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タリタ、クミ 

 年間第13主日の福音はマルコ5;21-43だ。それは会堂長ヤイロの娘の蘇生と、その物語に挿入された血漏の女の治癒を伝える。この2つの奇跡は、救いには信仰が不可欠であることを教え、そのメッセージは出血が止まった女に、「あなたの信仰があなたを救った」と言われたお言葉に込められている。
 ヤイロは湖畔におられたイエス様の足元にひれ伏して、「わたしの娘が死にそうです。おいでになって手を置いてやってください。そうすれば娘は助かり、生きるでしょう」と願った。それを聞き入れた主はヤイロの家に向かわれた。しかし、その途中人々が知らせに来て、「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と言った。ところが主は、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われた。だから、ヤイロはお言葉を信じて、主をそのまま家にお連れした。 
 人々が泣いていたので、主は「子どもは死んだのではない。眠っているのだ」と言われた。すると彼らは嘲笑った。ヤイロとは対極の不信仰の表れだった。主は両親と3使徒だけを伴って子供に近づき、手を取ると言われた。「タリタ、クミ(少女よ、起きなさい)」と。すると少女は起き上がって歩き出した。だから人々は驚愕した。だが、主はこのことを誰にも言うなと命じられた。これが荒筋だが、考察を最小限度にするため、今回は「タリタ、クミ」と言われたお言葉だけを取り上げよう。

 これを読むと問いたいことは数々あるが、なぜ私がここでは「タリタ、クミ」だけに限るかというと、それが超貴重だからだ。新約聖書にはイエス様が言われたままの元のお言葉が少しだけ残されていて、この2語もその1つだ。主のお言葉はギリシャ語原典から伝えられたが、そのほとんどは元々主が話されたままではない。主はアラマイ語やヘブライ語を使っておられたから、原典ではあってもギリシャ語で書かれたお言葉は翻訳の一つでもある。だから、この2語は超貴重なのだ。 
 ところで、共同訳は― そして、聖書と典礼も― それを「タリタ、クム」と記している。些細なことだが、では「クム」と「クミ」ではどちらが正しいのだろうか?どの翻訳聖書もこの2語がアラマイ語であることでは一致している。「タリタ」も問題にはならない。ところが、「クム」か「クミ」かについては見解が分かれる。なぜか?それはギリシャ語原典が“Ταλιθα κουμ”(Talita kuum)と伝えていて、発音が「クム」になっているからだと思われる。それに倣ってか、新ブルガタ訳、仏、独、西語訳、新共同訳、フランシスコ会訳等は「クム」を採用している。原典を尊重してのことだと推察する。
 しかし、ヘブライ語訳、RSV版英語訳、ラゲ訳、聖書協会訳等は「クミ」としている。これだけ見ると「クム」の方が明らかに多数派だが、これは多数決では決まらないことだ。この語はアラマイ語だから、どちらが正しいかはそれとの合致で決まるからだ。では、アラマイ語聖書ではどうなっているかと言うと、これもローマ字表記だが、Talita kumiと書かれている。つまり「クミ」に軍配があがる。ゆえに私は「タリタ、クミ」と読む方が正しいと結論し、このコラムの題名もそのようにした。
 イエス様はヘブライ語も話されたが、その訳ならどうかと言うと、これもローマ字表記だが、Naarah kumiとなる。「クミ」はアラマイ語と全く同じだ。ギリシャ語原典がkuumなのは、マルコがアラマイ語マタイ福音書を参考にして彼の福音書を書いた時、アラマイ語をやや不十分に表記してしまったからではなかろうか。しかし、主のお言葉をアラマイ語のまま書き残してくれたのは福音史家マルコだけだ。実にありがたいことで、それにはいくら感謝しても感謝し切れないくらいだ。
 他方、ルカはギリシャ語で“He pais egeire” 「娘よ、起きなさい」(ルカ8;54)と書き、「タリタ クミ」とは書かなかった。ただ、その訳をヘブライ語・アラマイ語福音書で見ると、それぞれNaarah kumi-Talita kumiとなっている。それが当前の訳だとは言え、元々の言葉が訳とされているのはちょっと奇妙な気がする。ちなみにその翻訳福音書では、マルコ5;41にある「その意味は『少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい』である」という注釈はない。当然ながら不要だからだ。 

 さて、ここまでは知的な考察だったが、「タリタ クミ」(少女よ、起きなさい)というお言葉には、権威と慈しみの響きがある。だから私の心をゆさぶる。知的な次元では終わらないのだ。しかし、感動よりもっと重要なのは、イエス様がなぜその少女を死から蘇らせなさったかの理由だ。血漏の女の治癒は、言わば無断で主のお力が引き出された結果だったが、ヤイロの場合は、彼の娘を助けるつもりだった主のご意思がはっきり窺える。主は進んで彼の願いをかなえようとなさったのだ。
 では、それは彼の信仰がそれほど強かったからだろうか?彼が主を信じていたことは確かだが、挫けないようにと主に励まされたのを見れば、「これほどの信仰を見たことはない」(マタイ8;10)と称賛されるほどではなかったようだ。だとすれば、100%信仰への報いだったとは思えない。では、その少女を憐れまれたからだろうか?しかし、病死の少女は他にもいたはずだ。なぜ彼女だけを特別に憐れまれたのか、その理由だけでは納得できる説明にならない。だからこれも当たらない。
 では、死者を蘇らせる奇跡によって、ご自分の神的な能力を示すためだったのだろうか?しかしそれならば、その場の人々すべてにその奇跡を見せればよかったはずなのに、主は3使徒と両親しか少女のいる所に入るのを許されなかったし、このことを誰にも話してはいけないともお命じになった。それはお力を世に示すのとはまったく逆だった。従って、その奇跡はその意図からでもなかったと思える。ではなぜ主はヤイロを励まし、彼の娘を死から生き返らせられたのだろうか?

