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イエス様を取り巻いた群集

 4月1日は多くの日本人にはエープリルフールの日だろうが、カトリック信者にとっては、今年のこの日は受難の主日とも枝の主日とも言われる、聖週間の初日だ。今年は典礼B年だから、聖書はまず枝の行列前にマルコ11;1-10が読まれる。イエス様のエルサレム入城を伝える章節だ。次いでミサではイザヤ50;4-7、フィリピ2:6-11、そしてマルコ15;1-39が読まれる。この箇所は長い上に重要だから、司祭と信者が役割を分担して、いくらか劇的に主のご受難を追体験する。
 しかし、私は今、急いでやらなければならない仕事があるので、聖書のそのどれについても十分考察する時間はとれない。実は今海外留学中のM.T.神父さんから翻訳した本の校正を頼まれて、2週間ほど前から取り組んでいるのだが、復活祭頃までにやり終えてほしいと要望されている。だから時間がないのだが、その訳本はちょうど「マルコによる福音書注解」(メアリー・ヒーリー著)だ。そこで、今回はそれを参考に、主を取り巻いた群集のことだけを取り上げてみようと思う。
 ちなみに触れておくと、この注解書はたいへんすぐれている。訳にはまだまだ直すべき個所が少なくないが、内容はすばらしく、私が今まで読んだ注解書の中ではベスト3に入る。原稿が1枚に46行も詰まったA4で約250頁もあるから、どの出版社から何頁ぐらいの本として出版されるのか気になるが、刊行されたら多くの人に読んでもらいたい。キリスト教の教導者や信徒はもちろん、イエス様の生き方に関心のある人々にも、説得力と魅力に溢れた良書になると思う。

 さて、枝の行列の福音マルコ11;1-10は、イエス様がオリーブ山の麓にあるベトファゲからエルサレムに入られた場面だが、その時、多くの人は自分の服を道に敷き、ほかの人々は葉のついた木の枝を切って道に敷いて、主の前後で「ホサンナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように。…いと高きところにホサンナ」と叫んだと書いてある。上記の注解書はそのことも見事に描写し説明しているが、いかに群衆が興奮していたかは福音書を読めば誰にもわかる。
 ご受難の主日の福音マルコ15;1-39にも群衆が出て来る。しかし、こちらは対照的だ。彼らの声は主が偽りの罪状で告訴された裁判のクライマックスになる。裁判官のピラトは愚かにも自分の判断を放棄して、悪意の告発者たちや傍聴者に、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と意見を聞いてしまう。すると、彼らはここぞとばかり叫んだのだ。「十字架に付けろ!」と。そして、そう叫び続けた。明らかにこの群衆も興奮していた。
 この2つの場面の群衆は熱狂的に興奮していた点では同じだが、好悪の点では正反対だ。一方は主をメシアとして大歓迎して祝福したが、他方は大罪人として十字架で殺せと排除を求めて呪った。ところで、カトリック聖歌集171番には、「きのうにかわる主を取りまき、ののしり叫ぶ憎む群れを」という一節がある。それは昨日まで主を歓迎していた群衆が、裁判では豹変して主を殺せと叫んだかのような誤解を与えかねない。少なくとも受洗当時の私はそう受け止めていた。
 しかし、福音書がもっとよくわかるにつれて、私は「それは変だ。群衆は群衆でも、「ホサンナ」と叫んだ人々と「十字架に付けろ」と要求した人々とは、同じ群衆だったのではあるまい。まったく別の群集だったに違いないと考えるようになった。そして、その後それは確信に変わった。たまたま今回校正でご縁ができた上記の訳書も、私とまったく同じ見解であるであることを知った。その上、同書はその問題では私が気付いていない点についても指摘していて参考になった。

 まず、「ホサンナ」と叫んでイエス様の前後左右を踊り歩いた群集だが、それは様々な人たちの寄り集まりだった。その中にはガリラヤからイエス様に従って来た12使徒や他の弟子たち、婦人たちも混じっていた。しかし、主と共にいた動機は必ずしも同じではなかった。そもそも12使徒からして、最側近のヤコブとヨハネ兄弟すら主が王になったら大臣にしてもらうつもりだったし、ユダヤの解放と独立を夢見て従った者もいて、動機や思惑がかなり違う同床異夢的な集団だった。
 ましてや他の人たちは推して知るべしで、その群衆のある者たちはちょうど過越祭の時期だったからエルサレムに上る途中で、たまたま主の一団と道筋が同じだったから群衆に加わったに過ぎなかっただろう。他のある者たちは主の名声を聞いて、病を癒さしてもらおうと、いろいろな地方からやって来た人たちだっただろうし、他の者たちはメシアと言われている人を見ようと都近辺から野次馬的な好奇心でやって来た、お祭り好きでお調子者の若者たちだったかも知れない。
 それらは総じてイエス様に好意的な人々だったが、その群集には反感を持つ人々も混じっていた。主の言動を監視して、つかず離れずあえてガリラヤから同道して来たファリサイ派のある人々や、主についての情報を受けて、主を陥れる理由を探しにエルサレムから出て来た律法学者たちがそうだった。しかし、もちろん心から主を信じて従った人々もいた。主に仕えるためについて来ていた婦人たちはそれだった。彼女たちは食事、洗濯、接待、雑事などを黙々とこなしていた。 
 それに比べて、裁判の時に「十字架にかけろ」と叫んだ人々は寄り集まりではなく、寄せ集められた群集だった。彼らは主を殺そうとしていた祭司長、長老、律法学者たちに買収された者たちで、彼らが叫んだ十字架刑の要求はやらせだと、私はずっと指摘して来た。しかし、上記マルコによる福音書注解書の著者は、群集にはバラバスを釈放させたかったゼロータイ(ユダヤ解放独立を目指した民族主義者“熱心党”)の支持者たちも大勢いただろうと書いている。なるほどと思う。
 しかし、彼らはバラバスが釈放される可能性を、前もっては知っていなかったはずだ。それなのにどうして集まれたのか?私の推測では、これもユダヤの権力者たちが画策したのだと思う。つまり熱心党の支持者たちが仲間バラバスの釈放を願っているのを知っていた権力者たちは、彼らにその釈放をもちかけた。両者が手を組めば、権力者たちはイエス様の釈放を阻止できるし、熱心党の人たちは仲間を救える。利益が合致したから、金での買収がなくても、共闘したということだ。

 いずれにせよ、これほど不正で、残酷非道な結果を招いた裁判はなかった。しかし、そうした人間の醜さ、罪深い悪事にもかかわらず、いやむしろそれを通してこそ、神様は御子イエス様によって救いのみ業を成し遂げられたのだった。上記注釈書の著者は「渡される」という言葉を1つのキーワードにしているが、事実イエス様は裏切り者ユダによって祭司長たちに渡され、祭司長たちによって異邦人の代表である総督ピラトに渡され、ピラトよって死刑執行人の手に渡された。 
 そして、死刑執行人たちは十字架刑によって、主を天の父に渡した。しかし、そこから意味が変った。そもそも最初に独り子を人類に渡したのは天の父だった。独り子を与えるほどにこの世を愛されたからだ。だから、独り子がご自分に渡されたとき、父はそれをお受けになったが、それは「わたしの心に適う子」の最高のささげ物としてであった。主の復活はその証しだった。こうして十字架の犠牲は罪と死に勝って、全ての人の贖いとなり、恵みと命が溢れ出る祝福の象徴となった。

 しかし、そんな群集のことなどを考察して何になるかという疑問もあろう。確かにホサンナと叫んだ群衆の歓喜も「十字架に付けろ」と叫んだ群衆の絶叫も、主のご受難の出来事の中ではほんの短い一コマに過ぎなかった。とは言え、主の死を要求した群衆の行為は、無実の兄弟を殺すおぞましい罪の極みだった。それはカインから始まって人類史にずっと続き、今もチベットや世界のあちこちで見られる第2の原罪に他ならない。今の私たちと無縁ではないのだ。
 他方、イエス様に従った女性たちの存在は対照的だ。主は「わたしは仕えるために来た」と言われたが、彼女たちはその模範に倣った。「ついて来なさい」と言われたわけでもなかっただろうに、自発的に主に従った彼女たちは、黙々と仕え、よく働いた。彼女たちも群集の中にいたが、男たちが「ホサンナ」と踊り叫んでいた時、彼女たちは主の後を慎み深く歩いていたことだろう。しかし、男たちが逃げてしまった受難の時は、十字架の傍から離れなかった。頭が下がる。
 そういういろいろな人々の行動を見ると、私たちはどういう類の人を見倣えばいいかを考えることができる。イエス様の前に服を脱いで敷いた人々か、メシアの真の意味もわからずにホサンナと叫んだ人々か、叫ぶ人々を止めさせてほしいと抗議した人々か、主を疑いの目で見ていた人々か、何としても主を殺そうと背後で画策した人々か、買収されて主を十字架にかけろと叫んだ人々か、党派心優先で罪人バラバスの釈放を望んだ人々か、それとも黙々と主に仕えた人々か。
 命じられなくてもイエス様に従い、言われなくても奉仕して働いた女性たちのような生き方を、玉川学園では教育12信条の一つとして、「第二里行者の精神」と教えていた。「だれかが1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい」とあるマタイ5;41に則った教えだ。女性たちはそれを実践していたのだ。私もT神父様の校正では時間がないが、1度だけでなく2度見てやって、その精神をちょっぴり実践することにしよう。その方がホサンナと歌うよりいいことかも…
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ギリシャ人たちの視点で考える

