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解放の始まり

 年間第4主日の福音はマルコ1;21-28だった。イエス様がカファルナウムの会堂で、一人の男を悪霊から解放なさった事跡を伝える箇所だ。しかし、その展開の仕方はあまりにも唐突な感じを与える。なぜなら、洗礼者ヨハネに関する記述の後、主の公的活動がまだ漁師4人を弟子にしただけだというのに、いきなり汚れた霊追放の出来事を語るからだ。ところが、実はそこにこそマルコ福音書の特質が現れていると私は見る。そこで、今回はそのことから考察してみようと思う。

 その展開の仕方からまずわかることは、この福音書が多くの事柄を省いているということだ。そもそも弟子4人の選び出しは「ヨハネが捕えられた後」(マルコ1;14)だったとあるが、その逮捕前にはすでに多くのことがあって、他の福音書はみなそれを伝えている。ところが、マルコは僅かなことしか書いていない。多くを省略した証拠だ。例えば、主の家族や育った土地などの記述は、「そのころイエスはガリラヤのナザレから来て」(マルコ1;9)と触れた以外は何一つ残していない。
 主の教えについても、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と書いただけで、福音の中身には全然言及していない。従って、どんな福音かまだ評価ができない状態に読者を置いたままだというのに、「人々はその教えに非常に驚いた」と平気で書いている。マタイやルカとは大違いだ。だから、マルコの福音書は読む人がよくわかるかどうかよりも、彼自身が知りかつ信じている関心事だけを書いた、ある意味では独りよがりで無骨な記録なのだと言える。
 そうであれば、私たちは彼の福音書をイエス様の伝記ではない、少なくとも厳密な意味の伝記ではないと見なければなないだろう。もし伝記だとしたら、書き落とされていることが多過ぎるから、当てにならない伝記だと言うことになる。この評価はこの福音書が、主の教えや事跡を時系列的に知る場合の確かな基準にはならない、という結論も引き出す。では、それにもかかわらず、なぜこの福音書は正典として認知され、どうして基本的な福音書として尊重されているのだろうか? 
 それはまさにそんな無骨で巧まざる記録だからこそ、逆に信憑性のある証言として信用をかち得ているからだろう。そして、何よりもマルコ福音書記者自身がイエス・キリスト様を神の子として、真摯に信じて書いたことがはっきりしているからだと思う。だからこそ、初代教会の生き証人たちはこれを正真正銘の福音書だと認定したのだ。この事実は信仰を「聖書のみ」に依拠するという主張の間違いをも示唆する。聖書の正真正銘性を認定したのは教会で、その逆ではないからだ。
 マルコは主を神の子と信じてその福音書を書いた。それは冒頭の「神の子イエス・キリストの福音の始まり」の一言が雄弁に物語る。この一言があるからこそ、彼がイエス様の生まれも書かず、その説教の内容もまだ明らかにしていないうちに、「人々はその教えに非常に驚いた。イエスが律法学者のようにではなく、権威ある者のように教えたからである」と書いても、私たちは「さもありなん」と納得するのだ。彼と共に、「主は神の子だ」とあらかじめ信じて、彼の福音書を読むからだ。

 では、マルコの福音書が厳密な意味での伝記ではないとしたら、マルコは読者に何を伝えようとしてそれを書いたのだろうか?その答えは、ナザレトのイエス様がキリストであることを証明しようとして書いたということに尽きると思う。だから、彼はその証明に不必要なことはすべて省略したのだ。ナザレトのイエス様が神の子キリストであることを証明し、言明しようとした彼の意図は、その福音書冒頭の言葉だけではなく、洗礼者ヨハネの証言にも汚れた霊の叫びにさえも表れている。
 洗礼者ヨハネは言った。「わたしよりも力ある方が、後からおいでになる。わたしは身をかがめて、その方の履物の紐を解く値うちさえない。わたしは水で洗礼をあなた方に授けたが、その方は聖霊によって洗礼をお授けになる」と。この証言は4福音書がそろって伝えているもので、非常に信憑性が高い。そして、それはイエス様が何者であるかを明確に言明したものだ。主がカファルナウムの会堂で話された時、人々がその教えに驚いて、律法学者たちとは全く違う、権威ある教えだと感じたのはその実現だった。主の出自とかはそこでは重要ではなかったのだ。
 では、その権威は何によって証明されたのか?もちろん、それはまず教えそのものの新鮮さ、見事さによって証明された。おそらく主はマタイが山上の説教として書いたような福音的な生き方を、その安息日の会堂でも話されたに違いない。だから人々はその教えに驚いたのだ。それはマタイにある、「自分たちの律法学者のようにではなく、権威ある者のように教えられたからである」(マタイ7;29)という、まったく同じ評価が何よりの証拠だ。マルコはその説教を省略したのだ。 
 だが、ただ意味もなく省いたのではなかった。彼はイエス様が神の子キリストであることを、それよりももっと強力かつ鮮明に証明するものがあると考えた。だから説教は後回しにしたのだと思う。では、説教よりももっと強力かつ鮮明な証明とはいったい何だったのか?それこそ「この人が命令すれば汚れた霊さえも従う」と人々が驚嘆した権能だったのだ。それは学者がいくら学んでも学問では得られない、物理的な効果を発揮する神与の力、端的に言えば奇跡を行う権能だった。
 だからこそマルコは、主が弟子たちの選出後になさった初仕事として、いきなり悪霊に憑かれた男のことを書いたのだと思う。しかし、それは説教があったからこそ起こったことでもあった。人々はそれを聞いて感嘆したが、その男は悪霊が住みついていたから、その教えに耐えられず叫んだのだ。「ナザレのイエス、わたしをどうしようと言うのですか。あなたはわたしたちを滅ぼすために来られたのですか。わたしはあなたがどなたであるかを知っています。神の聖なる方です」と。
 このように、マルコはイエス様が誰であるかを洗礼者ヨハネの証しによってだけではなく、悪霊の告白によっても証言させた。興味深いのはその悪霊がせっぱつまった己が命運に慄きながらも、「わたしたちを滅ぼすために来られたのですか」と、一悪霊ではなく、複数の「我々」の立場で叫んだ点だ。悪霊に憑かれたこの男の出来事は単なる一エピソードではなく、サタンに試みられた後、主が開始された闇の力との総力戦いにおける最初の対決だったのだ。
 そう見ると、悪魔つきの出来事の記事の位置づけにも納得できるし、主が「黙れ、この人から出て行け」と言われた理由もわかる。古代世界では名を知ることは、その名を持つ者を支配する意味があった。だから、悪霊が「あなたを知っている」と言ったので黙らせたとも解釈できる。しかし、神の子である主にとって悪霊はもはや対等の相手ではなかった。だから、圧倒的優位に立つ勝者として敗者に発言を一切許さず、その男から去れと命じられたのだと見るならば、もっと納得がいく。

 ところで、この章節には実は「悪魔」という語彙は出て来ない。邦訳は原典のプネウマ・アカタルトスを「汚れた霊」と訳した。プネウマは「風、霊」、アカタルトスは「不潔な、汚れた」の意味だからその訳は正しい。しかし、フランシスコ会訳は見出しを「悪霊に憑かれた男」としている。悪霊と悪魔はほぼ同義語だ。従って、その男に住みついていた汚れた霊とは悪魔で、彼は悪魔憑きだったと言っていいと思う。叫んだ内容は悪霊自身の重大事だった。だが、叫んだのは男だった。
 そこで疑問が湧く。それはその男が多重人格のような精神の病に侵されていたから、あたかも悪霊に取りつかれたかのようにそう叫んだのか、それとも霊的存在者として実在する悪魔が彼の中にいたと理解すべきなのかという問題だ。もう一つは、イエス様と使徒たちの時代には悪霊を追い出す奇跡がたくさんあったのに、なぜその後はそういうことが非常に稀にしか起こらなくなったのかという疑問だ。
 まず、その男が多重人格者だったかもしれないという仮定だが、もしそうであって、あたかも悪霊に憑かれたたかのように彼が叫んだのだとしたら、悪魔は実在しなかったことになり、主がなさったことはそういう精神疾患のセラピーだったことになろう。それも一つの解釈だ。現代人はその方が納得するだろう。私もそれを否定しない。古代世界の人々は精神疾患を悪霊のせいにしがちだったから、そういう治癒の中には単なる精神病のケースがかなりあった可能性はある。
 しかし、全部が全部そういうケースで、悪魔憑きなど本当はいなかったということになると、福音書の伝えることは説明がつかなくなる。悪魔を対決すべき実在の相手として語られているからだ。悪魔が単なる想像の存在者なら、福音書の教えを奉じるキリスト教も、存在しない相手と対決するドンキホーテ的な教えになってしまう。しかし、主の福音を心底から信じる者はそういう結論には同意できないだろう。では、悪魔ははたして実在するのだろうか?それはどんな存在だろうか?
 そこでその検証をしようと思ったが、ミサの折に聖書と典礼で次の主日の福音を見たら、そこにも悪霊が出てくることがわかったので、この問題は次週に延期することにし、ここらで今週の考察を締めくくることにした。マルコはイエス様が悪霊に命令された後の結末をこう書いた。「汚れた霊はその人をけいれんさせ、大声で出て行った。人々はみな驚いて言い合った。『これはどうしたことだ。実に権威のある新しい教えではないか。この人が命令すれば、汚れた霊でさえ従う。』」と。
 マルコがこれを書いた意図は、ナザレトのイエス様が並みのラビたちとは違い、権威をもって教えるだけでなく、悪霊をも追放できる力を持った方であることをまず証言し、次にその事実から主の教えが神与の権能に裏打ちされていることをわからせて、人々にこの方こそキリストであると信じさせることにあった。だから彼は人々がまず主の教えを聞いて非常に驚いたことを書いたが、次に悪霊に憑かれた男になさった主の権能を目撃して人々がもっと驚嘆したことを伝えたのだ。 
 そして実際、主の福音は「権威ある新しい教え」として人々に受け止められた。力を伴ったその教えの新しさに彼らは驚嘆したのだ。しかし、主の最大の関心事は人々のそういう反応にはなく、その男を悪霊の束縛から解放することにあった。主にとってはそれが最も大事だった。それはたった一人の男の救いだったが、やがてすべての人を罪から解放する大仕事の始まりだったからだ。そして、弟子たちには、「人を漁る」とはこういうことなのだと、模範をお示しになったのだと思う。
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なるほど!

 書斎の模様替えで物を片づけていたら、小さなメモの紙片が目にとまった。赤ペンで書いてあったので、おやっ?と気付いたのだ。もちろん自分で書いた物だが、見てみたら思い出した。昭和57年7月12日NHKTVで、アナウンサーと先代井筒親方(故鶴ヶ峰)が交わした対談だった。メモをしておく価値があると思ったからメモをとったのだろうが、話題は名古屋場所で、横綱隆の里を破った朝汐(後の大関朝潮、高砂親方)の取り組みについてだった。
「親方、今日の朝汐はどうでしたか?」
「今日の相撲は百点満点でした。」
「昨日までの5連敗が嘘のようですが…」
「朝汐には何か言葉が必要だと思いますね。」
「言葉と言いますと?」
「自分を支える言葉ですね。私はそれを持っていました。私のは勝負師としては恥ずかしいんですけれど、『負けてもいい。いい相撲をとろう』でした。言葉がないと、人間は崩れるんですね。」
 なるほど!
 相撲の世界は入れ替わりが激しいから、書いてもすぐ通じなくなる。だから話の例には取り上げない方がいい。それは私が得た経験知の一つだ。たしかに、鳴門親方(元隆の里)が昨年死に、高砂親方が一昨年、朝青龍の不祥事で降格処分になったことも、世の中からはもうとうに忘却されている。だが、なるほどと頷けた言葉のことわりそのものは残っている。「必要な言葉」とは生き方の芯になる言葉だ。