 私は主が3使徒だけを伴い、事後に口止めされたことに着目する。なぜなら、山上でご変容の時もやはり3使徒だけを連れ、「人の子が死者の中らか復活するまでは、今見たことを誰にも言うな」と口止めされたからだ。そこには、直面するものは死と復活、3使徒のみの同伴、口止めという3つの共通点がある。ゲッセマネの園でも3使徒同伴、目前には死と復活の2点はあったが、この時は後がなかったので口止めはなかった。だが、死と復活と信仰の神秘はそこにあった。
 これに照らすと、ヤイロの娘の蘇生は単に大いなる奇跡だったというだけではなく、主の死と復活の神秘と、それに対する信仰のあり方を示唆するきわめて特別な、象徴性の濃い奇跡だったことがわかる。人々は死んだ少女が蘇った事実に驚嘆したが、主が何と言われ、どのように生き返らせたかは目撃しなかった。彼らや後世の人たちがそれを知り得たのは、後に3使徒とおそらく初代教会の信者になった両親が、その奇跡の真実を人々に語り、証言してくれたおかげだった。
 それは他の重要な局面でも同じだった。私たちは主のご変容やゲッセマネの園での苦悩は3使徒の証言、ご復活の真実は11使徒と他の弟子や婦人たちの証言でしか知ることができない。主なき後、主の教えと行いを信じるとは、目撃者だった人たちの証言を信じることに他ならないのだ。ヤイロの娘の蘇生はそういう信じ方のモデルになる。主は「あなたの信仰があなたを救った」と言われたが、これはそういう信じ方を励ます奇跡だった。私たちもヤイロのように信じるなら、死んでも必ず生きる。人々がそう信じられるためにこそ、主はこの奇跡をなさったのだ、と私は理解した。
 それは「わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11;25)と言われたお言葉と呼応する。真に生きるとは何か。主の死と復活によって実現した神の国で生きることにある。人は必ず死ぬ。だから、あの少女もやがて年老いてまた死んだはずだ。それなのに主は一度彼女を蘇らせなさった。それは彼女がいつまでも地上で生きるためではなく、いつか神の国で永遠の命を得て生きるため、そして私たちがそこから信仰の神秘を学ぶためであった。



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洗礼者聖ヨハネの誕生

 1ヶ月半前、思う存分書く時間があるのもこれが最後と書いたが、その事情が延期されたので相変わらず長々と書いて来た。だが、いよいよその時が来てしまったので、今回からは短く書く。

 さて、6月24日は洗礼者聖ヨハネ誕生の祝日だ。福音はルカ1;57-66,80だが、この聖人は日本人にはそれほどなじみがない。教会はなぜ一主日のタイトルにしてまでその誕生を祝うのだろうか?おそらくそれは新約の神の民である教会にとって特別な存在だからだと思われる。では、どんな意味で特別なのだろうか?その答えは聖書が彼について伝えている特別な点に気付けば、おのずと出て来るのではなかろうか。それには次のようなものが挙げられよう。 
 まず彼の誕生そのものが特別だ。なぜなら新約聖書の中で誕生と死が語られている人は、イエス様と彼の2人だけだからだ。私は今回その事実に初めて気付いたのだが、イエス様の場合は別格だから横に置くと、誕生と死の両方が知られている人は洗礼者ヨハネ一人しかいない。新約聖書には使徒たち、弟子たち、聖なる婦人たち、主に敵対した人たちなど多くの人が出て来るが、彼以外には誕生と死がはっきりしている人はいないのだ。しかし、彼の場合はそれが詳しく語り継がれて来た。それは彼の存在が、待望の救い主の出現と密接不離だったからだと言えよう。
 次に特別だと思えるのは、預言者としての彼の誕生が神様の長い沈黙の終わりを意味したことだ。当時、イスラエルには祭司や学者はいた。その少し前はマカベ一族のような信仰の英雄的証言者もいた。しかし、預言者はもう何百年も出ていなかった。つまり、神様は新しいメッセージを送らず、沈黙しておられたのだ。だから、人々は律法や預言の書の中で、過去に語られた神の言葉に接するだけだった。
 しかし、時は満ち、神の使いは「エリヤの霊と力で主に先だって行き、…民を主のために用意する」(ルカ1;17)預言者の誕生を知らせ、続いて乙女マリアに救い主の誕生を告げた。神様は沈黙を破って、洗礼者ヨハネの誕生を機に再び人類に語り始められたのだ。それは地殻の大変動を告げる大地震に似ている。頻繁な微震等ではなく、数百年周期で起こる烈震だ。救いの歴史でも、旧約から新約への大地殻変動が起こった。彼は民の心を揺さぶった大震源のようだった。
 三つ目の特別な点は、誕生の前から常にイエス・キリスト様の少し先を並走したことだ。洗礼者ヨハネには「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」先駆者、「光ではなく、光について証しをするために来た」(ヨハネ1;8) 証言者の使命があったからだ。その並走を示す象徴的な叙述がある。それは幼子ヨハネと幼子イエス誕生物語の結語だが、リフレインのように似ていて興味深い。
「幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。」(1;80)
「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」(2;40)
「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」

 ところで、洗礼者ヨハネが「イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた」のは、幼くして祭司エリに預けられた預言者サムエルの誕生物語(サム上1章)を想起させる。洗礼者ヨハネも幼くして誰かに預けられたのだろうか?彼がエッセネ派に属していたと見る学者もいるが、もしそうだったのなら、彼が「荒れ野にいた」というのは、死海文書が発見されたクムラン遺跡だったのかも知れない。そこはエッセネ派クムラン教団の拠点だったが、まさに荒れ野のまっただ中だったからだ。ちなみにそこはエルサレムからも、彼の生地アインカリムからも遠くないユダヤの地にあった。
 荒野に主の道を準備した彼は、イエスらエルの人々の前に現れる時を荒れ野で待ち、イエス様は暗闇の中にいた人々の間で、大いなる光を暗闇に輝かせる時を待たれた。洗礼者ヨハネは旧約時代に生まれたが、その心と働きはすでに新約時代にあった。だから、教会がまだなかった時代の人物なのに、教会で聖人とされているのだろう。彼は幕末から明治へと駆け抜けた坂本竜馬にどこか似ている。そういう風雲児的な生き様も、欧米で人気のある聖人の10指に入る理由かも知れない。私たちは洗礼者ヨハネのように主の先駆者にはなれない。しかし、同じ精神で後駆者となることならできる。 

喩えで語られたわけ

 「イエスは人々の聞く能力に応じて、このような多くの喩えをもって、み言葉を語られ、喩えなしには語られなかった。しかし、ご自分の弟子たちだけの時には、すべてのことを解き明かされた。」

 これは年間第11主日の福音マルコ4;26-34の結び部分だ。それはイエス様が湖上の舟に乗り、おびただしい群衆に喩えをもって多くのことを教えられたと伝える4章1-2節と、続いて話された4つの喩え、そして4章10-11節で主が弟子たちに「あなた方には神の国の秘義が授けられるが、外の人々にはすべてが喩えで語られる」と言われたことを知ると、なるほどと納得できる。しかし、私には少なくとも2つの疑問が湧いた。
 「喩えなしには語られなかった」という一句は、喩えなしで語られた偽善者への非難や終末の予告等の事実に照らせば、それほど譬えが多かったことを強調したに過ぎず、喩えなしの話を否定したわけではなかろう。そう解釈すれば済む。だが、いったいなぜ主はしばしば喩えで語られたのだろうか?また、なぜその秘義を弟子たちにしか明かされなかったのだろうか?一般の人たちだって明かしてもらったら、弟子たち同様にわかっただろうに…それが湧いた2つの疑問だ。
 いったいなぜ主はしばしば喩えで語られたのか?という第一の疑問への答えは、その語りのスタイルが福音を伝えるのに効果的だったからだと思う。では、なぜそれが効果的だったかと言うと、仮定だが、次の3つの理由があったからではなかろうか。つまり、①喩えは具体的でわかりやすく、イスラエル人のメンタリティに向いていて、②人の記憶にしっかり残る長所があり、③わかりやすいと同時にどこかわからない謎もあって、そこにこそ主が伝えたい真意を託すことができたことだ。

