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主のお姿が変ったわけ

 四旬節第2主日の福音はマルコ9;2-8だ。それはイエス様のご変容を伝えている。初めてのご受難予告の後、主は3人の弟子だけを連れてある高い山に登られた。するとそこで主のお姿が変って雪よりも白く輝き、エリヤとモーセが現れて主と語り合った。そこで、ペトロが何を言っていいかわからないままに思ったことを口走ったら、雲が彼らを包み、中から「これはわたしの愛する子。彼に聞け」という声がした。気付くと、もうそこには主と自分たちしかいなかったという出来事だ。
 今週はこの出来事の中で、二つの疑問についてだけ自答を試みてみようと思う。一つ目は、なぜ四旬節第2主日にここが読まれるのだろうか?という問いだ。二つ目は、その時なぜ預言者エリヤとモーセが現れたのか?という疑問だ。

 なぜこの主日にこの箇所が読まれるのかという疑問には、私には思い当たる理由が三つある。一つはその時がイエス様の使命の重要な節目だったからだと思う。ガリラヤでの福音宣教が終り、主はまさに死と復活を遂げるため都へと上る出発点にあった。私生活から福音宣教の公的活動に入る前の洗礼の時も天が開けて、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声がした。だから、この新しい節目でも、「これはわたしの愛する子」と、ほぼ同じ声がしたのだ。
 この時が福音宣教から受難と復活の御業への節目であったことは、ご変容後ルカでは「さて、天に上げられる時が近づいたので、イエスは、エルサレムに向かって旅立とうと決心された」(ルカ9;51)とはっきりしている。マルコでは少しわかりにくいが、それでもご変容後間もなく、「さて、イエスはそこを立って、ユダヤ地方およびヨルダンの向こう側へ行かれた」(マルコ10;1)とか「さて、一行はエルサレムに上る途上にあった」(同10;32)などと書いてあるのを見ると、これが重大な節目だったことは十分確認できる。
 二つ目の理由は、ご変容での主と預言者たちの話題がご受難と復活のことだったからだ。マルコは2人が「イエスと語り合っていた」としか書いていないが、ルカは「彼らは栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで成し遂げようとしておられる最後について語り合っていた」(ルカ9;31)と書いている。三人の話題はまさにご受難と復活についてだったのだ。そして、それは私たちが四旬節の終わりに行き着く到着点でもある。だからこそ典礼はこの個所をこの主日に読ませるのだ。
 三つ目の理由は、その真っ白に輝いた主のご変容が、来るべき復活の姿の予兆だったからだ。私はここに主のお姿が変わったわけがあると思う。イエス様は「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、そして三日目に復活する」(マルコ9;22)と言われた。権力者に排斥され、殺される悲惨さは弟子たちにも経験でよくわかった。だからペトロは「主よ、とんでもないことです」と諌めて、厳しく叱られたのだった。しかし復活は違う。
 生き返った死者がいても、それは復活とは違ったから、人は誰も復活体を思い描けなかった。受難の予告では「三日目に復活する」と言われたが、おそらく弟子たちはこの一言に注目してはいなかっただろう。主のご受難の時の彼らを見ればそうだったとしか思えない。しかし、天の父は主をそのような輝く姿に変えることによって、まず主を励まされ、次に主が復活した時に弟子たちが、「ああ、あの時のお姿は復活されたお体の前兆だったんだ」と、思い出せるようになさったのだ。
 その時、預言者エリヤとモーセも「栄光のうちに現れた」(ルカ9;31)。弟子たちは主のご変容を目撃できたが、主はご自身の輝きはご覧にならなかったかも知れない。しかし、栄光のうちに近づいた預言者2人を見て、ご自分の復活の栄光を感じられたのではなかろうか。それは「父よ、あなたのもとでわたしに栄光をお与えください、世界が存在する前に、わたしがあなたのもとで持っていたあの栄光を」(ヨハネ17;5)と祈られた栄光に通じるものだったと私は思う。
 復活後のイエス様は輝かず、普通に見えたが、それは幽霊ではなく、真の体を持つことを弟子たちにわからせるためだった。だが、エマオへの2人や使徒たちへの出現は自由自在で、ご昇天は超自然的だった。再臨の時は更に神の子の栄光をまとって来られる。山上でお姿が変わったわけは復活体の栄光をわからせるためだった。主はサドカイ派との復活論争で、「復活の時、人は…天の使いと同じようである」(マタイ22;30)と言われた。それは私たちもその時は主と同じように変ることを示唆されたのだ。

 では、なぜその時に預言者エリヤとモーセが現れたのだろうか?ご受難に向かう主を励ますためだったのだろうか?それを否定する理由はない。しかし、それだけでは説明がつかない。なぜなら、他にイザヤやエレミヤのような偉大な預言者はいたし、イスラエルの太祖アブラハムも洗礼者ヨハネもいた。主を慰め励ますためだったら、なぜ彼らも来なかったのかということになる。それに励まし慰めるのだったら、ゲッセマネの園の苦悩の時の方がふさわしかったはずだからだ。
 まずエリヤについてだが、当時の人々はメシア出現の前にエリヤが来ると信じていた。だから祭司たちの使いは洗礼者ヨハネに、「あなたはエリヤですか」(ヨハネ1;21)と尋ね、使徒たちは主から「人々はわたしを何者だと言っているか」と聞かれた時、「エリヤだと言う者もあります」(マルコ8;27-28)と答えたのだ。そして、今でもイスラエル人たちは過越祭の晩餐のハガダー(式次)では、最後のハレルヤ詩編前、「ドア開放」の時にエリヤを呼ぶ。今もメシアを待っているからだ。
 このようにエリヤはメシア到来を前ぶれする預言者として認識されていた。ところで、それがイエス様の山上でのご変容の場に遣わされたと言うことは、もうメシアが確かに来られて、救いの業の最終段階である受難と復活がこれから成し遂げられることを、弟子たち代表の3使徒に証しするためであったことを意味した。従って、彼はご受難前の主を励ますためだけではなく、神の国が到来して新しい時代が実現することを告げる証言者として、そこに来たのだと私は見る。 
 では、モーセは何のために遣わされたのだろうか?私は旧約から新約への引継ぎのためだったと思う。イスラエル民族の太祖はアブラハムだったが、神様が「わたしはお前と契約を立て」(創世記17;2)と言われたように、神様と彼の契約は個人的だった。しかし、モーセには「わたしはお前およびイスラエルと契約を結んだ」(出34;27)と言われたように、神様との契約はイスラエルの民と結ばれたのだ。だから、彼らは神の民となった。モーセこそ民族の代表だったのだ。
 神様は彼を通して律法を与えた。モーセの律法は神の民にふさわしい生き方と行動の規範であり、旧約とはそれを守って生きたイスラエル民族の時代だった。ところで、その律法の効力は約束のメシアが来られるまでだったが、神の国は主イエス・キリスト様によって到来した。神様との契約は主によって新たにされ、新しい民の新しい生き方が始まったのだ。新約時代だ。そこで、律法の立役者モーセは旧約から新約への新旧交代に立ち合い、証人となるためにそこに来たのだと思う。 
 福音書記者ヨハネは「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理とは、イエス・キリストを通してもたらされた」(ヨハネ1;16)と新約の卓越性を証言した。山上で主に会ったモーセも同じように告白したのではあるまいか。雲の中から「これはわたしの愛する子。彼に聞け」と聞こえた声はそれを裏づける。それは3使徒にだけではなく、預言者2人にも言われた天の父の証しであり命令でもあったと思う。そして、イエス様にとってはその声に優る励ましは他になかったと推察する。
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悔い改めて福音を信じる

 四旬節に入った。第1主日の福音はマルコ1;12-15で、その叙述は不必要な物事を一切殺ぎ落としている。おそらく福音史家マルコはそこにはあまり時間をかけず、イエス様の公的活動への準備と開始を鮮明かつ手短に伝えようとしたのだろう。しかし、短くても簡潔に書かれていることが、読む者にかえって感銘を与える。
 この章節ははっきり2部分に別れていて、12-13節が主の公的生活の最終準備活動、14-15節が福音宣教の開始宣言になっている。どちらも四旬節の重要なテーマを含んでいるが、前半はここでは扱わないことにしようと思う。それはイエス様とサタンとの対決というテーマで、マタイとルカに詳しく書かれているから、典礼暦A年かC年に取り上げる方がいいし、マルコがこれほど簡潔にしか書かなかったのは、このテーマが詳しく考察されることを想定していなかったからではないかとも思われるからだ。 そこで、ここでは後半の14,15節だけを考察の対象とする。そこは次のように書かれている。

