのような宗教は絶対に受け入れがたかっただろう。だが、幸いそうではなく、イエス様はそういう旧約のしきたりは廃止なさった。主は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない」(マタイ5;17)と言明されたが、レビ記に書いてあるようなそういう掟は「神の命じたこと」ではなく、イスラエル民族の宗教的習慣に過ぎなかったからだ。その代わり、主はご自分を聖体として父への献げ物、私たちの糧としてくださった。だから、私たちは主の教えを喜んで受け入れることができるのだ。
 このような一例でも、旧約聖書を丹念かつ虚心坦懐に読んでみると、「神のことば」として書かれている多くの掟や戒めが、実際は神のことばではなく、人間の言葉に過ぎない場合が少なくないことが判明する。しかし、そこには同時に、神からのことばとして以外には考えられない、崇高で光り輝くことばがある。それは疑問の余地がない。しかし、今日は疲れたので、正真正銘の「神のことば」については次回に書こうと思う。

自分の役目

 今日は思いつくまま気の向くままに書く。
 12月8日が太平洋戦争勃発の日だったことを知る人はもう少数派だろう。それを実感する人はもっと少なくなっている。日本人はあの戦争で約300万人が死んだ。それも圧倒的に若者が多かった。愚かな戦争だった。中国人など日本人以外の戦争死者は2000万人と言われる。ひどい戦争だった。昭和天皇を含めたあの時代の日本の指導者の責任は実に重い。
 それなのに、今政治の季節になって、声高に公然と国防軍の設置や、核武装を唱える連中がいる。非常に危険だ。それなのに、そんな主張が許容され、かなり喝采されている。戦争の悲惨を知らない人たちが増えたからだろう。平和憲法があると言うのに、そのおかげで戦後67年間も日本人は戦うことなく平和でいられたのに、その憲法を廃して、戦うことができる憲法を制定すると言う政治家たちが好感をもって受け入れられているという。戦争を知る年代の私はそれを危惧する。
 安倍晋三に戦争の何が分かる。あの口先だけ、民主党の欠点ばかりあげつらう誹謗男には、日本の未来を絶対に任せたくない。石原慎太郎は論外だ。今日の朝日川柳に「好感度絶対零の人もいる」と言う一句があった。新聞の世論調査で、安倍晋三が3年前の鳩山由紀夫元総理と同じくらい人気が高いとあったのに対する拒絶反応だろう。同感だ。安倍晋三などにこの国の政治のイニシアティブをとらせてはいけない。老いたごまめの歯ぎしりに過ぎないだろうが、彼らの動きに歯止めをかけたい。
 そもそも憲法とは国民が守るべきものではなく、国民が権力者に課した根本ルールで、権力者が守るべきものなのだ。つまり政府、公務員、議員たちが守るべきルールだ。だから、彼らが勝手なことをしないよう、その行動を規制している。憲法は国民の幸せを保証すると当時に、権力者が国民を不幸に導くのを防ぐ歯止めだ。だから、それを嫌う安倍晋三などは現憲法を廃棄し、自分たちが活動しやすい自主憲法を作ろうとしている。現憲法にとって獅子身中の虫だ。私たち戦争を体験した年代の者の役目は、再び戦争ができるような憲法の出現を断固阻止することだ。安倍自民党が過半数を制しないことを願う。私は絶対にこの党には投票しない。

 12月8日は私にとって、それ以上に大切な感謝の日だ。聖母マリア様の無原罪の祝日で、私が19歳で洗礼を受けた日、生きている限り、絶対に忘れてはならない日だからだ。昨夜、机上には洗礼の時にいただいたカードを飾った。私の宝の1つだ。それには聖ペトロの第一の手紙2;9-12がラゲ訳の文語体で印刷してあり、洗礼を授けてくださったデモンティニ神父と代父半田春雄さんの署名がある。私の名前と日付は私に教理を教えて導いてくれた聖心愛子会シスター・ガブリエラ(菅原ムメさん)の字だ。たぶん40代だったのだろうが、何と立派な字を書いていたのかと感心する。
 そのデモンティニ神父も菅原ムメさんももうこの世にいない。主のもとに行かれた。お二人の写真とメイン州ハムリンのフローレンス・シール夫人の写真をカードの傍に飾った。彼女ももう主のもとに旅立った。半田さんはどこにいるのか、まだ存命なのかわからない。でも、若き日の私をカトリック教会に導いてくれた恩人だ。写真はないがどこかで幸せに生きておられることを願う。これらのお世話になった方々に対して私の役目は、彼らを通していただいた神の恩恵を、後の人たちに分け与えていくことだ。これからの1年間もそれを実行したいと思う。