 四旬節第5主日の福音はヨハネ12;20-33だ。イエス様がエルサレムに入られた直後、何人かのギリシャ人が使徒フィリポとアンデレを通して、主に会いたいと言ってきた。すると、主はその願いに触発されたかのように、一粒の麦とそれに続く話をなさった。しかし、それにしては何ら彼らの面会希望には触れず、むしろ弟子たちや群衆に向かって話されたような印象を与える。はたしてギリシャ人たちは会ってもらえて、満足して帰れたのだろうか?今回は彼らの視点で考えてみる。
 彼らはギリシャ人と言っても、ギリシャで生活していたイスラエル系ギリシャ人で、過越し祭だからエルサレムに来ていたのだと思う。だから、流暢ではなくてもヘブライ語は話せたので、主に会いたいと言ってきたのだと想像する。当時、地中海世界の国々で生活するいわゆる離散ユダヤ人ディアスポラ(ヨハネ7;35)は少なくなかった。そして、敬虔な人々はユダヤ3大祭などには祖国に戻り(徒2;5)、宗教的義務を果たしていたのだった。彼らもそういう人々だったと思われる。
 では、なぜ彼らは主に面会を願ったのだろうか?おそらく彼らは主のエルサレム入城の時、ホサンナと叫ぶ群衆に遭遇して驚き、「皆がイエスを出迎えているのは、主が『ラザロを墓から呼び出され、死者の中から生き返らせたとき、イエスとともにいた群衆が、その出来事を証しして』(ヨハネ12;17-18)いるからだ」という話を耳にしたからだろう。他方、ファリサイ派の人々が「もう何をやっても無駄だ。あのとおり、世はこぞって彼について行ってしまう」と言うのも聞いただろう。
 彼らは都でイエス様についての相反する評価を耳にしていた。そこで、まじめな離散ユダヤ人だった彼らは、はたして主が人々の噂しているようなメシアか、それとも彼に敵意をもつ者たちが言っているように有害人物か、じかに会って真実かどうかを確かめたかったのだと思う。だから、会って「何を求めているのか」(ヨハネ1;38)と言われたら、たぶん彼らも洗礼者ヨハネの弟子たち同様、「来るべき方はあなたでしょうか?」(マタイ11;3)と聞いたのではあるまいか。

 しかし、主は彼らへの返答になるとも思えない一粒の麦の喩えを話し始められた。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と。ギリシャ人たちがその話をどこまで理解できたかはわからないが、少なくとも一粒の麦の喩えの自然的な意味はわかっただろう。
 弟子たちはそれを聞いて、肥沃な土地に落ちた種が30倍、60倍、あるいは100倍もの実を結ぶ「種蒔く人の譬え」を思い出したかも知れない。多くの実を結ぶ元の種は一粒だ。しかし、その一粒が自己という個の消滅を拒んだら、実を結ぶことはできない。「地に落ちて死ななければ、一粒のまま」とは、そういう自己の個体存続に固執して、新しい存在に変貌することを拒否することに他ならないのだ。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
 しかし、死ぬと言っても、科学的厳密さで言えば、命は一粒の麦から消えるわけではない。これは譬えだから常識的な言い方で「死ぬ」と言われただけで、一粒の麦は発芽すれば個としての粒の姿は消滅するが、命は続いていて、多くの実に変貌するという意味だ。しかしここで重要なのは、その譬えが何を意味しているかだ。一粒の麦の死と豊かな結実とは、イエス様の死と復活を意味していた。一粒の麦のように主も死なれるが、復活によって豊かな実りを得られると言う意味だ。
 だから、主は従う者たちにも、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と厳しい自己犠牲を求められたのだ。だが、同時に永遠の命をも約束なさった。これはすでに受難と復活を予告された時、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため…命を失う者は、それを救う」(マルコ8;35)と言われたのと同じ内容だ。そして、主は人々に、「わたしに仕えようとする者はわたしに従いなさい」と言われた。

 ところがその後、主は祈りとも独白ともつかない言葉を漏らされた。「今、わたしの心はかき乱されている。何を言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。いや、このために、この時のためにこそ、わたしは来たのである。父よ、み名の栄光を現わしてください」と。「この時」とは、明らかにご受難のことだった。それがどれほど恐ろしく苦しい出来事の予知であったかは、その動揺されたような様子でわかる。それはゲッセマネの苦悶の前ぶれであった。
 すると不思議なことが起こった。天から声がしたのだ。「わたしはすでに栄光を現わしたが、再び栄光を表そう」と。しかし、それが何だかわからなかった群衆は雷が鳴ったとか、天使が話したとか言った。そこで、主は「あの声がしたのは、わたしのためではなく、あなた方のためである。今こそ、この世の裁きが行われる時。今、この世の支配者が追い出される。そして、わたしが地上から引き上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せる」と、天の声を通訳なさった。
 そのお言葉の前半はイエス様によって人間語化された天父の声だが、後半はそれにプラスして表明された主のご意思だ。だからこそ、使徒ヨハネは後年その声が何のためだったかを理解して、「イエスは、ご自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである」と解説したのだ。逆に言えば、それは弟子たちがその時点ではまだそれを理解できていなかった証拠でもある。ましてや、ギリシャ人たちにはわからないところだらけだったに違いない。

 しかし、すでに成就された主の死と復活を信じている私たちは、彼らよりはわかっていなくてはなるまい。そこで、少し解釈してみよう。「わたしはすでに栄光を現わした」とは、いつのことだったのだろうか?それは洗礼の時の天からの声と聖霊の顕現、そして、栄光に輝いた山上での変容を指すのではあるまいか。だとすれば、「これはわたしの愛する子」(マタイ3;17、117;7)と言われた2回の天の声と合わせると、この時は3度目の天からの声になる。
 では、「再び栄光を現わそう」とは、いつのことで、何を指していたのだろうか?それがまず復活を指していたことは間違いない。ご復活後主ご自身が「メシアは必ずこのような苦しみを受け、その栄光に入はずではなかったか」(ルカ24;26)と言われているからだ。しかし、ご昇天、父の右に座しておられる今、そして「人の子が栄光に包まれ、すべてのみ使いを従えてくるとき、人の子は栄光の座に着く」(マタイ25;31)と予言された終末の再臨をも指していると見てよかろう。 
 次の「今こそ、この世の裁きが行われる時。今、この世の支配者が追い出される」とは、実に驚くべき宣言だった。弟子たちも群衆もギリシャ人たちもどこまでそれを実感できたかはわからないが、それが大変な断言だということは感じ取っただろう。しかし、これを聞いて最も震え上がったのはサタンと闇の勢力だったのではあるまいか。このお言葉は主の復活による死への勝利、悪の力の決定的敗北と断罪を予知した事前宣告に他ならなかった。それは復活の予言でもあったのだ。
 そして、その結果が「わたしが地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」という約束だった。「地上から上げられるとき」の「上げられる」は、主がニコデモと対話されたときにも言及され(ヨハネ3;14)、ユダヤ人たちとの議論でも(ヨハネ8;28)触れられたが、ご復活の日、マグダラのマリアに言われたこと(ヨハネ20;17)ともつながる。つまりその意味は二つあって、十字架につけられることと復活・昇天だが、ここでは後者を示唆していると言えよう。
 「すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」とは、これもニコデモとの対話で触れ(ヨハネ3;17)、天からのパンの議論では天の父のご意思とご自分の使命として(ヨハネ6;37-40)話され、よい羊飼いの譬えで、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる」(ヨハネ10;16-17)と言われたご計画とつながる。