 「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて仰せになった。『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』」と。

 非常に短いが、ここには重要なことが述べられている。なぜなら、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とは、マルコによる福音書全体の救いのビジョン宣言に等しいからだ。喩えて言えば、この一節はこの福音書の胚芽のようなものだ。そこにはこれから語られかつ実現されていくことが凝縮されている。その胚芽は福音宣教活動期の段階ではイエス・キリスト様の言葉と行いとして開花し、それに続く段階では主の受難と復活として結実する。

 各部分を解釈すると、まず「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き」という一句は、主がその時ユダヤから初めてガリラヤに戻られたと見る必要はない。ヨハネの逮捕前に少なくとも2回はユダヤ・ガリラヤ間を往復されており、その時はすでに福音宣教が始まっていたと思われるからだ。そのためか、マルコは主がヨハネの逮捕後に福音を「宣べ伝えた」と述べ、「宣べ始めた」とは書いていない。このことは1月18日のコラム「主の足取りと弟子作り」で立証したつもりだ。 
 「悔い改めて福音を信じなさい」と言われた呼びかけは、当時のイスラエル人にだけでなく、すべての人への促しだった。だから主は町々村々を回って語り続け、使徒を育てて世の終わりまでそれが続くようになさったのだ。ところで、荒野の誘惑は主ご自身の問題だったから、ある意味で私たちは他人事として傍観できた。だがこの呼びかけは私たちに向けられたものだから、私たちは逆に当事者だ。従って、それをどう受け止め、どう答えるかを問われていることになる。

 主は悔い改めと福音への信仰を促されたが、その前にそうすべき喫緊の動機を示してくださった。それが「時は満ち、神の国は近づいた」という知らせだった。それはイスラエルの民にとっては驚きかつ欣喜雀躍すべき出来事だった。なぜなら、神の国とは彼らが久しく待ち望んできた理想の社会だったが、神様のその約束が遂に実現するわけだったからだ。もう喜びにたえず、わくわくしないはずがなかった。事実、主の宣教の初め、人々はその知らせに熱狂したのだった。
 「時は満ち」という表現は原典ではペプレロータイ(peplerotai)だ。それは主がナザレトの会堂で、「この聖書の言葉はあなた方が耳にしたこの日、成就した」(ルカ4;21)と言われた時にも使われたのと同じ動詞だ。邦訳はそれを「成就した」と訳しているが、直訳なら「この聖書の言葉は…満たされた」となる。「時が満ちる」とは、ルカのそのくだりと同じく、神様が預言者たちを通して神の民に約束されたメシアの国がいよいよ実現するという意味だった。
 続く「神の国が近づいた」という啓示はキーワードであり、最重要なメッセージだ。主は「福音を信じなさい」と言われたが、ではその福音(Euangelion)とは何かと言うと、まさに神の国が到来したという「良い知らせ」に他ならなかったのだ。もっともそれは近づいたのであって、まだ実現し切ってはいない。だから人は今でも「御国が来ますように」と祈る。聖書の約束が成就したのだから、神様サイドでは成就したのだが、人間サイドではまだ「実現中」ということだ。

 そう考えると、私たちに求められていることは二つある。時が満ち、神の国が近づいた事実をしっかり認識することと、その認識に立って「悔い改めて福音を信じる」ことだ。神の国が近づいた事実は主が言葉で教えてくださり、神的行いによって証明してくださったから、よほどひねくれた人でない限り、認識がそれほど難しいことではない。ところが、「悔い改めて福音を信じる」ことはそうはいかない。人それぞれが、人は人、自分は自分の自己決断をしなければならないからだ。 
 悔い改めは洗礼者ヨハネも教えたが、彼は恐るべき神の裁き(マタイ3;10)を示して罪の赦しの洗礼を授けた。イエス様も神の裁きを教えられるが、ここでは神の国が近づいたことを動機として悔い改めを促されている。それが主の基本的スタンスだったと思われる。だとすれば、神の国とはどんな国なのか?なぜ神の国が近づいたら悔い改めなければならないのかを理解する必要が出てくる。十分な認識は正しい自己決断の前提だからだ。そこで、その理解をここで少し試みてみる。
 神の国とはどんな国か?それがよくわかる一例は、イエス様がナザレトの会堂で読まれた聖書の言葉(ルカ4;18-22)だと思う。その時、主はイザヤ書を開き、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を伝えるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、囚われ人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ知らせ、抑圧されている人に自由を与え、主の恵みの年を告げ知らせる」(ルカ4;18,19)と読まれた。そして、その後で「この聖書の言葉は、あなた方が耳にしたこの日、成就した」と言われた。メシアの国到来を確認された言葉だ。 
 ところで、旧約の民にとって、来るべき神の国とはイザヤ書にあるように、油を注がれた王メシアによって統治され、自由、解放、病気恢復、神の恩赦、平和等が実現する地上の楽園であった。イエス様は貧しい人々、苦しむ人々、病人などを神的な力で助け、神の国の実現を証明なさったが(マタイ11;5)、その旧約的イメージは主の福音では魂の次元で解釈され直されるものでもあった。ご受難の時ピラトに「わたしの国はこの世に属していない」(ヨハネ18;36)と言われた通りだ。
 従って、イザヤ書では囚われ人とはバビロンに捕囚となったイスラエル民族のことだったが、それを読まれたイエス様にとっては、囚われ人とは魂が罪に束縛されているすべての人々、目の見えない人とは福音の真理が見えない心の人(ヨハネ9;41)、貧困とは神様の教えに巡り合えない人々が魂の糧に飢え渇いていることであり、抑圧とは人々が悪魔と死の支配下に置かれていることに他ならなかった。神の国とは、そういう人々に解放と解決をもたらす恵みの国のことなのだ。

 では、そういう神の国が近づいたのだから、人はまず悔い改めなければならないのであろうか?「悔い改めて福音を信じなさい」というお言葉を聞くと、そういう順序に思える。ところが、福音書の悔い改めの意味がわかると、悔い改めることと福音を信じることは実はコインの裏表で、後先はないことがわかる。原典の「悔い改めよ」はメタノエイテだが、それは「思い直せ、考えを変えよ、悔いよ」等の意味だ。それは悪から善の生き方に変る道徳的改心はもちろん、自分の思想を含めた全存在を神様の方に向き変えることまで求めている。それが福音的な悔い改めなのだ。
 他方、福音を信じるとは、まず神の国が近づいたという良い知らせを信じることだが、そう信じる決断は必然的に今までの生き方で神の国にふさわしくなかった罪悪を否定し、思いも言葉も行いもすべてを神の御心に合わせ、その掟を実践して生きることを要求するものだ。それを裏返せば、悔い改めることと同じになる。従って、悔い改めることは福音を信じることになり、福音を信じれば悔い改めることにもなる。コインの両面のようなものだから、その後先はどうでもいいいのだ。
 一番の難しいのはそういうことを理解することでもない。私たちにとって最も困難なことは、悔い改めて福音を信じるという決断を下し、それを実践し続けることにある。かつてイスラエルの人々がイエス様ご自身から聞いたことを、私たちは教会を通して聞くことができる。では、「悔い改めて福音を信じなさい」と言われたら、「はい、悔い改めて福音を信じます」と答えられるかというと、そうすんなりとは答えられないのが人間という存在なのだ。
 かつてイスラエルの民がそうだったように、現代でも何らかの理由で主のお言葉に耳を塞ぐ人、お言葉を聞いても聞こえなかったふりをする人、聞いてもバカバカしいと無視する人、何も感じない人、聞いて心に感じても、悔い改めて福音を信じることに踏み切れない人等々、主の促しに対する反応は様々なはずだ。もちろん、主のお言葉に感動し、「主よ、私は生き方を改め、福音を信じます!」という素直な人もいるだろう。しかし、そういう人は少ないのが実情ではなかろうか。
 それだけでも、悔い改めて福音を信じる決断がなまやさしくはないことがわかる。それを思うと、いったいなぜある人は主のお言葉を拒否し、ある人は応じたくても決断する力がなく、ある人は素直に信じられるのだろうか?という疑問が湧く。人それぞれだからだが、最終的には「わからない」がその答えだろう。ただ、そのことで私にわかっていることが二つある。悔い改めて福音を信じる決断と実践は、神の恵みの助けがあるからこそできるということ、そして、その恵みは「わたしは、恵もうと思う者を恵み、憐れもうと思う者を憐れむ」(出33;19)という神様の神秘だということだ。
 では、私自身はどうなのかというと、これを書きながら、またもや福音書の伝えることは本当なのだろうか?自分だけが真に受けているのではなかろうか?という疑念に絡まれていた。私は、明日洗礼志願式に臨む一人の青年のことを知っている。そんな若者がいるというのに、何十年も信仰に生きた老人がぐらぐらしてどうすると自分を叱咤していた。しかし、ふと神の国の民のことで思い出して聖ペトロの手紙を読んだら、その迷いは消えた。2章9-10節にはこう書いてあった。
 「あなた方は選ばれた民族、王の系統の祭司、聖なる国民、そして神のものとなった民です。それは、暗闇の中からあなた方を驚くべき光に招き入れてくださった方の、素晴らしい業を、あなた方が告げ知らせるためなのです。あなた方は、かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐みを受けたことがなかったが、今は憐みを受けた者となったのです。」
然り。この手紙には偽りが感じられない。悔い改めて福音を信じる者は、神の国のそのような国民になれる。それを読み返して、私はその確信を新たにした。残るは「悔い改めて福音を信じます」という決意を持続し、実践できる恵みを祈り求めるだけだ。明日、洗礼へと一歩を進めるその若者のためにも祈ろう。「恵もうと思う者を恵み、憐れもうと思う者を憐れむ」神様が、彼にも福音を信じて生き通せる堅忍の恵みを豊かに賜らんことを!

