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厳し過ぎるほどの非難

 年間第31主日の福音がマタイ23;1-12 とは思わず、前週の考察でそこに踏み込んでしまっていた。従って、この箇所はもう半分ほど済ませてしまったようなものだが、まだ書き残したこともあるから、今週はそれを取り上げてみようと思う。
 フラビウス・ヨセフ(西暦37-100)は初代教会時代のユダヤ人歴史家だが、その著書「ユダヤ戦記」はエルサレム滅亡前、当時のイスラエルには宗教的に3派があったと伝えている。ところが、福音書はその一つだったエッセネ派にはまったく触れず、サドカイ派そのものには数回しか言及していない。もっともイエス様の死刑を主導したのはこの派の中核だった大祭司や司祭長たちだった。彼らは主の存在がローマとの関係を損ねると危惧したのだ。動機はきわめて政治的だった。
 ところが、前述の2派に比べ、イエス様とファリサイ派の人々の接触は実に頻繁だった。それは彼らがユダヤだけでなくガリラヤにもいて、庶民に宗教的伝統を教えていたからだ。主と彼らの教えは領域が重なり合っていた。相互に近かったのだ。だからこそ彼らは主の教えに強い関心を示し、福音宣教の早い時期から主に議論を挑んだのだ。しかし、やがて主の福音が自分たちの教えと競合し、自分たちの方が劣勢だとわかってくると、彼らは次第に反発を強めていったのだった。 

 彼らの反感や敵意がエスカレートするにつれて、イエス様の彼らに対する批判も厳しさを増して行った。しかし、だからと言って、私は後世が彼らに貼った悪評100%のレッテルを、そのまま鵜呑みにしていいとは思っていない。彼らにも長所があったからだ。それを評価しないのはフェアではない。サドカイ派やヘロデ派に対してとは違って、主がファリサイ派を厳しく批判されたのは、むしろ彼らにはまだ見込みがあったからであって、改心を期待なさっていたからこそだと思うのだ。
 しかし、それにしてもマタイ23;13-36を読むと、律法学者とファリサイ派の人々に対する主の非難は厳し過ぎないかと思えるほどだ。1-12節は「群衆と弟子たちにお話しになった」としてあるが、もしもその中に彼らの何人かが混じっていたら、「それほどまでに言わなくてもいいではないか。言われていることは否定しないが、私たちはそれほど悪い点だらけなのか」と、いたたまれなかったのではあるまいか。いったいイエス様はなぜそんなに激しく彼らを非難されたのであろうか?

 私見だが、この23章は彼らに対する初代教会の論争が反映されているのだと思う。初代教会の最初の信者たちはユダヤ教から改宗したイスラエル人たちで、もちろんその中には元ファリサイ派の人々もいた。他方には福音を拒否してユダヤ教に留まり、教義的に教会と対立していた守旧派ファリサイ人たちがいた。わけてもその中心勢力は律法学者たちだった。当然、主のご昇天後も両陣営間には、どちらが律法と預言者の延長線上にあるかの正統性論争が続いていた。
 マタイの福音書は西暦70年頃、パレスチナのユダヤ人向けに書かれたそうだが、それは滅亡したエルサレムから逃れた律法学者たちが、ヤブネの町を本拠として旧約聖書の正典を編纂し、その後のユダヤ教の方向性を決めた時期に当たる。彼らからすればそれは第二のバビロン捕囚に等しかった。サドカイ派もヘロデ派も無力化した後、ファリサイ派はユダヤ教の生き残りをかけて初代教会と激しく対立していた。だからこそマタイも、極めて厳しい批判で彼らと対峙したのだと思われる。