 今日は社会福祉法人・地の星で多くの時間を過ごした。10時から地の星の介護施設ベロニカ苑の降誕祭だったから、9時半に家を出た。今年から「ベロニカ苑」と「風」は別々に降誕祭を祝うことになった。4階ホールが手狭になって、全員一緒だと招待者の席もつくれないほどになったからだ。10年前この施設ができたとき、利用者さんは36名で、スタッフも15,6人だった。それが今は利用者が65名、スタッフが52名もいる。それだけでもうホールはほぼ一杯になる。だから、利用者の家族や招待者の席がとれなくなるのだ。
 ところで、ベロニカ苑の利用者たちは重度知的障害者が多い。どうやって劇などやれるのかと思ったが、スライドショーでそれを解決していた。だれかCG技術のあるスタッフがいるのだろう。笑顔ベストショットがスクリーンに映し出されたが、幸せそうな障害者たちの笑顔が実によかった。そして、知的障害者に何ら違和感をもたなくなっている自分がそこにいるのに気付いた。彼らは今では私にとって、そこにいるのが普通の存在になっている。不思議なものだ。
 必ず理事長挨拶があるので、クリスマスのことをきちんと話すため用意して行った。イエス・キリスト様は社会福祉の元祖、原点である。現代の先進国社会福祉を遡ればキリスト様にたどり着く。逆にその流れを下って来ると、マザーテレサや私たちの地の星に至る。降誕祭は私たち障害者施設にとって、社会福祉の原点、元祖である実に縁の深いキリスト様の誕生日だ。だから、私たちは祝うのである、という趣旨だった。そして、祈りもした。昨年までは祈りがない降誕祭だったからだ。
 降誕祭の後、ボランティアさん3人と昼食を共にしながら1時間歓談し、その後1時間非常勤スタッフ5人と面談した。この面談はスタッフと知り合う必要があるから、施設長以下全員と行っている面談の一環だった。しかし、最初の頃と違って、今は理事長職について気張ったりしていない。自分の役目がわかってきたからだ。この高齢だ。誰が見ても長く任に留まるわけがないだろう。運営で実際の采配を振るうことも期待されてはいない。私に求められているのは、その職にいること自体なのだ、ということがわかったのだ。ありていに言えば、実務は常務理事やスタッフたちがやってくれるから、私はそれらしい押し出しと常識を備えたお飾りでいれば十分ということだ。
 それでふと頭に浮かんだのが数年前NHK大河ドラマの主人公になった直江兼続の兜だ。彼は兜の前立てに「愛」の字を飾った。戦場では「ここに直江兼続あり」と、きっと目立ったに違いない。その前立てはおそらく戦う時には何の役にも立たなかっただろう。敵を倒す武具にもならなかったし、敵から自分を守るためにもあまり意味がなかったに違いない。しかし、それにはそれなりの役目があった。彼の存在を味方にも敵にも知らしめる印しとしての役目だ。理事長としての私の役目もそれに似ているなと思えるのだ。
 また、田中角栄氏の言葉も思い出した。「籠に乗る人、かつぐ人、そのまた草鞋を作る人」。実にうまいことを言ったものだ。ずばりと人の役割分担を言っている。稲作の新潟県人ならではの喩えでもある。ところで、一見、草鞋を作る人は一番下層で、下働きをさせられているだけのように思えるが、実はそうとは限らない。草鞋を作る人は籠を担ぐ人たちが担いでいる時には、もうその場にいない。己が役目を果たした後は自由に自分の仕事にいそしんでいると想像される。縛られていない。そして、籠に乗る人からの恩恵を待っている。たぶん一番いい思いをする人たちだ。
 他方、籠に乗る人は楽でいい身分かと言うと、そうとは限らない。いばって乗る人もいるだろうが、いやいや乗る人もいるだろう。籠に乗れば自分で歩きたくても歩けないし、狭い所に一人で座っていなければならない。強いられて乗ったのならなおさらだ。自由がなくて孤独だろう。どう考えても草鞋を作って、後は好きなように行動できる人の方が幸せに思える。しかし、なぜ自分が籠に乗っているかを自覚しているなら、心ならず乗った人、あるいは乗せられた人も不自由さや孤独に耐えられるだろう。私は理事長職は籠に乗った人にも似ていると思うようになった。
 田中角栄氏の言葉には抜けている人がいる。乗る人、かつぐ人、草鞋を作る人だけでなく、籠のわきにいて、籠に乗る人を「籠に乗せた人」、籠を担がせた人の存在だ。社会にはそういう仕掛け人がいる。政治にも会社にも社会福祉法人にも。私は「乗せられた人」だが、乗せた人、あるいは乗せた人たちがいた。それはわかっている。わかっていながら、その仕掛けに乗って、あえて「籠に乗る人」を演じることが今の私の役目だと認識している。なぜそんなことを?小原國芳先生が言った「馬鹿になれ、馬鹿になれ、大馬鹿になれ」の実践だからだ。小馬鹿はいけない。しかし、大馬鹿は単なる馬鹿ではない。でも、都の福祉局にこんな言辞を知られたら、何と不見識な!と厳重注意をされるかも知れない。