 そのメモにはもう一つの覚書が並んでいた。思うにその年の名古屋場所の頃だったから、同じメモ紙片を使ったのだろう。それは「大工の哲学」と書かれていて、わが家に来ていた大工さんと私との会話だった。腕のいい職人で、良心的だから増築を頼んだのだが、持ち込まれた柱を見たら、よく削り込んだ一面の中央に、縦に上から下まできれいな切り込みが入っていた。そこで不思議に思った私は尋ねてみたのだ。
「この切り込みは何のために入れるんですか?」
「ああ、それはね、そうしないと外側にひび割れが出るからなんですよ。木も呼吸をしていますからね。」
「でも、この部分は隠れちゃうんでしょう?」
「そうね。大部分はねぇ。でも、見えないところほど大事にしなくちゃ、本物の大工とは言えないんですよ。」
 なるほど!
 見えないところほど大事にしなくては本物にはなれないということわりは、他のすべてにも通じると思った。仕事にも、ボランティア活動にも、聖書の勉強にも、交友関係にも、家庭生活にも、心の中のあり方にも、そして全人生にもそれは言える、と。
 そう言えば、カンドウ神父(刈田 澄)の「世界のうらおもて」という本に、こんなことが書いてあったなぁと思い出した。ある聖堂の高いところに上ったとき、そこに細微を尽くした彫刻があった。そこで、ある訪問者が質問した。「下からはここがほとんど見えないのに、こんなに細かい仕事をしても無駄だったのでは?」と。すると案内人が答えたそうだ。「神様が上から見ておられます」と。
 なるほど!
 そこにも見えないところを大事にする人の心意気があった。もっとも、神様には見えないところも、忘却も一切ないが…

主の足取りと弟子作り

 「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラに行き、神の福音を宣べ伝えて仰せになった。『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。』
 イエスはガリラヤ湖のほとりを通られたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは仰せになった。『わたしについてきなさい。人を漁る漁師にしよう。』すると、二人はただちに網を捨てて、従った。」
 これは年間第3主日の福音マルコ1;14-20の前半部分だ。この章節はイエス様が悪魔との対決の後、ユダヤからガリラヤに戻って、福音宣教を開始なさったことと、4人の漁師に声をかけて弟子作りをなさったことを伝えている。ここを読むと、いくつかの疑問やコメントしたい事柄がある。しかし、私の興味を一番そそったのは、主が「人を漁る漁師にしよう」と言って4人を弟子に選ばれた時点のことだった。厳密にはそれはいつだったのだろうか?
 なぜそんな疑問が湧いたかというと、マルコはイエス様が4弟子を選出なさった時点を洗礼者ヨハネの逮捕後だったと書いたが、ヨハネの福音書によれば、彼はイエス様がガリラヤに戻られた時点ではまだ捕えられておらず、その後もしばらく活動していたことがわかっているからだ。従って、「わたしについてきなさい。人を漁る漁師にしよう」と言われた出来事は、主のガリラヤ帰郷後すぐではなかったことがわかる。では、本当はどの時点で言われたのだろうか?そういう疑問だ。
 そもそもイエス様と弟子たちとの師弟関係はすでに「ヨルダン川の向こう側」でできていて、ガリラヤで出会ったからではなかった。それは前回の「神の小羊」の考察で言及した通りだ。だとすれば、ガリラヤ湖畔で「わたしについてきなさい」と言われたのは、師弟関係を初めて結ぶためではなく、その再確認と同時に何か目的があったからだと思われる。この仮定に立つと、そう言わなければならなかったタイミングはガリラヤ帰郷後すぐではなく、もっと後でよかったことになる。 
 いや、もっと後でよかったと言うよりも、もっと後だったに違いないと言うべきだろう。その時点では洗礼者ヨハネはまだ活動していたからだ。ヨハネの福音書は主がガリラヤとユダヤ間を3往復した記録を残している。ならば、その出来事は何回目のガリラヤ滞在時にあったのだろうかと言う問いに狭められる。共観3福音書はそれを主の福音宣教のごく初期に置いているが、おそらくヨハネが後に補足したその時期の多くのことは省略していたのだと思う。その典型がマルコだ。
 そこで私はその答えを出すために、まずイエス様の足取りをたどることにする。それが明らかになれば、「わたしについて来なさい」と言うのに一番該当していたと思われる時点がいつだったか、見極められると思うからだ。主の足取りはヨハネの福音書を基準とする。主の活動が複数年だったことを証言しているのは同福音書しかないからだ。もちろんその記録に信憑性があることを前提にしてだが、それによれば主の足取りと洗礼者ヨハネ関連の記述は次のように洗い出せると思う。

【イエス・キリスト様の洗礼からご昇天までの足取りと、洗礼者ヨハネ関連の注目すべき記述要約】
ヨルダン川の向こう側へ:ヨハネ1;26-28
↓      ヨハネ1;29-34 イエス様、ベタニアで洗礼者ヨハネから洗礼を受ける。
       ヨハネ1;35-42 神の小羊と言われた後、3人がイエス様の弟子のようになる。
ガリラヤへ:ヨハネ1;43-51 フィリポとナタナエルが弟子のようになる。
↓      マタイ4;1-11、ルカ4;1-13 おそらくガリラヤへ帰郷の途中、しばし試みの荒野に滞留
       ヨハネ2;1seq. カナでの婚礼に出席して「最初の徴」をなさる。弟子たちも同席
エルサレムへ:ヨハネ2;13seq. ユダヤ人たちの過越し祭。神殿で商人たちを放逐
↓      ヨハネ3;1-21 ニコデモとの対話
ユダヤ地方へ:
↓      ヨハネ3;22 イエス様の弟子たち、人々に洗礼を施す。
       ヨハネ3;23 洗礼者ヨハネはサリム近く、ヨルダン川中流のアイノンで洗礼活動。         
       ヨハネ;3;27-36 洗礼者ヨハネの考え方と弟子たちへの答え。          
ガリラヤへ(2度目の滞在): 
↓      ヨハネ4;1-6 ヨハネ教団より洗礼が多いと知って、サマリア経由でユダヤを去る。       
       ヨハネ4;44-50 ガリラヤに着き、人々に歓迎される。
       ヨハネ4;50 再びカナへ。役人の息子治癒の奇跡。 カファルナウムへ(=ルカ7;1-10) 
                洗礼者ヨハネが捕えられたのはこの頃だと推定される。
       マルコ1;14   弟子4人の選出はこの時点だったと推定できる。(=マタイ4;18-22)
エルサレムへ(2度目の都行き):
↓      ヨハネ5;1-18 ベテスダの池で病人治癒
       ヨハネ5;33-36 ご自身についての証しで、洗礼者ヨハネに言及
        「ヨハネは、燃えて輝くともしびであった。」(5;35)「ヨハネの証しに勝る証し」(5;36)
ガリラヤへ(3度目の滞在):
↓      ヨハネ6;1seq. パンの奇跡。12弟子が手伝って働いた。
       ヨハネ7;1seq. ガリラヤ巡回
↓エルサレムへ(3度目の都行き):ヨハネ7;10-10;39
↓ヨルダン川の向こう側へ(2度目の立ち寄り):ヨハネ10;40-11;16
↓ユダヤのベタニアへ:ヨハネ11;17-54
↓エフライムへ:ヨハネ11;54-56
↓ユダヤのベタニアへ(2度目の立ち寄り):ヨハネ12;1-11
エルサレムへ(4度目の都行き):ご受難と復活 
↓      ヨハネ12;12-19 エルサレム入城
       ヨハネ12;20-50 エルサレムでの教え
       ヨハネ13;1-17;26 最後の夜
       ヨハネ20;1seq. 復活
↓ガリラヤへ:ヨハネ21;1seq. ティベリアスの湖畔で弟子たちと再会
↓天へ:ルカ24;50-51

 以上がイエス様の洗礼からご昇天までの足取りと、洗礼者ヨハネ関連の注目しなければならない記述だ。ついでだから最後の最後まで主の足取りをたどってみたが、マルコ1;14にある弟子4人の選出問題で実際に関係があるのは、ヨハネ3;23-36以後とヨハネ5;33-36以前に絞られる。なぜなら、前者は洗礼者ヨハネがまだ活動していたことを伝えているし、後者はイエス様が彼のことを、ガリラヤから去った後のエルサレムで、過去形で話された章節だからだ。
 つまり、彼がまだ活動していたのなら、まだ捕えられていなかった証拠で、弟子4人の選出もまだだったはずだし、過去形で称賛されているのなら、捕えられたか殺されたかを示唆しているから、弟子4人の選出はその頃のガリラヤ滞在中と見ることができる。だとすると、それヨハネ3;23-36と同5;33-36の間に限定されるので、それ以外はもう考察の対象から外してよく、後はその2箇所間のどこであったかを特定すればよいと言うことになるからだ。
 では、その2個所がどういう章節かをもう少し詳しく見てみよう。その章節は注目に値するから文字を赤くしたが、まずヨハネ3;23-36はイエス様が弟子たちと共にユダヤで洗礼を授け、洗礼者ヨハネもサリム近くのアイノンで洗礼を授けていたことを伝えている箇所だ。そこにははっきりと、「ヨハネはまだ牢獄に入れられていなかったのである」(34節)と書いてある。つまり、彼の健在が確認される最後の記述だ。従って、彼が捕えられたのはそれから間もなくだと推測できる。
 興味深いのはその時、彼の弟子たちが「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと共にいた人、あなたが証しをなさったあの人が、何と、洗礼を授けています。そして、みながあの人の所に行っています」と告げたことだ。それは両集団が競合し、若干の摩擦があったことを暗示している。「あの人」とはイエス様のことで、彼らは相手の勢いが盛んなのを妬み、師に何とかしてほしくてそう言ったのだろう。だが、洗礼者ヨハネは彼らを諭して、「わたしはメシアではない。その方の前に遣わされた者である。…あの方は栄え、わたしは衰えなければならない」と教えたのだった。立派だった。従って、この時点では洗礼者ヨハネがまだ健在で、使徒4人の選出もまだだったことが確認できる。

 そうなると次のステップが鍵となる。ユダヤでの洗礼活動の後、主はガリラヤに戻られた。2度目だ。それはご自分の方がヨハネより多くの弟子を作り、洗礼を授けているという噂がファリサイ派の耳に入ったと知ったからだが、本当はヨハネ教団との摩擦を避けるためだったと思われる。ヨルダン川沿いの道を避け、サマリア経由で帰られたのもそのためだっただろう。サマリアの女との出会いがあったのはその時だが、2日後にはガリラヤに着いて、人々から歓迎を受けられている。 
 従って、4人の選出はどうやらこのガリラヤ滞在中に絞られてくる。しかし、すぐに行かれたのは湖畔ではなく、カナだった。そこではカファルナウムの役人に息子の病気の治癒を懇願され、彼の家に着く前に息子が治った「第二の徴」を行われている。「下って行く途中」に息子が治ったという知らせが来たとあるから、主の一行はカファルナウムに向かっていたわけだ。マタイやルカでもこの奇跡は若干相違があるもののほぼ共通していて、カファルナウムで行われたとしてある。
 ガリラヤ湖岸の町カファルナウムは主の福音宣教の拠点だったから、主はしばらくそこにおられたと思う。ルカは主がそこでシモン・ペトロの姑の高熱を下げたことを記録し、その後の奇跡的な漁で、彼に「恐れることはない。今から後、あなたは人を漁るようになる」と言われたと書いている。それはマルコ1;14の「わたしについてきなさい。人間を漁る漁師にしよう」と同じ出来事だから、4弟子の選出はヨハネ4;43-54にある2度目のガリラヤ滞在の後半だったと特定してよいと思う。
 しかしこの解釈だと、例えばルカの福音書なら、百人隊長の僕の治癒と奇跡的な漁の順序が前後してしまうなどの問題は起こる。しかし、そもそも出来事の順序では4福音書は必ずしも一致しているわけではない。主の祈りなどもそうだが、弟子の選出についても共観3福音書の位置づけは一致していない。従って、ヨハネの福音書を基準にした主の足取りの中で、それが行われた時点を2回目のガリラヤ滞在中だったと、根拠を示して特定したことは筋の通った結論だと言ってよいと思う。