 ファリサイ派と律法学者への非難でマタイが突出していることは、他の共観2福音書と比較すればもっとはっきりわかる。この箇所と並行するマルコ12;38-40もルカ20;45-47も非常に短い。それを読むと、ファリサイ派と律法学者への非難が延々と続くマタイの福音書は執拗過ぎて、異様にさえ思えなくもない。ルカ11;37-54は、話のきっかけや状況は違うものの、内容的にはこの箇所と非常に似ている。しかし、それでもマタイ23章よりははるかに短い。
 これらのことから推察すると、初代教会のヘブライ語系共同体は、対立相手だったユダヤ教に対し、イエス様の口を借りて激しい批判を浴びせていたのだと思われる。ファリサイ派の人々や律法学者たちに対する非難は、ユダヤ教に対する批判に他ならなかった。マタイ福音書の記述はその論争を反映しているのだと思われる。だからこそ、他のどの福音書よりも長く激しく厳しく、その描写は詳細かつ具体的で生々しいのだと私は見る。
 それに、マタイ23章は全部が一度に言われたものではないとも思われる。おそらく初代教会で伝えられていた彼らに対する批判を、ギリシャ語マタイが集めて収録したのではなかろうか。私はそう推理する。「群衆と弟子たちにお話しになった」(23;1)のは12節までであって、そこではファリサイ派と律法学者のことが第三者として語られ、彼らの言うことはモーセの律法にそっているから守っても、言うだけで実行しない彼らの行動は見倣ってはならないと区別されている。 
 しかし、13節から「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」という出だしで続く7つの非難は、群衆と弟子たちに話されたのだとしたら筋が通らない。それにこんな長い非難を延々と聞かされたら、聴衆はうんざりして逆効果だっただろう。主は律法学者たちとファリサイ派の人々を2人称で非難なさった。ならば、それは彼らに話した時だったはずだ。そう解釈してこそ筋が通る。私がそれを、元々あった彼らへの批判収録集だと見るのはそういう理由からだ。
 それにこの「7つの不幸集」には、その全部がイエス様の言葉だったのだろうかという疑問も湧く。福音書にある主のお言葉がすべて主ご自身のものとは限らないということは、すでにマタイ18;17などで立証した。マタイ23;13-36にも、初代教会の主張を主の口で語ってもらった言葉があるのではなかろうか?例えば15節、33-35節などにはその疑いがある。しかし、これらは当主日の福音の範囲外なので、ここではなぜ私がそう見るかの理由にまでは踏み込まないことにする。

 かつて私は教育学に携わっていたので、学生さんたちにはよく「三回褒めて一回叱れ」と言った。その観点から見ると、イエス様はどうだっただろうか?少なくともファリサイ派の人々と律法学者たちを二回は褒められた。「モーセの座に着いている」と言われたことがその一つだ。それは神様から託された旧約を保持する役目で、聖書をよく学ばなければ務まらなかった。当時それを果たしていたのは彼らだったから、モーセの座にいる事実を認めることは一つの褒めた評価だった。
 「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい」と弟子たちや群衆に言われたことも、彼らを褒めて評価したことだと見てよいだろう。なぜなら、彼らがモーセの命じたことに忠実である限り、彼らの言うことは正当だったが、イエス様がそう言われたことは、彼らの多くがそうしていたことを認めたことに他ならなかったからだ。例えば、律法の中で最も重要な掟について尋ねたとき、彼らが正しく考えていた(マルコ12;32-34)ことでもそれはわかる。
 しかし、「彼らの行いは見倣ってはならない」と言われたのだから、イエス様は彼らの半分を肯定し、半分を否定なさったわけだ。そして、更に読み進むと、彼らに対する主の評価は肯定的なものよりも否定的な方がはるかに多く、「三回褒めて一回叱れ」ではなくて、「二回褒めて三回叱った」ことがわかる。では、なぜそんなに叱られたのかと言えば、彼らの言行がそう見なされても仕方ないほど不一致だったからだ。ここからは、お叱りになった例を一つずつ見てみよう。 

 まず、彼らは言うだけで実行しなかった。「背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分はそれを動かすために、指一本貸そうともしない」という指摘はその一例だった。もっとも、「人の肩に載せるが」は「人に背負わせるが」と訳した方がよいと思う。「人の肩に載せる」のなら、指だけでなく腕も動かして載せてやったのではないか、という屁理屈も成り立ちかねないからだ。いずれにせよ、ここには規則ずくめの重荷はなるべくない方がいいという主のお考えが見える。
 聖書と並ぶユダヤ教の重要文書タルムードを読めばわかるが、律法学者やファリサイ派の人たちは律法を実践させるため、律法にはない規則をたくさん義務づけ、その解釈を煩わしいほど論じ合った。すでに預言者イザヤも「この民は、口では私に近づき、唇でわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても、それは人間の戒めを覚え込んだからだ」(イザヤ29;13)と告発した。主はそれを引用して、彼らにこう言われたことがあった。
 「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は『父と母を敬え』と言い、『父また母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父*を敬わなくてよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。」(マタイ15;3-6) (*父母とした訳もかなりある)
 規則は単純で少ないに越したことはないが、より大事な法を守るために細則が必要になることは否めない。しかし、それを人々に負わせる以上、制定し命じる者は自分もそれを負わなければならないはずだ。ところが彼らはそうしなかった。口先だけ動かして、指一本動かさなかったのだ。口先で良い事を言い、立派な人間と思われようとすることを偽善と言う。だから、主は人々のためにも彼ら自身のためにも、善の仮面である偽善と隠された素顔とを暴かれたのだった。
 次に「そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする」と指摘された。それは人によく見てもらおうとする虚栄心を意味する。聖句の入った小箱とは、前回のコラム「掟の心髄」で示した写真にあった通り、腕に巻きつける小箱(テフィリーム)のことだ。箱を大きくしたり服の房を長くしたりすれば目立つ。それによって祈りに熱心な人だと思われようとするのは虚栄心だ。これも素顔を偽る一種の仮面だと言えよう。 
 三例目は「宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む」という指摘だ。これは高く評価されたいという名誉心だが、それもやはり一種の仮面だ。上席のことではルカ14;8-10で、主は「婚宴に招待されたら、上席についてはならない。…末席に行って座りなさい」と諭されている。ただし日本ではこれをそのまま勧めると、教会などで前の席に座らなくなるから困る。これもまた悪く思われたくない一種の仮面なのだが…

