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主の再臨と万民の裁き 一部分敷衍

 マタイ25;31-46にある終末の裁きの場面で、王座の主は呪われた者たちの質問に、「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」と答えられる。11月19日のコラム「主の再臨と万民の裁き」でそのことを注釈した際、私はふと念頭に湧いた疑問を、あたかもその裁きに批判的な誰かが異論をさしはさんだかのような設定で、次のように書いて挿入した。
 「でも、王のこの答えを聞くと、ひょっとしたらへそ曲がりの人がいて、『自分によくしてくれたから報い、そうでない人を罰するのでは、自分本位のお返しと報復ではないのか?それに、そのような報復は「敵をも愛せよ」という教えと矛盾しないのか?』と批判するかも知れない」と。
 ところが、軽い気持ちで書いたのに、それを文字にした後で反論してみようとしたら、何となかなか納得のいく答えが見つけ出せなかった。「困ったな」と少々狼狽し、何とか苦肉の答えを書くには書いたが、もしこの疑問を突然誰かから言い出されていたのだったら、おそらく私はしどろもどろだったに違いないと、それ以後気になっていた。そこで、一旦は掲載したコラムからその異論だけを削除し、論議の場を改めてここに移して考察し直してみることにした。

 そうは言っても、この問題にはここで扱うほどのこともなさそうな事柄と、どうしても取り組まなければならない事柄がある。そこで、省エネ的に考察を進めるため、まず前者を手短に片づけてから、後者をじっくり取り上げてみる方法を取ろうと思う。では、扱うほどのこともなさそうな事柄には何があるかというと、私は二つあると見る。一つは祝福された者たちへの報い、もう一つは呪われた人々の罰そのものだ。 
 祝福された者たちへの報いがそれに当たると思われるわけはこうだ。「私の脳裏に出現した批判者」(以後「反面批判者」と呼ぶ)は、王が自分によくしてくれたからと言って祝福された人々に報いるのは、逆の場合の罰と同様、自分本位だと批判する。しかし、報いとは好意的なお返しなので、彼は仕返しの罰に対してのようには強く反発していない。それに、報いが自分本位のお返しなら不純だとは批判するが、報いそのものは否定せず是認している。それなら反対は根本的なことでも強くもないのだから、そういう事柄をあえて詳しく取り扱うこともあるまいと思うのだ。
 呪われた人々の罰そのものもここで論じる必要はないと思う。王は彼らに永遠の罰を宣告するが、反面批判者がそれに異を唱えるのは、それが自分本位の報復で、やり方が罠にかけたようで汚く、愛の掟と矛盾すると見るからだろう。だが、悪人に罰があること自体を否定しているわけではない。ならばこの事柄も横に置いてよかろうと思うのだ。ちなみに、もし悪人に対する罰自体を否定するのだとしたら、それは別の大変な聖書的問題となり、議論を別にしなければならなくなる。

 してみると、どうしてもここで取り組まなければならない事柄は、次の疑問に限られてくると思う。
(1)王が自分によくしてくれなかった人々を罰するのは、自分本位の報復ではないのか?
(2)そのような報復は、「敵を愛せよ」、「人を赦せ」、「人を裁くな」という教えと矛盾しないのか?
(3)自分によくしてくれなかった有限の罪に永遠の罰を課するのは、均衡を失してはいないのか?

 では、そのような疑問で表現した批判が妥当かどうか、ここから検証してみることにする。まず(1)「王が自分によくしてくれなかった人々を罰するのは、自分本位の報復ではないのか?」という疑問だが、それは否だとはっきり言える。罰はそういう報復ではない。答えは福音書をよく読めばおのずと出てくる。王が永遠の罰の理由を、「わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、…牢にいたときに訪ねてくれなかったからだ」と言ったとき、呪われた人々はそれにまったく心当たりがなかった。その事実が報復ではないことの証明になる。なぜか。
 実際、王が「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」、逆に「そういう一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったこと」だという神秘を打ち明けなかったら、彼らはそんな真相を思ってもみなかったに違いない。もし彼らに思い出せることがあったとしたら、それはあの浮浪者に食べさせ、あの病人を励ましてあげたこと等、あるいは逆に、あの浮浪者にもあの病人にも何一つしてやらなかったこと等だけだっただろう。
 ということは、彼らが行った愛の業は、彼らが人生の途上で出会った生身のこの人あの人に行ったことを意味し、逆の場合はそうしなかったこと意味する。そこが重要なポイントなのだ。王は彼らが隣人たちにしたその客観的な行いを裁きの基準にしている。つまり、自分を基準にしていない。隣人本位なのだ。ただ、その隣人たちの中にはご自分がおられた。だから、その者たちにしたことは自分にしてくれたことと同じだと啓示してくださったのだ。だがその基軸は小さな者たちにある。
 従って、もしも王が、小さな者の一人にしなかったのは自分にしてくれなかったことだと明かさなかったら、反面批判者もその裁きが自分本位の報復だと批判することなど、考えつかなかっただろう。主がその神秘を明かしたばかりに、彼は主の裁きに異を唱えた。だが、呪われた人々がしなかったのは実際は隣人に対してだった。ただ、同時に隣人の中におられる主に対してでもあった。それがわかれば、王の裁きが自分本位の報復だという批判が、的外れであることもはっきりする。
 この問題で私はテレビドラマの「浅見光彦」シリーズを連想した。殺人事件によく出遭う彼は、難事件を解決する名探偵そこのけの雑誌リポーターだが、事件の度に担当の刑事たちから、最初は疑われたり邪険に扱われたりして、相手にもされない。ところが彼の素性を調べて、警察庁刑事局長浅見陽一郎の弟だとわかると、刑事たちは態度を一変させ、へこへことへつらい出す。権力を笠に着る人間は権力に弱い。このドラマには毎回その情けない本性を暴く笑える瞬間がある。
 刑事たちは言う。「浅見先生もお人が悪い。最初からそう言って下さればよかったのに」と。片や終末の裁きで罰される人々は、「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、…牢にいたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか」と言うが、それはさもさもこう言いたげな尋ね方だ。「主よ、最初からそれがあなただと教えてくださったらよかったのに…もしそうだと知っていたら、絶対にお世話しましたのに」と。浅見光彦の素性を知ってへつらい出す刑事と似ていないだろうか?
 しかし、小さな者の一人にすることが主にすることであり、それをしないと永遠の火に入る羽目になるからと恐れて隣人によくしてやるならば、行為自体は善でも、その意図は純粋とは言い難い。それこそ自分本位だ。本物の愛の業はそういう打算ではなく、サマリア人が腹の底からの憐れみに衝き動かされて、傷ついた旅人にしてやったようにするものだ。祝福された人々がそうで、彼らは主だとは知らずに隣人によくした。だからこそその行いは純粋かつ本物で、価値があったのだ。
 他方、呪われた人々は小さな者たちが苦しんでいても何もしなかった。門前の飢えたラザロを見殺しにし(ルカ16;19seq.)、旅人が倒れていたのに見ぬふりをして通り過ぎた司祭(同10;31)と同じだ。その共通点は怠りの罪、つまり何もしない罪だ。隣人にしないことは主にしないことだと知らずにしないからこそ、むしろその罪の本物度がわかる。呪われた人々への罰とは、そういう罪そのものに対する評価に他ならない。王の自分本位の報復ではなく、彼ら自身の行いに対する報酬なのだ。