 しかし、そもそも聖書の喩えとはどんなものかを知っていないと、上記の理由の検証も堂々巡りをしかねない。そこで手順として、まず喩えそのものを考察しようと思う。文献によれば、喩えは新約聖書原典ではParabolehの単語で50回現れ、ヨハネの福音書ではParoimiaで4回出て来るそうだ。Parabola, Parbole, Parable等のヨーロッパ言語は上掲のギリシャ語を語源としている。しかし、イエス様が「外の人にはすべてが喩えで語られる」(マルコ4;11)と言われた時の単語は、勿論ギリシャ語ではなく、ヘブライ語のMeshalim かアラマイ語のMatlehだったはずだ。
 MeshalimとはMashal(マシャル)の複数で、比喩、諺、格言、謎、風刺、警句等の総称だが、聖書では「種蒔く人の喩え」のような、ストーリー性のある比喩的な話に限られていると言っていい。従って、例えば主が「わたしは道である」(ヨハネ14;6)と言われた一句は、比喩ではあってもストーリーがないから喩えとは言わない。福音書の喩えの数は厳密に認定する学者とそうでない学者がいて、約20から100までの開きがある。ちなみに燦葉出版社刊聖書ノートでは64話だ。
 カテゴリーから見ると、聖書の喩えは教義的なもの(doctrinal)と生き方的なもの(moral)に大別できる。例えば「天の国の喩え」(マタイ13;24-50)は前者、「善きサマリア人の喩え」(ルカ10;30-37)は後者の色合いが濃い。とは言え、それは程度の問題で、どの喩えにも教義と生き方の両要素があるから、きっぱりと峻別できるわけではない。天の国に入るにはそれに相応しい生き方が求められるし、そういう生き方は神様の教えという基盤がなければあり得ないからだ。
 もう一つの注目点は寓話(allegory)との違いだ。寓話はイソップの物語やラフォンテーヌのファーブル等で知られるが、その語りのスタイルは聖書の喩えとよく似ている。しかし、そのメッセージや精神だけでなく、表現方法にも違いがある。寓話はイメージ言語を使い、どの部分にも相応の隠喩(寓意)がある。聖書の喩えも比喩的言語を使ってある現実を語るストーリーでは似ているが、その各部分には必ずしも隠喩はないし、ある必要もない。そこが明確に違う。
 この比較に照らすと、「種蒔く人の喩え」は寓話の色合いが濃いと言えよう。しかし、聖書の喩えの大原則はあまり寓話化しないことにある。つまり、大事なのはその中心的な思想やメッセージで、枝葉末節にはあまりこだわらなくていいということだ。例えば、この主日の「芥子種の喩え」では、その種が本当に地上のどの種よりも小さく、それが真にどんな野菜より大きくなるか等にはこだわっても意味がない。重要なのは小さい種が大きな野菜になるという比喩に隠された真意だ。
 その隠された真意の存在からは、喩えの最後の特性が見えてくる。喩えは具体的で比喩的なイメージがあるからわかりやすい半面、その背後に何かが隠されているという謎めいた特徴だ。これこそ聖書の喩えの最もユニークな特徴だろう。例えば、ラフォンテーヌの「烏と狐」の寓話は烏と狐がどんな人間の隠喩か解ければ、後は全部がわかる。ところが、喩えはむしろ逆ですらある。表面的にはすべてがわかっても、真意は何かの謎が残るのだ。だが、これは後でまた取り上げよう。 

 さて、譬えそのものの考察が済んだので、主が喩えを多用された3つの理由を検証してみよう。1番目の理由はそれがイスラエル人のメンタリティに向いていたからだとしたが、それは妥当かというと、そうだと言えると思う。喩えは、旧約聖書では預言者ナタンがダビデ王を叱責した時(サム下12;1-4)に話した例があるが、イエス様だけではなく、当時のラビたちも使っていた伝統的な話法の一つで、一般民衆向きだった。なぜなら、当時のイスラエル人たちは一方では喩えによる話し方に慣れ親しんでいたし、他方では学問のある者たちではなかったからだ。 
 かつて私が大学生に聖書の話をした時も、理詰めで抽象的な話をするとすぐ居眠りが始まったものだ。ましてや当時の民衆は難しい話にはついていけなかっただろう。仮についていけたとしても、そっぽを向いたと思う。しかし、喩えは具体的で、麦、魚、羊、商人、ぶどう畑、借金など、実に生活密着で人々の興味をそそったに違いない。だから、主は喩えを多用されたのだ。「イエスは人々の聞く能力に応じて」とあるのは、民衆の傾向や程度に合わせたという意味だと解釈できる。

 2番目の理由は、喩えが人の記憶に残りやすい長所があったからではないかという仮説だが、論より証拠、私たちも例えば聖パウロの手紙などは、こういうことが〇〇書の〇〇章に書いてあったなぁぐらいは思い出せても、彼の言葉をそのままは思い出せない。理詰めで概念的だからだ。ところが、主の喩えはそのままの言葉では記憶していなくても、どういう筋立てのどういう内容かはかなり思い出せる。だから自分なりの言葉でその喩えを再現できる。それが喩えの強みなのだ。
 主の喩え話は、どれにせよ一度聞いたり読んだりすれば人の記憶に鮮明に残る。ストーリーがあるからだ。イエス様が一般民衆に喩えで話されたのは、後で人々がそれを思い出せるためだったと思う。聞いただけでは、その喩えに秘められた真意がわからなくても、わからないままでも記憶に残れば、ご受難と復活によって救いが成就し、聖霊が来てくださる時、人々は信じた暁に喩えを思い出して、その真意を悟るだろう。主はその時を見越して喩えで語られたのだと確信する。