 さて、もう一つの章節ヨハネ5;33-36はその結論を補強する記述だ。なぜなら、それは4弟子の選出がそれ以後ではありえなかったことを証明して退路を断つからだ。2度目のガリラヤ滞在後、イエス様はひそかにそこを去って、エルサレムに行かれた。2度目の都行きだった。主はベテスダの池で病人を治癒なさった後、神の子としてのご自分の権能について話された際、洗礼者ヨハネに言及して、「ヨハネは、燃えて輝くともしびであった」と称賛された。ヨハネ5;35はその時のお言葉だ。
 ところで、このお言葉が注目に値するのは、洗礼者ヨハネがまだ活動中かどうかにはまったく触れず、彼を「燃えて輝くともしびであった」と過去形で称賛されたことだ。共観福音書は彼の死を語る(マタイ14;1-12)が、ヨハネの福音書は伝えない。ただ、10;40-42で「ヨハネは何の徴も行わなかったが、ヨハネがこの人について語ったことは、すべて真実であった」と書いたのを最後に、彼への言及がなくなる。ヨハネ5;33-36以後の彼は過去の人と見なされていたからだろう。
 では、なぜそれが4使徒の選出を2度目のガリラヤ滞在の後半だったとする結論の補強になるのだろうか?そのわけは、イエス様が彼を過去の人としてエルサレムで称賛なさったのならば、4使徒の選出は絶対にそれ以前だったことになるからだ。つまり、「ヨハネが捕えられた後」、4弟子がガリラヤ湖畔で「人を漁る漁師にしよう」(マルコ1;14、17)と言われたのなら、それはエルサレム行き前の2度目のガリラヤ滞在中でしかあり得なかったと結論できるからに他ならない。

 4弟子がどの時点で選出されたかはこれでわかった。しかし、ここで疑問が湧く。すでに考察したように、少なくとも4人のうち3人は「神の小羊」と聞いたヨルダンの向こう側で、イエス様と師弟関係になっていたはずだ。では、もう弟子になっていた彼らに、なぜイエス様はしばらく時が経ってから、「わたしについて来なさい」と言われたのだろうか?彼らはまだ本当の弟子ではなかったのだろうか?それとも何か別に目的があって主はそう言われたのだろうか?そういう疑問だ。
 その疑問を解く鍵は「人を漁る漁師にしよう」の一語にあると思われる。彼らはすでに弟子だった。しかし、初めは「来なさい。そうすればわかる」(ヨハネ1;39)と言われてついて行き、いわば押し掛け的に自称弟子になっていたのではなかろうか。つまり、まだはっきり弟子と認定された弟子ではなく、ゆるい師弟関係にあり、いっしょに移動もし食べもしたが、必ずしもいつも共にいたわけではなかった。ペトロとアンドレ兄弟やゼベダイの息子たちが漁をしていたのがそのよい証拠だ。
 しかし、イエス様はある時点から、彼らを本格的な弟子にしようとお考えになったのだと推察する。今風に喩えて言えば、それまでの彼らはついて来てもいいし、家で働いていてもいいボランティアみたいな弟子だったが、今後は正社員的な働きをする常勤の弟子にしようとなさったのだ。それがそれまでのように気ままではいられない使徒という職務だったのだ。そういう明確な使命を担う弟子とするため、主はご自分の方から「わたしについて来なさい」と要求なさったのだと思う。
 そして、それがわかったからこそ、彼らは命から2番目に大事だった舟と網を捨てて従ったのだ。それは魚を漁る専業漁師から、人を漁る専業漁師への転職だった。主がついて来なさいと言われなくてもついて歩いていたボランティア的な弟子は大勢いただろう。しかし、主はその中からまず4人を、そして次第に12人までを常勤の使徒に選ばれたのだった。彼らはすでにボランティア的な弟子だったが、「ついて来なさい」との主の招きに応じたのだ。それは彼らの身上を変えた。
 従って、この時の「ついて来なさい」と言われた呼びかけは、彼らと初めて会って、いきなり弟子にする働きかけではなかった。そうではなく、すでに弟子だった彼らとの師弟関係を再確認しながら、彼らに使徒と言う明確な任務を託すための選び出しだったのだ。そして、それが以後、彼らを弟子の中の弟子、特別に選ばれた弟子としたのだった。ルカは「その後、主は七十二人を指名し」(ルカ10;1)と書いているが、これらの弟子は福音宣教という使命を与えられた弟子たちだった。
 すでに考察したように、4人の使徒の選び出しが主の2度目のガリラヤ滞在中だったとしたら、なぜ主がその時に弟子たちの中から専従の使徒を置こうと考えられたのだろうか?私にはそのヒントがサマリアでのお言葉にあるように思える。サマリアの女が走り去った後、弟子たちが「ラビ、召しあがってください」と食事を差し出した時、主はこう言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方のみ旨を果たし、その方の業を成し遂げることである。あなたがたは、言うではないか。『刈り入れまではまだ四カ月ある』と。だが、わたしはあなた方に言う。目を上げて畑を見なさい。畑は刈り入れを待って色づいている」(ヨハネ4;34-35)と。
 そして、72人を指名し、町や村に行かせたときはそれと響き合う言葉で、「刈り入れは多いが、働く者は少ない。だから、刈り入れのために働く人を送ってくださるよう、刈り入れの主に祈り求めなさい」(ルカ10;2)と言われた。「畑は刈り入れを待って色づいている。」その時が来たから、主はサマリア経由で帰った2度目のガリラヤ滞在中に使徒を選び始められた。そう見ると、マルコ1;17の「わたしについて来なさい。人を漁る漁師にしよう」の誘いはタイミングがぴったり合う。
 それにしても「人を漁る漁師にしよう」とは何と見事な言い方だったことか!神の御子だから当たり前と言えばそれまでだが、人間的に見て殺し文句の最高傑作だと感じ入ってしまう。素朴なガリラヤの漁師だった彼らは難しい理屈や言葉なら無反応だっただろうが、人を漁る漁師とは実にわかりやくて、聞いたらパッとわかっただろう。自分の一番の関心事である漁が、全く新しい次元の仕事として示されたからだ。人々を導く者はこういうものの言い方のセンスを持ちたいものだ。

レンブラント風に見る聖誕の情景

 マタイによる福音書2;1-12は占星術の学者たちが、東方から幼子イエス様を訪ねた章節だ。昨日1月8日は主の公現で、そこが読まれた。この章節はもう何度も取り上げた。だから、もう書くこともなさそうに思えて、私はあまり気乗りがしなかった。それでも読むだけは読んでみようと気を取り直し、原典と4か国語の翻訳で該当箇所を読み直してみた。すると、叩けば出る埃のようにやはりあるものだ。今まで気付かずにいた疑問がいくつか出てきて、我ながら驚いた。発見もあった。そこで、まず疑問点から取り上げてみる。

 疑問1:ヘロデ王が東方から来た学者たちの話に、なぜ祭司長たちや律法学者たちを皆集めるほど不安を感じたのだろうか?学者たちが言った言葉は、日本人の常識だと取り立てて騒ぐほどのことではないように思える。しかし、ヘロデにとっては違った。新共同訳は「ヘロデ王は不安を抱いた」と訳しているが、フランシスコ会訳は「ヘロデ王はうろたえ」と訳し、バルバロ訳は「大いにうろたえ」としている。原典ギリシャ語はetarakthe(狼狽させられる、心をかき乱される)だから、不安よりもずっと強い。「うろたえ」の方が近いと言える。
 では、何が王をそんなにうろたえさせたのだろうか?昨年の「聖誕伝承考」では、そのとき彼には王子が生まれていなかった事実と、彼がユダヤ人ではなくイドメア人であったことを理由に挙げた。しかし、その狼狽ぶりはそれだけでは説明がつかない。思うに、真の理由は「その方の星」と「拝みに来た」という二つの言葉を聞いたショックにあったのだ。なぜならそれはメシアを意味していたからだ。つまり、もしもユダヤ人たちが待望しているメシアが生まれたのなら、ユダヤ王たる自分の立場が危ないと直感したからだろう。
 邦訳は「その方の星」としているが、それは「彼だけの彼の星」を意味する。昔の人々は、人にはそれぞれ運命の星があると信じていたが、東方でも一際目立って、学者たちをユダヤにまで来させるほどの星は、人々が伝え聞いて来たメシア誕生の星以外にはない。それに「拝みに来た」と言うのはそれを裏付ける。単なる王子なら、人は祝いの挨拶には来ても、拝むことはない。なのに学者たちが拝みたいと言うのはメシアだからだ。ヘロデ王はとっさにそう理解した。だから彼はうろたえたのだ。そして、学者たちがメシアと言う言葉は口には出していなかったのに、祭司長たちや律法学者たちにはためらうことなく、「メシアはどこに生まれることになっているか」と問いただしたのだ。

 疑問2:よく「博士たちは星に導かれた」と聞くが、ほんとにそうだったのだろうか?彼らがヘロデの王宮を出た後の星は「先だって進み」とあるから、その時は導いたと言っていいだろう。しかし、エルサレムまでは星が彼らを導いたとは書いてない。彼らが「東方でその方の星を見た」とあるだけだ。そもそも星が道案内をしたというのなら、彼らは夜しか歩かなかったことになる。夜間に歩いたこともあっただろうが、ほとんどは星の見えない昼間に歩いたのではなかろうか。
 彼らがどこから来て、どのくらいの距離を歩かなければならなかったかはわからないが、もしも歩いたのがほとんど昼間だったとすれば、彼らはその星に導かれてエルサレムまで来たのではないと結論するしかない。では、どうして来られたのか?東方でその星を見た時、もうこれはエルサレムに決まっていると考えたからだろう。私は一昨年の「聖書自問自学」に、彼らが王宮に行ったのは星を見失ったからだろうと書いたが、それは間違いだった。その解釈は撤回する。

 疑問3:これも重箱の隅をつつくような些細な疑問だが、彼らがヘロデの王宮から出ると、「東方で見た星が先だって進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった」とあるのは、どう解釈したらいいのだろうか?これには二つの仮説を前提にして考える必要があると思う。一つは実際に星が先導したという仮説、もう一つは星が比喩的な意味で語られたに過ぎないという仮説だ。そして、前者の場合は、星がそんなにピンポイントで地上の場所を示せるかという疑問が派生する。 
 その星が実際に現れて導いたと解釈する場合、学者たちは王宮を夜間に出発したことになる。昔は街灯どころか、町に灯りすら少ししかなかった時代だ。道も狭くよくなかっただろう。エルサレムからベトレヘムまでは10㎞以上ある。シエラレオネの人たちなどは暗闇の道を夜すたすた歩くから、昔の人たちも同じにしていたかも知れないが、夜の出発は不自然な気がしないでもない。王なら王らしく、「明日出かけなさい」ともてなして、鷹揚に言ったのではないかとも思われる。
 しかし、福音書の語り方は夜の出発だったとしか読めない。それはその星が彼らに幼子の居場所を教え、その上に止まるためには、夜でなければならなかったからではなかろうか。夜が明けてからの出発では、星は見えないからだ。ここで、星がこの章節でいかにシンボリックであるかがわかる。それは学者たちに、「メシアはお生まれになった。」「メシアはここにおられる。」「この方がメシアだ」ということを、言葉以上に雄弁な輝きで天から語りかけた音信だったのだと思う。
 夜の出発だったら、昨年の「聖誕伝承考」で想像したように、王宮に集まった律法学者たちのうち、メシアの誕生に興味を持った若手の者が道案内をしたかも知れない。東方からの学者たちと違って彼らなら土地勘があるから、暗い悪路の10数キロも3,4時間かければ、星明りのもとベトレヘムまで連れて行けた可能性はある。しかし、聖家族はベトレヘムの街中の宿屋にも民家にもいなかった。どうして幼子の居場所を知ることができたのだろうか?
 人は星がその場所の上に止まったからだと言うだろうが、考えてみれば、それは無理だとわかる。星の下のベトレヘムには多くの家があった。例えば、その家はあの凧の下にあると言われても、どれか判然としないだろう。ましてや高い天の星だ。模型ヘリコプターみたいに降りて来て、その家の真上にピタッと止まれば別だが、さもないとわかるわけがない。ここはまさに象徴として、「メシアはこのベトレヘムにお生まれになった」と証言するために書かれたと解釈すべきだろう。
 ならば、彼らは幼子の居場所をどのようにして知ることができたのだろうか?またもや想像だが、私は彼らが羊飼いたちに聞いたとすれば、可能だったのではないかと思う。過日書いたように、もし羊飼いたちが2回3回と聖家族を訪問していたとするならば、幼子の居場所を知る羊飼いたちはかなりいただろう。夜道で町の人に出会うことはなかっただろうが、野宿をしていた彼らなら見かけた可能性はかなり高い。そこで彼らに道を尋ね、幼子の居場所も教えてもらったという推理だ。
 そうなると、学者たちが「その星を見て喜びにあふれた」のは、星によって幼子の居場所がわかったからではないということになる。彼らはその星が止まったので、幼子が確実にその下にいるとわかったことを喜んだ。しかし、幼子のいた家が星のおかげでわかったわけではないと思う。その家を特定できたのは①一軒一軒聞いて回った、②天使に教えてもらった、③羊飼いに教えてもらったという3ケースが考えられるが、私は③が一番ありうると推理しただけだ。
 では、星は比喩的な意味で語られたに過ぎず、実際の天体としては現れていなかったという仮説はどうだろうか?私はそれを支持しない。ある人は言う。学者たちはメシアの誕生を星ではなく、何らかの情報で知った。星とは心にあった希望のことだ。だからエルサレムに来た。そして、それがベトレヘムだとわかったので、そこへ行った。星の再出現はより確かな情報が入手できたので喜んだのだ、と。そういう解釈もあり得よう。しかし、星の出現がメシア誕生の大事な象徴であることを考えると、実際の星がない聖誕説話はインパクトも輝きも失い、つまらない話に堕してしまう。それは福音史家の意図ではなかったはずだ。やはり星は実際の星と見なすのが正論だろう。
 いずれの仮説をとるにせよ、そこに共通に言えることがある。彼らが星から学んだことだ。王宮から出て、東方で見た星がまた現れたのを見たとき、占星術の学者たちは自分たちが訪ねるべき正しい場所を訪ねてはいなかったと思い知ったに違いない。メシアには王宮に行けば会えると思ったが、そんな人間の常識は間違いだったのだ。拝むべき方は世の富や栄華に満ちた王宮などにはおられないことにも気付いただろう。それは彼らに神の真の探し方を示唆していた。