 では、次の疑問に回答を試みてみよう。(2) そのような報復は、「敵を愛せよ」、「人を赦せ」、「人を裁くな」という教えと矛盾しないのか?という疑問だ。確かにこの疑問は聖書に根拠がないわけではない。例えば、イエス様は「人を裁くな。あなたも裁かれないようにするためである」(マタイ7;1)と言われ、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(ルカ6;27)、「もし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」(マタイ6;15)とお教えになった。それが主の教えであることは間違いない。
 とは言え、永遠の罰がそれと矛盾すると言う批判は当たらないのだ。そこには2つの見落としがある。その一つは、「何事にも時がある」(コヘ3;1)ということだ。隣人を愛し、その罪や過ちを赦すのは福音の核心的教えだが、愛と赦しにも時がある。生きている限り、人は隣人を愛し、赦さなければならない。だが、いつまでもではない。人は死ぬし、主の日が来るからだ。その時は愛と赦しの期間が終了し、決算の時となる。まさに裁きの時だ。反面批判者はまずそのことを忘れている。
 裁きが愛に反すると言う人は、イエス様が何回も世の終わりと裁きがあると告げたことも思い起すべきだろう。主は言われた。「時が来ると、墓にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出てくる。…わたしの裁きは正しい」(ヨハネ5;29-30)と。「裁くな」「赦せ」というお言葉を根拠に批判するのなら、裁きについてのお言葉も示す必要がある。それを伏せて、都合のいい根拠だけを並べる批判は一面的でしかない。救いは順序と段階を踏んで完成するもので、時を無視した抽象論ではないのだ。
 もう一つの見落としは、呪われた人々にも善を行うに十分な時間とチャンスが与えられていたことだ。イエス様が世の終わりと裁きを告げ、それが来る前にそれぞれ神様の御心を行うよう奨めた例はたくさんある。その中でも特に興味深いのは毒麦の譬え(マタイ13;36-43)だろう。ある人が良い種を蒔いた。ところが人々が眠っている間に、敵は毒麦を蒔いた。麦と一緒に毒麦も芽を出したので、僕たちが「抜き集めましょうか」と言うと、主人は「いや、麦までいっしょに抜くかも知れない。刈り入れまで、両方育つままにさせなさい。刈り入れのとき、刈り取り人に『毒麦は焼き、麦の方は倉に入れなさい』と言いつけよう」と答えた。そういう譬えだ。
 主はこの譬えを説明して、主人は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪人、敵は悪魔、刈り入れは世の終わり、刈り入れ人は天使だと言われた。ここで非常に興味深いのは、麦も毒麦も刈り入れまで育つままにさせることだ。それは善人も悪人も世にいる限り共に生きさせるという比喩で、神様は人を悪人だからと言って地上から断たない。死ぬまで、あるいは主の日まで待たれる。それは神様が徹底して待ちの神様であることを物語っている。
 では、神様は何を待たれるのだろうか?それは改心だ。福音書には書かれていないが、毒麦と違って悪人は改心によって善人に変われる。もしも人が変れない存在なら人生は決定論的になるから、悪人に責任はない。しかし、人は変れる。神様が待ちの神様であるのは、人が改心して変わるのを待っておられからだ。だからこそ神様は悪人が死ぬ最後の最後まで、そのチャンスを与え続けられる。そればかりか、福音を信じて御国の子となれるよう、ありとあらゆる働きかけをしてくださるのだ。
 十字架上で、「イエスよ、あなたの御国においでになるときは、わたしを思い出してください」(ルカ23;42)と言った盗賊の一人はそのチャンスを活かした人だった。それなのに、最後の最後まで頑なに改心せず、悪に留まる人がいるとすれば、それはその人が自ら「炉の中に投げ込まれる」選択を意思決定することに他ならない。主が「愛し、赦し、裁くな」と教えられたのに、最後までそれを行わなかった者が、その教えを盾に罰を非難できるだろうか?それは盗人猛々しい類の詭弁になる。
 イエス様はある夜、ニコデモに話された。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、世が救われるためである。…信じない者はすでに裁かれている。…光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇を好んだ。それがもう裁きになっている」(ヨハネ3;17-19)と。実に意味深く、示唆に富むお言葉だ。主は裁くためではなく、救うために来られた。しかし、主が裁かなくても、闇を好む者は自らの行く先を闇と決めてしまう。自ら先に裁きを始めるのだ。
 マタイ25;46には「この者どもは永遠の罰を受け」とあるが、原典に従えば「永遠の罰に入る」が正しい訳だ。そこには自らを祝福に値しないと認めて、「入れられる」というよりは自ら「入る」という意味合いがある。神様は愛のままだが、それを最後まで拒んだ人はその時悟るのではなかろうか、自分が闇に染まり、神の愛から断絶したことを。だから主は「それがもう裁きになっている」と言われたのだと思う。王の裁きはその事後認定に他ならない。ゆえに愛の教えとは矛盾しないのだ。

 さて、ここまではかなり力んで私の内なる反面批判者に反論してきたが、第3問には余裕をもって当たりたい。では、(3)自分によくしてくれなかったという理由で永遠の罰を与えるのは、均衡を失してはいないのかという疑問にはどう答えたらいいだろうか?こう答えよう。そう、その通りである。不釣り合いだ。でも、それではいけないのかね?と。そもそも人間の小さな行為に、神様が永遠の命で報いるなどということ自体が、とうてい対価の次元では語れない事柄だからだ。
 裁きの譬えは「こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである」というナレーションで終わる。ところで、正しい人たちの方に注目すると、その報いがいかに不釣合いなものかよくわかる。永遠の命にあずかるとは、神様の至福の中で無限に生きるということだが、本来なら祝福された人々すらそれにあずかる資格などないからだ。分不相応なのだ。それなのにあずかれるのはひとえに神様の好意、つまり愛による。無償の恵みなのだ。 
 それはぶどう園の労働者のたとえ(マタイ20;1-16)に通じる。ぶどう園の主人は早朝からの労働者にも、夕暮れ前1時間しか働かなかった労働者にも1デナリオンを支払った。それを不公平だと不満を言った早朝からの労働者に主人は答えた。「わたしはこの最後の者にもあなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それともわたしの気前のよさをねたむのか」と。最後の者への報酬は労働の対価以上に、好意の賜物だった。
 主の裁きでも同じで、王は人々が隣人によくした行為の対価として永遠の命にあずからせるのではない。「最も小さな者の一人」に良くしたからだ。しかし、それが百人、千人、万人に対してであろうとも、人の善行はしょせん有限で、永遠の対価にはならない。では、なぜ神様は彼らをそんなに不釣合いな永遠の命にあずからせるのだろうか?「この最も小さな者の一人」の中には主がおられ、そんな一人にすることは永遠の主にする、永遠の価値があることに等しいからなのだ。
 「この者ども」と言われる人々の場合はその逆だと考えればいいだろう。彼らは正しい人たちがあずかれる永遠の命にあずかれない。そこから除外される。それが永遠の罰と言われる状態だ。しかし、それは何ら均衡を失してはいない。なぜなら、祝福された人たちの善行ですら、とうてい永遠の命にあずかれるような対価ではないのであれば、ましてや何ら善を行わなかった者たちの人生に、その対価があることなどあり得ようはずがないからだ。
 それはあのタラントンのたとえ(同25;14-30)にも通じる。10タラントンと5タラントンを託された僕は、儲けた分を含めて2倍のお金をもらえた。それに比べ、1タラントンを預かった僕はそれを死蔵して、利息すら得ずに主人に返した。だから、「不忠実で悪い僕だ」と叱られ、その1タラントンをもらえずに取り上げられてしまい、職までも失った。しかし、主人はその僕からそのお金を奪ったのではない。それはもともと主人のものだったからだ。永遠の罰もそれに似ている。
 主の裁きにおける「呪われた者ども」は、金持ちとラザロの譬え(ルカ16章)の金持ちのように、「この最も小さな者の一人」がいろいろ苦しんでいたのに、何もしなかった人々だ。その回数や量にかかわりなく、その怠りの罪もしょせんは有限なものだから、永遠の罰の対価ではない。しかし、「この最も小さな者の一人」にしないことは、その背後におられる永遠の主にしないことに他ならない。だから、永遠の命にあずからせてはもらえないのだ。
 人は永遠の命と永遠の罰を善行と悪行の対価だと受け止めやすい。だから、永遠の罰は厳し過ぎて不公平ではないかというような疑問を抱く。しかし、永遠の罰は永遠の命と同様、人間的行為の対価ではない。永遠の命という、分不相応な恵みに与れないだけのことなのだ。では、そんな恵みを拒絶したのは誰かと言えば、闇を好んだ「この者ども」自身に他ならない。裁きとはその選択の結果の認定だ。従って、不満をぶつけるべき相手はそのような選択をした自分自身なのだ。
 それにしても罰を、永遠ではなく有限には変更できないものかと、呟く人がいるかも知れない。神様は全能だから、なさろうと思えばもちろんできる。しかし、聖書にはそういう言及は一切ない。むしろ「わたしから離れ去り、永遠の火に入れ」のような、逆の断言が圧倒的に多い。それを見る限り、永遠の罰が有限に変えられることはないと考えていいだろう。人は神様に似せて創られたから、魂は永遠に生きる。だから、罰も必然的に永遠になる。それが論理の帰結だ。
 永遠の罰はしばしば「永遠の火」、「燃え盛る炉」(マタイ13;42)、「この炎」(ルカ16;24)などと書かれているが、それは激しい苦しみの比喩的表現に過ぎない。なぜなら炎に悶え苦しむのは肉体だが、永遠の罰は魂の苦しみだからだ。では、その罰の本質は何かと言えば、「わたしから離れ去れ」という一句にヒントがある。永遠の罰とは積極的に加えられる苦しみではなく、あるものが絶対的に欠如する苦悶だと思う。あるものとは、愛の交わり、永遠の至福、変れる望みだ。