 3番目の理由は、喩えにはどこかに謎もあり、そこに伝えたい真意を託せたからだということにある。すでに喩えそのものの考察で、それを聖書の喩えのユニークな特徴だと指摘したが、確かに喩えでは具体的でわかりやすい比喩の背後に真意が秘匿されている。それが喩えの「見えない心」だが、イエス様はそれを悟らせるためにこそ喩えによって語られたのだった。なぜそんなことをされたかというと、喩えで語られた真理が理解されるまでには時間差があったからだと思う。
 これもすでに触れたことだが、人々は主の喩えを聞いても本当にはわからなかった。救いが成就し聖霊が来てくださって、人は初めてそれを理解するに至れるのだが、それまでは言葉の表面的な意味がわかっただけだったのだ。後でまた取り上げると言った寓話との比較で再考してみると、「烏と狐」にせよ「蝉と蟻」にせよ、寓話は主人公がどんな人物の寓意かわかれば、あとはすべて解けるが、喩えは違う。この主日の福音にある「成長する種の喩え」を見てもそれは明らかだ。
 主は「神の国は人が大地に種を蒔くようなものである」と言われた。蒔かれた種は人の起臥怠慢労苦に関係なく、大地のおかげと自力で自然に発芽生長し、やがて実る。そして、刈り入れの時が来たと見るや人は収穫する。どれも人々が経験で知っていたことだ。たった一つの謎または隠された意味を除いては、神の国という言葉も含めて、わからないことは何もなかったに違いない。寓話とは逆で、喩えではすべてが最初からわかっているが、最後の真意だけが謎なのだ。
 従って、神の国をユダヤ人流に考えていた人々はこの喩えを聞いて、ひょっとしたら、「何だ、種がそうなるのは当たり前じゃないか。何でこの人はそんなわかり切ったことを喩えにして話すんだろうか?つまらない。意味がないな」と思ったかも知れない。それは秘匿された真意があることにさえ気づかない、「見ても見ず、聞いても悟らない」ケースだが、それ以外がわかり切ったことという点に注目だ。喩えとしてわかり、記憶に残れば、いつか隠された大事な真理に気付けるからだ。
 この喩えの場合、人々はまだ主が実現する「神の国」がどんなものか知らなかった。それは彼らが思っていた王国とは違い、やがて実現する新しい天地、祝福された者たちに用意された至福の天の居場所だ。しかし、人々が天からのパンの神秘も信じなかった時点では時期相尚で、そのような国の真相を話しても理解できず、受け入れなかっただろう。だから、主は時が来るまでは真意が隠されたままの喩えを語られた。喩えは真理のタイムカプセルの役割を果たしているのだ。

 それは「ご自分の弟子たちだけの時には、すべてのことを解き明かされた」のに、民衆にはそうされなかったのはなぜか?という疑問の答えにもなる。聖霊降臨以前は、神の国の神秘を解き明かされても、おそらく弟子たちすらそれをよく理解はできていなかったのではなかろうか。ご受難予告の時にしたペトロの諫言(マタイ16;22)や、ご受難も近かったのにヤコブとヨハネ兄弟が口にした厚かましい願い(マルコ10;37)等を見れば、そうだったに違いないと察しがつく。
 それにもかかわらず、主は彼らには神の国の秘義を明かされた。その時点ではよく理解できなくても、時が来れば聖霊がすべてのことを彼らに教え、「わたしが言ったことをすべて思い起こさせてくださる」(ヨハネ14;26)ことをご存知だったからだ。しかし、一般民衆にはそうされなかった。なぜだったのだろうか?聖霊に照らされてよく理解した弟子たちが、やがてすべての人々に、その神秘を解き明かすだろうと見越しておられたからだ。私はそのように解釈する。
 ところで、この主日の福音は神の国を2つの種に喩えるが、人々はその隠された真意がわかっただろうか?私はそれを教会のことだと見る。それは地上で始まった神の国だからだ。事実、初めは弟子たちの小さな集団だった教会は種のように成長して多くの実を結び、小さな芥子種から育った大きな野菜のようになった。私たちは今教会にその隠された意味の顕現を見る。そしてこの2つの喩えは、人の如何に関わらず、神の国が必ず実現するという希望も秘匿しているのだと思う。

杯の後に言われた言葉

 キリストの聖体の主日に読んだマルコの福音書に、疑問が一つ湧いた。その14;23-26には、「また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『多くの人のために流される私の血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。』一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へでかけた」とある。杯は1度だけだ。
 ところが、ルカによる福音書22;17-20を読むと、杯は2度だ。1度目はパンの聖別の前で、主は感謝の祈りを唱えられたが、御血には聖別なさらず、「これを取り、互いに回して飲みなさい」と言われ、続けて「神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」と言われた。そして、その後でパンを御体に聖別なさった後、2度目の杯を取り、「この杯は、あなた方のために流されるわたしの血による新しい契約である」と御血に聖別なされた。
 そこで疑問が湧くのだ。マルコが語る杯はパンを聖別なさった後だから、ルカの2度目の杯に当たることは確かだろう。「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」と言われたのは、葡萄酒を御血に変えられたその杯の後だ。ところがルカでは1度目の杯の後それが言われている。2度目の杯で御血に聖変化なさった後ではない。では、「神の国で新たに飲む日まで…」というそのお言葉は、本当はどこで言われたのだろうか?

 この疑問を解く鍵はその時の状況“Sitz im Leben”にあると思う。では、その夜イエス様ご一行はどんな状況にあったかと言うと、ある家の2階の広間で過越の食卓を囲んでいた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」(ルカ22;15)とあるように、主のお心にはその時それを新約の過越しの食事に変容させるご意図があった。しかし、弟子たちはそれにはまったく気づかず、いつもと同じユダヤ人の過越のつもりだった。
 ということは、その食事はユダヤ人の過越しのやり方で始まったということだ。そのやり方は過越祭のセデール(最初の晩餐)のハガダー(祭式マニュアル)で規定されている。もちろん現在のユダヤ教の過越祭はイエス様の時代とは多少違う点があるに違いない。当時はまだ神殿があって、過越の羊はそこで屠られたが、AD70年のユダヤ滅亡後、ユダヤ人は離散の民となったので、過越祭が神殿のない状況に適応したやり方に修正されていったと推定されるからだ。
 しかし、過越祭はユダヤ人の民族的アイデンティティーが関わる最重要な祭事だ。そういうものが換骨奪胎されるほど変更されたとは考えにくい。むしろ、基本的な要素は維持され続けたと考える方が妥当だろう。そうだとすれば、現在のユダヤ教の過越祭のハガダーを参照して、イエス様の時代の過越祭の晩餐もおおよそこうだっただろうと推測してかまわないと思う。ところで、ユダヤ教の過越祭ハガダーでは、葡萄酒の乾杯は4度ある。だから、当時もそうだったと思われる。