 疑問4:彼らは家に入った時、すぐ聖母子を見ることができたのだろうか?裏返せば、それはその家には何らかの明かりが灯っていたのだろうかという疑問でもある。文明社会の現代人は光が四六時中ある社会にいるから、漆黒の闇を知らない。だが、大自然の中では違う。明かりがなければ真っ暗で、何も見えなかったはずだ。この主日にはイザヤ60;1-6も読まれたが、「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」とある。この表現はまさに人々の実感だったのだと思う。
 ところが、「家に入ると、幼子は母マリアと共におられた」とあるのだから、彼らはそこにおられた聖母子をすぐ見たことになる。と言うことは家には何らかの明かりがあったことを意味する。ルカは幼子が飼い葉桶に寝かされていたと書いているから、そこは家畜小屋か夜や風雨の時など家畜を避難させる洞穴だったようだ。しかし、マタイは「家に入ると」と書いているから、人家か小屋だったのだろう。聖家族はよりましな住環境の場所へ移ったのだと思われる。
 しかし、電気も蝋燭もなかった時代だ。当時は普通なら油壺に灯心を入れて燃やす灯明を使ったが、聖家族にはそれが手に入っていたかどうか。油は高かったから、明かりは焚火だったかも知れない。むしろそれが一番あり得たようにも思える。マッチなどなかった当時だ。灯心だと一度消せば、次の点火が大変だっただろう。だが焚火なら長く火を保てるし、明かりにもなり、暖も取れ、野獣を防ぐにも良い。昼間枯れ枝を集めておけばお金もただだし、まさに一石五鳥だったからだ。
 赤子の首がすわるまで、聖家族はまだしばらくそこにいなければならなかっただろうから、ヨセフ様は母子の安全や健康、お金の節約も考えて、おそらく焚火を絶やさなかったのではなかろうか。そんな夜に訪問者があった。東方からの学者たちだった。ヨセフ様は応対に出て、彼らを案内して家に入れた。だから、学者たちには幼子と母マリアが共におられるのが見えたのに、ヨセフ様は彼らの視野には入らなかったのだ。彼らと並んで立っておられたからだ。

 そこで、疑問5が湧く。彼らはそんな場所にいた幼子が、どうしてユダヤ人の王として生まれたメシアだとわかったのだろうか?つまり、羊飼いたちには天使の出現と、布にくるまって飼い葉桶の中にいる赤子というしるしが与えられたが、学者たちにはどんなしるしが与えられていたのだろうかという疑問だ。しるしの一つには、東方で見え、ベトレヘムの上で止まった星があった。しかしすでに述べたように、それだけでは曖昧だった。では、その他のしるしもあったのだろうか?
 福音書にはそれについては何も書かれていない。しかし、もし場所の特定が羊飼いたちに尋ねて確実になったのなら、学者たちは天使の出現や布にくるまっていたこと、清らかな聖母と誠実な聖ヨセフの特徴なども聞けたと想像できる。もしそうだったとしたら、彼らは訪ねてみて、探し求めていたのはこの幼子に間違いないと確信できたに違いない。だから、彼らは薄明りの中で幼子を覗かせてもらい、ひれ伏して礼拝した。そして、贈り物を捧げたのだ。
 その弱い光では、献上物の黄金もあまり輝いては見えなかっただろう。しかし、この弱い明かりはそこにあった目に見えない驚くべき光に気付かせてくれる。「初めに言があった。…言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中に輝いている」と言われたその光だ。それがそこにあったのだ。そして、その礼拝者にはその光から分けてもらえる心の明かりが灯った。幼子を伏し拝んだ学者たちもそれをもらい、真っ暗な別の道を通って帰国したのだと思う。 

 そのことから私はこの章節を今までとは違う見方で読めることを発見した。それはマタイ2;1-12を逐次字面を追って均等に読むのではなく、レンブラントの絵の手法のような見方で読むということだ。この大画家は、その絵の中で見る人の目を一番引きつけたい部分に光りを当てた手法で知られる。では、レンブラント風に見た場合、マタイはこの章節のどの場景に最も光を当てようとしたのだろうか?
 そういう問いを持って読むと、それは間違いなく11節前半の「家に入って見ると、幼子は母マリアと共におられた」という言葉だとわかる。そして、一番光が当てられている箇所がそこだとわかると、マタイの聖誕物語の中心に据えられているのは伝説部分ではなく、救い主が生まれたという事実であることもわかる。それに気付くと、人は静かな驚きを覚え、この短い一節の存在感が輝きを放っているようにも思えて来るのではなかろうか。 
 確かにそれに先行する1-10節は人々の動きや話し声に溢れ、騒然として劇的だ。東方の学者たち、星を見た話、ヘロデ王の不安、王宮に来た祭司長や律法学者たち、王と彼らの問答、学者たちの出発、星の再出現等が絡み合う。他方11節後半の宝箱から贈り物を捧げる場面はきらびやかだ。しかし、全体から見ると、それらすべては「家に入って見ると、幼子は母マリアと共におられた」という情景に読者を導き、その場面を引き立てるためのお膳立てに他ならないことがわかる。その前後は、レンブラントの絵で言えばまわりの暗い部分と同じなのだ。
 わかってはいたつもりだが、恥ずかしいかな、私はその11節前半の大事さに今までそれほど注意を払って来なかった。だが、そこにこそマタイがこの章節で伝えようとした、「メシアはお生まれになった。それは赤子として母マリアと共におられた。これは真実だ」という、最重要なメッセージがある。極論すればその他はどうでもいいのだ。その家で幼子を照らしていた自然の光は微弱だった。だが、その幼子が闇を照らす光りは無限だった。そこに聖誕の真の情景がある。

後記:
1月10日に掲載したが、わけあってそれを抹消、本日再掲載した。

神の小羊

 1月15日の日曜日から年間の主日になる。降誕祭前後や復活祭前後のような、谷あり山ありの変化のある期間と違い、平坦な旅路に戻るようなものだ。この機会に、聖書の引用はフランシスコ会訳に替える。昨年のクリスマスプレゼントに家内からもらったものだ。今のところ満足できる訳だと思っている。出エジプトの旅程やイエス様の巡回ルート、度量衡等の付録もあって便利だ。ただし、ナザレトやベトレヘムの発音等では、この方が正しい発音だと思っているから同調しない。

 ところで、年間第2主日の福音はヨハネ1;35-42で、「最初の弟子たち」の見出しで括られている。確かにそこにはやがて使徒となる5人が出てくる。ペトロ、アンデレ、フィリポ、ナタナエル、ヨハネだ。ナタナエルは共観3福音書にあるバルトロマイのことだと言われる。バルトロマイとはトロマイの息子という意味だから、ナタナエルが本名だったのだろう。彼はフィリポと仲良しだったらしく、共観3福音書のリストでは必ず隣り合わせだ。これからしてもナタナエルとバルトロマイは同一人物だったと見てよかろう。もう一人の弟子は名が書いてないが、この時のことを語ったヨハネ自身だ。
 そこで人は気付く。共観3福音書は彼らがイエス様と初めて出会った場所をガリラヤ湖畔だったように書いているが、実はもうそれ以前に洗礼者ヨハネのいたヨルダン川東岸のベタニアで出会っていたのだ、と。そして、そうだったのなら、ガリラヤ湖畔で再会し、「わたしについて来なさい」と言われて、ただちに網を置いて従ったことに納得が行く。全く見知らぬ人からいきなりそう言われたのだったら、そんな従い方をするわけがないが、待ち望んでいた再会ならもっともだからだ。

 この最初の出会いとガリラヤでの再会についてもう少し考えてみる。主が洗礼を受けた翌々日、洗礼者ヨハネは2人の弟子と共にいて、イエス様が歩いておられるのを見ると、「見るがよい。神の小羊だ」と言った。それを聞いたアンデレと後の使徒ヨハネと思われる2人の弟子はイエスの後をつけた。もちろん、師であった洗礼者ヨハネには「ついて行ってみてもいいですか?」と願っただろうし、師は思う所があったから許可しただろう。むしろ彼らの背中を押した感がある。
 イエス様の後を歩いていた2人は、「何を求めているのか」と聞かれると、「先生、どこにお泊りですか」と尋ねた。そして、「来なさい。そうすればわかる」と言われ、その日は主のところに泊まった。泊まったところがどこだったかはわからないが、洗礼の場所からそう遠くなかったことは間違いない。洗礼が前々日だったのに、翌日またその辺りに来られたのだからだ。寝泊りは粗末な仮小屋でしておられたとか、洞窟におられたとかの諸説がある。
 時刻は午後4時(ユダヤ時間の10時)ごろだった。ここで注目すべきは時間そのものではなく、そこに泊めてもらったのだから、翌朝まで十数時間もあったことだ。その間に何も話さなかったことはあり得なかっただろう。夕食も一緒だったかも知れないが、夜は外でイエス様と並んで座り、満天の星を見上げながらいろいろ質問し、いろいろと話してもらったに違いない。主が何を話されたかはわからないが、彼らはそれに深い感銘を受け、イエス様こそメシアだと確信したに違いない。
 だから興奮さめやらず、翌日戻って来てシモンに会うやいなや、「わたしたちはメシアを見つけた!」と言ったのだ。これを見ると、シモンも洗礼者ヨハネのもとに来ていたことがわかる。アンドレはすぐ彼をイエス様のところへ連れて行った。すると、主はシモンを見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、これからはケファ -訳すと『岩』- と呼ばれるであろう」と言われた。初対面なのにそう言われたシモンはびっくりし、感激もしたことだろう。そして、いろいろと話を聞き、アンドレが言ったことは本当だった。この方はメシアに違いないと確信したのではなかろうか。
 そういう出会いがすでにあったからこそ、ガリラヤに戻ってから湖畔で再会しとき、「わたしについて来なさい」と言われて、すぐに従えたのだ。彼らの心にはすでに「あの方について行きたい」という強い願望が芽生えていた。だからもうイエス様の「来なさい」の一言を待っているだけだったのだ。現代風の就職に喩えれば、洗礼があった荒野での最初の出会いと会話は、いわば面接兼採用内定のようなもので、ガリラヤでの声掛けは使徒として本採用されたようなものだと言えよう。 

 イエス様にとってもシモンと出会ったことは大きかった。彼は後にペトロと呼ばれるのが普通になるが、その名は主がつけたこのケファというあだ名で始まった。それはアラム語で「岩」を意味し、ヘブライ語ならケイファとなる。ペトロとはそのギリシャ語訳ペトロスから来た呼び方だが、パウロは通常彼をケファと呼んでいた(ガラ2;11)。主がその名を与えたわけは、後に「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てる」(マタイ16;18)と言われたお言葉で意味が鮮明になった。
 ちなみにちょっと脱線だが、原典でも各国語訳でも、アラム語またはヘブライ語の語彙に対する注釈がここほど多い箇所はない。ヨハネの福音書原典はギリシャ語だが、ギリシャ語の読者にはアラム語やヘブライ語がわからなかったからだ。注釈のある語彙は全部で3つある。ラビ(先生)、メシア(油を注がれた者)、そしてケファだ。ところが、ヘブライ・アラム語訳ではそれがない。当然のことだが、注釈なしでもわかる人たちばかりだからだ。というわけで、原典にある注釈がこの翻訳福音書に限ってはなくなり、どちらが原典だかわからないような珍現象が見られる。