 長々と書いたので、これを読んだ人の中には、「まだそんな非科学的なことをまともに信じているのか。ばかばかしい」と、私をあわれむ人がいるかも知れない。私の中の反面批判者も時々そういう言葉を私に囁く。しかし、私は若き日に主の福音に出会って、生涯をそれに賭けて来た。これからもそれに賭ける。そして主の日に、「いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたりするのを見て、お世話しませんでしたか」と尋ねなくてもいいよう、隣人愛だけは心がけて生きたい。
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気を付けて、目を覚ましていなさい

 またもや待降節が巡って来た。典礼はB年になるので、第一主日の福音はマルコ13;33-37だ。読んでみると、そのメッセージは「気を付けて、目を覚ましていなさい」に尽きる。なぜ目を覚ましていなければならないのかというと、「その時がいつなのか、あなたがたにはわからないから」だと主は言われる。では、何のために目を覚ましていなければならないのかというと、主が来られる再臨と裁きの日が近づいているからなのだ。この主日の福音は私たちにそのことを黙想させる。
 そう言うと、「何だ、それでは年間の主日の終わりごろ、マタイの福音書を通して、世の終わりと主の裁きを数回学んだことの続きではないか。待降節らしくない」と呟く人がいるかも知れない。だが、それはむしろ待降節にふさわしいテーマなのだ。なぜなら、イエス・キリスト様の再臨を想起することが待降節の目的の一つだからだ。もちろん待降節は降誕祭を待つ期間だが、主はすでに降誕されたから、もう私たちが降誕を待つ必要はない。今私たちが真に待つのは再臨の主なのだ。
 従って、この福音の箇所が読まれるのは少しもおかしくはない。むしろ当然なのだ。典礼の一年は360度の円のように循環する。円の1度は360度の続きで、それに一番近く隣り合っている。それに似て、典礼の1年では年の最初の待降節第1主日が、前年度最後の「王であるキリストの主日」の続きで、一番近く隣り合い、主の再臨と終末の日のテーマを継続する。十人の乙女のたとえ、タラントンのたとえ、王の裁きの予言に続いて、待降節第1の主日の福音もそれらと同じテーマを語るのはそのためだ。
 そのことはこの箇所の前を遡って読めば明白になる。マルコによる福音書13章は主が終末の徴を教え、イスラエルの民に大きな苦難が来ること、その後で天変地異が起こって、人の子が来ることを予言なさった個所だ。それはマタイ24章と並行し、王であるキリストの主日に読まれたマタイ25;31につながっている。マルコ13;33-37はその大いなる予言の結びに他ならなない。だからこそ、「気を付けて、目を覚ましていなさい」と呼びかけているのだ。

 同章34-36節はそれをわからせるための短い譬えだ。それは主の再臨を、旅に出たある主人が僕たちに仕事を割り当て、門番には目を覚ましているように言いつけておくのに喩えている。主人の帰りがいつかは誰にもわからない。しかし、いつか帰ってくるのだから、突然帰って来て、僕たちが眠っているのを見つけるかも知れない。だから、目を覚ましていなさいと警告する。この言葉はこの箇所全体では3回も繰り返されている。いかに強く念を押しているかがそれでわかる。
 ところで妙なことに、途中から2人称の「あなたがた」が、登場人物の僕たちと入れ替わっている。読者はそれに気付いただろうか?従って、「いつ家の主人が帰って来るのか、…あなたがたにはわからないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかも知れない」となっている。おそらくマルコが不注意で混同してしまったのだろう。だが、怪我の功名と言えようか、それはいつの間にか私たちを彼ら僕たちの立場に置き、それを自分のこととして自覚させてくれる。
 ただ、この譬えの主従関係は現代ではいささか縁遠いものになっている。夜通し起きて待ちなさいと命じる主人など、今どきいなのではなかろうか。そう考えると、この譬えはそれなりに有益ではあるが、それを微に入り細を穿って解説する必要はあるまい。ここで大切なのは「気を付けて、目を覚ましていなさい」という2語だけだ。そこで若干の解説が要るのは、何に気を付けるべきか、目を覚ましているとはどういう意味かについてだけだと思う。

 では、まず「目を覚ましていなさい」という勧めを考察してみよう。それは終末の譬えや預言ですでにマタイの福音書24;42、25;13にも出てきた。その意味はすでにその時のコラムで述べたから、ここではその再確認だけで十分だと思う。ここで言う目を覚ましているとは肉体的に目覚めていることではなく、心が覚醒していることに他ならない。体には眠りが必要だが、心はいつも目覚めていられる。それは主の福音の教えを自覚し、それに従って生きることを意味する。
 聖パウロもまったく同じ表現で、「目を覚ましていなさい」(一コリ16;13)と言っている。テサロニケの信者たちには「兄弟たち、その時と時期についてはあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがたはよく知っているからです。…従って、ほかの人のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう」(一テサ5;1-3,6)と励ましている。では、なぜこの言葉がしばしば口にされたのだろうか?
 初代教会では、主は間もなく再臨なさると信じられていた。「主の日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることはありません」(一テサ4;15)というような言葉からすると、聖パウロ自身もそういう心待ちの心境だったのだと推察される。しかし他方では、「言われているようには主はすぐ来られないではないか。本当に来られるのだろうか」という疑問も生じていた。だからこそ「目を覚ましていなさい」という勧告は繰り返し語られ、強調されたのだと思われる。

 では、もう一つの言葉、「気を付けて」とは何に対して気を付けてと言っているのだろうか?「目を覚ましていなさい」は、その日その時がいつかわからないからという理由からだった。それも気を付けるべきことの一つだが、それだけではない。他にもあるということを、この「気を付けて」は示唆しているのだと思う。十人の乙女の譬えの油の意味するもの、タラントンの譬えのタラントンの活かし方なども「気を付けて」の対象だと言えよう。
 しかし、現代においては、気を付けるべきことはまだ他にもあると思う。悪い僕の譬え(マタイ24;48-51)では、不忠実な僕は主人の帰りが遅いと思って仲間を殴ったり、酒を飲み始めたりする。ましてや現代人はなおさらだ。「2千年経っても主は来られなかった。ならば今後もまだまだ来ないだろう」と思いやすい。そう思って、現世のことにかまけてしまう心の緩みは、現代人がかなり「気を付け」なければならないことの一つだろう。だが、もっと気を付けなければならないことがある。
 それは「主の再臨も終末の裁きもない。そんなのはみんな嘘で、無知だった昔の教えに過ぎない。現代ではそんなものは無視していい。むしろ人生を思うままに暮らすのが一番さ」と、主の福音の根幹を否定する思想だ。しかし、主はすでに「人に惑わされないように気を付けなさい」(マルコ13;5)と教えてくださった。主は終わりの時には、偽キリストも大勢現れると警告なさった。それはすでに現れている。最も気を付けなければならないのは彼らから出る思想の汚染だと思う。 