 もしそういう推理でいいとすれば、ルカの福音書22;17が伝える最初の杯は、ユダヤ教の過越祭のハガダーにある3度目の杯に当たるだろう。では、それは祝いの晩餐のどの辺りかと言うと、ほとんど終わりに近い時点で飲まれる。その直前は種なしパン、苦菜の祝福と会食があり、それが済むと、隠してあったZafon(またはAfikoman)と言われる種なしパンが裂かれ、配られる。それを食べると、後はもう何も食べない。私の推測に過ぎないが、イエス様が「これはわたしの体」と言われて、パンを裂かれたのはこの時だったのではなかろうか。その後に過越の食事への感謝と終わりの祝福があり、そこで3度目の乾杯があるのだ。それは「主にして我らの神、宇宙を統べる方、ぶどうの実の創造主よ、あなたはほめ称えられますように」と唱えて飲み乾す。
 従って、主が「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」と言われたのは、この3度目のその乾杯の言葉の代わりだったのではないかと私は推察する。なぜなら両方ともぶどうの実を中心に述べられているからだ。そして、その言葉が終ると、すぐ4度目の杯が飲まれ、それが最終杯となる。それが済むと「ドアの開放」(Open the Door)が行われる。預言者エリアと貧者が入って来られるようにと言う象徴的行為だ。
 私はイエス様が「これは多くの人のために流される私の血、契約の血」と言われたのはこの時ではなかったかと思うのだ。ユダヤ人の過越しでは4度目の杯には文言がない。だからまっさらで使い勝手がよい。そこで、主はこの杯を御血の秘跡に採用なさったのではないかと推理する。マルコには言及がないが、使徒パウロとルカは「食事の後で」と書いている。それはまさに4度目の杯とぴったり合う。それで判定する限り、ルカの記述はマルコよりも的確だと言うことができよう。

 そこで、「神の国で新たに飲む日まで…」というお言葉は、過越の食事のどの辺りで言われたのだろうか?という疑問への答えだが、それは3度目の乾杯をした時だった思われる。マルコは3度目の乾杯は省略したが、その際の賛美に代えて言われた主のお言葉は忘れなかった。ただ、彼は御血の秘跡になった4度目の杯しか伝えなかった。だから、「杯の後、杯の後」と思い込んでいた彼は3度目の杯の後で言われた言葉を、うっかり4度目の杯の後に書いてしまったのだと思う。
 マルコが書いた「また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『多くの人のために流される私の血、契約の血である』。…」という叙述は、「また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ」までを3度目の杯、「そして、イエスは言われた。『多くの人のために流される私の血、契約の血である』。…」の部分を4度目の杯だと強いて解釈できないこともない。
 しかし、やはりそれには無理があろう。「また、杯を取り、…」以下「…契約の血である」までは一体で、4度目の杯に当たると見なすのが妥当だからだ。いずれにせよ「神の国で新たに飲む日まで…」というお言葉の位置は4度目の杯の後では正しくないと言わざるを得ない。では、マタイの福音書も同じだが、それも正しくないのかと言われれば、そうだ、ギリシャ語マタイ福音書はマルコを参照したので、マルコの思い違いをそのままなぞってしまったと考えると納得できよう。
 他方、ルカはユダヤ人ではなかったのに、過越の食事の中で制定された聖体と御血の秘跡を正確な順序で叙述した。彼もユダヤ人の過越のほとんどを省略し、乾杯も2度しか言及していない。しかし、新約に必要不可欠な部分はしっかり伝えた。私がうがって見過ぎるのか、それとも彼が意識して書いたのかわからないが、彼が言及した2度の杯と「神の国で新たに飲む日まで…」の言葉にはたいへん意味のある区別が見られる。それは次のことだ。
 3度目の杯はただのぶどう酒だった。だから、彼はそのすぐ後に「言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」と書いたのだと思う。しかし、4度目の杯の後ではそうは書けなかった。4度目の杯は聖別された後は主の御血だったからだ。つまり、もはやただのぶどう酒ではなかったからだ。3度目の杯は旧約のブドウ酒の最後の杯、4度目の杯は新約の御血の最初の杯だった。知ってかそれとも知らずにか、ルカは「神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」という言葉で、それを挟む2つの杯に、天地の高低よりも大きな差があることを示唆しているのではなかろうか。

パンの形色のもとにまします神なる主

 フランス語ではキリストの聖体の主日を“Fête-Dieu”と言う。想像だが、最初は“Aujourd’hui on fête Dieu.”だったのではあるまいか。訳せば「人は今日神を祝う」となるが、それを縮めた“Fête-Dieu”はさしずめ「神様の祝祭」とでも言えるおもしろい表現だ。この祝日の命名には、「パンの形色のもとにまします神なる主」であるご聖体への、親近感と感謝の思いがこめられているのだと思う。それは全能至高なる神様にはまことに似つかわしくない在り方だからだ。
 この主日の福音は前半のマルコ14;12-16が過越しの食事の準備段階を、後半の14;22-26が聖体の秘跡の制定を伝えている。今日は疑問からではなく、私も親近感と感謝から出発して、後半部分だけを考察してみようと思う。聖体制定の記述はマルコのこの章節の他に、マタイとルカ2福音書の並行箇所と使徒パウロのコリントの信徒への第一の手紙11;23-26がある。他方、ヨハネの福音書には聖体制定の記事はないが、6章がその神秘を他の福音書や使徒の手紙とは全く違う視点で語る。
 それらを読み比べてみると、現在のミサ典書で使われている式文に最も近いのは、聖パウロの手紙とルカの福音書の文言だと思う。それは初代教会で主の食卓を囲む度ごとに繰り返されていた言葉を、そのまま反映しているように思われる。従って、非常に貴重だ。それに比べ、マルコ福音書には若干省略がある。しかし、最も肝要なご聖体の制定の事実は、他の福音書や使徒の手紙と一致して証言している。そして、それこそご聖体に対する信仰の最重要な拠り所なのだ。

 使徒パウロは書いた。「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです』と。
 そして本日の福音マルコ14;12-14はこう伝える。「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』また杯をとり、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である』」と。