 それにしてもイエス様は何の用で、前々日洗礼を受けた場所にまた行かれたのだろうか?まるで洗礼者ヨハネの弟子たちを引き抜くために行かれたように思える。その真偽はともかく、実際はそうなった。彼の弟子たちの何人かが主の弟子になったからだ。洗礼者はむしろそれを見越しながら、「見るがよい。神の小羊だ」と、あえて彼らをイエス様に注目させたように見える。そうだったのだろうか?然り、まさしくそうだったのだ。後に起こったある出来事での会話でそれがわかる。 
 それはあるユダヤ人と彼の弟子たちとの間に清めのことで論争が起こった(ヨハネ3;24-30)時のことだ。彼の弟子たちが「ラビ、あなたが証しをなさったあの人が、何と、洗礼を授けています。そして、みんながあの人の所へ行っています」と知らせたのだ。すると彼は答えて、「天から与えられなければ、人間は何一つ受けることはできない。『わたしはメシアではない。その方の前に遣わされた者である』とわたしが言ったことを証しするのは、あなた方自身なのだ。…あの方は栄え、わたしは衰えなければならない」と諭した。ここに彼の自己認識と覚悟のほどの真骨頂が見える。
 それがわかると、彼がどんな心で、「「見るがよい。神の小羊だ」と言ったかもわかる。そう言い、そう言ってもらうことをイエス様と申し合わせたわけではなかったが、そこにはまるで以心伝心で連携できていたような空気が感じられる。注目すべきはこれが洗礼者ヨハネの言葉だったことだ。神の小羊とは、その時点では誰にも思い描けなかったイエス様の将来のある姿で、それをこの上なく見事に表現した純聖書的な象徴だからだ。これは聖霊によらなければ決して言い得なかった。

 多くの翻訳聖書がこの章節に「最初の弟子たち」の見出しをつけているので、弟子たちのことから考察を始めたが、実はこの個所で一番重要で、すべての中心になっているのはこの「神の小羊」という言葉だと思う。だから、ここからはそれに焦点を当てる。この表現はミサの平和の讃歌で「神の小羊、世の罪を除きたもう主よ」と毎回歌われる。だから人は慣れっこになり、当たり前のように口にしたり聞いたりして、その意味の深甚さの上を素通りしているのかも知れない。
 しかし、考えてみると、洗礼者ヨハネがイエス様を見て、「神の小羊」と言ったことは驚くべき新しさだった。そんなことを言った人は旧約には一人もいなかったからだ。だから、私は聖霊によらなければ決して言い得なかったと断言した。おそらく彼には聖霊によって、イエス様についてのそういうビジョンが示されたのだと推察する。しかし、そのヒントとなるイメージが旧約聖書に皆無だったかと言うとそうではなかった。
 「神の」がついていない、「小羊」だけの象徴的な事例はまず出エジプト記にある。神はかつてイスラエルの民をエジプトから脱出させた時、殺戮の天使が通り過ぎる前に、小羊を屠ってその血を戸口の鴨居に塗り、肉は焼いて家族で食べるよう命じた。その血のしるしがあれば民は死を免れて救われるからだった。そして、それは過越祭に欠かせない過越しの小羊として、イスラエル民族が子々孫々に至るまで神の加護と大いなる愛を思い起こす記念の象徴となった。今もそうだ。
 洗礼者ヨハネはそれをよく知っていた。ある意味でそれが新約の過越しの小羊の原型となった。しかし、それはあくまでも動物の小羊であって、神の小羊ではない。屠られるその動物の小羊からは「神の」という言葉はけっして出て来ない。では、洗礼者ヨハネはどこからその発想を得たのだろうか?おそらく聖霊は彼の思いをイザヤ書53章4-7節にある「主の僕の歌」のイメージに導いたのではなかろうか。そこにはこう書いてある。
   「まことに、彼はわたしたちの病を担い、
   わたしたちの苦しみを背負った。
   わたしたちは、彼が神によって
   打たれ、たたかれ、卑しめられていると考えた。
    ……
   虐げられ、苦しめられたが、彼は口を開かなかった。
   屠られるための小羊のように、彼は引いていかれ、
   …彼は物も言わず、口も開かなかった。」
 こここで語られているのは苦しむ神の僕のことだが、その人は屠殺場に引かれていく小羊に喩えられている。過越しの小羊のような動物ではない。そして、最終的には神に祝福され、「辛苦を抜けて光を見、…わたしの正しい僕は、多くの者を正しい者とする」神の人なのだ。従って、「神の」という言葉がつけられるから、「神の小羊」のイメージにかなり似て来ている。しかしその半面、「小羊」が本物ではなく、比喩に過ぎない弱みがある。比喩は比喩だからだ。
 しかし、洗礼者ヨハネがイエス様について言った「神の小羊」は単なる比喩ではなかった。本当の小羊だった。動物界にはいない、実体のある神聖な羊を意味した。神の言である主が、やがて新約の過越しの小羊として自らを犠牲にささげ、「神の僕の歌」の義人よりも驚くべき仕方で救いを達成なさるからだ。主イエス様においては、「神の」と「小羊」が実体的に結びついた。だから、文字通りの意味で「神の小羊」なのだ。洗礼者はそれを幻で見たからこそ、そう言えたのだと思う。

 その前日、彼は彼の弟子たちに、「見るがよい。世の罪を除く神の小羊だ」(ヨハネ1;29)と言っていた。しかし、おそらく彼らは何のことかさっぱりわからなかったに違いない。この日2人の弟子はまた同じ言葉を聞いた。それでもわからなかったことだろう。もっとも、イエス様のところに泊まって話を聞いたから、何らかの感触はつかめたかも知れない。しかし、そのとてつもなく深く、尊く、感嘆すべき意味が本当にわかったのはおそらく聖霊降臨後だった。
 聖霊の光りに照らされて、やがて弟子たちがその意味を充分理解したことは、使徒言行録や使徒たちの手紙、そしてヨハネの黙示録を読めば確認できる。特に黙示録にはこの表現が最も頻繁に出てくる。それは救い主イエス・キリスト様こそ「神の小羊」であるという認識が、もう初代教会で広く行き渡っていた証拠だ。例えば、使徒言行録8章ではエチオピアの女王の高官が、イザヤ53;7の「屠り場に引かれる子羊」の所を読んで、使徒フィリポに説明してもらい、洗礼を受けている。
 また、聖ペトロは「あなたがたが先祖から受け継いだむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ちるものによってではなく、傷みもしみもない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」(一ペト1;19)と書き、聖パウロは「わたしたちの過越しの小羊キリストは、すでに屠られたのです。ですから、わたしたちは、古いパン種や悪意と邪のパン種を使ったパンでなく、混じりけのない、まことの種なしパンを用いて祭りを祝うことにしましょう」(一コリ5;7-8)と書いている。

 ところで、キリスト信者にとても親しまれている「神の小羊」という表現が、洗礼者ヨハネから来たということは、考えてみると意外で、ちょっぴり驚きに値し、興味深くもある。彼は主の弟子でもキリスト信者でもなかったからだ。いや、彼は遡ってキリスト信者と言われるべき人、それもとびきりユニークなキリスト者だったと言えなくもない。とにかく、私たちが今、「神の小羊、世の罪を除き給う主よ」と言えるのは、彼が弟子たちにその言葉を言ってくれたおかげなのだ。
 しかし、それよもっとずっと注目すべきことは、イエス様ご自身がご自分を神の小羊だとは一度も言われたことがなかったことだ。これはいったいなぜだろうか?答えは簡単だ。ご自分がそれだから、そう言う必要がなかったのだ。だが、それは非常に驚くべきことだった。なぜなら弟子たちにとって、それは神の小羊を示す言葉ではなく、神の小羊そのものがそこにおられたことを意味したからだ。それがこの箇所で最も重要なことだ。
 洗礼者ヨハネが「見るがよい。神の小羊だ」と弟子たちに言ったその時、神の小羊そのものがそこにおられたという事実は、その言葉より比較できないほど重かった。だから、弟子たちはまだその言葉の意味を理解できなかっただろうが、幻で神の小羊の真実を見た洗礼者ヨハネは、きっと感動に打ち震えながらその言葉を口にしたのだと思う。ご聖体にの前にいるときは、私たちもそう言われた時と同じ状況におかれている。それを知ると、認識をあらためなければならないと感じる。

なっとく聖誕物語

 マタイによる福音書の聖誕物語は伝説に過ぎないという学者がいる。では、伝説なら信憑性がないから、東方から占星術の学者たちが来たことは疑わしく、聖家族のエジプト避難も史実ではないと言い切っていいのか?他方、ルカが書いた聖誕物語は信用できると言うが、それなら、聖家族は聖誕の後、ベトレヘムから直接ナザレトに帰られたのか?ヘロデの嬰児虐殺などはなかったと思っていいのか?そんな疑問に悩まされる信者もいるのではなかろうか。
 そこで、ルカが福音書の序文に書いたように、私も聖誕物語を詳しく調べた上で、順序正しくまとめ直してみようと思い立った。この試みはマタイとルカ両福音史家の聖誕物語が基本的には史実だったと見ることを前提とする。そして、その史実の源泉になった目撃証人の生き残りが、何人かいたことも大事な前提とする。彼らから直接聞いたり、彼らが残した話を伝聞で入手できたりしたからこそ、福音史家たちは聖誕物語が書けたのだと推理できるからだ。 
 中でもとびきり重要な生き残りの目撃証人はマリア様だったと見る。だから、この試みでは節目ごとに、「マリアはこれらのことをすべて心に納め、思い巡らしていた」(ルカ2;19)という一節を、リフレインのように挿入することとする。すべては聖母が「心に納め、思い巡らしていた」からこそ、何十年経っても鮮明な記憶として残った。そして、そのおかげで、ルカは聖母から当事者しか知り得ない聖誕での事実を聞きとり、福音書に記録できたと推理できるからだ。
 この「なっとく聖誕物語」ではその他にも若干の目撃証人がいただろうと仮定して、それをも前提にする。例えば、ヘロデ王の宮廷に集められた祭司長たちや学者たちの中で、若手だった律法学者たちだ。彼らのうち誰かが後に改宗してユデオ・キリスト者となり、東方の占星学者が来訪した数十年前のことなどを語り伝えていたとすれば、その伝聞をマタイ福音史家が彼の聖誕物語の源泉として使ったと推理することは、あながち荒唐無稽ではないからだ。
 この試みは福音書の伝えることを最大限に尊重し、その記述に従う。だが、それだけでは隙間が多すぎるので、自分がすでに考察した研究資料でその隙間を埋め、それでも足りない空白は想像力を働かせて補い、聖誕前・聖誕・聖誕後を一つの整合性のある流れにまとめる試みに他ならない。そのようにして、マタイとルカの両福音書を相互補完するように合流させるならば、聖誕の物語はおおよそ次のように理解できるのではなかろうか。 
       (*通常は神様や聖人方には敬称をつけるが、ここでは省略する)