自分の時

60年前の初台
ブラザー・フィリップの作業小屋と代々木八幡方面の風景 1954年5月5日画
裏面メモ:「家々はマッチ箱のごとし。樹木は五月の空の下鮮やかに明るし。」
 
 2月13日、庭に福寿草が3輪咲いた。「日差しのほほえみ」を書いた2007年は咲き初めが2月3日だったから、2週間も遅い。今年は寒さが厳しかったからだろうか。薄日のせいか、半開きよりやや大きめに広がった咲き方だ。だが何はともあれ、この小さな地上のパラボラアンテナが開くと、やっぱり春先だなぁと実感できて嬉しい。季節も草木も律儀なものだ。いくらかの早い遅いはあっても、巡って来ない季節はないし、春になれば草木は芽吹き、花を咲かせる。
 だが、巡り来る年は年々歳々同じではなく、違っている。福寿草も来年また咲くだろうが、それとて同じ花ではない。私の周辺も様変わりしているだろう。コヘレトは「太陽のもと、新しいものは何もない」と言ったが、逆また真なりで、太陽のもと、多くは新たになる。不易のものもあるが、この世は常に変ってやまない。幸せな時、人はこのままがいつまでも続けばいいと願うだろう。だが、それが叶うことはない。今年の福寿草は万物のそのような一面を囁くように見えた。

 ところで、過ぎ去り変り行くものの中でも、死ほどに人を変えるものはないのではなかろうか。死ぬ当人の存在そのものを変えてしまうだけではなく、残された者たちにも、いた者がいなくなってもう二度と現れないという、覆せない現実と喪失感と嘆きを残す。振り返ってみると、私の身近だけでも、この数年の間に何と多くの人がみまかってしまったことか。先日はレデンプトール会のアルマン・ドモンティニ神父様の帰天も知った。そこで今日はそのことに触れたい。 
 亡くなったのは去る1月7日だった。97歳の高齢だったから、その日が来てしまったことはそれほど驚くには当たらないことだったかも知れないが、私にとってその訃報はやはり少なからぬ衝撃だった。心底尊敬に値する高徳の人が世を去ったからというだけではない。63年前にご縁ができた方だったから、その帰天は私の生きて来た時代がほぼ過ぎ去ろうとしていることを示唆し、「自分の時」すなわち私の死もそう遠くないことをほのめかしていたからだ。
 63年前のご縁とは、私が初めて同師と会った1948年12月8日の受洗のことだ。私に教理を教えてくれたのは聖心愛子会の故シスター・ガブリエラだったが、ちょうどその日の朝、藤沢市のキンダ―ハウスへミサをあげに来る予定だった同師に、こういう青年がいるから洗礼を授けてやってほしいと彼女が頼んだらしい。そこで、来日して半年ほどしか経っていなかった同師が私に洗礼を授けてくれたのだった。日本語もまだよく話せなかったのだから、いわば頼まれ洗礼だった。しかし、いきさつはどうであれ、私には同師に大きな恩義があった。それにその後の十数年、私も同師の会にいた。だから、ご縁が浅くなったのだ。  
 
 そんなわけで、2月11日はカトリック初台教会で同師の追悼記念ミサに参列した。ところがそれは、はからずも過ぎ去った時と今との落差がいかに大きいかを私に痛感させた。追悼式そのものの前に、私は小田急線代々木八幡駅から初台教会まで歩く間、まずその界隈の激しい変貌ぶりに驚愕した。かつてそこに4年住んだことがあったから、その辺りは知り尽くしているつもりでいた。当時のスケッチを見てもわかるが、60年前は高いビルなど皆無で、教会が一番目立つ建物だった。 
 それが何と、今はまるで高層ビルに見下ろされている有様に見えた。かつて初めてのニューヨークで、聖パトリック大聖堂が高層ビル群の間に埋没しているのを見た時、何か現代における教会の象徴のように思えて仕方がなかったのと似た印象だった。道路は倍以上に拡幅され、ビル群がひしめき、私が知っていたかつての町はもうそこにはなかった。何と変ってしまったことか!と、過ぎ去った時との落差を思い知ったのだ。こう言うのを浦島太郎ショックとでも言うのだろうか。

 さて追悼ミサだが、5人の司祭が司式した。式そのものは聖書の朗読箇所と説教の内容を除けば、どこの教会でも同じことだから取り立てて言うことも、戸惑うこともなかった。そればかりか、同教会独自の聖歌集にあった「ロザリオの聖母」の歌などは何十年ぶりに歌って懐かしかった。しかし、聖堂は最初のもの以来もう2度も建て直され、私には親しみのない空間だった。参列の信者さんたちも知らない人ばかりで、200人ほどいた中に顔見知りはたった二人しかいなかった。
 何よりも司祭たちが見知らぬ神父様たちばかりだった。「あの方は見覚えがある。G神父様だろうな」と思ったその一人も、実は後で人違いだと知った。知っていた人さえ見間違えてしまうほど、疎遠になっていたのだ。私も変ったが、周りもすっかり変わっていた。かつては私もそこにいたが、今は私を知る人はそこにおらず、私もそこにいる人たちを知らない。そことはまだ何らかの絆があると思っていたが、それは幻想だった。自分がもう縁の切れた者だということを実感した。
 
 納骨式にも参列したら、そこではもっと心にこたえる思いをした。納骨堂は聖堂下にあって、ドモンティニ師のお骨は納骨棚の前の机に安置されていた。その左右には司祭たちが立ち、参列の信者たちは献花の時のように並んで、2,3人ずつ順々にお骨の前で別れの挨拶をして行くのだった。私も並んで少しずつ進んだが、自分の番になる前の所でふと目を上げたら、これから納骨する棚が開いていて、すでに亡くなった神父様たちのお骨壺がそこに安置されているのが見えたのだ。
 各々に名前が書いてあって、日本人1人以外は4人がカナダ人だった。そこにドモンティニ師が加われば6名になるが、どなたも知っていた方だった。3人は共に学び、しゃべり、遠足をし、アイスホッケーをした間柄、P神父は修練期の同期生だった。3人は私より年配、2人は同年齢、1人は年下だ。そのお骨壺を目の前に見て、もうこんなにも多数が世を去ってしまったのか!と、深い感懐を覚えないではいられなかった。世代がかわり、一つの時代が去りつつあることを痛感した。
 帰り際に、カナダ人のR.神父様が玄関にいたから挨拶して、“Vous me reconnaissez?”と尋ねてみた。すると、“Non.”と当惑した面持ちだった。“C’est moi, Joseph Sato.”と言ったら、やっと古い過去から記憶を手繰り出せたようだった。4年間も共に暮らしたのに、私の存在は完全に忘れられていたようだ。私にもう若い日の面影がないからだろうが、まさに去る者は日々に疎し。時は記憶を風化させ、いた人の存在さえも忘れさせる。ちょっとした追加ショックだった。