 ところが、人々は主のお言葉が理解できず、こう言い返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子はあげられなければならない、とどうして言われるのですか」と。主はそれには反論せずに言われた。「もうしばらくの間、光はあなたがたのうちにある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。…光の子となるために、光を信じなさい」と。これはラザロの復活前にも言われた(ヨハネ11;9-10)勧めだ。
 では、そのギリシャ人たちはどうしただろうか?おそらく2使徒の後ろに立って面会を待っていたのだろうが、会ってもらえたのだろうか?私の単なる推測だが、会ってもらえたと思う。主は来る人を拒む方ではなかったからだ。ニコデモにも「善い先生」と言った男(マルコ10;17)にも会い、遺産分配の調停を頼んだ男(ルカ12;13)すら追い返されなかった。だから、話の後すぐ群衆から身を隠された(ヨハネ12;36)が、その前にそのギリシャ人たちにも少しの時間を割かれたのではなかろうか。
 しかし、たとえ個人的に会うことが叶わなかったとしても、イエス様に会って聞きたいと思っていた答えを見つけることができたので、彼らは満足してその場を後にしたと想像する。彼らが面会を求めた理由は、イエス様が人々の噂しているような人かどうかを確かめたかったからだろうと私は推測したが、彼らは群衆と一緒に主の話を聞いた。そして、直感的に「この方は絶対に神からの人だ。きっと来るべき方、メシアに違いない」という答えを得たと思うのだ。
 もちろん彼らが主の話を全部理解できたとは思えない。だが、一粒の麦の喩えはわかっただろうし、「地上から引き上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せる」と聞いた時は、自分たちもその「すべて」の中に含まれているのだとわかって感動したに違いない。そして何よりも、天からの不思議な声を聞いた稀有の体験と、「今、この世の支配者が追放される」と権威をもって断定された主の宣言が、彼らに主を来るべき方だと確信させたのだと思う。一見彼らの要望に何ら応じていないように思えた主の話と出来事は、こうして彼らの要望をすべて満たしていたのだ。 
 従って、面会してもらえたとしても、長時間は必要なかっただろう。彼らは主が誰かもうわかっていたからだ。主は「あなたがたは、神の国から遠くない。」(マルコ21;34)「闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい」と彼らを褒めかつ励まし、彼らは感謝して去っただろう。そして、ご受難の際は、「十字架に就けよ」と叫んだ群衆には加わらなかったと思う。私たちは一粒の種のことを語る主の声と天の声から、彼ら以上に主の死と復活を感じ取らなければならない。

わたしの信仰宣言

 四旬節第4主日の福音はヨハネ3;14-21。イエス様が公生活最初の年にエルサレムを訪問されたとき、長老のニコデモとなさった対話の箇所だ。その後半部分だけだが、非常に重要なくだりであることは間違いない。今週は思ってもいなかったボランティア的な仕事を引き受けてしまったため、時間がない。だから、できるだけ短く終わらせたいので、今回の考察はこの福音の章節中14-17節だけにしぼろうと思う。

 私は常々ここにキリスト教の最も大事な啓示が書かれていると思って来た。そして、東日本大震災を機に、ここにこそ信仰の核心があると確信するようになった。私たちは主イエス・キリスト様の福音を信じるが、最終的に何を信じるかと言えば、神様が私たちを愛してくださっているという愛を信じることに尽きる。私はそれが信仰の真髄だと確信するに至ったのだ。その根拠はまさに「神は独り子をお与えになるほど、この世を愛された」と明かしてくださった主のお言葉にある。
 これはニコデモとの対話でのことだったが、もちろん彼一人だけにではなく、世のすべての人に打ち明けられた神様の秘密だ。そして、主は「独り子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである」とそのわけも教えてくださった。それまで誰にも知らされずにいた天の父のこのお心と計画は、何と驚嘆すべく、かつ嬉しい秘密の開示であったことか!それに応えて、父と子と聖霊にまします神様の愛を信じること、それが信仰の芯であり真髄なのだ。

 日本語では「信仰」というが、率直に言うと本当は「仰」の字は要らないと思う。「信」だけでよい。「仰」の字があるとよそよそしく、「アッバ、父よ」と呼びかける感じをそいでしまうような気がする。信じるとは何を信じるかが大事で、仰ごうがうつむこうが、水平に遠くを見ようが、そういう形状は二の次三の次だ。教会に不要なさざ波は立てたくはないから、私もみんなに合わせて「信仰」という言葉を使うが、できることなら「信行」と言い換えた方がよいと思っている。
 ところで、何を信じるかが大事だとすれば、私たちは何を信じているというのだろうか?確かに私たちは日曜日のミサごとに信仰宣言をし、天地の創造主、全知全能の父、父から出た子、人となった御子イエス・キリスト様の死と復活、昇天と裁きの日の再臨、聖霊と使徒伝来の唯一聖公なる教会、体の復活と永遠の命を信じている。確かにそれらはみな信仰の対象ではある。だが、私はよく思う。一番肝心な「神様の愛を信じます」という一言が欠けているのではないか、と。
 そもそも二ケア・コンスタンチノープル信仰宣言は、西暦4,5世紀にあった教義論争の結果だ。従って、教義的で無味乾燥なのはやむを得ない。だがそれを信仰の全てと見なすなら、それは皮相的だ。信仰宣言は大切だが、そこに信仰の真髄が表現されていないからだ。それはいわば信仰の芯を取り囲む周辺的な信仰対象、または信仰の真髄を支える基盤と言う意味で「信仰インフラ」とでも呼べるレベルだと私は思っている。ましてや神学体系などは信仰の対象外だ。
 そういうものまで含めた全てを受け入れることが信仰だと勘違いしている人もいるが、信仰とはそういう複雑なすべてを真実として受容することではなく、神様の愛を信じるという実に単純なことなのだ。この日の福音はまさにその根拠を、主がはっきりと確認してくださった箇所だ。そこにこの啓示の深遠さと有難さがある。だから私はいわゆる信仰宣言の後に加えて、私の信仰宣言をしたい。「そして、何よりも私は信じます。神様、あなたが私たちを愛しておられることを」と。
 信仰の真髄とその周辺的信仰対象は、喩えてみると衣服を着た人に似ている。衣服は人が着ているが、人体の一部ではなく、その外側を包むものに過ぎない。神学体系とはそんなものだ。人体は骨格でできているが、信仰宣言はそれに当たる。だが、体には骨だけではなく、肉もあり血もある。預言者たちを通して語られた神様の言葉、救い主イエス様が語られた言葉は信仰の血や肉に当たると言ってよかろう。そして、心臓に当たる信仰の真髄は、神の愛を信じることにある。しかし、心臓には血肉や骨格が必要で、衣服も役立つように、神様の愛を信じるには信仰宣言の信仰対象は必要な支えになり、神学体系も役に立つ。そこにそれらの存在理由もある。

 東日本大震災後、「もしも今、ヨブがここにいたら」を書いたとき、私は次の考察をしたおかげで、信仰が神の愛を信じることに尽きると確信できた。その時、福島第二原発事故のせいで、太平洋岸の漁師たちは一時休漁を強いられていた。そこで私は想像した。魚たちはどれほど嬉しいだろうか、と。自分たちを一網打尽にする網に脅かされないで済んだからだ。食物連鎖の頂点に立つ人間は、下位のものたちにとってはこの上なく恐ろしい存在であるに違いない。知能が際立って高いのに、愛ではなく、捕食して滅ぼす存在だからだ。網にかかったら最後、皆が一緒だろうと、どんなにあがこうと無駄だ。魚たちには死しかない。
 ひるがえって、それを神様と人間の関係に置き換えて、もし全知全能の神様が愛ではなく、人間を捕食する存在だったとしたら、と想像してみた。それはどんなに恐ろしいことだろうか。絶対に逃れるすべはなく、生まれたことを呪うしかないだろうと思った。しかし、聖書が教えてくれる事実は正反対だった。神様は人類を愛し、滅びではなく、人が生きることを望まれる。そして、御子は神様が愛だと教えてくださった。食物連鎖ではなく、愛の連鎖の頂点におられるのが神様なのだ、と。
 これこそ主の福音の真髄でなくて何であろうか。だから、この主日のメッセージは神様の愛がどれほどかを知り、それを信じなさいということにあると思う。主は私たちが何よりも優先して行うべきこと教えてくださった。それは神を愛し隣人をも愛することだ。そして、何よりも信ずべきことも教えてくださった。それは神様が私たちを愛してくださっていることだ。行いと信仰の両輪は究極的には神の愛で一致する。この年になって、私はやっとそれに気付いた。