 ローマ帝国が皇帝オクタヴィアヌス・アウグストゥス(BC63-AD14)の治下、ユダヤでは大ヘロデ(BC73-4)が王だった頃、エルサレムの神殿内で務めをしていた祭司ザカリアに天使ガブリエルが現れ、彼の老妻で不妊の女と言われたエリザベトが懐妊することを告げた。洗礼者ヨハネ誕生の予告だった。だが彼はそれを疑ったので、その子が生まれるまで罰として口がきけないようになった。 
 その6か月後だった。ガリラヤのナザレト村に住んでいた乙女マリアのもとに、同じ天使ガブリエルが神から遣わされた。彼女はヨセフの許嫁だったが、おそらく15歳前後だったのではなかろうか。天使は彼女に「おめでとう。恵まれた方、主はあなたと共におられます」と挨拶し、「あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」と言った。
 夢にも思わなかった言葉を聞いてマリアはとても驚き、「どうしてそんなことがありえましょうか?わたしは男を知りませんのに」といぶかって尋ねた。天使は答えて、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリザベトも、年をとっているのに男の子を身ごもった。不妊の女と言われていたのに、もう6か月になっている。神にはできないことは何一つない」と言った。
 マリアは言った。「わたしは主のはした女です。お言葉通り、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。こうして、マリアは聖霊によって身ごもった。救い主イエス・キリストの聖誕物語は、洗礼者ヨハネの誕生の予告で始動したが、マリアへの天使のお告げこそ本当の始まりだった。そして、それは神が人類の歴史に再び介入し始めた最初の不思議な御業だった。
マリアのエリザベト訪問
        マリアのエリザベト訪問
 天使のお告げでエリザベトの妊娠を知ったマリアは、すぐにユダヤのアインカリムへ行った。老齢で子を身ごもった従妹を出産まで手助けしてやるためだった。ここにマリアの行動力の一端が見える。彼女が着くと、エリザベトは聖霊に満たされて、声高らかに挨拶した。「あなたは女の中で祝福された方。あなたの胎内の子も祝福されています」と。ちなみにこの言葉は、後にアヴェマリアの祈りの前半の部分となり、キリスト者たちが日々唱える祈りの中の祈りとなった。
 その時、エリザベトは「主から告げられたことが成就すると信じた方は、なんと幸せでしょう」と称賛の言葉を口にした。するとマリアは、「わたしの魂は主を崇め、わたしの霊は救い主である神に、喜び躍ります」と、後に「マグニフィカトの讃歌」と言われる神への賛美でそれに答えた。それは先祖に約束された通り、神の慈しみによる救いがイスラエルで始まったこと、それも人間の思いを覆すやり方で実現することを高らかに歌い上げた、人類最高の讃歌だった。
 マリアは3か月ほどそこに滞在して、ガリラヤに帰った。炊事や洗濯、薪拾い、パン作りなど、身重の従妹に代わって日々働いたに違いない。しかし、彼女の臨月が近づくと、親戚や近隣の経験豊かな女たちが手伝いに来るようになったからだろうか、マリアはそこを去った。その後すぐ、エリザベトは男の子を産んだ。だから、マリアは従妹の出産には立ち会えなかった。ザカリアの家では8日目に赤子の命名が行われた。父のザカリアは板に「この子の名はヨハネ」と書いた。するとその瞬間に口がきけるようになり、神をほめたたえた。マリアはこれらのことも後でエリザベトから聞いて心に納め、神のなさる業の不思議さを思い巡らした。

 婚約者のヨセフがマリアの体の変化に気づいたのは、ユダヤからナザレトに帰って2、3か月たった頃だろう。妊娠5,6か月に見えた。天使のお告げを知らなかった彼は悩んだ。彼女は彼女で、ヨセフに打ち明けなかった。聖霊によって神の子を身ごもったと言っても、誰が信じてくれるだろうか。ヨセフとて理解できないし、信じられないだろうと思えたからだ。ならば、神が始められたことは神が何とかしてくださるはず。すべてを神に委ねようと、彼女は覚悟していたのだと思われる。
 ヨセフはマリアがどんな乙女か知っていた。だから、疑いたくはなかった。だが、妊娠の事実は明らかだった。父親は自分ではない。しかし、誰かと通じないで身ごもることはあり得まい。だとしたら、誰の子か?…しかしながら、清純そのもののマリアがそんな罪を犯すとはどうしても思えなかった。彼は義人だった。だから、彼女の罪を表ざたにせず、何とかして救おうと考えた。なぜなら、婚約している人の不倫は律法の定めによって、場合によっては死罪にされたからだ。
 彼の結論はひそかに婚約を解消することだった。婚約していない処女なら、犯された場合に罰されるのは男だけだったからだ(申命記22章28)。ところが、夢に主の天使が現れ、「ダビデの子ヨセフよ、恐れずマリアを迎え入れなさい。マリアの胎内の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と告げた。ヨセフはすべてを理解した。そして、マリアを妻として迎え入れた。おそらくその時、マリアは初めて天使の告げのこと、エリザベトの家でのことなど、すべてを彼に打ち明けたのだろう。

 二人の結婚生活が始まって間もなく、難儀なことが起こった。ローマ皇帝アウグストゥスが全領土の住民に登録を命じた人口調査の勅令を出したからだ。それはキリニウスがシリア州の総督になって最初の住民登録だった。従って、西暦紀元前8-5年のことだったと思われる。二人にとってそれが難儀なことだったわけは、誰もが各自の出身地で登録を果たさなければならなかったのだが、二人はダビデの家系だったので、ユダヤのベトレヘムまで行かなければならなかったからだ。ガリラヤのナザレトからその町までは約150㎞ある。歩いたりロバに乗ったりして、1日平均20㎞で進んだとしても、一週間近くはかかる距離だった。身重のマリアにはどれほど辛い旅だったことだろうか。
 だが、旅路の難儀は苦労の序の口だった。ベトレヘムに着くと次の難題が待ち受けていた。宿がいっぱいで、泊まるところが見つからなかったのだ。どこでも断られたのは、必ずしも人々に悪意があったわけではない。通常ならユダヤ人は旅の同胞を快く泊めてやる人々だった。しかし、この時は登録に戻った先着の人々で、どの宿屋もどの民家ももう飽和状態だったのだ。そこで、二人はだれかから家畜が風雨などをしのぐ所があると教えられ、やむを得ず洞穴住居に行った。
 出産は彼らがそこに寝泊りを始めてから間もなくのことだっただろうが、ルカはこう伝えている。「彼らがベトレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」と。飼い葉桶という言葉から、後世の人はそこが家畜小屋だったと推理した。しかし、牧者たちが夜とか風雨の時などに畜群を休ませた洞窟だという説もある。いずれにせよ、それはまともな宿ではなく、日々の生活は足りない物だらけだったと想像できる。
 ヨセフは飲食物や生活必需品を調達したり登録のためしかるべき所へ行ったりと、あれこれ奔走しなければならなかったに違いない。しかし、マリアが産気づいた時はどうしたのだろうか?彼はうろたえたことだろう。たぶんどこからか水は汲んできて、拾い集めた枝で産湯だけは沸かしただろう。でも、お産そのものの手助けはできない。産婆を呼んだのだろうか?いや、少し前までシエラレオネの女たちの多くがしたように、マリアはおそらく独力で子を産んだのだと思われる。
 そこには揺籃がなかった。そこで、二人はそこにあった飼い葉桶に、いと高き神の子である赤子を寝かせた。飼い葉桶には藁は敷かなかっただろう。ダニがいるからだ。桶をこすって汚れを落とし、自分たちの上着をシーツ代わりにして寝かせたのではなかろうか。そして、夜は焚火を絶やさないようにしただろう。当時の夜は漆黒の闇だった。灯明には油が要るが、油は高い。しかし、焚火のおきがあれば、いざと言う時の明かりになり、保温にも野獣よけの安全にも役立ったからだ。

 その夜その地方に、野宿をしながら夜通し羊の群れの番をする羊飼いたちがいた。当時のイスラエルにはまだライオン、豹、ハイエナなどの肉食獣がいたし、盗人や天候異変の危険もあったからだ。するとその時、彼らに主の天使が現れ、主の栄光が周囲を照らしたので、彼らは非常に恐れた。しかし、天使は言った。
 「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。あなたがたは布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」と。すると、天使に天の大軍も加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」と。
 天使たちが去った後、羊飼いたちは急いでベトレヘムに行き、マリアとヨセフ、そして飼い葉桶の中に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。彼らには土地勘があったし、もしそこが彼らも使ったことのある洞窟であったらなおさらのこと、見つけるのはそれほど難しくはなかっただろう。とにかく、すべてが天使の話したとおりだったので、彼らは大いに喜び、乳飲み子を伏し拝んだ。世の中で蔑まれていた羊飼いこそ、世の中で最初に主の聖誕を知り、最初に拝んだ礼拝者だったのだ。
 降誕祭などでは、救い主は真夜中に生まれたような歌が多い。しかし、お生まれになったのが夜とは限らない。ルカは天使が「今日ダビデの町で…お生まれになった」と書いているだけで、夜だったとは言っていないからだ。出産は昼間だったかも知れない。いずれにせよ、羊飼いたちが礼拝にいったのは夜だった。しかし、もし夜遅くだったら、ヨセフとマリアは彼らの訪問に驚かされたことだろう。きっと最初は警戒したに違いない。しかし、彼らから天使のお告げのことを聞いて安心できたから、彼らに生まれたばかりの赤子を見せたのだろう。
 羊飼いたちは神をあがめ、賛美しながら帰って行った。そして宿営地に戻ると、天使がこの幼子について告げたことを知り合いの人々に話した。聞いた人々は皆、羊飼いたちの話を不思議がった。この後は想像だが、羊飼いたちの話をきいた仲間たちの中には、自分たちも拝みに行こうではないかと、彼らから聖家族の居場所を聞き出して、2番目の訪問者となった羊飼いたちもいたのではないかと思われる。
 そう想像する根拠は、2番目以降の訪問者たちがいて、最初の羊飼いたちが宿営地に戻って見聞きしたことを人々に話し、聞いた人々が皆その話を不思議に思ったことを、2番目の訪問時に伝えたからこそ聖家族もそれを知り得たと推察できることにある。もしそうでなくて、最初の羊飼いたちが帰ったままで、その後だれも来なかったら、彼らが戻って話した事実や人々の反応は聖家族には知られないままだっただろう。マリアはそれらのこともすべて心に納めて、思い巡らしていた。

 聖誕物語には夜に起こったことが多い。東の国でもそうだった。その頃、夜空を見ていた占星術のある学者たちは不思議な星を見つけ、それがユダヤにメシアとなる王が誕生したしるしだと知った。そこで、彼らはエルサレムへと旅立った。後に彼らはヘロデ王の王宮に着いた時、「東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と言っている。いわゆる伝説と違い、その星が彼らを導いたとは言っていない。そもそも旅ではほとんど昼間歩くが、星は昼間の道案内にはならないからだ。
 彼らの国がどこだったのかはわからない。彼らが何人だったかも不明だ。占星術の学者(マゴス)とはペルシャやバビロニアで天文に通じた司祭や賢者のことだったから、もしその学者たちがそこから来たのなら、それこそ1週間や2週間でたどりつける距離ではなかっただろう。とにかく彼らはガリラヤよりもはるかに遠い東の国から歩いて来たのだから、ユダヤに着くまでにはかなりの日数がかかったはずだ。だから、彼らの来訪が救い主お誕生の直後ではなかったことは確かだ。

 東の国の学者たちが旅路にあった頃、ベトレヘムではヨセフが誕生8日目の赤子に割礼を施した。割礼は神が契約のしるしとしてアブラハムと子孫に命じた(創17;10)のだが、律法では生後8日目(レビ12;3)と定められた。両親は律法を守って行動したのだ。そして、赤子をイエスと名付けた。ヨセフもマリアも天使のお告げで、そう命名するよう言われていたからだ。イエスとはギリシャ語のイエススから来た発音で、ヘブライ語ではイエシュアと言い、「神救い給う」を意味する。
 そして、40 日目にはエルサレムに行って、初子を神殿に奉献した。ルカが「律法で定められたことをみな終えた」(ルカ2;39)と書いたのは、これらのことを意味した。なぜならレビ記12;4は、割礼の33日後、つまり誕生40後に、母親が清めの式にあずかり、男の子が神に奉献されることを命じていたからだ。清めは母親だけの義務だったが、ヨセフも一緒に行った。まだ首もすわらない赤子を3時間以上歩いて連れて行かなければならなかったからだ。清めには牡羊一匹と山鳩を奉献しなければならなかったが、貧しい者は山鳩か家鳩2羽でよい(同12;8)との規定があった。マリアは家鳩2羽を捧げた。彼らがいかに貧しい状況にあったかがわかる。
 そのとき、エルサレムにはシメオンという老預言者がいた。マリアが律法の規定に従って犠牲を捧げようとイエスを神殿の境内に連れて行ったとき、老預言者は幼子を腕に抱き、神を讃えて、「主よ、今こそあなたは、お言葉通りこの僕を安らかに去らせてくださいます。なぜなら、私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光り、イスラエルの誉です」と言った。父と母はそのように言われたことに驚いた。
 シメオンは彼らを祝福して、母親のマリアに言った。「この子は、イスラエルの多くの人が倒したり立ち上がらせたりするために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」と。これは救い主イエス・キリストと母マリアの将来がどんなに厳しいものかを予言したものだった。とりわけご受難の時の十字架で実現する苦しみの予言だった。
 神殿には女預言者アンナもいて、聖家族に出会うと神を賛美した。そして、救いを待ち望んでいた人々に幼子のことを話した。マリアはこれらのこともすべて心に納め、思い巡らしていた。この後、ルカは親子が「主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレトに帰った」と書いている。しかし、そうは思えない。おそらくルカは聖誕物語に関してはもうそれ以上は書く必要がないと見て、その他の出来事は省いてしまったのだと思われる。
老預言者シメオンの聖母子祝福
  老預言者シメオンの聖母子祝福