 福寿草が咲いてから5日が経ってしまった。まだ3輪のままだが、よく晴れた早春の光りを受けて、今日はその地上のパラボラアンテナを満開に広げていた。その花の明るい色を見ると、死とか変貌するものとかの話題は何とも似つかわしくないものに思える。ところが、その花もやがて萎み、枯渇して地上から消える。ならばそれから連想して、追悼ミサの日の体験を反芻し、変り行くものや去りゆくものを思い巡らしても、ある意味でそれは自然な成り行きだったと言えなくもない。
 いずれにせよ、そういうことを思いめぐらしてしまったのは、自分の時も近づいていると意識したからだ。多くが様変わりして、自分の生きた時代が終わりつつあるのを実感し、同時代を生きた人たちが次々と世を去っていくのを見届けられたことは有益だった。なぜなら自分の死ぬ番もそう遠くはあるまいと、はっきり自覚できたからだ。「自分の時」がいつ、どのようにやって来るかは全くわからないが、それが遠くないことと確実に来ることだけははっきりわかる。
 そうではあっても、主の福音を信じる者には、その自覚は恐れや悲観のもととはならない。むしろしっかり生きることを意識させる。なぜなら死ぬ時が遠くなく確実であるよりも、もっと確実な真理を確信しているからだ。それは主イエス・キリスト様が「わたしを信じる人は、死んでも生きる」(ヨハネ11;25)と言われた復活の希望だ。もしもその希望がなかったら、私は哀れな者になる。私には過去と死までに残された短い時しかないことになるからだ。そんな短い時では、今を少々楽しむ以外にどれほどの夢や希望が持てるだろうか?
 しかし、復活の希望があれば、死は通り抜ける門でしかなくなる。その向こうには主が約束してくださった永遠の命が待つ。従って、先が短くても、復活を信じる者にはまだ地上でも充実した未来がある。納骨棚に名があった神父様方も、主を信じて帰天した友人知人たちも、実は皆そのような希望を持って死の門を通過した人たちなのだ。ならば私も同じ希望を持って、自分の時が来るまで福音的に生き続けよう。死の別れは悲しいが、復活の日には再会の喜びがある。まさに福寿だ。

目のつけどころ

 イエス様が再びカファルナウムに来られたので、お話を聞こうと大勢の人々が集まって来ていた。そこへ4人の男が中風の人を寝床に乗せて運んで来た。それが誰も予想すらしなかった出来事へと展開するのだが、年間第7主日の福音マルコ2;1-12はその一部始終を伝える箇所だ。しかし、今週は他にしたいことがあるので、いつもより手短にしたい。そこで、登場人物の目のつけ所に焦点を絞って考察しようと思う。目のつけ所を見れば、あるていどその人もわかるからだ。

 誰の家だったかはわからないが、主はある民家におられた。家は集まった人々で戸口までいっぱいになり、足の踏み場もないほどだった。主は病人の治癒ではなく、この日はもっぱら福音を伝えておられたようで、人々はそれに聞き入っていた。そこへやって来たのが、中風の人を担架兼用の寝床に乗せた4人の男たちだった。間もなく彼らは思い切った行動を起こすが、その前になぜ彼らがそこへやって来るに至ったのか、それを知ることは有益だから想像しておくことにしよう。
 友人か親族かはわからないが、彼らが親しい間柄だったことはわかる。イエス様についての情報を先につかんだのは4人の中の誰かで、外出不能だった中風の男ではなかっただろう。従って、彼が主の所へ行きたいと頼んだのではなく、むしろ4人が「おい、あいつをナザレトのイエスの所へ連れて行ってやろうよ」と相談し合った後、彼に「行こうよ」と働きかけたのだと思う。4人は彼を主に会わせ、生きる希望を持たせたかったのだ。私はそこが彼らの目のつけ所だったと見る。
 その動機は中風の人への友情だったと言えよう。彼らは彼がイエス様の教えを聞けば、励まされ、病み臥せっている人生など無意味だと思う絶望から救われるだろうと信じて、彼を主に引き合わせようとしたのだと思う。中風の彼は彼で、4人の友情に感激して行く気になった。寝床のまま運ばれることはけっして楽ではなく、衆目にさらされることは辛くもあっただろうに、彼は主のお話を聞いてみる決心をした。主に会えば生きる希望が見つかるかも、という希望が湧いたのだろう。
 それぞれのそんな思いを持って4人と1人が着いてみると、家は戸口まで人がつまり、主の前に病人を運び込むことなどとうてい無理に見えた。そこで彼らは思い切った行動に出た。病人を天井から主に近づかせようと考えたのだ。聖地の家は屋根がテラスのようになっていて、外側の階段からそこに上れた。使徒言行録10章で使徒ペトロが幻を見たのも、なめし皮職人シモンの家のそんな屋上だった。4人は階段を使って病人を寝床に乗せたまま、主がおられた家の屋上に担ぎ上げた。
 そこで4人は屋根に穴を開け始めた。損害賠償は覚悟の上だっただろう。屋根は木の枝等の骨組みを粘土で固めたものだから剥がせたのだ。実に大胆なことをしたわけだが、彼らの目のつけどころは奇想天外で、臨機応変だった。屋内にいた人々は突然天井からバリバリと物音がして来たので、「何事?」と、さぞかし不思議に思っただろう。そして、大穴が開いた時は度肝を抜かれ、そこから担架の病人が吊り下ろされるのを見た時は、それこそ呆気にとられたに違いない。

 マルコは書いた。「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は今赦された』と仰せになった」と。このお言葉で主の目のつけどころがわかる。主がご覧になったのは「彼らの信仰」だった。でも信仰は見えないものなのに、なぜ「信仰を見て」と書いたのだろうか?確かに信仰そのものは見えないが、信仰の行為は見える。彼らの信仰は屋根を剥がしてまで病人を主に会わせようした4人の行為と、そう望んだ病人の同意に見えた。信仰はその行為から見えたのだ。
 従って「彼らの信仰」の彼らとは、運んだ4人と中風の人の5人を指す。ところで、彼らは主の教えを聞くためにそこへ行った。だから、中風の人は主の前に吊り下ろされても何一つ言わず、あの重い皮膚病の人(マルコ1;40)のようには治癒を願わなかった。それをご存じだったから、主も彼の中風を治すことなく、「子よ、あなたの罪は今赦された」と言われただけだったのだ。しかし、当時の人々は病気を罪の結果と考えがちだったから、そのお言葉は彼には嬉しいものだっただろう。
 普通なら彼らの乱入は「なぜ話の邪魔をするのか!」と非難されただろうに、主は咎められなかった。それにも注目しておきたい。教会で子どもが少しでも騒ぐと、「静かにさせなさい!」などと親を叱る司祭もいるが、主は違った。むしろ5人を褒めて、願いもしなかったのに「子よ、あなたの罪は今赦された」と仰せになった。それは病人への言葉だったが、主は屋上の4人をもちゃんと見ておられて、彼らのためにもそう言われたのだ。魂の救いが主の目のつけどころだったからだ。