主の再臨と万民の裁き

 根っからの庶民である私は、王とか天皇とかがあまり好きではない。現在の天皇は尊敬するが、他の天皇は嫌いだ。外国の王たちの多くにも好意が持てない。しかし、イエス・キリスト様が王であることだけは100%納得し、この王の旗印もとにいられることを誇りとし、感謝している。この2011年度は11月20日がその王であるキリストの主日で、福音はマタイ25;31-46だ。
 教会は主イエス様が「王であるキリスト」だと宣言している。十字架上の罪状札には「ユダヤ人の王ナザレのイエス」(ヨハネ19;19)と書かれていたが、復活はその意味をまったく変えた。天父が主を復活させたことによって、「ナザレのイエスはメシア(正確にはマーシアハ)である」と証明されたからだ。クリストス(キリスト)とはそのギリシャ語訳だ。だから、それ以来イエス様は「ユダヤ人の王」ではなく、イエス・キリスト(メシアであるイエス)と呼ばれるようになったのだ。
 メシアとはもともと聖油を注がれた王や祭司を指したが、後世になると救世主だけの称号となった。ところで、それはイエス様にだけ当てはまるから、主は王であるキリストでもあるわけだ。注意したいのはそれが「キリスト王」ではないことだ。「キリスト王」なら、ダビデ王とかアーサー王とかのような歴史上の王の一人に過ぎなくなる。しかし、王であるキリストとは、イエス様が王的メシアとして生まれたばかりか、万民を統べる王の中の王であることを意味する二重の称号なのだ。

 マタイ25;31-46は人の子の再臨とその裁きを予言するが、人の子はまず王として栄光の座に着く。それはまさに王であるキリストに他ならない。そして、すべての国の民を集めて裁きを始める。昔イスラエルでは裁きは王が行った。これはそのスタイルに喩えた終末の裁きの予言だ。他方、裁かれる人々は羊と山羊に喩えられている。気が強い山羊は狼などに立ち向かうので、牧者はしばしば羊の群れに混ぜた。しかし、毛を刈る時などは分別した。身近な例だとわかりやすいので、イエス様はそんな比喩を使って弟子たちに話されたのだろう。
 「人の子」という表現だが、主は地上におられた間、ご自分をしばしばそう呼ばれた。その例はマタイ16;13、20;18、24;30、26;24,64などにある。それは伝統的に知られた聖書の表現(ダニエル7;13)で、イスラエル人ならそれが何を意味するかよくわかった。ある意味では「神の子」よりも意味深長だったのだ。ところで、それは十字架で死なれたが復活された主において成就した。そして、天に昇られた人の子は、ここでは再臨した栄光の王として万民の前に現れるのだ。 

 続く33-46では王の裁きが展開される。しかし、それは予言であって、世の終わりに実際に行われると想定される裁きそのものとは違い、あるサンプルを登場させた「裁きのたとえ」めいた描写のように思える。私がそう見るわけは、羊と山羊を分けたように人々を分ける比喩からしてもう譬え的だし、登場人物も王と天使たち、そして王の右側と左側にいる「お前たち」だけで、すべての国の民にしては少な過ぎると思えるからだ。従って、あまりリアルに解釈すべきではないと思う。
 それにもかかわらずこの箇所はいわゆる意味が隠された譬えとは違い、意味もメッセージもはっきりしている。それはいつか訪れる主の再臨の時の予言であり、その内容は、人の子が王として万民を裁くこと、王が祝福された人々に御国を受け継がせること、その国は天地創造の時からそういう人たちのために用意されているものであること、そして、呪われた人たちは永遠の罰を受けることにある。比喩的な表現を捨象すると、これらの予告はそのものずばりの真実なのだ。

 さて、王は右側の人たちに言う。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちに用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」と。彼らが祝福された理由はこのような行いだったことが明らかにされる。 
 しかし、王の前にいる人々の数同様、ここに列挙された行いもまたサンプルであって、全てを網羅しているわけではない。もちろん、それらが代表的な例であることは間違いないが、祝福に値する行いはそれだけに限られないからだ。その他にも、例えば難民を助け、被災者を励まし、悩む人に寄り添い、DVに怯える人を守り、迷った人を助ける等、大事から些事に至るまで枚挙にいとまがないほどある。従って、この6例を行った人だけが御国を受け継ぐわけではない。
 天の父がその人たちを祝福する理由は明瞭だった。しかし、右側の人たちにはそれほどではなかった。そこで合点がいかなかった彼らは王に質問した。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いているのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」と。
 すると王は答えて、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言った。この答えから二つのことがはっきりわかる。まずここで話題になっている行為はそれ自体が祝福に値すると言うことだ。次にそれを「この最も小さい者」にしたことは王である主にしたことに他ならないと言うことだ。言いかえれば、それは主が「この最も小さい者」の中におられるということを意味する。祝福の理由はそこにあった。
 私はここに「神を愛し、隣人を愛せよ」という最も重要な掟の最高の実現を見る。「飢えていたときに食べさせる」等の行いは、それ自体が祝福に値する。なぜなら「隣人を自分のように愛しなさい」という掟の実践だからだ。そして、それを「最も小さい者」にすることが主ご自身にすることなら、それは「あなたの主である神を愛しなさい」の掟の実践にもなるからだ。二つの掟の実践が一つの行為の中で実現されるのだから、見事な合流ではなかろうか。
 そこで、どんな人が御国に迎え入れられるかがはっきりする。基準は愛だ。愛を行った者が迎え入れられる。信仰によってではない。もちろん、どれほど深く広く学問を究めたかでも、どれほど資質才能を生かして成功したかでもない。従って、そのメッセージもはっきりしている。「右側の人たちがしたように、あなたも行って同じようにしなさい」ということだ。福音書に親しんでいる人なら、これがサマリア人の譬えで最後に言われた勧めと同じことにすぐ気付くだろう。 

 こう書くと、人は信仰によってのみ救われるのではないのか?と異論が出るかも知れない。ある牧師さんの解説を読んだら、裁きで問われる唯一のことが愛の業だと認めながら、まさにその異論とどう折り合いをつけるかに苦心しているように見えた。私はこう思う。確かに聖パウロは「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」(ロマ2;6)と言った。しかし、「義とされる」と言ったが、「神の国に入れる」とは言っていない。信仰義認偏重はそれを取り違えている。 
 また、彼が信仰と対立させて言う「律法の行い」とは、モーセの十戒や割礼等、旧約のもろもろの律法の実践を指し、福音的な愛の行いを意味してはいない。むしろ彼は救いがこの愛によると考えていた。だから、「愛は律法を全うするものです」(ロマ13;10)と書き、「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。…信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(一コリ13;2)と称揚したのだ。
 では信仰は無意味なのだろうか?いや、そんなことは断じてない。だが、その答えを得るには、そもそも信仰とは何かを問い直す必要がある。聖パウロは「アブラハムの信仰が義と認められた」(ロマ4;9)と書いたが、すでにイエス様はユダヤ人たちに、「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ」(ヨハネ8;39) 言われていた。では、アブラハムの業とは何だったか?信仰だった。これで信仰か業かと対立させることの間違いがわかる。信仰は彼の最高の行いだったのだ。 
 彼のように人は「信仰という行い」によって義とされる。つまり神様に受け入れられ、愛される。逆に、信じなければ、どうして神様の教えを真実で良いものと受け止め、それに従って生きられるだろうか。ところで、人が最終的に到達する信仰とは、神様が自分たちを愛してくださっており、天地創造の時から用意している国に入れたいと望んでおられることを信じることだ。即ち「神は愛なり」と信じる究極の単純さに尽きる。信仰とは教義体系などを受け入れることではないのだ。 
 神様が愛であることを信じてこそ、人はそれに応えて神様と人への愛も実践できる。知らなければ何も起こらない。信仰は愛のスタートなのだ。そこに信仰の意味がある。しかし、ゴールではない。信仰によって最大の掟が愛だとわかっても、わかっただけで何もしなければ何になろうか。何の実りもない。実践のない信仰は無駄花に等しく、穴に埋められた1タラントンと変わらない。そこで、はっきり結論できる。神の国に迎え入れられるのは愛を行った者だけだ、と。