 では、聖家族はそれからどうされたのだろうか?ベトレヘムに戻られたと考えると筋が通る。エルサレムからベトレヘムヘは近いが、ガリラヤヘはとても遠い。まだ首がすわってもいない乳飲み子を抱いて、1日20㎞平均歩く旅を1週間も続けるのは非常識きわまりなく、リスクが大き過ぎると懸念されたはずだからだ。きっと二人はもうしばらくはベトレヘムに滞在する方がよいと考えたに違いない。だからそこに戻ったと思われる。
 占星術の学者たちがやっとエルサレムに到着したのはちょうどその頃だっただろう。その昔トビアが天使ラファエルと行ったメディア(トビト記5章)からエルサレムまでは約1500㎞だ。仮に東方の学者がその地の人たちだったら、1日30㎞平均の速度で進めば、約50日で到達できたはずだ。その日数は、誕生後40日後の清めの式と子の奉献を少し過ぎた頃にほぼ重なる。だから、東方の学者たちの話が本当なら、彼らがエルサレムに着いたのはおそらくその頃だったと見てよかろう。
 しかし、聖家族は彼らのことなど知る由もなかった。彼らもまた聖家族のことはまったく想定外だっただろう。彼らは王宮に行けば生まれたメシアを拝めるものと思い込んでいたようだ。王になる方だからだ。そこで、ヘロデ王の宮殿を訪ねた。メシア(マーシアハ)とは油を注がれた者という意味で、かつては王にも司祭にも油が塗られたが、この時代にはもう救い主になる王のことと考えられていた。従って、東方からの学者たちがまっすぐ王宮を目指したのは当然だった。
 ところが、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と言った彼らの挨拶は、ヘロデ大王をうろたえさせ、動揺させた。なぜなら、王には新たな王子は生まれておらず、学者たちが言った「その方の星」と「拝みに来たのです」という言葉はメシアを意味していたからだ。もしメシアが生まれたのなら、イドゥメア人なのにユダヤの王になっている自分はどうなる?それが王をうろたえさせたのだ。
 そこで、王は祭司長や律法学者たちを集めてメシアがどこに生まれるかを調べさせた。その結果、それがベトレヘムだとわかった。すると、王はひそかに東方の学者たちを呼び、行ってその子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてほしい。自分も行って拝みたいからだと言い含め、ベトレヘムへと送り出した。内心はまったく逆で、見つかったら幼子を殺して、自分の地位を脅かす危険の芽を未然に摘み取ろうという魂胆だった。しかし、彼はまことしやかに良き王を演じきった。

 夜なのに再出発した学者たちには嬉しいことが起こった。東方で見た星が再び現れたからだ。彼らはそれを見て大いに喜んだ。想像だが、メシアの出生地のことで王に呼ばれた律法学者たちの中には若い者もいた。彼らは民が待ち望んでいたメシアの誕生に興味津々で、自分たちも行って拝みたいと、東方の学者たちの道案内を買って出た可能性がある。もしそうだったら、彼らは土地勘があるから、一行はベトレヘムまでの真っ暗な道をそれほどの困難もなく行けただろう。
 若い律法学者たちはその星がベトレヘムの方角にあると言った。そこで彼らは、星が導いてくれているのだ。メシアがあの星の止った下におられることは間違いないと確信したのだろう。ところが近づいてみると、ベトレヘムには多くの人家があった。星の下と言うだけでは曖昧で、幼子メシアがどの家におられるかわからなかった。とは言え、夜では尋ねる人もいない。そんな時、暗い野原に野宿している羊飼いたちが星明りで見えたとすれば、彼らはどうしただろうか?
 これもすべて想像に過ぎないが、もしそうだったら間違いなく羊飼いたちに尋ねただろう。自分たちは怪しい者ではない。東の国でユダヤにメシアがお生まれになる星を見た。それで王宮を訪ねたらそこにはおれず、それはベトレヘムだと教えてもらった。だから、こんな夜半なのにやって来た。ほら、あれがそれを教えてくれた星だ。それでお尋ねするが、もしやあなた方はこの辺りにそれらしい赤子が生まれた家があるのをご存知ないか?心当たりがあったら教えてほしい、と。
 そして、それこそ不思議な星の導きになるが、もしその羊飼いたちが天使のお告げで駆け付け、飼い葉桶に寝かされていた赤子を最初に拝んだ人たちであったとしたらどうだろう。「その赤子なら知っていますとも!私たちはお生まれになったその夜に拝ませてもらいました。美しい母親と父親が一緒でした。その時は家畜用の洞窟が仮住まいでした。だが、今は一軒の家に移っておいでです。」そう答えて家を教えてやっただろう。ひょっとしたら案内してやったかも知れない。 

 東方からの学者たちが家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。しかし、ヨセフがすぐ迎え入れたとは思えない。夜更けに素性のわからない人々が来れば、警戒するのが普通だからだ。ましてやベトレヘム出身のヨセフには、その昔この町の名が出てくる事件(士師記19;15-30)で、ならず者共が女性を暴行致死させた忌わしい記憶があっただろう。だから、彼は気を許さなかったはずだ。しかし、訪問者たちの訪問理由と一度来た羊飼いの声も聞いたので、戸を開けたのだろう。
 ヨセフは燭台の灯心におき火から明かりをつけ、学者たちを家に迎え入れたのだろう。さもなければ家の中は真っ暗で、幼子も母マリアも見えなかったはずだからだ。エルサレムから帰ると、聖家族はまがりなりにも泊まる家を借りられたのだろう。だから、東方からの学者たちが入ったのは家畜の避難場所ではなく、人家だった。学者たちはヨセフがかざす燭台の弱い光の先に、探し訪ねて来た幼子が母マリアと共におられるのを見た。だからヨセフは彼らの視野に入らなかったのだ。
 彼らは大いに喜んで幼子を拝み、宝箱を開いて黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。燭台の薄明りでは黄金も光り輝いては見えなかったが、彼らが心にいただいた喜びの光りは暗い家の中に隈なく広がっていたことであろう。では、彼らはその後すぐ帰途に就いたのだろうか?聖家族がそんなことをさせたとはとうてい思えない。もてなしはできなくても、せめて夜が明けるまでは家にいて休み、朝になったらお出かけくださいとすすめたのではあるまいか。
 その言葉に甘えることにした客人たちは眠れないままに、天使も覗き込むような幼子の寝顔を眺めながら、ヨセフとマリアに語ったのではあるまいか。東方からの学者たちが話したのは東の国で見た星のこと、旅路のこと、ヘロデ王に頼まれたこと、王宮を出たら再び見られた星のことなどの一部始終で、同道した若い律法学者たちが語ったのはヘロデ王の動揺や王宮での出来事だった。マリアはこれらのこともすべて心に納め、思い巡らしていた。

 しかしこの時、彼らはまだだれも知らなかった。彼らが上から覗き込んで見ていた無力そのものの乳飲み子が、自分たちを創造した神の言であることを。神の身分でありながら、自分を無にして僕の身分となり、人間と同じものになられた(フィリピ2;6-7)言であることを。灯明の薄明りに照らされていても、その幼子が世に来てすべての人を照らすまことの光であることを。それは幼子の真の父とその生まれの神秘を語る次の啓示をまだ知らなかったからだ。
 「初めに言があった。言は神であった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずして成ったものは何もなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は闇の中に輝いている。その光はまことの光りで、世に来てすべての人を照らすのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1;1-14)

 朝までに一睡した東方の学者たちは、夢でヘロデ王のところへ帰るなと神のお告げを受けたので、別の道を通って国に帰って行った。彼らが帰った後、主の天使は夢でヨセフにも現れ、「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトへ逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデがこの子を探し出して殺そうとしている」と言った。そこで、ヨセフはすぐに幼子と母のマリアを連れてエジプトに逃れ、ヘロデ大王が死ぬまでそこにいた。
 聖家族がエジプトのどこに、どこを通って逃れたかはわからないが、その旅路が過酷であったことは想像できる。しかし、占星術の学者たちが献上した品々があった。それらはエジプトへ逃げるときに役立っただろう。手持ちのお金を使い果たしたら、まず金を通貨に替えることができだろうし、乳香や没薬も売ればお金に替えられたに違いなかったからだ。そのように食いつないでエジプトにたどり着ければ、そこにはイスラエル人共同体があったから、何とかなる希望があった。
 その約250年前、聖書のギリシャ語70人訳ができたのはエジプトのアレキサンドリアだった。ヘブライ語を話せなくなったエジプト在住のイスラエル人のためだった。エジプトにはそれほど多くの同胞がいたのだ。だから、聖家族は言葉がまったく通じない、孤立無援の異国に行ったのではなかった。イスラエル人たちは同胞を助ける習慣があったから、彼らのいるところにさえ行けば、言葉も通じただろうし、生活でも助けてもらえただろう。貧しくとも何とか生きては行けた。
 所かわって王宮では、占星術の学者たちにだまされたと知ったヘロデ王が、憤懣やるかたがないほど激怒した。そこで、彼は人を派遣し、学者たちから確かめておいた時期から年齢を割り出し、ベトレヘム周辺一帯にいた2歳未満の男児を皆殺しにした。彼は政治や建築の才能では優れていたが、良心の呵責が皆無の残酷な王だったから、自分を脅かす将来のメシアを抹殺するためなら、そのような大虐殺をも平然とやってのけた。しかし、その彼も西暦紀元前4年に死んだ。

 ヘロデ王が死ぬと、主の使いがまたヨセフの夢に現れ、「起きて、子供と母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった」と言った。そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れてイスラエルに行った。聖家族は最初イスラエルの中でもユダヤに行こうとしたようだ。しかし、国境近くまで行った時だろう、何らかの情報でユダヤは大ヘロデ王の息子のアルケラオ(BC23-AD18)が跡を継いでいることを知り、そこに行くのを恐れた。
 すると、また夢でお告げがあったので、行く先をガリラヤのナザレトに変えた。聖誕が西暦紀元前7-5年の頃だったとしたら、大ヘロデ王の死は同紀元前4年だったから、それから割り出すと、聖家族がエジプトに滞在した年月は1-3年だったと推定される。聖家族はおそらく地中海沿いの道を通ってガリラヤに戻り、そこでずっと生活した。そして、「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」(ルカ2;40) 
 以上が私の「なっとく聖誕物語」の一つである。

すべてを心に納めたから

 今年の元日は主日と重なった上に、神の母・聖マリアの祝日だった。ところが、「神の母」の称号が気になり、大晦日はそれに絞って考察したから、この祝日の福音ルカ2;16-21には触れられなかった。そこで、もう過ぎたことだが、その個所で気付いたことを二つ三つ書いておこうと思う。

 その一つは17-19節と20節の順序が逆ではないかと思われる問題だ。読み比べてみればそれがわかる。17-18節は、「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った」と伝える。人々に知らせたのなら、その人々がいたはずだ。だが、家畜小屋には羊飼いと聖家族しかいなかった。となれば、羊飼いたちが人々に話したのは、そこから帰った後のことだったと言わなければなるまい。
 ところが20節は、「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話した通りだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」と、ここで初めて彼らが帰途についたことを告げる。そうであれば、17-18節が20節の後に来ないとつじつまが合わない。さもないと、まだ帰ってもいなかった彼らが、戻った野宿地でその出来事を人々に話したことになってしまうからだ。そこで、ちょっぴり手を加えて並べ直すと、そこは次のように、16,17a,20,17b,18,19節の順になると思うのだ。
 「…飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた(16節後半)。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について(17節a)見聞きしたことがすべて天使の話した通りだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った(20節)。そして、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた(17節b)。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った (18節) 。かし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」(19節)
 でも、なぜこんなちぐはぐな叙述になったのだろうか?原因はもともとルカがそう書いてしまったからか、写本の段階で誰かが写し間違えてしまったからかだろう。ルカが原因なら、ルカさん、ちょっと不出来でしたねと言って終わりだ。もし写本が原因なら、写本はいくつもあるから、全部を調べないと結論は出ない。だが、それはあまりにも大変で、私には無理だ。そこで私はこう考えた。調べた限りでは、原典も翻訳もすべて現行の節の順序で一致している。解説書も取り立てて問題にしていない。おそらく些細な問題と見ているからだろう。それならば、順序が多少前後しても意味は通るのだし、ここにはそういう問題もあると留意していれば済むことだから、私も今のままで了としよう、と。