 ところが、その場には律法学者たちもいて、彼らは心中「この人はどうして、こんなことを言うのか。これは冒涜だ。神おひとりのほかに、誰が罪を赦すことができよう」と呟いた。確かにもし普通の人が主と同じことを言ったら、それは自分を神の立場に置く、赦しがたい冒瀆に違いなかった。彼らの異論は、もし「神のみ言葉は人間となり、われわれの間に住むようになった」という神秘が実現されていなかったら、つまり神の子が地上に来ておられなかったら、正しかっただろう。
 しかし、彼らの致命的間違いは、主がまさに神の子であることを見誤っていたことにあった。彼らはすでに主の福音を聞き、多くの奇跡を目撃していた。従って、虚心坦懐にさえなれば、主が神の子であることはわかったはずだった。ところが、妬みや偏狭さや敵意などの理由から、彼らは心を閉ざし始めていた。だから、この時も病人と彼を運んで来た人々や、罪を赦す神の慈愛には目もくれず、イエス様の言葉に咎めるべき点を見つけたのだ。それが彼らの目のつけ所だった。
 教会にもそういう人がいる。他者の間違いや違反に監視的な目を光らせ、人の心の思いや寛大さには鈍感な人だ。そういう人の目のつけどころは、人よりも規則のような物にある。イエス様は律法学者の呟きを見抜いて、「どうしてそんな考えを抱くのか。中風の人に向かって、『あなたの罪は今赦された』と言うのと、『起きて、寝床を持って歩け』と言うのとどちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権能を持っていることを、あなた方に知らせよう」と仰せになった。
 「中風の人に向かって、『あなたの罪は今赦された』と言うのと、『起きて、寝床を持って歩け』と言うのとどちらが易しいか」とは、人間から見てわかりやすい比較だから言われたのだと思う。普通の人間は言葉だけで病気は治せない。しかし、過ちを赦すと言うだけなら、赦す権限があるかどうかは別として、言うことは簡単に言えるからだ。「言うは易く行うは難し」の論理だ。人はそれを経験で知っている。だから、主は人々のその経験知を利用してそういう比較なさったのだ。 
 しかし考えてみると、普通の人間には、言葉だけで寝たきりの病人を治して歩かせることも、人に神様への罪を赦すと言うこともできないのだ。なぜなら、神的な力がない限り、「起きて、寝床を持って歩け」と命令しても、物理的には何も起きないし、「あなたの罪は今赦された」という言葉は、神様以外に誰も言う資格がないからだ。その点は律法学者たちが呟いた通りだ。だからこそ今は、教会が神の御子から受けた権限で任命した聴罪司祭しか、罪の赦しを与えられないのだ。 
 してみると、この比較は神的な力のある主だけに当てはまるわけだ。ところで、主にはどちらも可能だが、どちらが易しいかと言えば「あなたの罪は今赦された」と言う方だということに他ならない。しかし、主はそう言われただけではなく、それをすぐ実行なさった。中風の人に、「わたしはあなたに言う。起きなさい。あなたの寝床を持って家に帰りなさい」と仰せになったのだ。すると、その人は直ちに起き上がり、寝床を持って、みなが見ている中を出て行ったのだった。
 マルコはこう締めくくる。「そこで、すべての人は驚嘆し、神をほめたたえて、『このようなことは、今まで見たことがない』と言った」と。人々は前代未聞の奇跡に驚き、興奮して神様を賛美した。彼らの目は主の不思議に注がれていた。その素直さは大いにいい。翻って私などは、屋根を壊された家の主人は憤慨しなかったのだろうかとか、中風の人は主に立ち上れたお礼を言ったのだろうか、屋根の後始末はどうしたのだろうかなどと、つい些末なことに目が行ってしまう。

 しかし、そんな私でも、人々と共に主の御業に驚嘆し、それを讃えるだけでいいのか、大事なメッセージはないのかという疑問は抱く。もちろん、彼らが家の主人に損害を弁償したかどうかとか、中風の人はその後どうなったかなどの問題はあらずもがなだからどうでもいい。だが、大事なメッセージがあるかどうかは重大問題で見落とせない。その答えはこの章節における私自身の目のつけ所にも結論にもなるからだ。では、そういうメッセージはあるかと言うと、少なくとも二つある。
 その一つは、イエス・キリスト様が神の子であり、罪を赦せる方であるというメッセージだ。マルコがこの章節で最も伝えたかったことはそれだったに違いない。律法学者たちは主が罪を赦せる方であることを知らなかった。しかし、知った後でもそれを受け入れなかったことは、残念ながら彼らが取ったその後の敵対行動が物語っている。しかし、主は中風の人への奇跡によって、ご自分が神の子であることを十分立証なさった。この点は重い皮膚病の人の場合と大いに異なる。
 その時は病人が治癒を願ったので、主は深い憐みから彼をお治しになった。しかし、ここではそういう願いはなく、主は頼まれもしなかったのに「起きなさい。寝床を持って家に帰りなさい」と言われたのだ。治った病人が喜んだのは当然だが、その奇跡は憐れみからでも、信仰の報いとしてでもなく、ご自分が神の子であることを証明するためになさったのだった。そして、神の子であることの証明は、罪を赦せることの立証でもあった。それは私たちも主を信じられるためであった。
 二つ目は4人の男が中風の人を運んだ行為だ。それはお義理にするのではない隣人愛が、どんなものかを示唆してくれて貴重だ。何とかしてその人を主に会わせようと、協力して寝床ごと運んだ彼らの熱意と実行力、損害賠償覚悟で屋根に穴を開けたその発想の大胆さ、柔軟さ、臨機応変さは見倣うに値する。彼らは病人を搬送する救急士や社会福祉士、足腰不自由な人を教会に運ぶ送迎ボランティアの先駆者だ。以上の2点を私の目のつけどころとして、この章節のまとめとする。

恩を仇で返されても                     

 ほとんどのキリスト者はイエス様の福音がどんな時代にも通じる教えで、その学びは現代でも大いに意義があると信じていると思う。しかし、そういう人が現代人の常識のまま年間第6主日の福音マルコ1;40-45を読むと、いささか当惑するのではあるまいか。なぜなら、あまりにも奇妙な結果になる奇跡物語で、その出来事がいったい何を教え、信仰生活でどんな役に立つのか、わかりにくことが多いと思われるからだ。では、それはどんな内容かというと、次のような話だ。 
 「一人の重い皮膚病の人がイエスの所に来て跪き、こう願った。『お望みなら、わたしを清くすることがおできになります』。イエスは憐れに思い、手を差し伸べて、その人に触り、『わたしは望む。清くなれ』と仰せになった。すると、たちまち、重い皮膚病が治り、その人は清くなった。イエスはその人を厳しく戒め、すぐに立ち去らせたが、その時こう仰せになった。『誰にも話さないように注意しなさい。ただ、祭司のもとに行って、体を見せ、あなたが清められたことを人々に証しするために、モーセが命じた物をささげなさい』。しかし、その人は立ち去ると、盛んにこの出来事を語り、言いふらし始めた。そこでイエスはもう公然と町にお入りになれず、人里離れた所に留まられたが、至る所から、人々はイエス様の所へやって来た。」

 これを読むと、人は疑問を抱くと思う。イエス様は奇跡後になぜ厳しく口止めされたのか?その皮膚病の人はなぜ戒めを全然守らなかったのか?なぜ主は町に入れなくなったのか?そもそもマルコは単にこういうことがあったという事実だけ伝えようとしたのか?それとも読む人に何かを学ばせたり信じさせたりする意図で書いたのか?等の疑問だ。しかし、すんなりとわかることもある。そこで、わかることとそうでないことを仕分けして、問題点を洗い出すことから始めてみる。
 初めから順に見てみると、「一人の重い皮膚病の人がイエスの所に来て跪き、こう願った。『お望みなら、わたしを清くすることがおできになります』」という最初の一節は、問題のない叙述だと思われる。その願いは誰にもわかるからだ。続く41節の「イエスは憐れに思い、手を差し伸べて、その人に触り、『わたしは望む。清くなれ』と仰せになった」というくだりもわかりにくくはない。主はそういう行いをためらわずなさり、そういう心こもったお言葉をかける方だったからだ。
 「すると、たちまち、重い皮膚病が治り、その人は清くなった」という42節もわかる。主は奇跡的治癒をする神的な力があり、すでに多くの病人を癒しておられたからだ。ただし、この時はご自分が神の子であることを証明するためではなく、憐れみから治されたのだった。弟子たち以外がその場にいなかったこともわかる。もし人々がそこにいたのなら、「誰にも話すな」と口止めする意味はなかったからだ。ここまではおそらく誰にも問題なく思えるし、感動的な出来事と映るだろう。

 ところが、そこからは「ん?」と首をかしげる人が多くなるのではなかろうか。例えば、治癒後に主が「その人を厳しく戒め」られたことだ。「厳しく戒め」は原典の“embrimehsamenos”という過去分詞的形容詞の訳だが、動詞はembrimaomaiで、もともと「馬が怒って鼻を鳴らす、不機嫌に叱る、怒鳴りつける、立腹する」の意味だ。邦訳は抑え気味に「厳しく戒め」と訳しているが、直訳すれば「怒鳴りつけて」とか「不機嫌に叱って」などとなるところだ。
 「立ち去らせた」ももっと強い表現だ。原典の“eksebalen”は動詞“ekballo”(放り出す、追い払う、去らせる)などの意味だから、「立ち去らせた」は正しい訳だが、本当は「追い払うように去らせた」というニュアンスなのだ。だから仏訳は“le chassa”(追い払った)と訳している。だとすると、主の言動は奇妙に思えないだろうか。なぜなら憐れんで彼を治されたというのに、急に態度を変えたかのように「怒鳴りつけて、追い払うように去らせた」からだ。なぜ?と首をかしげても無理はない。
 皮膚病だった人の言動も不可解だ。彼が祭司のもとに行って、清められたことを認定してもらえたのはわかる。さもないと人前には出られなかったはずだからだ。しかし、主には病気を治してもらった恩義があり、誰にも話すなと厳しく口止めされていた。それなのに、軽率にも皆にべらべら吹聴した。仮にイエス様の名声を更に高めようとしてした行為だったとしても、結果はひいきの引き倒しで、主に大迷惑をかけた。なぜなら、そのせいで主はもう公然と町に入れなくなったからだ。
 ちなみに同じ出来事の記述で、マタイはその人の言動には全然触れず、ルカは彼に口止めしたのに噂が益々広がったと、どちらかと言えばそれをプラス評価気味に伝えている。しかし、マルコはその人のせいで主が町に入れず、人里離れた所に留まらざるを得なかったと非難気味に書いた。おそらくそうだったのだろう。いったいその人はなぜ主の戒めを守らなかったのだろうか?理解に苦しむ。他方、主はなぜ町に入れなかったのだろうか?これも一般常識ではわかりにくい。