 ところで、このニコデモとの対話にはやや疑問を覚える一点があった。この章節にあるイエス様のお言葉は全部が全部、主が言われたままなのか?それとも福音史家ヨハネの言葉も混じってしまっているのか?という疑問だ。対話の3;1-15節までを前半、3;16-21節までを後半として読み比べてみると、主が話された用語に違いがある。前半ではご自分を「人の子」と言っておられるのに、後半では「独り子」または「御子」となっている。だから疑問に思えたのだ。
 後半の「御子」という言い方は、弟子が使ったのならわかるが、主がご自分に使われたとなると、自分に敬語など使われただろうかと思わざるを得なくなる。しかし、もしこれが日本語の訳語のせいなら、疑問は雲散霧消するはずだ。そこで、原典のギリシャ語を調べて見たところ、「人の子」は“hyuios tou anthropou”(the Son of man, le Fils de l’homme)だ。他方、「御子」は“hyuios”(the Son, le Fils)、「独り子」は“hyuios monogenehs”(only Son, Fils unique)だ。つまり原典や欧米語訳ではすべてが同じ「子」という言葉だけで、違う呼び方ではなかった。
 しかし、日本語訳は私の知る限りすべてが「おん子」とか「御子」とか訳している。だから、イエス様がご自分に敬語をつけるとは変だ、これは福音史家ヨハネの言葉ではなかろうかなどと疑念を招くのだとわかった。もし敬意から子を「御子」と訳したのなら、なぜ「人の子」も「御人の子」と訳さなかったのか、一方を「人の子」と訳したのなら、なぜ「御子」も単純に「子」と訳さなかったのか、整合性が欠けているように思える。敬語にしなくても、文脈から「子をこの世にお遣わしになった」で十分わかるのだから、単純に「子」でよいのに、残念な訳だと思う。
 
 その疑問は解決したが、福音史家ヨハネが主とニコデモの会話を70年以上経った後でも、これほど鮮明にありのまま覚えていただろうかという疑念は残った。もちろん聖霊の助けがあれば不可能だったとは言えないが、常識的には無理だと思えるのも事実だ。会話の大筋も内容もほぼこうだっただろうから、私たちはそこから主の語り口やお考えを知ることができるので、その点は実に貴重だが、かなりの部分にヨハネの考えや言い回しが混じっているのではなかろうか?
 この対話はヨハネの福音書にしかない。おそらくヨハネは主がニコデモと話した夜、同席した使徒の一人だったのだろう。だから、その場にいた者でなければ知り得ないような内容を伝えることができたのだと思う。イエス様がその対話でご自分を「わたし」と言い、ニコデモには「あなた」と語りかけられておられるのはごく自然だ。ご自分を「人の子」と表現されたのも、他の場合にも使っておられたのを見れば問題はない。例えばマルコ2;10、ヨハネ9;35等の場合がそうだ。
 従って、前半はイエス様が話されたままに近い印象を受ける。しかし、後半はヨハネ自身の思想が反映されているように思えてならない。元々は主のお言葉だったとしても、ヨハネの福音書のプロローグと共通点が実に多く、第三者的視点で書かれているのを見ると、ヨハネ的に言い直されたと思わざるを得ないのだ。実際、対話の後半は、プロローグにある神秘を解明したり補足したりするかのような感があり、両者を次のように結びつけ得るのを見ても、似通っていることは明白だ。

 「み言葉は人となり、われわれの間に住むようになった。」(ヨハネ1;14)なぜか?「神は独り子をお与えになるほど、この世を愛された」(同3;16)からだ。
 「われわれはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理とはイエス・キリストを通して与えられた。」(同1;16-17)それは「独り子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである。」(同3;16)
 「み言葉はこの世にあった。この世はみ言葉によってできたが、この世はみ言葉を認めなかった。」(同1;10)しかし、「神が御子をこの世にお遣わしになったのは、この世を裁くためではなく、この世が救われるためである。」(同3;17)
 「み言葉は自分の民の所に来たが、民は受け入れなかった。しかし、み言葉を受け入れた者、その名を信じた者には、神の子となる資格を与えた。」(同1;12)然り、「御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じないからである。」(同3;18)

 このようにプロローグとニコデモとの対話の後半は違和感なく結びつく。従って、もしプロローグがヨハネの言葉なら、この対話にもヨハネの思想や言葉遣いが入っていると言える。ところで、プロローグはヨハネの言葉だ。ゆえに、その対話にもヨハネ的なものが入っていると見てよいだろう。元々はイエス様の言葉でも、ヨハネが伝えたからヨハネ的になったのは当然と言えば当然なのだ。しかし、たとえそうであっても、一番大事なことはその対話の大元も大筋も主ご自身から来たものだという事実にある。そのことが最も貴重なのだ。

 結局は今週も短くは終れなかったが、今まで書いた物の中で一番重要なことを書いたという自覚があるので、満足している。これから急いでボランティア的な仕事に取り掛かろうと思う。

使徒たちの手紙

 四旬節第3主日の第二朗読はコリントの人々への第一の手紙1;22-25だった。十字架はユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなものだが、信じる者にとってはそれこそ神の力、神の知恵だ。だから、私たちはそれを福音として信じる。これがその中核をなす思いだ。これを読んで、私も自分が信じる主の福音がなぜ信じるに足るのかを問い直してみる気になった。旧約聖書はさておき、新約聖書が伝えることははたして信じるに足るのか?これが問いだ。然り、信じるに足る。これが答えだ。この自答を仮命題として、信じるに足る根源をしばし探ってみたい。

 聖パウロはこの手紙で、「ユダヤ人は徴を要求し、ギリシャ人は知恵を追及していますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」と書いている。実際、ユダヤ人がしるしを求めた例は福音書にいくつもある。この主日の福音ヨハネ2;18、マタイ12;38-42、ヨハネ6;30などがそうだ。どれもイエス様がメシアであることやその権能があることを、何らかの目に見える特別な証しで示せと要求したケースだ。その根っこには福音への不信があった。ところが、主のお答えはいつも新約の過越しに関わるものだった。すなわち死からの復活、死の三日間、死と復活によるご聖体と杯だ。それらはみな、「ユダヤ人にとってはつまずき」の十字架によるものだった。
 ギリシャ人は知恵を求めて、イエス・キリスト様の福音を欲しないという聖パウロの表現は、アテネのアレオパゴスの丘(使徒言行録17;16-34)における苦い体験から出たに違いない。彼の手紙ではしばしばギリシャ人は異邦人の代名詞だが、もちろんすべてのギリシャ人が福音を馬鹿にしたわけではない。多くのギリシャ人が主を信じたことは、コリントの信者たちへのこの手紙そのものが証明している。
 しかし、アテネでの哲学者たちへの宣教は失敗だった。彼らは聖パウロが死者の復活のことを話すや否や、ある者は嘲笑い、ある者は「いずれまた聞こう」と言って去ったのだった。若干の人は信じたが、彼はこの経験から、この世の知恵に合わせて主の福音を宣教するアプローチがだめなことを思い知ったのだろう。それはいわば相手の土俵に乗る方法だが、聖パウロは以後そのやり方はきっぱり捨て、もっぱら「十字架の愚」を旗印に宣教したのだった。

 初代教会時代には確かに人知はまだまだ未熟だった。特に自然科学的な知識は不十分かつ不確かだった。だから、聖パウロがそういう人の知恵に比べ、「神の愚かさは人間より賢い」と、神の知恵に絶大な信頼を置いたのはもっともだった。しかし、現代はその時代とは違う。人知は膨大な量に達した。確かさも、「我思う、ゆえに我あり」の自分という存在だけではなく、自然科学的知識でも大いに向上した。従って、信じるに足る人の知恵なら信じてよいと言わなければなるまい。
 もちろん、それでもまだ人類にわかっていないこと、わからないことは少なくなく、不確かなことも多い。わけても神様ついてのこと、人のあるべき生き方と死後のこと、今ある世界の行く末のことは人知だけではわかり得ない。神的な啓示を必要とする。だから、聖パウロは聖書の言葉と十字架に付けられたイエス・キリスト様の福音こそが、人にその真理を教えると語ったのだ。ところが、そこに深刻な問題が出て来る。聖書が伝える物事は本当に信じるに足るのかという問題だ。
 例えば自然科学的知識の場合、私を含めてだが、その分野の専門家ではない者はある真実またや真理を自分で探求して知るわけでなない。すべてを自分で見つけることなどできるわけがないからだ。だから、自然科学的な真実や真理について、ほとんどの人は自分で実証して知るのではなく、専門家が実証した結果を信じるのだ。それは宗教における信仰と同じだ。では、なぜ信じられるかと言うと、その真実または真理を実証した人が専門家であり、信用するに足るからだ。
 では、聖書の場合はどうだろうか?聖書は神の言葉を記した書物だと言われるが、ほんとうは神様の言葉、つまり「神語」は誰も知らない。一般の人は神様の言葉を直接聞かないし、たとえ聞いても神語を知らないからわからない。だから、神様は通訳する預言者や御子とその弟子たち等を介して人に語られたのだ。従って、聖書にある神の言葉とは厳密には「神語」ではなく、それを聞いた通訳が特定の人間言語に訳したものでしかない。旧約聖書原典は預言者たちがイスラエル民族のために訳した「神語」のいわばヘブライ語訳であり、新約聖書原典はギリシャ語訳だ。
 対象が膨大過ぎては扱いにくいので、私はすでに「旧約はさておき」と書いた。だから、ここからは考察の対象を新約聖書に限定するが、自然科学の真実や真理の場合のように、私たちは新約聖書を信じることができるのかと言うと、実はそうではないことがわかる。自然科学などでは自分にはわからなくても、専門家が確かだと保証するから、ある物事をきっと間違いない、真実だろうと信じるわけだ。ところが、聖書では書いた人が専門家で信じるに足る人だから、その人の書いたものは真実であり真理だと信じられかというと、そうはいかないからだ。深刻な問題とはそのことだ。