 ところで、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」とはどんな人を指すのだろうか?「この最も小さい者の一人」とは、王が挙げた例からして、社会的な弱者、貧者、苦しんでいる者、脱落者などを指すと思う。豪邸で暖衣飽食し、何の心配もなく暮らしている富裕層の人たちではないことは確かだ。そして、「わたしの兄弟」とは、思想信条や民族人種にかかわりなく、イエス様がそういうすべての人たちをご自分の兄弟と見なされているという意味だ、と私は解して来た。 
 ところが3年前、W.グリム神父がカトリック新聞に書いた解釈を読んで私は衝撃を受けた。「『最も小さい者』とは誰のことでしょう?…小さい者は、弱くて苦しんでいる人のことではありません。それはイエスに従う者、キリスト者のことです。そうすると、キリスト者でない人は、キリスト者のために何をするかで裁かれるということでしょうか?そうではありません。他の人たちが私たちに仕えてくれるとしたら、その理由は、私たちがあまりにもみじめなので、あわれに思うからです」と書いていたからだった。その解釈に唖然とした私は反論を書いたが、それは今も変わらない。
 「小さい者は、弱くて苦しんでいる人のことではありません」とはまともな解釈だろうか?否だ。福音書は飢えている者、渇いている者、旅人、裸の人、病気の人、牢獄の人を列挙する。これが弱い人、苦しんでいる人でなくて何であろうか。王はそれらをまとめて「これらの最も小さい者」と言ったのだ。主は私たちがそういう人々を兄弟姉妹と受け止めるように、そして、そういう人々の中にご自分がおられることを悟るようにと、このことを教えられた。彼の解釈は明らかに誤りだった。
 「小さい者は、…イエスに従う者、キリスト者のことです。…他の人たちが私たちに仕えてくれるとしたら、その理由は、私たちがあまりにもみじめなので、あわれに思うからです」と言うに至っては呆れてしまう。それでは王が「祝福された人たち」と言うのは、キリスト者に良くした非キリスト者のことになるではないか。ならば、この予言は何のためにキリスト者たちに語られたのだろうか?それではまったく無意味なことにどうして気付かなかったのだろうか?掲載した新聞も新聞だが…
 その半面、その解釈はあまりにもキリスト者中心で、まるで裁きがキリスト者にしてくれた未信者への論功行賞みたいだと言わざるを得ない。もしそうなら、キリスト者が非キリスト者の最も小さい人々にしたことは、「わたしにしてくれたこと」にはならないのかという深刻な疑問を呼ぶ。例えば、マザーテレサが宗教に関わりなく臨終を看取って行為はそれに該当しなかったのか?キリスト者皆無の土地に行って、宣教師が未信者を助けても、祝福には何ら値しないのかという疑問だ。
 そんな解釈を聞いたら、ほとんどの人は「それはおかしい。そんな狭量な宗教なら何の魅力もない」と興ざめになるに違いない。それに、そもそもキリスト者は非キリスト者から「あまりにもみじめ」と哀れまれるような人たちかというと、実際は逆だと思う。真のキリスト者とはたとえ貧しく、弱く、義のために迫害されても、福音を信じてむしろ幸せな人々ではなかろうか。それに大金持ちのキリスト者もいれば、権力の座にあるキリスト者もいる。グリム神父の解釈は事実に反していた。
 今振り返ると、どうもその見解はエドムント・シュリンクの影響ではないかと思う。私はこの聖書学者をよくは知らないが、彼が「わたしの兄弟」をキリスト信者だと主張していると聞いた。理由は聖書に異邦人を兄弟と呼んだ根拠がないからだと言う。だが、それは誤解釈だ。なぜならイエス様が福音宣教期に接したのはほとんどイスラエル人で、異邦人を兄弟だと言う機会も、そう呼ぶ必然性もなく、そう呼んだことがなかったのは当然のことだったからだ。それだけのことなのだ。
 ある時、主は弟子たちに、「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(マタイ13;50)と言われた。このお言葉から、「わたしの兄弟」とは当然キリスト者を指すことは間違いない。しかし、だからといって、キリスト者以外は兄弟ではないという見解は間違いだ、と私は言っているのだ。さもないと、飢え、渇き、裸でいる人等を助けて祝福されるのはキリスト者がいる国だけに限られ、非キリスト者だけが祝福されるという奇妙な解釈になる。
 だが、実際は違うのだ。なぜなら、主はすべての人を救うために来られ、天の父を啓示してくださったが、神様が全人類の天の父なら、すべての人を兄弟と見なすのは論理の帰結だからだ。ヘブライ人への手紙も救いの神秘をそう理解したからこそ、「すべての人のために死んでくださった」主が、「彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」(ヘブ2;9,11)と書いたに違いない。従って、「わたしの兄弟」とはキリスト者をも含むすべての人々を指している。私はそう解釈すべきだと思っている。

 しかし、疑問がまだ二つ残る。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る」とは、マタイ24;29-31の短縮版だが、「すべての民がその前に集められる」ということは可能なのだろうか?これが疑問の一つだ。次は、人々の話す言語は無数なのに、ある言語で話す王の裁きがわかるのだろうか?という疑問だ。2番目の疑問は、聖霊降臨の日ペトロの説教が諸国からの人々にわかったように、何語であろうと、王の裁きも全ての人々にわかるだろうという解釈で解決できよう。 
 ところが1番目の疑問は、現代の科学的知識で理解しようとすると困惑を感じさせるのだ。なぜなら、マタイ24;29-31は「そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。…天使たちは天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」と描写するが、これは大地が平らなことを前提にした語り方なのに、現代人は大地が平らではなく、球体であることを知っているからだ。
 主のご昇天は特定の一地点からだったが、雲に隠れて幕が引けた。だから、解釈次第で納得できる説明ができた。ところが、再臨ではそうはいかない。主がどこから来られるかはさておき、人の姿で再臨なさる限り、ある一地点に来られることは確かだろう。ご昇天の逆版だと見れば、それはそれで説明はつく。だが、そこからが違う。再臨の後には裁きがあり、裁きにはすべての国の民が集められるからだ。ところが、現代の宇宙知識に照らすと、それは説明に窮することなのだ。
 なぜか?かつて私は「聖書自問自学No.32」に、「地球は丸く、宇宙の中にある地球には上下左右前後というものはない。仮に北極を上、南極を下だとしたら、北極圏の人たちは上を向いて立っていることになるが、赤道地域の人たちは真横になって地球に足をつけており、南極圏の人たちは逆さになっていることになる。そして、それぞれの頭上に広がる空の果てが天ならば、イスラエルと南米パタゴニアでは、天が全然違った方向にあることになる」と書いたことがある。 
 要するに、地球は球体であり、6大陸と無数の島々は海で分離されている。従って、仮に人の子が聖地に再臨なさるとしたら、人々をどう呼び集めるのだろうか?地球の反対側の人々には見えないし、声は聞こえない。従って、万民が再臨の主を見ることはできまい。遠すぎて何が起こったかもわからないだろう。たとえ主が来られたとわかっても、海があってはすぐには全部が集まれない。また仮に行けたとしても、すべての国の民が一か所に集まれる場所はあるのだろうか?
 再臨と世の終わりの裁きを告げるこの予言は体の復活には言及していない。しかし、聖書は死者の復活を教えている。ならばこの裁きの時、王の前に集められるすべての人々は生きている人だけではなく、復活する死者を含めた、世界開闢以来の全人類だろう。もし主の再臨が近い将来にあるとしたら、それは現在地球上に生きている70億人をはるかに上回る厖大な人数になるはずだ。そんな超多数の人々の一か所集合は可能性も場所も想像を絶して、説明に窮する。
 では、万民の裁きはありえないことなのだろうか?いや、そうではない。ただ、私たちにはそれがどう実現するのかわかっていないだけのことだ、と言わなければなるまい。仮定としてなら、主の再臨はエマオへの旅人に現れたように、主が全世界の何らかの形で人々に見えるよう現れるのだろうとか、世の終わりの天変地異が今の6大陸をかつてのゴンドワナ超大陸のようにつなげて万民が集まれるようにするとか、空想的にならあれこれ考えられる。しかし、どれも根拠はない。 
 再臨と裁きは信仰箇条だから私は信じる。しかし、その時に集められる人々や裁きの描写はやはり一つの譬えめいた予言であって、真実は成就してみて初めてああそうだったのかとわかるのではないかと思う。今はわかっている以上のことはわからない。しかし、エリザベトが聖母に言った、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(ルカ1;45)という言葉を想起し、私も「主がかつて言われたことは成就した。これも成就するだろう」と信じることに賭ける。