 どちらも感謝の祈りをしてパンが裂かれたと伝えているが、原典を見ると、この言葉はマルコとマタイではeulogesas(賛美して)とあり、ルカと使徒パウロではeucharistesas(感謝して)と書かれている。意味的にはほぼ同じだが、後者の方がEucharistia(エウカリスティア)の語源となった。使徒の手紙の方が2福音書よりも重んじられたのかと誤解する人がいるかも知れないが、そうではない。実は使徒の手紙はAD57年春に送られ、AD65年頃できたマルコの福音書より7,8年先に書かれた先輩なのだ。初代教会ではもう主のパンを裂くことはEucharistiaで通っていたことがこれでわかる。
 この言葉はご聖体と御血の両方を、それが制定された時の様子の中で言い表す、大変含蓄のある優れた典礼用語だ。しかし、それを日本語に訳すと、「感謝の念、感謝の祭儀、主の晩餐」などとなり、具体的な聖体と御血のイメージが薄くなる。他方、聖体や聖血と言うと、今度は何か別々の物的な感じになるし、含蓄のあるeucharistein(感謝する)の意味があまり感じられなくなってしまう。そこが実に残念だ。早くEucharistiaにぴったりの日本語訳ができないものかと思う。
 「これはわたしの体である。」かつて旧ローマ・ミサ典礼ではこの聖変化の式文はラテン語で、“Hoc est enim corpus meum.”と唱えられた。もちろんそれはイエス様が実際に言われたお言葉ではなかった。ギリシャ語原典では3福音書はそろって“Touto estin to soma mou.”と伝え、聖パウロの手紙は一字だけ順序が違って“Touto mou estin to soma.”と書いている。だが、実はこれとて主のお言葉ではなかった。過越し祭はギリシャ語ではなく、ヘブライ語で行われたからだ。
 では、主は実際にはそれをどう言われたのだろうか?新約聖書ヘブライ語訳を読むと、3福音書も使徒パウロの手紙も揃ってこう書いている。“Zehu gufi.”(*ヘブライ語はヘブライ文字で右から左へと書くが、ここではローマ字で左から右へ表記する) 実に短い。Ze=This, hu=is, guf=body, -i=my だ。これを知っても内容が変るわけではないが、最後の晩餐のとき、主はこのようなお言葉でパンをお体に聖別されたのだなぁと思うと、私は深い感慨を覚えずにはいられないのだ。
 また、主は杯を取り、感謝の祈りを唱えて言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と。ユダヤ人の過越し祭の最初の夜の食事では、杯が4回挙げられるが、それは最終回の杯だったと思われる。ヘブライ語で“Zehu dami.”と言われた。Dam=blodで、あとは聖体の場合と同じだ。しかし、それはただの血ではなく、「多くの人のために流される」という目的がある血だったのであり、「契約の血」という旧約との対比が特徴的な血だった。
 そもそも旧約の過越し祭は、かつて神様がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救出した時に、彼らのためになさった大いなる業を想起して感謝する祝祭だった。救われた夜、彼らは小羊を屠り、その血を家の鴨居に塗り、肉を食べてエジプト脱出の準備をした。モーセはこの時のことを子々孫々に至るまで伝えて祝うよう命じた(出12章)。そして、脱出してシナイ山に着くと、牡牛の血の半分を祭壇に振りかけ、他の半分を民に振りかけると、契約の書を取り、「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」(出24;6-8)と言った。
 主が自らの血として聖別なさった杯は、そのような旧約の過越しの小羊の血と、かつて神がイスラエルの民と結んだ旧約の契約の血に対比される。それは新約の契約の血なのだ。その新しい契約はもはや牡牛や小羊等の血ではなく、神の小羊の比類なく尊い血で結ばれたもの、それを結んだ血はイスラエルの民のためだけではなく、万民のため、シナイ山麓の祭壇ではなく、ゴルゴタの丘の十字架で流された神の独り子血だ。そこに旧約の契約より無限の優越性がある。
 では、そんなに尊いものならば、なぜ信者はふだん御血を拝領できないのだろうか?先月あった黙想会で指導司祭にその質問を出してみた。完全に納得できる答えではなかったが、その理由として、多くの人が同じ杯から飲むことの衛生問題、授けるときにしたたるリスク、時間のかかり過ぎ等のデメリットが挙げられた。だが後で考えて、ご聖体は主の体だが、血のない体はないのだから、ご聖体だけで十分なのだと自らを納得させた。ちなみにその黙想会では御血をいただけた。

 ところで、そういう論議を聞くと、ある人々は冷笑したり馬鹿にしたりするかも知れない。実際、かつてイエス様が「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。…はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。…わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」(ヨハネ6;51-55)と言われた時、ユダヤ人たちはそういう反応をして皆去ってしまった。
 今日ではなおさらだと思う。十字架がユダヤ人には躓き、異邦人には愚かなもの(一コリ1;23)なら、ご聖体も同じだろう。人には知りえない神秘だからだ。それにもかかわらず、カトリック教会は断固として教える。見かけはパンとブドウ酒でも、イエス・キリスト様はその形色のもとに現存されると。だから、人間的な知恵に同調して、聖餐は主のことを記念するためにいだだくが、あれは主の真のお体ではなくその象徴に過ぎない、などと解釈する他教会とは妥協しないのだ。
 思うに、主がご聖体の内におられることを信じない人は、神の言が人となって降誕したことも信じられまい。主のご降誕も信じられない人は、神様が父と子と聖霊の三位であることも信じられないだろう。つまり、主の福音の根本が信じられないと思う。しかし、神の言が人となって降誕し、救いを成就なさったことが信じられる者は、ご聖体も信じられるはずだ。全能の神様にとって人となることとご聖体になることは、同じくらいたやすいからだ。それが論理の帰結というものだ。
 私には子供とご聖体についてちょっと面白い実体験が二つある。茅野市の教会にいたとき、ある日信者ではない母と幼児が初めてミサに来た。さて、ミサが聖変化に達したとき、司祭はホスチアを高くささげた。するとその男の子が叫んだのだ。「あっ、せんべいだ!」と。その場にいた人たちは驚いた。だが、なるほど、考えてみれば無理もなかった。その子には、その丸く白い物の内に主がおられることなど知る由もなかったから、ご聖体は煎餅にしか見えなかったのだ。
 もう一つはある日、初聖体の準備をしていたときだ。小学校一年生の百合ちゃんが言った。「御聖体をいただいたら、噛んじゃいけないんだよ。ネ、神父さま。」「うーん、なぜそう思うの?」「だって、噛んだらイエズス様が痛いでしょ?」なるほど。ちょっぴり勘違いがあるにしても、ご聖体に主が現存しておられることを信じているからこそ、この子はそう考えることができたんだな、と感心した。信仰のない子とある子の違いがそこにあった。それは大人にも言える。