 では、新約聖書の中身を個々に見てみよう。ヨハネの福音書は使徒ヨハネが直接書いたか、彼の口述を弟子が記録したか、あるいは弟子がヨハネから聞いたことを著述したかは別として、著者の正真性は相当高い。しかし、他の3福音書は結論的に言うと著者が誰だったか、どれも確定できない。ギリシャ語マタイの福音書が使徒マタイによるものでないことは、ほとんどの学者が一致して認めている。マルコの福音書も著者ははっきりしない。ルカの福音書と使徒言行録は同一人物が著者であることは確かだが、それが確かにルカだということは確かではない。
 使徒言行録の場合は、16章10節から「わたしたちはただちにマケドニアに渡ることにした」と、主語がここから一人称複数になる。そこで、使徒パウロのこの第二回宣教旅行に加わったルカが書いたから、このように主語が「わたしたち」に変ったのだ。従って、使徒言行録の著者はルカだと推理されてきた。もし、本当にそうなら、ルカの福音書もルカが著者だと確定できるが、使徒言行録の「わたしたち」をそのように解釈することには疑義もあるので、著者がルカだとは断言できないのが現状だ。
 こう見てくると、福音書も使徒言行録も最終的には誰が書いたか確実には何も言えないことがわかる。そうだとすれば、著者が信じるに足るから、その書き伝えたことも信じるに足るという論理は成り立たなくなる。ヨハネの福音書の場合は別だが、他の福音書はそうはいかない。マタイの福音書の著者が使徒マタイであることは大いに疑わしいし、たとえ福音書や使徒言行録の著者が確実にわかったとしても、ルカやマルコはイエス様の直弟子ではない。使徒ペトロやヤコブが書いたのなら信じるに足ると言えるが、また弟子か、使徒の弟子かどうかもわからない誰かが書いた書物なら、信じるに足る人が書いたから信じるに足るものだとは言えなくなるからだ。

 そういう理由で福音書が信じるに足る書物ではないということになったら、それは大変なことだ。キリスト教の信仰の基盤が崩壊することになる。では、それを信じるに足る書物とする証明はあるのだろうか?私は以前、使徒伝承の教会がそれだと考えていた。数々の偽福音書もある中で、4福音書は4福音史家が書いたから信じるに足るのではなく、それらがイエス・キリスト様の教えと行いを正しく伝える正真正銘の書物であると認定して、教会が公認したからこそ信じるに足るのだという立証の仕方だ。4福音書は、教会の伝承に照らして信じるに足ると認定されたのだから、福音書によって教会ができたのではなく、教会があって福音書が書かれ、教会の教えが基準になって福音書の真偽が認定された。従って、信じるに足る保証は教会の存在だという見方だ。
 私はそれを正しい考え方だったと思う。しかし、そこ止まりでは、その論理もやはりほころびざるを得ないことに気付いた。なぜなら、福音書と使徒言行録の正真性を認定する使徒たちや教会は、まさにその福音書と使徒言行録に依拠しているからだ。それはトートロジー的で、福音書と使徒言行録がまだ信じるに足ると認定されていないのに、それらが伝える使徒たちと教会によってその福音書と使徒言行録が信じるに足ると認定されることを意味する。それではあたかも未公認の自動車学校の教官たちが、自分たちの学校に公認証を出すようなもので、使徒たちも教会も信じるに足りない判定者となり、その認定も怪しくなる。従って、その論理はほころびてしまうのだ。

 では、確たる支えになるものはないのだろうか?ある。使徒たちの手紙がそれだ。なぜなら、手紙は書いた者が誰であるかが確実にわかり、その内容が主の福音と教会の存在を事実として裏付けるからだ。それらによって使徒たちと初代教会の存在や活動が証明されれば、それによって信憑性を証明された4福音書と使徒言行録は信じるに足る書物となる。そして、それらが伝える使徒たちと教会の成長も信じるに足ることとなるだろう。ところで、使徒たちの手紙はそれを証明している。ゆえにそれは確かな支えとなるのだ。
 私は今まで福音書を最重要な記録、使徒たちの手紙はそれより価値が低いと見なしていた。それは認識不足だった。信仰共同体の確たる基盤になる観点からすれば、使徒たちの手紙は一級の価値があったのだ。情けないことに、私は今頃やっとそれに気付いた。手紙が使徒たち直々の言葉であるのに比べ、福音書は弟子や孫弟子が書いた記録だ。ただその内容が主イエス・キリスト様の教えと行いであるがゆえに限りなく尊いが、使徒伝承の教会から公認してもらわない限り、偽福音書がそうであるように、信じるに足るものにはなれないのだ。
 もっとも新約聖書に収録された手紙はすべてが使徒の手になるものではない。ヘブライ人への手紙はその一つだ。ヤコブとユダも12使徒の2人ではなく、「主の兄弟」と言われたヤコブとユダだったようだ。また、誰が書いたか疑問が残る手紙もある。ペトロの第二の手紙がそうだ。しかし、書き手と宛先、その目的や書いた時期まではっきりしているものはある。ペトロの第一の手紙、聖パウロの手紙、そしてヨハネの手紙がそうだ。
 例えばペトロの第一の手紙は、「イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに離散して寄留している人々、…イエス・キリストに従い、御血を注がれた人々へ」と、書き始めている。そこには手紙の送り主と宛て先が明記され、「シルワノによって、簡素に書き送り」(一ペト5;13)と、信頼できる兄弟に託して送った方法まではっきり確認できる。これによって、使徒聖ペトロがいたこと、宛先の教会があったことが確実にわかる。
 この仮命題の証明としては、聖パウロの手紙は抜群の威力を発揮する。デカルトの第一原理が存在を肯定する根源的出発点になったように、彼の手紙はある意味で新約聖書を肯定する根源的支点になると言っても過言ではない。なぜならどの手紙にも送り主である自分の名前と職責、宛先である特定の教会や個人名、いろいろな問題や事情が発生したために書かざるをえなくなった手紙の趣旨、挨拶してほしい弟子や知り合いの名前など、豊富な情報がいっぱいつまっているからだ。