もしも利息があったら

 年間第33主日の福音はマタイ15;14-30、タラントンの譬えだ。「天の国はまた次のようにたとえられる」とある通り、これも天の国の譬えだが、天の国そのものについてではなく、前週と同じくどのような人がそこに入れてもらえるかを語るものだ。この譬えについて自分が書いたものには、「増やさなかった1タラントン」(こじか誌1993年)と「何が足らんとか?」(2008年聖書反芻シリーズ)があるが、今見直してみると、どちらも罰せられた僕の方に焦点を当てていたことがわかる。
 では、それでよかったのかと言うと、妥当だったと答えていいのではなかろうか。なぜなら、「十人の乙女の譬え」の焦点が愚かな5人に当てられていたように、この譬えでもどちらかと言えば1タラントンを預かった僕の言動とその結末の方が、忠実だった他の二人の僕よりも注目の的になっているからだ。ストーリーは福音書を読めばわかるから今回は書き写さず、知っていることを前提にまず譬えそのものの解釈を試み、その後で譬えの意味とメッセージを考察してみようと思う。

 この譬えの登場人物は3人の僕と彼らの主人だ。しかし、主人が最後の場面で怠け者の僕を外の闇に追い出せと命じているところを見ると、追放を実行した人たちもいたことになる。ところがそれはタラントンを預かった他の2人だったようには思えない。なぜなら、主人がその当事者に、「さあ、そのタラントンをこの男から取り上げ、10タラントン持っている者に与えよ」と言うのは不自然だからだ。してみると、その場には3人の僕以外に他の使用人もいたと推測できる。 
 もしそうだったとすると、ではなぜ主人は3人の僕だけに財産を預けたのだろうかと言う疑問がわく。なぜだったのだろうか?主人が3人を信頼していたからだろう。彼らには能力差があった。にもかかわらず3人とも能力があると見込んだ。だから「それぞれの能力に応じて自分の財産を預けた」のだ。ところで清算のとき、主人は2人の僕に「少しのものに忠実だった」と言うが、1タラントンは決して少額ではなかった。1デナリを今の1万円ほどだとすると、1タラントンはその6千倍なので6千万円ぐらいに相当したからだ。従って、1タラントンだけ託された僕も主人に信頼されていたのだ。 
 ところが彼はその信頼に応えなかった。他の2人はそれぞれ預かった5タラントンと2タラントンを元手に商売をして、それぞれ2倍に増やした。前向きのプラス思考だった。だが1タラントンの僕は、何か試みて預かったお金を失ったら大変だと、地に穴を掘って埋めた。現状維持のマイナス思考だった。それだとお金は増えないかわりに、減る心配もなかった。彼がそんな対応をしたのは、主人の思いを理解せず、損失を出して叱責されることを恐れたからだった。
 さて、主人は長旅から戻ると、預けたお金の清算を3人の僕に求めた。そこで、5タラントンと2タラントンを預かった僕は、それぞれの預かり金を商売で倍増した旨報告した。すると主人は2人を「少しのものに忠実だった」と褒め、「多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」と言った。これからも私と一緒にいて、繁栄も喜びも共にしてくれという意味だ。ところが、1タラントンを預かった僕が主人のことをどう考え、何をしたかを報告すると、雰囲気が一変した。
 まず主人に対する見方がいけなかった。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集められる厳しい方だと知っていました」などと言えば、せっかく信頼して大金を委ねたのに、私をそんな風に思っていたのかと、主人の気分を害するにきまっている。その上さらに、「だから恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました」などと報告すれば、火に油を注ぐようなものだ。「怠け者の悪い僕だ」と怒られたのは当然だった。
 主人が「わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたのなら」と、彼の言葉で責めるくだりには、憤慨に混じって、「お前を裁いているのはお前自身の間違った見方なのだぞ」と言わなければならない情けなさも感じ取れる。「わたしのお金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに」という言葉は、当時もうユダヤには銀行があったのかと興味をそそる。しかし、それについては聖書反芻シリーズの「何が足らんとか?」ですでに書いたから、ここでは利息の意味だけを後で取り上げよう。
 1タラントンの僕は「ご覧ください。これがあなたのお金です」と返したが、それは返金だけでは済まなかった。憤った主人が「さあ、そのタラントンをこの男から取り上げ、10タラントン持っている者に与えよ。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ」と言ったからだ。彼はお金を取り上げられたばかりか、職も居場所も同時に失ったのだった。譬えは命じられた者たちが彼を追放したかどうかの結末までは語っていないが、おそらくそれを実行したと想像していいだろう。

 ところで、「その1タラントンを「10タラントン持っている者に与えよ」という命令は、一般社会の常識とは違う。だからだろうか、ルカ版「ムナのたとえ」(19;11-27)では、僕たちが「御主人様、あの人は既に十ムナ持っています」と訝る。しかし、主人は確信を持って言う。「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」と。マタイには同じ表現が13章12節にもある。だとすれば、そこには相応のわけがあるはずだ。
 ではどんなわけがあって、主はそう言われたのだろうか?この譬えが何をわからせようとしているのかがわかれば、それもわかるだろう。では何をわからせようとしているのだろうか?この譬えは人間の経済的な営みを話題にしているが、私たちが二人の僕のように商売で儲けることを勧めているのではない。彼らのように、私たちも福音的な生き方の中で忠実に「何か」をするようにと示唆しているのだ。従って、そこに隠されている意味がわかれば、その「何か」も明らかになる。
 この譬えでも隠されている意味が一番重要なのだが、ではそれは何かと言うと、旅に出たある人とは昇天された主イエス・キリスト様、3人の僕たちとは私たち信仰者、1タラントンの僕を外の闇に追い出すのは天使たちだと解釈してよかろう。旅から帰った主人は再臨される日の主イエス様、預かったタラントンの清算は世の終わりにある一人ひとりの裁き、そして「外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」との言葉は、永遠の罰と後悔を意味する。
 では、タラントンは何を意味するのだろうか?「何が足らんとか?」ではこれを単純に考え、次のように書いた。「地球上にいる人間は千差万別で誰一人として同じではないが、誰一人として生まれながらの素質能力を持っていない者はいない。…5,2,1タラントンはそれを示す。しかし、多ければ多いほどラッキーというわけではない。多ければ多いだけ、それを活かし善用する責任もある。2人の僕はそれを理解したから、頭を使い才覚を活かして、預かり物を2倍にした。それは授かった資質能力を活かして、実り多い人生を全うしたということを意味する。
 …それでは、1タラントン預かった人は何が…足らなかったのだろうか?…彼は怠けてしまった。では、怠けるとはどういう意味なのだろうか?…自分のためにしか使わない人生のことだと思う。いわゆるエゴイストの生き方だ。土を掘って隠すとは授かった資質能力を自分の中にしか活かさないことだ。預かった額が一番少なかったとはいえ、彼もそれを善用して2倍にすればよかったのに、そうしなかった」と。
 しかし今回、私はタラントンの解釈が単純ではなく、思ったより難しいことに気付いた。上記の解釈が全くの間違いだとは思わないが、今考えると的外れだ。なぜなら天の国の譬えなのに、「頭を使い才覚を活かして、預かり物を2倍にし」…「授かった資質能力を活かして、実り多い人生を全う」することは自然的な次元の事柄だからだ。素晴らしくても、資質能力は御国に入れる条件ではなく、その活用で御国に入れてもらえるわけでもない。だからこの点は見直さないといけない。
 ある学者は1タラントンの僕をファリサイ派の人々だと見る。律法を固守して新たな挑戦に踏み出さなかったからだ。対して、他の二人の僕は律法を元手に福音を信じた人のことになる。首肯できなくはない説だが、では福音を信じるだけで天の国入れるのかと問うと、疑問が残る。他の学者はタラントンを天与の賜物とし、それを増やすとは賜物を活かすことだと言う。でももしそうなら、増やさなくても最低限の賜物があれば御国に入れて頂けてよさそうに思えるから、これも説得力に欠ける。
 そこで今の私はこう考える。譬えには「3人の僕を呼び、それぞれの能力に応じて自分の財産を預けた」とあるから、人はついそれぞれの資質能力と思ってしまいやすいが、実はそれを意味しない。そうではなく、旅行前の主人から預かったタラントンとは神様から頂いた「福音の理解」、そして、2人が稼いだタラントンとはそれを元手のようにして努めた「愛の業」ではないかと思うのだ。絶対の自信はないが、今はこれが最も納得のいく解釈だと考えている。その根拠は2つある。
 ①福音を信じなければ神の国には入れてもらえない。これは基本だ。商売なら元手に等しい。だが、信じるだけでも不十分だ。「主よ、主よと言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7;21)とある通りで、福音の教えを元手にして、愛を実践することが不可欠なのだ。ところで、信仰には程度があり、愛の業は程度も大小もあるから、3人の僕が預かったお金の差に当てはまる。従って上記の解釈は妥当だと結論できるのだ。
 ②「すべての民族を裁く王のたとえ」(マタイ25;31-46)は人が天の国に迎え入れてもらえる条件を最もはっきり教えている。他方、「十人の乙女のたとえ」でも壺に入れた油は愛を意味した。ところで、この2つの譬えは「タラントンの譬え」の前後にある。だとすれば、マタイ25章にあるこの3つの譬えは全て愛の実践の最重要性で共通する。そう見ると、3つの譬えに整合性があって納得が行く。従って、タラントンを「福音の理解」と「愛の実践」とする解釈は妥当だと結論できるのだ。
 この解釈で行くと、3人は主の福音を信じる恵みをいただいた人たちの代表だ。同じ福音を受け入れても、ある人は深く広く理解し、他の人はそれほどでもない。それへの温度差もある。それが「それぞれの能力に応じて」預けたタラントンだったと言えよう。ところで、主の福音の神髄はマタイ23;34-40にあったように、神様と隣人への愛だ。質問した律法の学者もそれは理解した。だから「あなたは神の国から遠くない」(マルコ12;34)と言われたのだ。
 しかし、わかっただけではだめで、実践しない愛の掟は言葉だけの空約束に等しいと言わなければならない。5タラントンと2タラントンの僕がその元手を倍増したように、福音を信じる恵みに与った者は、それからスタートして、わけても福音の神髄である愛を実践するようにと求められ、励まされてもいる。それが稼いだタラントンの譬えのプラス面の意味だ。聖人と言われる人たちはその実践者だが、聖人と呼ばれなくてもそのような生き方の信仰者はいつもいたし、今もいる。
 ところが、1タラントンの僕のような人もいなくはない。そういう信者は不思議な神様の導きで主の福音を信じる幸いを得たのに、やがて心がそれから離れ、地中の穴にではなく、心の穴にそれを隠し、あたかも福音がないかのように生きたり、時には捨てたりしてしまう。この譬えのマイナス面の意味だ。種蒔く人の譬えの石地や茨の中に落ちた種(マタイ13章)のように、そういう人はせっかく福音の恵みに浴しても、それで得た実りがゼロのまま主の前に出ることになるのだ。