 さて、最後に触れておきたいのはアナムネシス(Anamnesis=想起)だ。イスラエル民族にとって、過越し祭が出エジプトの出来事で示された神様の大いなる業の想起であったように、ご聖体を中心とするミサ聖祭は新約の過越しの想起に他ならない。マルコ福音書にはないが、使徒パウロの手紙にもルカの福音書にも「わたしの記念としてこのように行いなさい」の一節がある。「私の記念として」は原典では“Eis tehn emehn anamnesin”で、「私を想起するために」の意味だ。
 それは単なる過去の想起ではない。聖変化によって主はご聖体の形色のもと現在に来臨し、最後の晩餐の神秘は現在に甦る。そして、それは現在だけでなく、「主の死を思い、復活をたたえよう。主が来られるまで」(一コリ11;26)と、主の再臨の未来につながる。過去を現在に、現在を未来に。そこに聖体祭儀におけるアナムネシスの深い意味がある。これを鮮明にしたことは第二バチカン公会議後の典礼刷新が成し遂げた、最も価値あることの一つだったと私は評価している。
 主イエス様は世を去られる直前、「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方とともにいる」と言われた。天に昇られたのに、主はどのようにして地上の弟子たちと共にいると約束できたのだろうか?ご聖体における現存がその一つの答えだ。「万物は言によって成った。」(ヨハネ1;3)そんな宇宙の創造主がパンと言う物体にとどまられるとは、信じる者には驚嘆に値する神秘だ。それはあまりにも神様らしからぬ在り方だが、こうして主は世の終わりまで私たちと共におられる。

疑う者たちもいた

 マタイ28;16-20は三位一体の主日の福音だが、17節後半の「疑う者もいた」という一句に、いったい何を疑ったのだろうかという疑問が湧いた。ところがすぐ、待てよ、何だかこれはもう取り上げたような気がするなと思った。そこで過去のコラムを調べてみたら、2009年6月7日の聖書反芻に「疑う者がいた」のタイトルで、すでに十分考察していた。それを読み返してみて、6頁も書いておきながら、何と忘れっぽいことよと我ながら呆れた。しかし、訂正すべき点も見つかった。そこで、今回は「疑う者たちもいた」という、あえてそれと似た題名で再考察してみることにした。

 まずそういう似た題名にするのは、それ自体が訂正点の1つだということを意味する。多くの人は何気なく読んでいるかも知れないが、日本語訳はどれも「疑う者もいた」のような表現で、疑った者が1人だったのか数人だったのか曖昧でわからない。早とちりの人は、またトマスが疑ったのだろうかなどと誤解するかも知れない。しかし、原典を読むとedistasan (動詞distazo「疑う、ためらう」の能動態直接法アオリスト形3人称複数)だから、数人であることがわかる。諸外国語訳もみな複数に訳している。だから、「疑う者たちもいた」と訂正する。それが正確で妥当な訳なのだ。

 だとすれば、その山に行った11使徒の何人かは、いったい何を疑ったのだろうかという問題になる。彼らはまたもやイエス様が復活された事実を疑ったのだろうか?いや、それはなかったと言ってよいと思う。4年前のコラムでもそう考え、その可能性は消去した。なぜなら、ご復活後の出現によってトマスの疑いは解決(ヨハネ20,21章)し、すでにエルサレムに留まっていた時点で、彼らは誰もが主の復活を信じていた(ルカ24章)はずだからだ。
 そこで前回考えたのは、「イエスは弟子たちに近づき」(マタイ28;18)とあるので、「あれは本当に主だろうか?」と疑ったのではないかという可能性だった。前方にいた使徒たちは近づいて来る人が主だとわかってひれ伏したが、後方の者たちははっきり識別できなかった。だからそう疑ったのではないかという仮説だ。しかし、それは近寄れば解決したはずで、何も「疑う者たちもいた」と書くほどのことではなかったと思う。従って、説得力がないから、今回この仮説は回収する。
 それに代わって考えられる仮説の1つは、「なぜこの山に呼ばれたのだろうか?」という疑問だ。彼らは主を伏し拝んだが、拝みながらも数人は「なぜここなのだろうか?ガリラヤ湖畔でもよかったのに」と疑って呟いたのではないかということだ。しかし、これも結局はあまり説得力がないことがわかる。なぜなら、出会う場所は主が指示なされることで、それについて弟子たちがとやかく呟いたとしても、そんな疑問はわざわざ記録に残すほど価値があったとは思われないからだ。
 もう1つは、使徒の何人かがイエス様を伏し拝んだのを見て、他の何人かは「はたして拝んでいいのか?」と疑ったのではないかという仮説だ。彼らは主が神的な力を持ち、死から復活したことは信じていた。しかし、聖霊降臨前の彼らはまだ幾分蒙昧だったし、唯一の神のみを礼拝すべしと教え込まれて来たユダヤ人でもあった。従って、主を伏し拝んでもいいのかどうか躊躇したことは十分あり得る。distazoには「ためらう」の意味もあるから、そういうニュアンスで疑ったということだ。それに、それは重大問題だったから、私にはこれが最も説得力があるように思える。
 根拠はその後の主のお言葉だ。主は彼らの疑いをお咎めにならず、彼らに近づくと、「わたしには天においても地においても、すべての権能が与えられている」と言われた。私にはそれが疑った者たちへの答えのように思えるのだ。つまり、それは「父が持っておられるものはすべて、わたしのもの」、「わたしが父におり、父がわたしのうちにおられる」((ヨハネ14;11、16;15)こと、要するにご自分が神の身であること(フィリピ2;6)を言明し、彼らの疑問を払拭なさったに等しいからだ。

 これで何を疑ったかの問題は済んだが、それを疑問に思った私もまた「疑う者たち」の一人なのだなと気付いた。では、疑問を持つことは悪なのだろうか?そうは思わない。疑問は真理・真実探究の初め。問いがあっても答えが出ない事柄は確かにある。三位一体の理解はその一例だ。しかし、問いがなければ真理・真実の発見もできない。信仰にかかわることで悪となるのは疑問ではなく、不信を意味する疑いなのだ。率直な疑問はむしろ真の信仰を大事にすればこそ湧くものだ。
 そういう言い訳ができるからではないが、私には今このマタイ28;16-20だけでも、「彼らは何を疑ったか」以外に6つの疑問がある。
(1)この章節ははたして史実なのか?
(2)主が弟子たちに山上で会われたのには何か深い意味があるのか?
(3)初代教会では、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける」のは、「イエス・キリストの名によって洗礼を授ける」より普通だったのか?
(4)神様は本当に三位一体なのか?
(5)マタイは主のご受難については詳しい実録を残したのに、なぜご復活後のことはこの章節のように、ごく簡単にしか書かなかったのか?
(6)「父と子と聖霊の名に入れる洗礼を授け…」というフランシスコ会訳は妥当なのか?
という6問だ。しかし、全部はとてもしんどいので、今回はこのあと(2)と(6)だけを取り上げて終わろうと思う。