 毎週、必ずコラムを書いて来た。しかし、今週は忙しくてその暇がなかった。罪滅ぼしの意味で、他愛のないことを書いた次第だ。しかし、その「忙しかった」理由の1つには、旧約聖書原典通読もあった。おもしろくて、コラムを書くよりも読む方に時間を割いてしまったのだ。おかげで、レビ記も読了した。明日以降は、その通読で感じたことを書く。私、余生風老人は死ぬ暇がない。

新しい挑戦。でも情けない

 ずっと主日の聖書を題材に毎週コラムを書いて来たが、今週からそれを休止したことで、何だか肩の荷がおりた気がする。義務があったわけでもないのに書き続けたのは、主として自分のボケ防止のためだったが、読者が多少いることも一つの理由だった。しかし、典礼暦年は繰り返す。当然ながら、同じ聖書の箇所を何度も取り上げることになり、それについて書く内容も同工異曲になる。最後の頃はやはりそれに嫌気がさしてきていた。だからしばらく気分を変える。
 私のコラムを期待していた方にはカトリック新聞の主日説教欄、「キリストの光り、光のキリスト」をお勧めしたい。典礼暦B年だった昨年度は寺西神父の話がよかった。今年度はC年で、どんな執筆陣かまだ知らないが、待降節第1主日の聖書は札幌教区の場崎 洋神父が書いている。説教内容は「ザビエルから始まる宣教の旅」だが、今年は信仰年でもあるし、同聖人の祝日が12月3日でもあるから、時宜を得ている。内容も大変良い。自分の教会のミサで聞く説教と合わせ読むといいのではなかろうか。
 他方、自分のボケ防止のための知的活動なら、主日の聖書について書くコラム以外にいくらでもある。その一つが旧約聖書原典の通読だ。実はこれという動機があったわけではないのに、あの暑かった今年の7月30日、旧約聖書を原典のヘブライ語で最初から徹底的に通読してみようと思い立った。原典でもそのところどころは主日の聖書朗読や研究などで読んではいたが、全編を通読したのは日本語、フランス語、スペイン語でだけで、原典ではまだだったからだ。

 それで一念発起しで通読を開始した。そして、実行して来たが、1日1章ぐらいしか読めない。そこで、まず感じたのはわれながら何と遅くて情けないことかという、自分へのいらだちだった。日本語なら当然だが、英仏語でならほぼ辞書は不要、スペイン語ラテン語でなら少しは辞書のお世話になるもののすらすら読める。ところがヘブライ語ではそうはいかない。力不足だからだ。特に語彙が足りない。それに旧約聖書ヘブライ語の特異さがある。だから、頻繁に辞書を引き、この動詞の原型は何だ?何と言う意味だ?と長考するから、進度は遅々としてさながら蝸牛の歩みだ。
 しかし、継続とはやはりすごいもので、ギブアップせずに4か月間読んで来た結果、創世記、出エジプト記は読了し、今はレビ記後半を読んでいる。気のせいか、読む速さも若干上がっているようだし、少しは新しい語彙も覚えている。83歳の老人がこんな挑戦をしているのを知れば、やることがないとか、何もやる気がしないとかぼやく老人たちの刺激にはなるかも知れない。とにかく、もどかしく情けない思いは変わらないが、私が今熱中しているのは旧約聖書の原典通読だ。
 私の通読方法はわからない所は絶対そのままにせず、辞書などを使ってどんなに時間をかけても解明して進むやり方だ。知らなかった語彙はノートに逐一記録していく。これは2度目に読む時のためだが、人が聞いたら石田光成と同じだと笑うかも知れない。なぜんら、光成は関ヶ原の合戦で敗れて捕えられ、徳川方の者から柿を食うかと差し出された時、夜柿を食うのは腹に悪いと答えて、明日斬首されるというのに健康の心配をするとはと笑われたそうだが、私もこの年では原典全通読を1度すらできないかも知れないのに、2度目のことを考えているからだ。しかし、笑われてもかまわない。2度目の通読が可能かも知れないと思って、このやり方を貫く。