 しかし、私たちがそれらに首をかしげてしまうのは、実は現代人の常識で理解しようとするからに他ならない。そうではなく、当時のイスラエル人の立場で考えれば、疑問の多くは解けて、なるほどと納得できる。では、私たちはその立場になれるかというと、なれる。イエス様がヒントをくださっているからだ。重い皮膚病だった人に「祭司のもとに行って、体を見せ、あなたが清められたことを人々に証しするために、モーセが命じた物をささげなさい」と言われたお言葉がそれだ。
 なぜそれがヒントになるかと言うと、モーセが皮膚病とその清めについて定めたレビ記13、14章の律法のきまりを示しているからだ。それを読めば、そこにいろいろな皮膚病が列挙され、イスラエルでは罹患者がそれを祭司に見せて、重いか軽いかを判断してもらい、重症と判定された場合は、一般社会から隔離されて生きなければならなかったことがわかる。ルカ17;11-20の10人はその一例だ。当時の人々はまさに、この律法に従って行動するよう義務付けられていたのだ。
 フランシスコ会訳は話題の人を「重い皮膚病を患っている人」と訳しているが、「重い」という形容詞は実は原典にはない。ただleprosとあるだけだ。他の訳でも同じで、例えば英仏語訳はlèpre,leperだ。かつてこれは「らい病」と訳されたが、聖書のleprosは必ずしも「らい病」ではなく、重い皮膚病を意味した。皮膚病にはいろいろある。そこで、フランシスコ会訳は原典にない「重い」を加えて「重い皮膚病」としたのだと推測する。それは適切な訳だと評価してよいと思う。
 ところで、隔離されたのは重い皮膚病と判定された人だったが、隔離は病気が感染する怖れからではなく、そういう患者は汚れている、清くないという理由からだった。彼らにとってこの問題の行動原則は清いか汚れているかにあったのだ。だから「清い」はキーワードだ。それは隔離患者から皮膚病が消えた場合も同じで、また祭司に見せ、清くなったことを認定してもらわなければならなかった。認定されれば社会復帰ができたから、その手続きは必要不可欠だった。
 だからこそイエス様はその重い皮膚病の人に、「祭司のもとに行って体を見せ、あなたが清められたことを人々に証しするため」と仰せになり、「あなたが癒されたことを」とは言われなかったのだ。他方、一般の健康な人々も間接的にはその律法によって規制されていた。なぜなら重い皮膚病人が一般の人々との接触を禁じられていたことは、一般の人も彼らと接触してはならなかったことを意味していたからだ。従って、あえて接触をすることは律法への違反になった。

 そういうことがわかると、首をかしげたいくつかの疑問は解ける。しかし、すでに挙げた疑問の前に、重い皮膚病の人の存在を問題視しなければなるまい。上述ではその人が主に治癒を願ったことは何も問題はないとしたが、彼は律法に従って隔離されていた人だったから、実は問題があったのだ。たとえ町の外であったとしても、彼は隔離の場所から無断でそこに出て来て、健康な人々だった主の一向に接触してはいけなかったからだ。その違反行為が見落とされていた。
 そうしてみると、そもそもこの出来事はその人の律法違反行為で始まったとことになる。その人はイエス様のうわさを聞き、きっと癒されたい一心で、律法を破ることは承知の上で隔離の場所を抜け出し、主のところに来たのだ。そして跪いて主に清めを願った。彼も「治す」ではなく、「清くすることがおできになります」と言っている点は注目していい。主だけでなく、弟子たちも彼の律法違反には気付いたはずだ。たぶん弟子たちは、その事態に困惑を感じたのではなかろうか。
 しかし、イエス様はそういうことも承知の上で、彼を憐れに思い、「わたしは望む。清くなれ」と言われた。するとたちまち彼は癒えた。その奇跡そのものには問題はなかった。それでその人の病気が治り、清められたのだから、感嘆と賛美に値した。しかし、主はその人との接触を容認し、治癒前に手でその人に触れさえなさった。それが問題だったのだ。重い皮膚病で汚れた人との接触を禁じるきまりを破ったことになったからだ。その人が主を違反に巻き込んだわけだ。
 では、憐れんで重い皮膚病を治してやったのに、主はなぜ急に怒鳴りつけて追い払うように彼を去らせたのだろうか?そういう律法違反に巻き込まれたことに立腹されたのだろうか?そういう解釈をする人もいるが、それは間違いだと思う。主は律法を尊重されたが、きまりは人のためで、人がきまりのためではない(マルコ2;23-28)とも言われ、安息日に病人を癒して(ルカ13;10-17)律法を無視されたこともあった。それなのに、他の人の違反に立腹されたとは考えにくいからだ。
 怒ったのではなく、奇跡の後だから精神が高揚されたのだと説明する人もいる。しかし、もしそうなら精神的な高揚は奇跡の度にあったはずだが、そういう事実はない。ところで、この場合は他の奇跡と変わらない。ラザロの蘇生の場合(ヨハネ11章)とは違う。だから、その解釈も当たらない。他に、人を隔離差別する律法に対して憤慨されたのだという解釈もある。それはいくらか当たっているかも知れないが、十分に説得力のある説明とは思えない。
 私は主が叱るように厳しく戒めたのは、その人のためを思ったからだと考える。口止めはいわゆる「メシアの秘密」を守らせ、奇跡を行う呪術者と思われるのを回避する意図はあっただろう。しかし、怒ったように戒めたのは「その人のため」が主な理由だったはずだ。その人が主にしてもらったことを人に話せば、隔離場所から出て律法を破ったこともばれる。ばれれば、律法違反に厳しい社会で、彼は不利な立場に追い込まれる恐れがあった。主はそれを案じられたのだと思う。 
 ところが、彼は戒めを守れそうもない人に見えたのではなかろうか。事実、隔離場所から出てはいけないのに、禁止を破って出て来た律法破りの前科が彼にはあった。そういう傾向の人物なら、誰にも話さないようにと口止めしても、しゃべりたい誘惑に負けてしまいかねない。主はそう懸念なさった。だから、憐れんだ時とは打って変わって、叱るように厳しく言われた。甘い顔をしていたら、戒めを軽く見ると危ぶまれたからだと私は思う。残念ながら結果は実際そうなってしまったが…
 追い立てるように去らせたのも「彼のため」という同じ理由からだったと解釈できる。彼は禁止を破って出てきた重い皮膚病患者だった。そういう所を人に見られれば、律法違反を追及される恐れがあった。だから、清められたなら、その場にぐずぐずしていてはいけなかったのだ。しかし、優しくしていたら、治された喜びの余り、彼はなかなか去らなかっただろう。そう思われたから、主は早く祭司のところへ行くよう「追い払うように去らせた」のだ、そう解釈すれば納得できる。