 (6)は単純な疑問だから、これを先に見てみよう。昨年の降誕祭以後、私はフランシスコ会訳の聖書を愛用しているが、この章節を読んだとき、19節が「父と子と聖霊の名に入れる洗礼を授け、…」と訳してあるのを見て、おや、と思った。「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け…」という従来の訳とは違うではないか。この訳で妥当なのだろうか?もしこれが正しいのなら、洗礼式の用語は誤訳なのだろうか?そういう疑問が湧いたのだ。問題点は「に入れる」か「によって」かにある。
 そこで原典や他の訳語を検証してみた。原典のギリシャ語(聖書協会世界連盟修正第三版)では “eis to onoma tou patros kai tou huiou kai tou hagiou pneumatou”だ。(註:ギリシャ語はここではローマ字表記にしている)問題はeisをどう訳すかにある。ところで、前置詞eisには辞書で調べると、次のように多くの意味がある。①~の中へ②~の近く③~へ④~まで⑤~のために⑥~に対して⑦~について⑧~として⑨~によって⑩~にかけて等だ。
 フランシスコ会訳はそれを①の意味で訳したように思われる。きっと聖書の専門家たちが議論して、考えに考えた末、そういう訳を選択したのだと推察する。だが難点が3つあると思う。まず「父と子と聖霊の名に入れる」という意味が分かり難いこと。2つ目はほとんどの翻訳聖書がそういう意味に訳していないこと。3つ目は実際の洗礼式の用語と合致しないことだ。私はこの3つ目が一番問題ではないかと思う。2番目の難点では、手持ちの翻訳聖書を見ると次のように訳してある。
・新共同訳:「父と子と聖霊の名によって」
・バルバロ訳:「父と子と聖霊との、み名によって」
・聖書協会訳:「父と子と聖霊との名によって」
・ラゲ訳:「父と子と聖霊との御名によりて」
・Nova Vulgata:“in nomine Patris et Filii et Spiritus Sancti”
・Bible de Jérusalem::“au nom du Père et du Fils et du Saint Esprit”  
・The Bible RSV::“in the name of the Father and of the Son and of the Holy Spirit”
・Die Bibel:“im Namen des Vaters und des Sohnes und des Heiligen Geistes”
・Biblia de Jerusalén:“en el nombre del Padre y del Hijo y del Espíritu Santo”
・Peshitta ヘブライ語訳:“beshem haab vehaben veruahha haqodesh”(註:表記はローマ字で、左→右方向に直してある)
 どの外国語訳も「~の名によって、または~の名において」の意味で訳している。つまりeisの⑨の意味を採用している。それらを参照するとき、フランシスコ会訳を評価し愛用している私でも、該当の訳に関しては、その訳が間違いではないものの、妥当ではないと結論せざるを得ない。これは多少でも読者の役に立てばよいと思って書いている。

 (2)は主が弟子たちに山上で会われたのには何か深い意味があるのか?という問いだ。私は大いにあったと思う。しかし、その考察には事前に主と使徒たちが実際、現実の山に登ったのか?という問題をクリアしておく必要がある。その山はどの山か特定できていないが、特定云々の前にその山そのものが現実の山かどうか疑問だからだ。私はマタイが書いた「11人の弟子はガリラヤに行き」のくだりは史実だが、「イエスが示した山に行った」は史実だとは言い切れないと思う。
 私はこの山を、福音史家マタイがある意図をもって書こうとしていたことに不可欠だから設定した「場」だと見る。彼にはそれが実在する山かどうかよりも、「山であること」が重要だったのだ。もちろん使徒たちがガリラヤのある山に実際行ったのだとしたら、それはそれでよく、不都合でも何でもないが、極言すれば彼にとってそれはどうでもよかった。要は主が山上で11使徒と会い、そこで最終的命令を与えることに意味があったのだ。従って、私はそれがどの山だったかを特定したり、彼らがそこに登ったのはいつ頃だったかを知ろうとしたりする試みは、無意味に近いと思う。

 では、福音史家マタイはどんな意図をもって山上での出会いを書き、それをもって彼の福音書の結末としたのだろうか?それはこの山が3つの山に対置されていることを見るとわかってくると思う。旧約では、それはモーセが約束の地に入る前に登ったネボ山だ。他方新約では、一つはマタイ福音書の山上の説教の山、もう一つはご変容の山に対置されている。それを知ると、マタイ28;16で言及されている山は「イエスがお示しになった」象徴的な山であることがわかる。
 マタイ福音書の山上の説教の山はモーセが律法を受けたシナイ山に対比されるが、マタイ最終章の山はモーセがイスラエルの民を祝福したネボ山に対比される。モーセは約束の地に入らず、その山で死ぬが、後継者たちは約束の地に入って勢力を広げて行った。同様にマタイ最終書の山に登られた主も間もなく世を去られ、後継者の弟子たちはやがて全世界に行って福音を広める。モーセの祝福は遺言に等しかったが、イエス様のこの山でのお言葉も最終メッセージだった。
 だが、決定的な違いがある。ネボ山での祝福は一民族のためだったが、マタイ最終章の山では万民への福音だった。モーセは死んだが、キリスト様は復活し、永遠に生きておられる。モーセは一民族の指導者だったが、主は「天においても地においても、すべての権能を与えられた」神の御子だ。モーセの後継者たちは約束の地で先住民を攻め滅ぼしたが、主の弟子たちは愛と平和の福音を告げ、洗礼によって万民を救う。マタイは2つの山を対置し、新約の優越性を示したのだ。

 他方、新約の山だが、マタイの福音書では実質的に山上の説教で福音が始まる。それは新約の大憲章だ。ところで、マタイ最終章の山で言われる「わたしがあなたがたに命じたことを、すべて守るように教えなさい」というお言葉は、それを指していると言えよう。主が命じられたことの多くは山上の説教で語られたからだ。福音の初めが山上の説教だったから、その終わりも山上で。マタイは主の福音を山で始め、山で完結させるため、最後の場面も山にして呼応させたのだ。 
 もう一つの山は、山上の説教の山と最終章の山の間にあるご変容の山だ。そこには3使徒だけが行ったが、ここには使徒全員が行った。そこでの主は輝くお姿になって、復活後の姿を予感させられたが、ここではその必要はなかった。すでに復活体そのものの主だったからだ。その時は帰途につくまでは弟子たちに話されず、見たことを話すなと口止めされたが、この時は弟子たちに「全世界に行って人々を弟子にし、父と子と聖霊によって洗礼を授けなさい」とお命じになった。 
 そして、福音書の初めに「その子はインマヌエルと呼ばれる」と予告された救い主は、この山で「わたしは代の終わりまで、いつもあなた方とともにいる」と約束された。事実、教会と言う神秘体と聖体とによって、主はいつも私たちと共におられる。これこそインマヌエルの神秘の実現なのだ。マタイ福音史家は福音説教の山で始まり、ご変容の山で予告した救いの成就を、この山で万民に宣言する。だから最後も山だったのだ。福音書はここで終わるが、主の福音が終わることはない。
 
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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