 その一例としてちょうどこの主日に読まれたコリントの人々への第一の手紙を少し詳しく見てみよう。それは次の挨拶で始まる。「神のみ旨によってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロ、並びにソステネから、コリントにある神の教会、すなわち、…キリスト・イエスと一致して神のものとされ、召された聖なる人々へ。」そこにはまさに誰からどこの誰にこの手紙が書かれているかが明記されている。そして、感謝の言葉を述べた後、なぜペンをとったかの理由がこう書かれる。
 「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなた方にお願いします。みな同じ主張をし、仲間割れなどせずに、同じ心、同じ思いでしっかり団結してください。わたしの兄弟たち、実は、あなた方の間に争いがあると、クロエの家の人々から聞かされたのです。あなた方は各々、『わたしはパウロのもの』『わたしはアポロのもの』『わたしはケファのもの』『わたしはキリストのもの』と言っているそうではありませんか。キリストはいくつにわけられてしまったのでしょうか。パウロが、あなた方のために十字架につけられたのでしょうか。」(一コリ1;10-13)
 彼がコリントの教会を創立したのは第二回目の宣教旅行をした際の西暦50年で、彼はそこに約1年半いた。そして、この手紙をそこの信者たちに書いたのは同57年の過越祭頃だった。たった数年しかたっていなかったのに、そこには早や分裂が始まっていたのだ。アレキサンドリアから来た聖書をよく知るアポロという人物の存在がその原因だったようだ。そこで、その分裂を憂えた聖パウロはこの手紙でまずその問題を取り上げ、終わりの方にはこう書いたのだった。
 「わたしはマケドニアを通って、あなた方のもとに参ります。マケドニアは通り過ぎるつもりですから、恐らく、あなた方の所で滞在するようになるでしょう。あるいは冬を越すことになるかも知れません。…しかし、五旬祭まではエフェソに滞在します。…目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。…これは、わたしパウロが自分の手で書く挨拶です。主を愛さない者がいるなら、その者に呪いあれ。マラナ・タ[主よ、来てください]。」(一コリ16;5-8、13、21)
 これを読めば、約1950年前の小アジアやギリシャなどには、実際にいくつものキリスト教の教会ができており、使徒たちが活動していたことが歴史的事実だったことが証明される。そして、それは使徒言行録の16-19章と非常によく符合する。ということは、使徒言行録は教会発展の歴史的事実を伝えている記録であって、創作ではないという証明になる。使徒たちの動向はガラテヤの人々への手紙を見ると、さらにはっきりとしてくる。特に彼はその1、2章でケファ(聖パウロは聖ペトロをこう呼ぶのが常だった)との出会い、聖バルナバと共にした第一伝道旅行のこと、エルサレムの使徒会議で使徒たちと会ったこと、その会議の結論のことなどを書いている。
 それは使徒言行録の13-15章と見事に符合する。それは使徒言行録の信憑性を裏書きするものだが、福音書の信憑性にも波及する。なぜなら、使徒言行録は福音書の続きであって、福音書の伝えるイエス・キリスト様の教えと行いがなかったら、使徒言行録は存在し得なかったからだ。つまり、主の福音宣教活動とご受難と復活があったからこそ、聖霊降臨の日の教会誕生とその後の発展があったのだから、使徒言行録が信じられれば福音書も信じられるということだ。
 使徒言行録が福音書の延長であると言う好例は、聖霊降臨後の聖ペトロの説教(徒2;14-36)とローマ軍の百人隊長の家での聖ペトロの説教(徒10;34-43)だろう。それはまさにイエス様がガリラヤでの福音宣教と力ある御業から始めて、エルサレムでユダヤの権力者によって十字架につけられたが、三日目に復活して人々の救いを成就された福音のレジュメに他ならなかった。使徒言行録でそのようにレジュメされた主の教えと行いこそ、福音書が伝える物事だからだ。
 そればかりではない。使徒たちの手紙は福音書が伝える主イエス・キリスト様の教えや行いと直接的にも呼応し合って、福音書の信憑性を証明している。いずれその一覧表を作りたいと思うが、当面ここではキリスト教の最重要な物事の代表5例だけを挙げることにしよう。福音、ご聖体の制定と実践、主の十字架、主の死と復活、隣人愛がそれだ。他方、手紙は聖ペトロ、聖ヨハネ、聖パウロのものだけに限定する。それらは福音書と使徒言行録の伝えることと呼応して、信じるに足ることを証明するものだからだ。
 福音と言う言葉は、使徒たちの手紙で当たり前のように出て来る。例えば、ロマ1;1-16、一コリ1;17、ガラ1;6-9、フィリ1;27、一テサ1;5,2;8-12、一ペト1;22-25などだ。ところで福音書と使徒言行録では、それはイエス様の福音宣教の第一声として、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マコ1;15)と書かれ、「貧しい人は福音を聞かされている」(マタ11;5)と確認され、エルサレムの会議では聖ペトロが「異邦人が福音の言葉を聞いて信じるようにと…わたしをお選びになったのです」(徒15;7)と証言している。手紙はそれらと呼応し、信じるにたることを立証し合っている。
 ご聖体の制定は聖パウロが、「あなた方に伝えるのは、実に、わたしが主から受けたことなのです。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげて、それを裂いて、こう仰せになりました。『これはわたしの体、あなた方のためのものである。わたしの記念としてこのように行いなさい』。食事が終わってから、主は杯についても同じようにして仰せになりました。『この杯は、わたしの血による新しい契約である。これを飲むときはいつでもわたしの記念として、このように行いなさい』。実に、あなた方はこのパンを食べ、この杯を飲む時はいつでも、主が来られる時まで、その死を告げ知らせるのです」(一コリ11;23-26)と書いた言葉だけで十分だろう。それはルカ22;17-23と驚くほど合致していて、共通理解があったことは疑問の余地がまったくない。そして、聖なる晩餐の実践は一コリ11;17-22、27-34と使徒言行録2;46が呼応していると言えよう。
 主の十字架という言葉は、それなしにイエス・キリスト様の新約の犠牲が語れない言葉として、一コリ1;18-25、ガラ6;14、フィリ2;8など、聖パウロの手紙の随所に出て来る。ところで、福音書では3回の受難予告の実現として、主の十字架の道行から磔刑の次第が書かれている。おそらくそれは4福音書が共通して最も詳細に伝えた出来事だと言っても過言ではなかろう。そして、使徒言行録では特に2章23節での聖ペトロの聖霊降臨後の説教、4章10節での民の指導者たちの面前で行った説教などが際立っている。これも相互が響き合い、事実と信憑性を証明し合っている。
 主の死と復活は最重要なキーワードだ。聖パウロの手紙はこれによって人類の罪が償われたこと、そして信じる人は復活した主イエス・キリストと共に新しい人に生まれ変わることを頻繁に力説している。ロマ6;4-10、8;34、10;9、一コリ15;1-8、13-22、フィリ3;6-11、二テモ2;8、一ペト1;3,21などはみなそうだ。他方、4福音書はそれをイエス・キリスト様のご生涯最大の出来事として叙述している。そして、使徒言行録はそれを語り継いでいる。その2;24、3;15、4;10、5;30、10;40、17;3等、主の死と復活への言及は枚挙にいとまがない。使徒たちはこの最も疑えない事実を語り、福音書もそれを最重要なこととして伝えている。相互に呼応し、立証し合っていることは明らかだ。
 最後の例は隣人愛または兄弟愛だが、使徒たちの手紙ではロマ12;9、13;8、一コリ12;31-13;13、14;1、一テサ4;9、一ペト4;8、一ヨハ2;7-11、3;11、23-24等がそれに触れている。聖パウロの「他人を愛する者は、律法を完全に果たしているのです」(ロマ13;8)の言い方は、共観福音書の最も重要な掟(マタ22;37-40、マコ12;28-34)の「すべて律法と預言者はこの二つの掟に基づいている」という表現と響き合っている。また、聖ヨハネの「その掟とは、わたしたちが神の子イエス・キリストの名を信じること、また、わたしたちにお命じになったとおり、互いに愛し合うことです。掟を守る人は、神のうちに留まり、神もまたその人のうちに留まります」(一ヨハ3;23-24)という手紙の言葉は、ヨハネ福音書13;34-35の「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うなら、それによって人はみな、あなた方がわたしの弟子であることを認めるようになる」という言葉をほうふつさせる。そして、一方が事実なら、他方も事実だと納得させてくれる。

 このように使徒たちの手紙は使徒たちが実在し、福音書と使徒言行録が信じるに足ることを証明する。逆から見れば、それは彼らの手紙が福音を前提にして書かれたことを意味する。しかし、その福音とは書かれた福音、つまり福音書を前提にして書かれたのではなかった。なぜなら、使徒たちの手紙が書かれた時は、まだ福音書がほとんどできていなかったからだ。だから、彼らが前提にしたのは口伝の福音だった。それは初代教会では口頭で伝えられていたのだ。使徒たちの手紙はそういう口で伝えられていた福音を共通理解としながら、個別の理由や必要性に迫られて書かれたものだった。
 では、なぜ福音は口頭で宣教されていたかと言えば、当時はそれが普通の効果的な伝達手段だったからだ。口と足が健在なら、使徒たちは町から町へ、国から国へと福音を容易に宣べ伝えることができた。それに比べ、書かれた福音は特殊で効率的とは言えなかった。たとえ書物になっても、文盲が非常に多かったから一般的な役には立たなかったし、印刷術のなかった時代だから、一冊ずつ書き写す写本でしか部数を増やせなかった。数冊にするには大変な時間がかかった。それに巻物や羊皮紙、パピルスのような形態では持ち歩きも不便だった。だから、福音書は最初のうちは主たる福音宣教の手段には向かなかったのだ。使徒たちが書かなかったのは、記述する能力の有無や多忙さもさることながら、おそらくそういう理由があったからだと思われる。
 教会が地中海世界に広がり、使徒たちがたやすくは訪問できなくなると、遠隔地の教会に手紙で教えたり、指導したり、問題を解決したりする必要性が生まれた。コリントの人々やガラテヤの教会への手紙などはその好例だ。使徒たちの手紙がAD50年前後から書かれ始めたのはその状況を反映している。同じ理由で、遠隔地の人に福音を伝える必要性も次第に感じられてきたに違いない。その必要性と書く才能のある人の出現が相まって、福音の記述化が実現したのだ。つまり福音書が書かれた。最初のものはAD50年代のアラマイ語マタイだと言われるが、これは失われて今は存在しない。その後それを手本や参考にして、他の福音書が書かれ始めた。
 ルカ福音書の序文はそのような背景を明かしている。彼が執筆した時はもう他のいくつかの福音書が先行していたのだ。もちろん写本だから冊数は限られていただろう。ところで、福音書記者の多くはは使徒たちではなかった。使徒たちが書いておいてくれたらよかったのに、そうではなく、福音書記者は弟子の中でもそれほど有力な人たちではなかった。だから、その記者たちが書いた主の教えと行いは、果たして正しく書かれているかどうか、でたらめが混じっていないどうか判定される必要があった。そして、その判定は主と共に生きた生き証人使徒や弟子たちが教会代表として行った。つまり、教会が共通理解として伝えてきた口伝の福音に照らして、この福音書は正しい、これは偽物だと判定したのだ。
 その判定で本物とされた福音書や使徒言行録等が今日正典とされている新約聖書に他ならない。従って、新約聖書があって教会ができたのではなく、逆なのだ。教会があって、新約聖書が生まれた。そこで、そのことから結論をまとめることにしよう。福音書や使徒言行録が信じるに足るのは、使徒たちを中心とする初代教会がそれを真正と認定してくれたからだ。しかし、その使徒たちや教会の実在を証明できるのは彼らの手紙なのだ。だから、それこそ新約聖書が信じるに足る書であるいう肯定を可能にする起点になる。ここに使徒たちの手紙の第一級の重要さがある。
 ところで、一度正真性が認定されれば、その福音書や使徒言行録は私たちに、今度は使徒たちと教会のことを何ものよりもよくかつ詳細に教えてくれる。それらは相互に補完し合っているのだ。ミサの聖書朗読では、使徒たちの手紙は第二朗読で読まれるから、私たちはその価値が福音書より一ランク下だと思いやすい。しかし、それは間違いだと私は気付いた。確かに福音書の内容は主イエス・キリスト様の教えと御業だから、弟子であった使徒たちの言葉よりは上だ。しかし、筆者という点では使徒ヨハネは別として、福音史家よりも使徒たちの方が上だ。そして、何よりも信じるに足る起点となった意味では、使徒たちの手紙は一級の価値がある存在なのだ。この考察でそれがわかったことは私にとって大きな収穫だった。