 主が「祭司のもとに行って、体を見せ、あなたが清められたことを人々に証しするために、モーセが命じた物をささげなさい」と言われたのは、もちろん彼が完全に社会復帰できるためだった。その願いどおり、彼は社会に戻れた。必要な手続きをとどこりなく済ませたからだろう。ところが、その後、彼は口止めされたことを忘れたかのように、自分に起こった出来事を人々に盛んに言いふらした。なぜ彼はそんなことをしたのだろうか?
 一つはすでに言及したように、主の名声が更に高まるようにと、感謝のしるしにお返しの意味で話したのかも知れない。あるいは自己顕示欲からだったかも知れないし、単に口の軽い人だったからかも知れない。しかし、少なくとも悪意や深い理由はなかったようだ。ある聾唖者の治癒の場合も似ていて、その時も「口止めされればされるほど、人々はますます言い広めた」(マルコ7;31-37)とある。驚くべき奇跡を目撃してしまったら、黙っていられないのが人間なのだろう。
 しかし、彼の吹聴はイエス様に迷惑をもたらした。そのせいで主を町に入りづらくし、人里離れた所に留まらざるを得なくしてしまったからだ。そういう所では、宿泊所探しも飲食物の調達もさぞかし大変だっただろう。主はもちろん戒めを守らなかった彼を赦しておられたはずだが、人間がまだできていなかった弟子たちは違っただろう。「みんなあいつのせいだ。恩を仇で返しゃがって…」と憤慨したに違いない。そう想像すると面白い。でも、主が町に入れなかったのはなぜだろうか?
 レビ記には、一般の人が重い皮膚病患者に触れたら、その人も汚れるとは書かれていない。しかし、汚れた爬虫類や死んだ家畜に触れた者は夕方まで汚れた者とされ、そういう動物が触れた衣服や壺等までも汚れた物(レビ11章)とされ、廃棄された。祭司の場合はもっと厳しく、「いかなる汚れにせよ、汚れた人に触れた者、それがいかなる汚れであろうとも、そのようなものに触れた者は夕方まで汚れる」(レビ22;5,6)とある。汚れはうつると考えられていたのだ。
 そういう思考傾向の人々が、重い皮膚病の人に触れたら、触れた人も汚れると思っていたとしてもおかしくはない。ところで、イエス様はその人に触れた。だから、主も汚れたと見なされてしまい、それで町に入れなかった可能性がある。いずれにせよ、その人が話してしまったせいで、汚れた人との禁じられた接触も知られてしまった。清めに関心が強かったファリサイ派の人々がそれに黙っているわけがなかった。それも町に入りづらかった理由の一つだったと思う。
 ただし、汚れたものと触れた汚れの場合は、ずっと町に入れないわけではなく、汚れが抜けるその日の夕方まで、つまりユダヤの一日が終了するまでだったはずだ。それなのに主はしばらく人里離れた所に留まられたようだ。これはおそらくファリサイ派などの反発を知って、しばし無用な対立は避けたかったからではなかろうか。事実、数日後に主は「またカファルナウムに来られた」(マルコ2;1)とあり、会堂にもお入りになって(同3;1)おられる。

 さて、結論は三つ。そんな人里離れた所におられても、「至る所から、人々はイエスの所へやって来た」。マルコが私たちに学ばせたいことの一つはここにありそうだ。彼は何を示唆しているのだろうか?私が感じたのは、どんな場所であろうと、そこに真の光りと真の幸せがあるとわかれば、人はそこに来るということだ。会堂であろうと、湖畔であろうと、人里離れた所であろうと、主がおられた所には人々が来た。真の光り、真の幸いをもたらす方がそこにおられたからだ。
 教会は明日を「世界病者の日」としているが、この章節は病人に「主よ、お望みなら、わたしを清くすることができます」と願うよう励ましている。私も病気で苦しむ知人友人のため、この日は共に祈ろうと思う。主は「わたしは望む。治れ」ではなく、「清くなれ」と言ってくださるはずだ。現代では体が治癒される奇跡はもう稀だが、清められた魂が主が用意しておられるみ国に入れることには、主が確実に「わたしは望む」と言ってくださる。それを知っているからだ。
 最後に今日の福音の重い皮膚病人は私たちの象徴だと思おう。彼を批判はできない。私たちも洗礼で罪の汚れから清められたのに、イエス様が自分にしてくださったことを口先で話すだけで、実際は主の名折れになったり、裏切ったりすることが何と多いことか!しかし、主は恩を仇で返したあの重い皮膚病の人以来今に至るまで、すべての人を赦し、待っていてくださる。だから私も見習って、神様が私の人生で出会わせてくれた人たちを大事にしたい。たとえ恩を仇で返されても…

悪霊についても考える

 年間第5主日の福音マルコ1;29-39はイエス様の二つの姿を描いている。一つは病人や悪霊に憑かれた人々とかかわる姿、もう一つはガリラヤ地方での福音宣教に集中しようとしておられた姿だ。教会は私たちがその前半のテーマの病苦をよりよく理解できるよう第一朗読でヨブ記7;1-7を読ませ、第二朗読では福音宣教という後半のテーマを他人事ではないものとして意識するよう、コリントの信徒への第一の手紙9;16-23に触れさせる。 
 ヨブ記だが、それをよく読みもしないで、ヨブをゆるぎない信仰の模範だと信じている人が少なくないようだ。しかし、それはステレオタイプの理解だと思う。確かに彼は神を信じた人だったが、あまりの病苦に耐えかねて、絶望と冒瀆すれすれの言葉で神に異議を申立て、苦しみの意味を問いかけた異邦人だったからだ。完璧な信仰の人だったなどと安易に言うべきではあるまい。それにしても人類はなんと絶え間なく病気に苦しめられ、悩まされ続けてきたことだろうか。
 イエス様の時代も同じだった。マルコの福音書1;29-34はいろいろな病気にかかっている人たちが、主のところに大勢やって来たことを伝えている。今、私自身の知人友人の中にも病魔にさいなまれている人が何人かいる。複数の病気に耐えているSさんはもう身も心ももうぼろぼろですとメールして来た。働き盛りの年なのに、骨髄を病に侵されたKさんは命があとどのくらいもつかと危ぶまれている。身近にそういう病人がいると、何もしてやれない無力さに自分も打ちのめされる。
 しかし、イエス様はそうではなかった。主は多くの病人を奇跡的なお力で癒せた。不治の病には何もしてやれない私たちとはそこがまったく違う。マルコ1;29-34は主がまず熱で寝ていたシモンの姑を即座に治し、夕方からは町中の人々が連れて来た病人をすべて癒されたと書いている。しかし、人々は病人だけではなく、悪霊にとり憑かれている人をも大勢連れて来ていた。もちろん主は彼らからは悪霊を追い出し、魂の病を治癒なさった。そこが普通の医療行為とは全然違った。
 これらの驚嘆すべき出来事をマルコは淡々と叙述した。しかし、その淡々さにも関わらず、注意するといくつかの疑問が湧く。人々は病人や悪魔憑きを連れ来たが、なぜそれが夕方日没後だったのだろうか?悪霊という言葉は4回も出てくるが、マルコはそれを実在者と認識して書いたのだろうか?翌朝、「みんなが捜しています」と言われたのに、なぜイエス様は探しているみんなのところにではなく、「近くのほかの町や村へ行こう」と言われたのだろうか?そんな疑問だ。

 その答え探しをしてみる。まず、なぜ人々は病人や悪魔憑きを夕方の日没後に連れ来たのだろうかという疑問だが、当時は電燈もランプもなく、油の灯心で明かりをとっていた時代だった。当然夜は暗い。明るい昼間の方が治癒しやすかったはずだ。それなのに、なぜわざわざ日が沈んだ後に行ったのかと思うが、その理由は、第一にイエス様の所在がわかっても伝達に時間がかかったから、第二に主の治療が暗さに左右されず、夜でも大丈夫だったからではないだろうか。
 少し想像力を働かせればわかることだが、それは電話も携帯もラウドスピーカーもなかった時代だった。主がシモン・ペトロの家に来られたことを何人かが聞きつけたとしても、それを町の皆に知らせるには口伝えの方法しかなかっただろう。だから時間がかかった。それに車のない時代だったから、知らせを受けても、病人を動かして運ぶ作業は迅速にはできなかったはずだ。だから来るのが夕方過ぎになったのだと推理すれば、なぜ暗くなったのに集まったのか納得できる。
 それに暗さは主の治癒には何の支障にもならなかった。単なる医者の医療行為と違って、イエス様は触れるだけ、時には言葉だけで病気を癒し、一言で悪霊を追い出せたからだ。しかし、ここで注目すべきはその神的な力もさることながら、そんな時間に押し寄せた人々を治癒なさった主の受け入れ姿勢ではなかろうか。さぞかし疲れ果てておられただろうに、断りもせず報いも求めず応じられたことが心を打つ。夜でも受け入れてくれると知っていたからこそ人々は集まったのだ。

 次に、マルコは悪魔を実在者と認識して、悪霊や悪魔憑きのことを書いたのだろうかという問いだが、答えはそうだという肯定になると思う。たしかに彼は多くの場合、「汚れた霊」(プネウマ・アカタルトス)とか「悪霊」(ダイモニオン)という呼称を使い、他の福音書記者のように悪魔(ディアボロス)という呼称は使わない。また、悪霊が救いの業における恐るべき敵対者であるような叙述もしていない。だから、悪霊を精神的病の元凶としてしか書いていないような印象を与えなくはない。
 しかし、ベルゼブル論争では「どうしてサタンがサタンを追い出すことができようか。…もしサタンが自分自身に逆らうなら、サタンは仲間割れし、立ちゆくことはできず、かえって滅びてしまう」(マルコ3;23-26)と言われたイエス様の言葉を伝えている。ところで、彼は主がそう反論なさった理由を、律法学者たちが主を「汚れた霊に憑かれている」と言ったからだと書いている。従って、他の3福音書同様、彼が悪霊をサタンの仲間であり、実在する者と見ていたことはその論争からわかる。