 気付いたことの二つ目は、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と書いてある19節の奥深さだ。この叙述にはまず感動する。マリア様は乙女だったとあるからまだ十代だっただろうに、この一節からは実に沈着で、ものごとを深く考える方のお姿が思い描ける。口に出さず、すべてを心の中に納めておられたが、その時はおそらく天使のお告げ以来の出来事が脳裏に去来し、生まれたばかりのわが子の未来を思い巡らしておられたのではなかろうか。
 そのような聖母から受けるのは感銘だ。しかし、聖書を学ぶ者として抱くのは感謝だ。なぜならイエス様の聖誕や幼少期のことは、聖母が教えてくださらなかったら、誰も知ることができなかったと思うからだ。私は私たちが福音書を通してそれらを知ることができたのは、聖母がずっと心に納めて来られたことを、ルカに話してくださったからに違いないと確信している。私がここで「出来事を心に納めて、思い巡らし」という言葉の奥深さに触れたいのは、まさにその理由からだ。
 それはルカがなぜ主の聖誕物語を伝えられたかという疑問を解いてくれる。ルカは福音書序文に、「敬愛するテオフィロ様、わたしもすべてのことを初めから詳しく調べています」と書いたが、どんなに「初めから詳しく調べ」ても、初めからのことを知っている者がいなかったら、調べは空振りに終わっていたはずだ。しかし、彼は主の聖誕や幼少期のことを見事に書くことができた。なぜか?聖母から聞き取りができて、それらについて十分に知ることができたからに他なるまい。

 そこで、想像を逞しくしてみる。仮にマリア様の救い主懐胎が15歳の時だったとしたら、エルサレム使徒会議(AD49-50年)の頃の聖母は70歳前後だったと推定していいだろう。その頃はもう聖ヨゼフや聖エリザベトなど、主の聖誕前後のことを知る人はほとんど他界していたに違いない。しかし、すべてを最もよく知る聖母は健在だった。他方、ルカはその頃もう聖パウロと行動を共にしていた。だから、聖母に会う機会はあった。ここが大事なポイントの一つだ。
 ルカの福音書は西暦70年前後に世に出たと言われるが、私はもっと早かったのではないかと推理する。その根拠は彼が福音書の後編として書いた使徒言行録だ。それは聖パウロのローマでの収監が最終章になっている。ところがその後、聖パウロは釈放されている。西暦63年だ。ところで、もし使徒言行録が釈放後に書かれたのなら、釈放後の動向も書かれたはずだが、書かれていない。ということは脱稿が63年以前だったことを意味する。そこで私は、後編の使徒言行録がそうなら、その前編のルカ福音書はもっと早くに書かれていたはずだ。そして、その頃なら聖母はまだご健在だっただろうから、彼がインタビューする機会を逃したはずはないと結論するのだ。
 
 ルカがなぜ福音書を書く気になったのかは、その序文の「わたしたちの間で実現したことについて、…物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を付けています」という文言から察しがつく。学説では西暦50年頃アラマイ語マタイが最初の福音書として世に出たと言われる。そして、その後いくつかの福音書がギリシャ語で書かれた。おそらく彼はそれらに刺激されただろう。同時に、ユダヤ的過ぎる表現、不正確な叙述、教えの記載の不十分さなどには不満だったのだと思われる。 
 だから、「「敬愛するテオフィロ様、わたしもすべてのことを初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よくわかっていただきたいのであります」と書いたのだ。この序文は先行した福音書がどれも不十分、不正確だと暗に批判し、私はここに主イエス・キリスト様の深い教えを十分取り入れて正確に順序正しく書いた、よりましな福音書を献呈しますと言っているに等しい。この自負は、使徒ら生き証人からの聞き取りや資料情報を駆使したルカ流手法に自信があったからだろう。 
 ところで、アラマイ語マタイ福音書の出現は、エルサレムの使徒会議とほぼ時を同じくしていた。そこで私の想像だが、その会議には使徒たちが集まったから、使徒聖ヨハネと共に聖母も来ておられた可能性がある。もしそうだったら、その時ルカにも会うチャンスはあった。彼が最初の福音書に刺激され、自分も書こうと思い始めていたとしたら、最高の生き証人だった聖母から聞くチャンスを逃すはずはなかっただろう。だから、彼が聖母に会えたのはその時だったかも知れない。
 あるいは他の機会だったかも知れないが、彼は絶対にどこかで聖母に会ったはずだ。聖パウロの第二、第三宣教旅行の途中やその合間にも訪ねる機会はあった。彼らの宣教で生まれたエフェソの教会が後に使徒聖ヨハネに司牧され、聖母もその町に住まわれたことを考えると、聖母とルカの接点は少なくない。使徒言行録を読めば、単なる記憶であれだけのものが書けたとは到底思えない。ルカはこまめに記録し、資料をためたのだと思う。福音書でも同じで、彼は調べに調べ、資料を基に時間をかけて書いたのだと思う。

 そこで、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」という一節が、「なぜルカは聖誕のことをあのように書けたのだろうか?」という疑問を解いてくれるのだ。なぜなら聖誕物語は、真実を証言者から確かめようとした記者精神旺盛な聖ルカがいたから文書化されたが、聖母がずっと心に納めてくださっていたからこそ伝えられた真実だからだ。ルカはまさに最高の証言者から「すべてのことを初めから詳しく」教えてもらい、福音書に書くことができた。聖母こそその真実の源泉だったのだ。 
 主の聖誕や幼少時のことを話してもらった時、きっとルカは聖母がすべての事柄をどれほどしっかりと心に納め、どれほど神様のなさった不思議を思い巡らして来られたことかと感嘆したに違いない。それが19節の表現になったのだと思う。私さえ67年前の終戦のことや63年前の自分の洗礼の時のことをはっきり覚えている。ましてや聖母が、わが身に起こったあれほどの出来事を鮮明に覚えておられなかったわけがない。きっとあたかも昨日のことのようにお話しになったのだろう。
 そう想像して読むと、ルカが書き記した1章と2章には聖母マリア様の息づかいが感じられる。彼が書いたことは聖母の口から聞いた救いの始まりの神秘だった。だから、私はここを読むとき、聖母が語ってくださった出来事には聖母ご自身の言葉があると感銘を受けるのだ。ただし、ザカリアの預言(ルカ1;67-80)などは、聖母がそこまで覚えておられたのかなぁと疑問に思う。これらはルカが神様の霊感によって、旧約聖書を参考にしながら書き足したのではないだろうか。

 気付いたことの三つ目は、聖母ご自身が目撃者でも当事者でもなかった出来事については、聖母はどのようにして知ることができたのだろうかという謎だ。その一例に天使が羊飼いたちに現れて、救い主の誕生を告げた出来事がある。聖家族は彼らの野宿の場所にはいなかったから、当然天使たちを見ておらず、そのメッセージも聞いていなかった。それなのに聖母はどうしてそれをあたかも目撃者だったかのように、ルカに話せたのだろうか?羊飼いたちから聞いたから、というのがその答えだろう。そうだとすれば、おそらく羊飼いたちと聖家族の間には、次のような会話があったのではないかと想像できる。

羊飼いたち 「こんばんは!」
ヨセフ 「無断でここを使わせてもらいましたが、そのことで来られたのですか?」
羊飼いたち 「いいえ、違います。わしらは野宿中、天のみ使いから救い主キリストのお誕生を知らされたんです。それでそのお方を拝みに駆けつけたんですが、赤子はどこですか?」
ヨセフ 「そうだったんですか。でも、どうしてここだと思ったのですか?」
羊飼いたち 「天使のお告げの後すぐ出かけますと、不思議な星がここの上に留まったからです。」
ヨセフ 「そうでしたか。」
羊飼いたち 「救い主である赤子を拝ませてくださいまし。」(以上「イエスが行くⅠ」からの抜粋)

 産後間もない聖母は赤子の傍にいただろうから、羊飼いには聖ヨセフ様が応対したが、彼は牧畜用の小屋を自分たちが無断使用したことで、羊飼いたちが怒って来たのかと心配した。聖母はその会話も聞いていて、それも心に納められた。案じたのとは裏腹に、羊飼いたちは御子を拝むと、もっと詳しく天使たちが何をし、何を言ったか、自分たちがどうしたかを話したことだろう。だから、聖母はルカに羊飼いたちのことや天使のことを、目撃者のように語れたのだと推察する。
 ところでそのことからわかる副産物がある。それは実際にはあったのに、ルカが省いた事柄もあっただろうと思われる福音書記述事情の覗き見だ。上述の羊飼いたちと聖ヨセフの会話はその一例だと言えよう。そういう会話がなかったら、聖母は羊飼いたちが訪ねて来たわけや、彼らが体験した出来事を知る由もなかっただろう。ルカは聖母がそれらのことを羊飼いから聞いたとは書いていない。だが、実際はそうだった。しかし、ルカはそういう会話を福音書には不要だと判断して省略したのだと思う。そして、それはそれでよかった。簡潔は饒舌にまさるからだ。

 18節の証言もまた、目撃者でも当事者でもなかったのに、聖母がルカに語ることができたことの一つだった。聖母が主の聖誕直後に人々のところ行ったとは考えられない。それなのに、どうして聖母は「聞いた者が皆、羊飼いたちの話を不思議に思った」とわかったのだろうか?それは羊飼いたちかヨセフ様から聞いたからに他なるまい。そして、それが羊飼いたちからなら、ここでも一つの副産物が生まれる。羊飼いたちが2回以上訪れた可能性を想像する面白さという副産物だ。
 なぜそう想像するかと言うと、もし羊飼いたちが一度来ただけだったら、聖家族は人々が不思議がっていた話を知ることができかったはずだからだ。しかし、羊飼いたちが2回以上訪れたと考えれば筋が通る。話を聞いた人々の中には他の群れの羊飼いもいただろう。彼らは自分たちも見てみたいと、最初に行った仲間の羊飼いたちに赤子の居場所を聞いて、自分たちも拝みに行った。それが2回目以降の羊飼いたちで、彼らが人々の反応を聖家族に話したということになる。
 そう考えると、「聞いた者が皆、羊飼いたちの話を不思議に思った」ことを、どうして聖家族が知り得たかもわかる。聖母はそれを覚えておられた。だから、数十年後にルカはそれを聞くことができたのだ。天使のお告げからイエス様の少年期まですべてがそうだった。私たちが今それを知ることができるのは、すべてのことを心に納め、思い巡らし続けてくださった聖母と、それをその福音書に書き残しておいてくれた聖ルカのおかげだ。これにはどんなに感謝しても感謝しつくせない。

希望の年

“見上げたら、年が明けた朝の大空は、青く高くどこまでも広がっていた。
東天からは、昇ったばかりの太陽が、やわらかな日差しで微笑みかけて来た。”

と、そんな朝を期待していたが、実際は弱々しく薄日が射す、薄曇りの元旦だった。
しかし、気持ちの大空は青く高く、心の太陽である主の光が照らす世界晴れ!

このサイトを訪れる人はわずかだが、そんな気持ちなので今年はすべての人にごあいさつする。
   世界中のみなさん、明けましておめでとう!

今年2012年は友人、知人たちには次のような絵柄の年賀はがきを書き送った。そして、その絵には白抜きの字で言葉をつづった。ここではそれと同じだと読みづらいから絵の下に掲載する。よかったらご覧あれ。

公園の小道

“わが家に近い成瀬山公園には
いつの間にかできた小道がある。
くねくねした土の道だからか、それは心をなごませる。
ここの早春は冬枯れの草地の緑で始まり、 
やがてうっすらと木々が芽吹きの色を帯びると、桜が咲く。
そうなればもう春。あたりはみるみる春いっぱいになる。   
震災苦後のこの年もそのようであってほしい、希望の年。”

そう、年が明けて切にそう思う。
この年が希望の年となるようにと。
ご多幸になどと、通り一遍に言う挨拶ではなく、
家のない人が眠れる家を見つけ、
職のない人が仕事にありつけ、
極限の苦痛にある人が少しは安らぎを得、
普通の人が安心して生きられ、
ささやかでもほんとうの幸せを味わえる、
そんな希望のある年となるようにと祈る。

余生風
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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