商人追い出し

 四旬節第3主日の聖書は第一朗読が出エジプト20;1-17、第二朗読が一コリント1;22-25、福音がヨハネ2;13-25だ。福音はイエス様が神殿から動物を売る商人や両替商たちを追い出した話の章節だ。だがこれについてはもう何回も書いたので、今回は聖パウロの書簡を取り上げようと考えていた。ところが、すでに書いたものを見直していたら、福音のこの章節には私にとって棚上げしたままの問題があったことに気付いてしまった。そこで、やはりは今回もそれと取り組むことにした。
 棚上げしたままの問題とは、主が神殿から商人や両替人たちを追い出された出来事が、ヨハネでは主の公生活の初めに書かれているのに、他の3福音書では主の公生活の最後になっていることから起こる疑問だ。つまり、ヨハネではカナの婚宴の後、主が過越し祭に当たってエルサレムに行かれた最初の年の出来事だが、他の3福音書では主がガリラヤの福音宣教を終えて、ご受難と復活を成し遂げるためエルサレムに入城し、そこでなさった出来事とされている。
 そうなると、もしその「商人追い出し」が一つの同じ出来事を指しているのだとしたら、少なくとも3つの疑問が起こってしまうのだ。だがそうではなく、もしそれが主の公生活の初めと最後にあった同じような2回の出来事だったと仮定したら、それにはそれでまたそれなりの疑問が生まれる。従って、次の4つの疑問を解決しなければならないのだ。
1.その出来事ははたして主の公生活の最初の年にあったのか、それとも最後にあったのか?
2.その場合一方が正しければ、他方は間違って伝えたことになるのだろうか?
3.もし両方とも間違いではないとすれば、それはどのように説明がつくのだろうか?
4.逆に、その出来事が主の公生活の初めと最後に2回あったという見方は、是認できるものだろうか?

 以前すでにこの章節を考察した時、私はこの出来事が2回あった可能性には触れていた。ただその時はテーマが違ったので深入りせず、「どうも2回あったとは思えない」という暫定的な結論だけで終わっていた。しかし、今回はそういう考えの聖書学者がいるかどうかを調べることから始めてみた。いわば疑問4から取り掛かったと言うことになる。ところが意外なことに、手元にある6冊の文献の中でこの問題に言及している学者は2人しかいなかった。これには少し驚いた。
 その二人とはジョン・C・ライルとフェデリコ・バルバロだ。ライルはその福音書講解ヨハネ1(聖書図書刊行会。石黒則年他2氏訳)で2回説を取り、166頁にこう書いている。「この出来事は、キリストの宣教の初めと終わりの二度あったもので、三年のうちに同じような神殿内の冒瀆が繰り返されていたのである。そしてキリストは、二度とも非常に厳しいことばで不快感を示された。」さらに174頁では、「多くの優れた注解者たちは、主が宮きよめを宣教の最初と最後の二度行ったと言う見解をとっている。ただパースや少数の注解者は、宮きよめは宣教の最後の十字架の前に一度だけ行われたと考えているが、このような主張の根拠は、私にはそれほど説得力のある満足のいくものであるとは思えない」とも書いている。
 この出来事が2度あったという解釈の長所は、ヨハネが書いた主の宣教初期の商人追い出しはその通りだったし、他の3福音史家が伝えるご受難直前の商人追い出しの出来事もまた事実だった。両方とも真実を伝えていると解釈できることにある。もし1度だけだったとすると、ヨハネ対3福音書の構図になり、どちらかが間違っているのではないかという深刻な疑問に直面しなければならないが、2回説をとればその問題そのものがなくなる。だから、ありがたい解釈であるわけだ。
 しかし、好都合だからといって必ずしもそれが正しいとは限らない。私も2回説をむげに否定する者ではない。ヨハネによれば、主は公生活中に少なくとも3回エルサレムで過越祭を過ごされた。だとすれば、最初の時に商人たちを追い出した事実は、その通りだったとしていいだろう。問題は2回目だが、一度懲らしめたのに、その後も彼らに改善が見られず、同じ状況が繰り返されていたとしたら、3回目の過越しの際にもう一度追い出されたことは考えられなくはない。
 しかし、2回説を否定する反論は強く、ライルが言うほど説得力の弱いものではない。それは指摘する。もし2回目があったのなら、ヨハネは少なくともそれに言及したはずだ。しかし、ヨハネの福音書にはそれがない。従って、もし2回目があったのなら、他の3福音書がご受難直前に商人たちの追い出しがあったことを書いているのに、なぜヨハネだけがあえてそれについて書かなかったのかは一つの理由以外説明がつかない。一つの理由とはその出来事が2回はなかったという事実だ。つまり2回目はなかったから、ヨハネは書かなかったのだという結論になる。
 2回説のもう一つの弱点はヨハネの福音書だけでなく、共観3福音書もその出来事を一回しか伝えてないことだ。従って、同じ福音書内に2回目があったとする根拠は皆無で、2回目があったとするのは推定に過ぎず、少しも確かではない。ヨハネと共観3福音書におけるその出来事は、あった時点が違うから2回だったとするのは単純過ぎるのだ。それに彼は我田引水的に「多くの優れた注解者たちは…二度行ったと言う見解をとっている」と言うが、反対の学者も少なくはないのだ。

 この問題に言及しているもう一人の注解者はバルバロ神父だが、彼は一回説に立つ。「現代解釈者の多くは、この神殿からの追い出しが二度行われたという(フィリオン、クナーベンバウエル、デュラン、スピグ)。しかし、この話は四人とも非常に類似しているので別なときにふたつのできごとがあったとは考えられない」(聖ヨハネ福音書注解80頁)と書いている。それは場所、相手、追い出し方、イエス様が言われたお言葉、ユダヤ人たちの反応など酷似し過ぎているというのだ。
 では、1回だけだったとしたら、いったい商人追い出しの話は主の公生活の初めにあったのだろうか、それともご受難直前だったのだろうか?これは疑問1に当たる問いだ。バルバロ師はそれが公生活の初めにあったと考えて、こう言っている。「彼ら(共観福音史家3人)は救い主の公生活のおわりに起こったこととしてしるす。それに反してできごとの時日に注意する聖ヨハネは、これをイエズスの公生活の最初の過越祭のときとする。聖ヨハネがこの点において共観福音史家と異なるのは、かれ自身の記憶にもとづくものであるから、このところではヨハネのいう時日によるべきだと思われる」と。私もこの見解に賛成で、1回説でもパースたちのように主のご受難前だったとは見ない。公生活の初めだったと見るのが最も納得のいく位置づけだと考える。
 私がこの見解に同感なのはバルバロ師が挙げた理由だけでによるのではない。ヨハネの記事そのものが最も事実を反映していると思うからだ。興味深い事実がある。大祭司カイアファがイエス様を尋問した時、一証人は「この男は、『わたしは神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」(マタイ26;61)と言っている。裁きの場の証言としてその言葉を書いたのはマタイだけだが、それは伝承として初代教会に伝えられていたことを裏付けている。
 ところがその言葉は、共観3福音書の商人追い出しの記事には全然出て来ないのだ。では、どこに出て来るかと言うと、まさにヨハネの福音書のこの出来事の時に出てくる。つまりマタイが書いたその言葉の文脈はヨハネの福音書の商人追い出し記事の中にしか見出されない。それは何を意味するかと言うと、ヨハネの福音書が伝えた商人追い出しの出来事こそ、共観福音書の記述の源泉または元になっていると言うことだ。
 それに共観福音書とヨハネを比較してみると、前者の記述が伝聞的で簡単なのに対し、ヨハネの記述は実にくわしく具体的で臨場感に溢れている。縄の鞭で羊や牛を追い払われたこと、鳩を売る者たちに言われた言葉、祭司長たちユダヤ人が主に抗議してしるしを求めた言葉、「この神殿を壊してみよ。わたしは三日で立て直してみせよう」と応じられた主と、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で立て直すのか」と言い返した彼らとのやりとり等は、共観福音史家の誰も伝えていない。これを見れば、ヨハネの記述は共観福音書よりずっと遅く書かれたにもかかわらず、情報源としてはその伝承の源泉だったことは明らかだ。