 ところで、前回の考察「解放の始まり」で、悪魔については次回に延ばすと書いたので、ここでその宿題を果たそうと思う。この問題は2年前、すでに一度取り組んだことがある。だから、その時に得た成果を足場にして再検証してみる。ただし、悪霊と悪魔は同義語と見なし、マルコの用法とはいったん離れて、ここでは悪魔と言う呼称で考察を進めようと思う。
 悪魔を表す呼称だが、新約聖書原典のギリシャ語では4つある。ディアボロス、ダイモニオン、サタン、プネウマ・アカタルトスだ。邦訳はそのそれぞれを悪魔、悪霊、サタン、汚れた霊と訳している。 サタンという呼称は4福音書に共通して出て来るが、ヨハネではそれとディアボロスだけ、マタイとルカではすべての呼称がでてくるが、マルコには3つの呼称は出て来ても、ディアボロス(悪魔)という呼称が出て来ない。ところで、ディアボロスはヘブライ語ではメカトレグ(mekatoreg)で、その意味はラルースのヘブライ・仏語辞典によればl'accusateur(告発者)だ。
 ディアボロスが「悪魔」というよりは「告発者」の意味合いだということは興味深い。ヘブライ語で悪魔を表す呼称には「サタン」、「シェド」(悪霊、悪鬼。複数はシェディーム)、「メカトレグ」(告発者)、「ルアッハ・ハトメハ」(汚れた霊)があって、それぞれギリシャ語の呼称に対応しているが、マルコが「メカトレグ」(告発者)の呼称を使わなかったことは、彼が救い主と闇の力との対決をあまり強く意識していなかったかも知れないことを示唆するからだ。そうだったとすれば、彼が荒れ野の誘惑をごく簡単にしか伝えなかったこともうなずける。
 いずれにせよ、悪魔とはいったい何者で、本当に存在するのかと問いかければ、興味本位で信じる人もいるが、そんな者はいないと一笑に付す人の方が現代では多いと思う。しかし、多くの場合それは戯画化されたイメージで考えているからだ。そういうイメージのままその存在を論じても無意味だから、いるかいないかはさておいて、その前に悪魔とはいったいどんな存在なのかと問えば、聖書と教会はそれを神に敵対し人類を陥れようとする、悪意ある霊的な存在だと教えている。
 ところが、聖書を読むと、私たちはある意味で驚くべき事実に気が付く。それは旧約聖書には悪魔の記述がきわめて稀だったのに、新約時代に入ったらその出没が俄然頻繁になったという事実だ。そして、初代教会時代が過ぎるとまためっきり姿を見せなくなることも注目に値する。もう少し詳しく言うと、天使については旧約聖書にも新約聖書にも非常に多くの記述があるが、それに比べ悪魔については旧約聖書では言及が極めて少なく、その存在がほとんど意識されていなかった感があるのだ。
 悪魔は旧約聖書原典にはヘブライ語でサタンかシェディームの名で出てくる。サタンは歴代史上21;1に一度だけ言及されるが、ダビデ王を唆したただの端役だったし、ヨブ記では多数回登場するが、それは宗教文学的フィクションに過ぎなかった。他方、シェディームの名で出てくる悪魔も些末な場面でしか出番がなかった。しかしこう書くと、エデンの園でエバをたぶらかした蛇は悪魔ではなかったのか?最重要な記述ではないかと反論されるかも知れない。
 たしかに、黙示録に「悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき」(黙示録20;2)とあるように、新約聖書と教会の教えは、人祖エバを誘惑したその蛇が実は悪魔だったと解釈している。実際、口など利けるはずのない蛇が、驚くほど見事な話術を駆使して彼女を丸め込んだのだから、それは確かに蛇の姿をした狡猾な何者かだったと言う他はなく、それが悪魔だったと後で理解したことは妥当な解釈だ。
 しかし、創世記3章には「蛇は生き物の中で一番狡猾なものだった」と書いてあるだけで、蛇が悪魔だったとはどこにも書かれてないことも事実だ。従って、新約聖書の解釈なしに、旧約聖書のこの個所だけから悪魔の存在を語ることには無理があった。だからこそ旧約時代のイスラエル民族はエジプト、フィリスティン、アッシリア、バビロニア、ローマなどを敵と見たが、悪魔を最大の敵だとは一度も意識しなかったし、楽園の出来事をその後ほとんど問題にしなかったのだと思う。
 とは言え、それは蛇の姿ではあっても、悪魔が前面に出て、最重要な役割を演じた旧約聖書で唯一の場面だった。そしてその後、世に罪悪が増加する事実によって、悪魔はその存在を感じさせつつも、旧約聖書の表舞台にはほとんど姿を見せなくなっていたのだ。ところが、新約聖書になると様子は一変した。救い主イエス様が現れて、人間の真の敵は異民族や他の国々ではなく、世の初めから人類を陥れようとしてきた悪魔だということを明らかにしてくださったからだ。
 おかげでそれ以来、主の福音を信じた人は皆、救いとは主の死と復活によって人類が悪魔のくびきから解放され、罪から清められ、神の子として新たに生まれることだと知ったのだ。すると、それに対抗するかのように、悪魔は主を荒野で誘惑したり、悪魔憑きを通して叫んだりして、その存在を顕わにした。それが新約の一特徴だ。当然のことながら、福音書も使徒たちの書簡も、譬え話、悪霊追放の奇跡、警告などを通して、対決すべき相手の悪魔について語っている。マルコの福音書1;34が語る「多くの悪霊を追い出し」た活動もその実現の一つだったのだ。
 ただ、それは新約聖書が語る出来事で、現実に悪魔が実在する証明にはならない。現代では精神患者はいるが、悪魔憑きの話は聞かない。従って、悪魔の実在を経験的には証明できない。だから、現代の理知的な人たちは悪魔などいない。それは昔の人の想像だと相手にしないのだ。しかし他方には、悪魔はいる。彼にとってはいないと思われるほど都合がいい。思う存分人間を滅びへと誘惑できるからだ。油断してはいけないと教える教導者もいる。私もかつて子どもたちにそう教えた。 
 では、再度問う。悪魔は本当に実在するのだろうか?現代では悪魔の形跡が現れないから、すでに言ったようにその実在は経験的には実証できない。しかし、思弁的には証明可能だ。人間社会に起きて来たこと、今も起きている反福音的な出来事や退廃的な人間の生き方などを見れば、それこそ主が終末の現象として予言されたことに相当し、その背後にいる邪悪な者の存在をうすうす感じとることができるからだ。悪魔の実在を信じるかどうかは、最終的には主の福音を信じるか否かにある。 

 さて、三つ目の疑問だが、翌朝早く主が祈っておられると、ペトロたちが来て、「みんなが捜しています」と言った。ところが、イエス様は皆が探しているというのに、皆のところへ行くのではなく、「近くのほかの町や村へ行こう」と言われた。なぜだったのだろうか?その答えは「わたしはそのために出てきたのである」というお言葉にあると思う。シモン・ペトロの家には病人や悪魔憑きたちが待っていただろうが、それよりも福音宣教を最優先としておられたからに他ならない。
 事実、主はガリラヤじゅうを巡り歩き、方々の会堂で福音をお伝えになった。しかし、「また悪霊を追い出された」とも書かれている。病人や悪霊に憑かれた人々はカファルナウムの町だけにいたのではなかった。行く先々でも主は福音宣教と共に病人を癒し、悪霊に憑かれている人々を助けられたのだ。このように日夜休みなく働かれた主のご生涯を知ると、たとえもう老人であるとは言え、家で日々安穏に過ごしているだけの自分は何と怠慢なのだろうかと、慙愧に堪えなくなる。
 医者でない私は知人友人が病んでも治してはやれない。ただ苦しむ人たちに心で寄り添い、助けてあげてくださいと神様に祈るしかない。それが現実だ。情けないと言えば情けなく、無力さを痛感する。しかし、神様が人の死を止めないのは、永遠の命を用意して、私たちを待っておられるからだという福音を、私は東日本大震災の時の考察でよく悟れた。その福音は救い主イエス・キリスト様によってこそもたらされたのだ。だから、せめて主の福音への熱意だけは失わないでいたい。
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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