 ところで、この方法で通読すると辞書を酷使することになる。今日、アマゾンからキリスト教聖書塾編の改訂ヘブライ語辞典を買ったのも、今まで使っていた同じ辞典がボロボロになってしまったからだ。しかし、旧約聖書理解にはこの辞典では不十分だ。どうしても英仏独語等のヘブライ語辞書が要る。私はラルースのDictionnaire-Hébreux-Françaisを愛用しているが、今恐れているのはそれも壊れてしまうことだ。もう背表紙は崩れ、表紙も剥がれそうになっている。 だから、何とかそえれを長持ちさせようと、できるだけ聖書塾の辞書を使い、ラルースの辞書は温存するようにしている。しかし、日本では画期的だった聖書塾の辞書も惜しいかな語彙の所収が足りない。だから、原典を読んでいてわからない語彙に出会った時にこの辞書を引いても、その語彙がない場合が少なくない。そんな時、私はラルースのヘブライ語フランス語辞典を引く。すると、必ず目当ての語彙があって、よかったぁと思い、問題が解決づるという具合なのだ。
 例えば、レビ記21;17-20(フランシスコ会訳)にはこう書かれている。「アロンに告げて言え。お前の世々の子孫のうちで、体に欠陥のある者は、神の食べ物をささげるために近づいてはならない。体に欠陥のある者は誰も近づいてはならない。すなわち、目の見えない者、足の不自由な者、顔が変形している者、奇形の者、あるいは足の折れた者、手の折れた者、背中にこぶのある者、背丈が極端に低い者、目に傷のある者、疥癬や湿疹のある者、睾丸のつぶれた者などである。」
 聖書塾の辞典で引くと、そのほとんどの語彙は所収されていない。ところが仏語-ヘブライ語辞典には全部ある。もっとも、日本語だから知っているものの、「背丈が極端に低い者」(rachitique=くる病の人)、「目に傷のある者」(ophtalmie=眼炎、結膜炎の人)、「疥癬や湿疹」(dartre)等、仏語ならほとんど辞書が要らない私でも、仏語で初めて知る語彙があった。ましてや聖書塾の小さなヘブライ語辞典ではそれらが所収されていなくても無理はないし、責められない。
 しかし、聖書塾の辞典には長所がある。それは末尾の非常に親切な動詞の活用表だ。ラルースの辞典にもあるが、聖書塾のものには及ばない。従って、聖書塾の動詞活用表は日本人には実にありがたい。よくぞ作ってくれたと感謝しなければなるまい。旧約を原典で読みたい初心者は、聖書塾の辞典と英仏独語-ヘブライ語辞典の両方の長所を活かして使うといいと思う。いい辞書は読書中に不明な物事に遭遇した時、それを適切に教えてくれるガイドのようで、実にありがたいものだ。

 さて、旧約聖書そのものだが、辞書の比較のために引用した上掲のレビ記21;17-20を読んだだけでも、現代の私たちにはいろいろな角度から疑問が続出するに違いない。例えば、知的障害者の通所施設・社会法人地の星の理事長である私としては、なぜ神への捧げものを障害者がしてはいけなかったのか?ひどい差別であり弱者蔑視ではないか?どうしてそれが聖なることなのか?等の疑問を覚える。しかし、そうした疑問にもかかわらず、旧約聖書が稀有の書であることに変りはない。
 何の本であったかは忘れたが、かつて幸徳秋水が大逆事件で投獄された時、一冊だけ持って入ることを許されるならば旧約聖書を持って行くと、言ったというエピソードを読んだことがあった。友人がその理由をきいたら、彼は「こんな面白い書物はないからだ」と答えたとか。まさにその通りで、知れば知るほどそれは興味深く、驚嘆に値する書だということがわかる。もちろんその原典通読がボケ防止に効果的であることも間違いないだろう。それにはすごく頭を使うからだ。
 原典通読は、日本語や仏語とは違い、頻繁に辞書のお世話になりながらゆっくり読むだけあって、今まで見落としていたことに気付くとか、すでに知っている箇所でも考えさせられるとかの機会が多く、知的刺激に富んでいる。だから、今後しばらくはこの通読で発見したこと、感じたこと、考えたこと、考え直したこと等を題材にして書く。はたしてそれで温故知新になるかどうかはわからないが、もしアクセスしてくれる人がいたら、一緒にそれをエンジョイしてほしいと思う。
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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