 従って、この出来事はヨハネの福音書が伝えるように、主の公生活の初めにあったと断定してよいと思う。しかし、そうなると共観3福音書がそれをご受難直前にあったように書いたことは、聖書なのに間違いがあるということになるのだろうか?いや、そうではない。これは疑問2と3の問いに当たるが、言い換えると、一方が正しければ、他方は必ず間違っていることになるのか?もし両方とも間違いではないとすれば、それはどう説明がつくのか?という問題に他ならない。
 バルバロ師はこの問いに対して、同じページにこう書いている。「共観福音史家が公生活の一年に起こったできごとを三年目にもってきたのもまた理解されないことではない。かれらはイエルサレムでのイエズスの滞在を一度だけしかしるさないし、そのうえまた、この事件も重大な役割をもっているので、省きたくなかったため、このところでしるすほかなかったと思われる」と。これは疑問の2と3の答えになっている。それをもう少し整理して言うと、次のように言い直せる。
 その出来事は主の公生活の初めに起こった。従って、史実としてはヨハネの記述が正しい。では、それと合わない共観3福音書は間違いなのかと言うと、いやそうではないと言わなければならないのだ。それはどういうことかと言うと、共観福音書が必ずしも時系列の順序で書かれていないこと意味する。共観福音書はマルコが一番元に近いとしても、3福音書とも今は失われて存在しないアラマイ語マタイ福音書を原型としている。だから3福音書は似通っていて、この出来事もご受難直前にあったように記述してあるわけだ。 
 しかし、共観福音書は主の公生活が年数でわかるようには書かれていない。前半をガリラヤでの福音宣教、後半をエルサレムでのご受難と復活による救世の御業という2部構成でまとめている。これだけ見ると主の公生活は1年ぐらいしかなかったように思えるが、それとて不確かだ。なぜなら、ご受難と復活はご昇天までを数えても数週間しかなかったし、前半のガリラヤにおける福音宣教は半年だったのか1年以上だったのか、その期間が明らかではないからだ。
 要するに時系列順に出来事を正確に書いた福音書ではないのだ。ところで、2部構成の福音書では、エルサレムの神殿における商人追い出し事件はガリラヤでの福音宣教中には書き入れようがない。これはエルサレムでしか起こり得ないことだったからだ。3福音書記者には、一方にはその出来事を省略せずに書く責任があり、他方にはエルサレムには一回しか行かない福音書構成という制約があった。そうであった以上、書くとすれば入城後すぐ神殿で起こったように書くしかなかったのだ。つまり、そこ以外に入れ場所がなかった。特にマタイではこの出来事での言葉が裁判での証言に使われる。それもそこに書かれた一理由だっただろう。失われたアラマイ語マタイ福音書もそうだったのではないかと推測できる。
 このように、共観福音書がこの出来事を時系列から外して記述したことは、ルカに最もよく見て取れると思う。悪い言い方かも知れないが、この出来事に対する彼の記述はおざなりの感が拭えない。それはヨハネと比較するとよくわかる。ヨハネはそれをイエス様の考え方や権威当局へのスタンスが示された、公的スタートでの重要な事件として意欲的に書いた。それに比べ、譬え等は見事に書いたルカなのに、この出来事では精彩も熱意も感じさせず、たった数行で終わらせている。
 主の福音を初めから「順序立てて」(ルカ1;3)書くと標榜したルカにとっては、ご受難直前はこの出来事の正しい時点としては座りが悪く感じられて、力を入れて書く気になれなかったのでは…と想像する。だから、主のご復活後のガリラヤ行きのようには省かなかったものの、簡略な記録で済ませたのだろう。マルコではこの出来事が司祭長等の殺意を強めさせた動機の一つとされているのが、ルカではその後にほとんど影響のない事件とされているのも同じ理由からだと思う。

 以上のことは聖書学的な考察だけで、あまり霊的な糧にはならない。しかし、4福音書がそろって伝えたこの出来事には共通したメッセージがある。それは「わたしの家は祈りの家でなければならない。」強盗の巣窟、商売の家にするなという教えだ。その時はイスラエル民族の神殿について言われたのだが、それは教会にも通じる。それについてバークレーは聖書注釈シリーズ「マタイ福音書下」269頁に、イスラエル・アブラハムと言うユダヤ人学者の痛い発言をこう引用している。
 「イエスが両替人の台をくつがえし、鳩を売る者を神殿から追放されたのは、ユダヤ教のためによいことであった。…昨年、復活祭の折に私はエルサレムを訪れたが、『聖墳墓教会』の廊にそって売店が立ち並び、そこで聖なる遺物、彩色したじゅず玉、金色の十字架・・・などを売っているのを見た。そこでキリスト教徒はしゃべりたて、歩き回ってかけ引きをしていた。買い手と売り手が雑踏していたのは、イエスを記念する聖なる教会の前であった。私は考えた。もしイエスがここに来られたら、昔イスラエルの偽兄弟を追放されたように、キリストの偽奉仕者をも追放するであろうと。」まさに人のふり見てわが身を直せという辛辣な指摘だ。
 ところで、主は鞭を振るい机をひっくり返すような行動ではなく、言葉で人々を説得できなかったのだろうか?と疑問を持つ人もいるだろう。しかし、主はこの時、一鳥二石のねらいで実力行使なさったのだと思う。一つのねらいはそうすることが効果的だったからだ。少し想像するだけでわかるが、多数の牛や羊、人々が商売に熱中する雑踏の中では、声は通らなかっただろうし、1人では到底広い境内を静かにはさせられない。あっと驚く実力行使だからこそそれができたのだった。
 二つめのねらいはそうすることが黒幕の司祭長たちを引っ張り出す有効な手段になったからだと思う。実際、動物商や両替商は末端の者で、大きな利益を吸い上げていたのは背後の人たちだった。ところが、彼らは表に出ない。それを引っ張り出して、彼らの行為の非を悟らせるためには、彼らが出て来ざるを得ない状況を作り出すにしくはなかった。そこで主はそうなさった。普段は柔和な主が怒りの形相で実力を振るえば、皆あっと仰天する。案の定、当局者は出てきたのだった。
 また、実力行使の直接対象は末端の商人たちだったから、それは弱者を痛めつける行為ではなかったかと詰る人がいるかも知れない。しかし注意して読むと、主は計算して行動なさったことがわかる。牛や羊は鞭打っても商人たちは打たず、机を倒しても両替商たちを蹴倒しはされなかったのだ。逃げたら捕まらない鳩は運び出させ、牛や羊は逃げても捕まえられるから鞭で追い出された。そうすれば当然商人たちも追って出るから境内は一掃できる。だからそうされたのだ。
 商人たちは末端の者たちだったが、ユダヤ人学者が言ったように「偽兄弟」で、追い出されても仕方のない人々だった。しかし、主は彼らを追い出されただけではない。清められた境内で、彼らに代わって「盲人や足の不自由な人がイエスのもとに来ると、彼らを癒された」(マタイ21;14)のだ。この事実を見落としてはなるまい。神殿も教会もただ清ければいいのではない。それは祈りの家であると同時に愛を行うべき場所であることを、主はこの治癒で教えてくださったのだと思う。

 しかし、ヨハネの記事にはそれよりもっと重大なメッセージがある。それは主が神殿を「わたしの父の家」と言われ、ユダヤ人たちに「この神殿を壊してみよ。わたしは三日で立て直して見せる」と言われたお言葉にある。このお言葉は主が父の独り子であり、神的な権能を持っておられることを啓示し、やがて実現される死と復活を予告した預言だった。権威当局者との事実上最初の公的対決で、主の公生活最後に来る死と復活を早くも言明されたことは非常に興味深い。ヨハネは弟子たちも後でその意味がわかったと言っているが、私たちもこのメッセージにだけは気付く必要がある。四旬節第3主日の典礼が、私たちに福音のこの箇所を読ませるのはそのためだからだ。
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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