 では、その場合に主人が「お金を銀行に入れておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに」と言った利息とは、何を意味するのだろうか?自分で稼ぐタラントンが愛の業に相当するとしたら、利息は結果的にいくらか愛の業に役立つ物事だと言えないだろうか。隣人愛を目的としないビジネスのためでも、間接的に人助けになることはある。少しお役に立つ程度では利息みたいなものだが、それには頭と心を働かせなければならない。主はそれを言われたのだと思う。
 ということは、1タラントンの僕は怠け者であったばかりか、愚かでもあったわけだ。そこで、少し変な仮定だが、もしこの僕が知恵を働かせ、そのお金を銀行に預けて利息をもらい、「この利息を得ました」と、預かった1タラントンに添えて差し出していたら、主人は何と言っただろうか?それでも「怠け者の悪い僕だ。さあ、そのタラントンも利息も取り上げ、外の暗闇に追い出せ」と言っただろうか?褒めなかっただろうが、そうは言わなかったのではないかと私は思うのだ。理由はこうだ。
 彼は1タラントンを死蔵し、何もしなかった。だから、ゼロだった。もっとも僕たちが稼いだお金もたかだか数タラントンに過ぎず、永遠にはとうてい値しなかった。しかし、神様の評価は掛け算のようで、無限の愛を人の僅かな働きに掛け算してくださるからこそ、努力が永遠に値するものとされるのだ。もしも全てがゼロなら、1億掛けても1兆掛けてもゼロだ。だが、もしも0.01タラントンでも利息があったらゼロではない。だから、彼を追放しなかったのではないかと想像するのだ。
 では、この僕が主人を厳しい人と恐れていたことは、どういう信者に似ているだろうか?信仰を煩わしい義務と考え、神様が罪を見逃さない監視者であるかのように恐れる人ではないかと思う。罪を恐れて内向きになり、愛の実践を忘れがちなタイプ、「怠りによる罪」の人だ。しかし、その反対のずぼらで罪の意識が超希薄な人も困る。これも福音の精神からはほど遠い。福音を信じた者は、貧しく苦しくても、「幸いなるかな」と喜び、憐みの心を持ち、前向きに生きる人なのだ。
 もう一つ変な仮定を考えてみた。このたとえでは問題にならないが、私は思うのだ。タラントンを預かった僕は3人だったが、よくも誰1人持ち逃げしなかったものだ。さすがは主人が信頼して大金を託しただけのことはある、と。しかし、持ち逃げはあり得ないことではなかっただろう。では、もしそんなことが起こったらどういう展開になったのだろうか?本人が清算に現れないのだから、主人は預けたお金を回収しようがないし、もちろん「暗闇に追い出せ」とは言えない。
 しかし、その者の運命は想像できる。1タラントンの僕のように1タラントンも失う羽目にはならないが、主人と喜びを共にできないことは確かだ。外の闇に追い出されないが、自ら外の暗闇に逃げ込んだ者になる。それは「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それがもう裁きになっている。悪を行うものは皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである」(ヨハネ3:19-20)と言われるケースに当たるだろう。
 持ち逃げしなかったところをみると、1タラントンの僕もある意味ではまじめな僕だったのだ。そう思うと、持っていたものまで全部取り上げられ、外の暗闇に追い出されてしまうとはやや哀れで、同情を誘う。だが、これは譬えだ。そうならないように、せめて利息ぐらい稼げる生き方をせよとの励ましと警告に他なるまい。いずれにせよ、この譬えはファリサイ派の人々のことでも、まだ福音を知らない人たちのことでもない。福音を信じた人々、つまりキリスト教信者に当てはまる譬えだ。
 では最後に、「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」とはどういう意味だろうか?ビジネスの世界でもお金持ちは潤沢な資本をフル回転させて益々富み、サラ金地獄に陥った人はとことん搾取されて益々貧しくなるというおぞましい現実がある。だから、この一節は現実社会にもあるていど言えるが、これは福音と愛における成長の不思議さのことだ。きっと初代教会などでは人口に膾炙していた表現なのだろう。
 福音を真摯に信じて、その神髄である愛を日々行うなら、その人は5タラントンを稼いだ僕のように魂が成長し、神様の恵みで益々豊かになる。「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(ルカ2;32)とあるのはそのモデルだと言えよう。逆に、一度は福音を信じても、1タラントンを穴に埋めた僕のように、福音と愛をなおざりにした生き方をすれば、神様の恵みが枯渇して魂は衰弱し、いつか福音そのものも失う。そういう意味だと思う。恐ろしい警告ではなかろうか。

油断して、「しまった!」

十人の乙女
        賢い五人の乙女たちと愚かな五人の乙女たち

 「しまった!」とは失敗したときに口走ることばだが、辞書には漢字なら「仕舞った」と書くとあった。その語源は徳川幕府時代の江戸には町内ごとに木戸があって、夜の四つ(午後10時)に木戸が閉まったことにあるらしい。しかし、私にとっては「閉まった」と書く方が実感に近い。車にキーをさしたままドアをバンと閉めてしまって、「しまった!」と叫んだり、駅で電車のドアが閉まるのを前に、「しまった!もう5秒早かったら乗れたのに…」と悔しがったりした経験があるからだ。
 ところで、年間第32主日の福音マタイ25;1-13は「十人の乙女のたとえ」だが、それは油の補給が断絶したために「閉まった!」と悔いた、まさに「油断」のケースだった。だが、ことはただの後悔では済まない、ずっと重大な「閉まった」だったのだ。それを福音書はこう語っている。
 「天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。
 真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿といっしょに婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

 これはどういう人が、なぜ神の国に入れないかをわからせる譬えだ。焦点は愚かな五人に当てられ、「油断」と「閉まった」がキーワードだ。婚宴は神の国、賢い乙女たちはそこに入れた人々、愚かな五人はその逆の人々、花婿は再臨の主イエス・キリスト様、「花婿だ」と叫ぶ声は教会のことだろう。愚かな乙女たちが戻った時、戸はもう閉まっていた。「閉まった!」と立ち尽くす彼女たちは主人から拒絶された。なぜそんな羽目に陥ったのか?油を切らした「油断」が原因だったのだ。
 油断の語源は、①ある王が家来に油を持たせ、一滴でも落としたら命を断つと命じたからだという説、②「ゆったり」という意味の古語「寛(ゆた)に」が音韻変化したという説、③夜中に行燈の油が切れ、敵襲で命を落としたからという説があるそうだ。愚かな五人の場合は③に近い。ともし火は油が入った器だから、持って出た時は灯っていたが、賢い五人は予備の油を壺に用意していた。だが、愚かな五人はそれを怠った。だから油が切れ、婚宴に与るチャンスも断たれたのだ。

 それにしても十人の乙女は、なぜともし火を持って花婿を出迎えなければならなかったのだろうか?それは昔のイスラエルの結婚式だったからだ。日本でも私が子どもの頃は、婚礼は教会やホテルの結婚式場などではなく、ふつうは新郎の家で行われていた。花嫁は夕方、嫁ぎ先に行列でやってくる。それを見ようと、子どもたちはワイワイついて歩いたものだ。行列が婚家に着くと、婚礼が始まり宴は夜遅くまで続いた。イエス様の時代の結婚式もそういうところが似ていた。
 聖書学者のW・バークレーはこの譬えにある結婚のやり方を、「西欧人には不自然なつくり話のように聞こえるが、これはパレスチナによくあったことで、今も実際におこなわれていることである」(マタイ福音書下337-338頁)と書いている。「今も」とは20世紀前半時点のことだが、彼は中東の人々が昔ながらの習慣をほとんど変えないことから、イエス様の時代もおそらく聖地では今とほぼ同じことが行われていただろうと推察し、そこでの結婚式と婚宴のしきたりをこう説明する。
 「パレスチナでは結婚を盛大に祝い、町中が総出で新婚の夫婦を新家庭に送り込む。…新郎新婦は新婚旅行には行かずに、新家庭を一週間客に開放する。その間、新婚の夫婦は、王と王妃のような取り扱いを受け、…招かれる友人は、結婚式に列席するばかりでなく、一週間の祝宴に連なる。愚かな女が、用意がなかったために参列できなかったのは、この一週間の祝いである」と。そして、J.A.フィンドレー博士の聖地での体験談を次のように引用している。(訳語のまま)
 「わたしたちがガリラヤの町の門に近づいたときに、10人の乙女が華やかに着飾って、…歩いて行くのを見た。あの乙女は何をしているのかとたずねると、案内人は、あの女たちは花婿が来るまで花嫁につきそうのだと言った。そこでわたしは、何とかして結婚式が見られないものかとたずねると、案内人は首を振って、『それが今夜なのか、明日の夜なのか、それとも二週間あとなのか、その時間は誰にもわからないのです』と答えた。それから車夫はさらに次のように説明した。
 パレスチナの中流階級の結婚式では、花婿は花嫁のつきそいが眠っている間に不意を討とうとして、真夜中にくることがあるが、くるときには…さきぶれの男をおくって、『さあ、花婿だ』と言わせなければならない。…花嫁のつきそいはいつでも…花婿を迎える用意をしていなければならない。…覚えておかなければならないのは、誰も暗くなってからあかりをもたずに外に出てはならないこと、また花婿が到着したら戸が閉まり、遅れて来た者は結婚式に参列できない、ということ」だ。
 この証言は非常に興味深い。なぜなら、イエス様の時代もそうだったとすれば、譬えの乙女たちがなぜ灯火を持参したのか、花婿がなぜ真夜中に着いたのか、そしてなぜ五人が門前払いを食ったのかの疑問に答えてくれるからだ。また、この譬えには花嫁が出て来ないからか、ユダヤ人学者のB・S・コリンはその著「わたしの兄弟イエス」(原著は独語。仏訳Mon frère Jésus,p. 88)に「一夫多妻はあったが、一人の婿が一度に十人の婚約者と挙式するのは理解しがたい」と誤解しているが、その答えにもなる。十人の乙女は婚約者ではなく、花嫁の付き添いだったのだ。

 五人の乙女が愚かだったと言われるのは、眠り込んだからではなかった。それは賢い五人も同じように眠り込んだことでわかる。油も全然なかったわけではない。油の入った明かりを灯して待っていたのだからだ。しばらくの間はそれで足りたはずだ。そこまでは十人は同じだったのだ。しかし、いつ来るかわからない花婿を迎えるのだから、予備の油を用意しておくべきだったのに、彼女たちはそれに思い至らず、その準備を怠った。そこが賢い五人との分かれ目だったのだ。
 だから、「花婿だぞ」と叫ぶ声を聞いて飛び起きたときは、ともし火の油はもうなくなる寸前だった。賢い五人のともし火も同様だった。分けたら足りなくなる。だから、少し思いやりがないようにも聞こえるが、彼女たちは「分けてあげるほどはないのよ。急いで自分の分を買いに行ったらどう?」と答えざるをえなかったのだ。しかし、当時のイスラエルに、夜油を売ってくれる店があっただろうか?そんな野暮な疑問を投げかけるのはやめよう。これは譬えだからだ。
 でも、油を買いに走った五人が愚かだと言われたのは眠ったからではないのなら、なぜこの譬えはその結びに、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と勧めるのだろうか?それはこの譬えの結論ではなく、ベターな待ち方を示唆しているのだと理解すべきだろう。賢い五人も眠り込んだが、彼女たちは油の予備を用意していたからよかった。しかし、その用意もした上で、目覚めて待っていられるなら、もっとよいという意味だ。
 もし眠り込まずに目覚めて待っていたら、油の壺を用意していなかった五人も事態に対処できただろう。自分のともし火の油が残り少ないことに早めに気付いて、すぐ油を買いに行き、花婿の到着に間に合っていたかも知れないからだ。従って、目を覚ましていることは彼女たちにもベターだったはずなのだ。花婿がいつ来るかわからないのなら、十分な油が必要なことはわかっていた。しかし、彼女たちはその用意もせず、その上眠り込んでしまった。二重のミスを犯したのだ。
 では、この譬えの油とは何を意味しているのだろうか?私はそれを、人が洗礼の時に神様からいただく超自然的な命の恵みだと思う。神学ではそれを成聖の恩恵と言う。その輝きがともし火なら、魂はその器だ。罪でその恩恵を失うとは、器の油をこぼしてしまうに等しいことで、それを新たに補給するのが悔悛の秘跡だと言えよう。そして、壺に入れた予備の油とは、愛の行いによって天に積む蓄えだと言えようか。それが超自然的な命を絶やさず、ともし火のように燃え輝くのだ。

 典礼暦年も終わりに近い今、教会は福音の朗読を通して、世の終りと主の再臨や裁きを私たちに想起させる。この譬えもその一つだ。典礼の一年は待降節に始まり、王であるキリストの主日で終わるが、キリストの聖体の祝日後に長く続く年間主日の期間は教会の長い歩みの歴史に似ている。だから、その期間の終わりが近づくにつれ、典礼の聖書も終末論的な色合いの濃いものになる。そして、読む者に主の再臨に伴う世の終りと神の国の到来を強く意識させるのだ。
 現代人は漠然とした不安は持っていても、人類に終わりが来るかどうかについては確信がないように見える。しかし、終末は個人にも人類にも必ず来る。ただ、その日その時がいつかわからないので、たとえ来るとしてもまだ先のことだろう、と人は思いがちなのだ。日本人の大多数は、おそらく世の終わりや主の再臨などには無頓着ではないかと思う。しかし、主の福音を本気で信じる者なら、主日ごとに唱える信仰宣言を真実だと信じて、そこに賭けているはずだと思う。
 イエス様はこの譬えで私たちに、愚かな五人の轍を踏みたくないなら、まず油を絶やすな。そして、できれば目覚めていなさいと教えられた。乙女たちは眠り込んだが、信仰生活で眠るとは一時的に神様不在になることだと言っていいだろう。人間は肉体的には眠らないわけにはいかないが、「眠っていても、わたしの心は目覚めていました」(雅5;2)とある通り、心は眠らないでいられる。無理をする必要はないが、「目を覚ましていなさい」とは無理難題ではないのだ。
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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