 三例目では、主は「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。地上のものを『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。あなたがたの教師はキリスト一人だけである」と言われた。「先生」とはラビのことだが、当時の人々は「父」とも呼んだ。アラマイ語では「アッバァ」というが、ここでは肉親の父親のことではない。日本人も尊敬する人を「師父」と言うが、それと同じ呼称だったのだ。 
 しかし主は、「そう呼ぶな。父と言われるにふさわしい方は天の父だけ、師と呼ばれるにふさわしい人はキリストだけで、あとは皆同等の兄弟だと思いなさい」と勧められた。聖パウロはそれを「わたしたちには唯一の神がおられ、…また唯一の主、イエスキリストがおられる」(一コリ8;6)と言った。そして、主は「あなたがたのうちで一番偉い人は、仕える者となりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とも諭された。
 この教えは今を生きる私たちにも当てはまる。偽善や高慢は指導者や学者知者が陥りやすい過ちだ。律法学者やファリサイ派の人々に限ったことではない。もっとも、マタイの福音書は彼らと対立していたから、当時の緊張関係を反映させ、イエス様の非難を厳し過ぎるほどの筆致で伝えたとは言える。だが、彼らが反面教師の好例であったことには変わりがない。戒めは彼らの長所も十分認めてやりながら、その轍を踏まないようにすることであろうか。
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掟の神髄

祈る人たちの腕のテフィリーム
エルサレムの嘆きの壁で祈るユダヤ人たち。腕に巻きつけたのがテフィリーム

 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか?」律法の専門家の一人がイエス様を試そうとしてそう尋ねた。掟の心髄は何かと質問したのだ。主は答えて言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つに基づいている」と。
 これは年間第30主日の福音マタイ22;34-40の主要部分だ。その律法学者が質問する前、「ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった」とある。「一緒に集まった」とはサドカイ派の人々と一緒にと言う意味ではなく、ファリサイ派だけでと言うことだと思われる。では、彼らだけで集まって、いったい何を議論したのだろうか?彼らだけでイエス様を殺す計画を練り直したのだろうか?それとも他の論議だったのだろうか?
 それを知るためには、彼らのそれまでの動きが参考になると思う。マタイの福音書を少し遡って見ると、興味深いことがわかる。エルサレム入城後、主は神殿の境内から商人たちを追放し、そこで人々に教えておられた。するとそこへ出て来て、「何の権限で教えているのか」と詰問したのが祭司長や長老たち、つまりサドカイ派とファリサイ派の幹部たちだった。両派は対立勢力だったのに、主に対しては共同戦線を張ったのだ。最高法院の議員仲間で、顔見知りだったからだろう。 
 司祭階級を中核とするサドカイ派は神殿の祭儀が中心で、宗教観は現世的、占領者には妥協的だった。それに対し、ファリサイ派は会堂中心で占領者には否定的、律法やの宗教習慣に関心が強く、サドカイ派とは見解が違った。しかし、彼らの伝統を根底から覆すように思えたイエス様には、もっと対抗心を抱いていた。だからサドカイ派と結託したのだ。ところが、ぶどう園の譬え等でイエス様から面目丸潰れにされたのに、民衆の手前、主を捕えることができなかったのだった。 
 そこで彼らが次に手を組んだのはヘロデ派だった。ファリサイ派はガリラヤにも多くいたので、イエス様とは福音宣教の初期から対立が始まり、ヘロデ派も本拠地がガリラヤだったから、現世的かつ政治的な理由で早くから主を敵視していた。しかし、両派は考えや関心がまったく違い、通常はむしろ反目し合う仲だった。それなのに両派が結託したのは、やはり主を彼ら共通の敵と見たからだった。そこで皇帝への納税問題で主を陥れようとした。だが、それにも失敗してしまった。
 すると、その後でサドカイ派が死後の復活のことで主に議論を挑んだ。ところが彼らはグウの音も出ないほど言い負かされてしまった。それを聞いたファリサイ派の人々は複雑な心境だっただろう。なぜなら、彼らは死者の復活を信じていたから、その点では復活を信じないサドカ派が論破されたことは快哉を叫んでもいいことだった。でも同時に、論破したイエス様が彼らにとっては、サドカイ派と組んででも亡き者にしたい人物だったことに変わりがなかったからだ。
 そんな経過があったから、この時はファリサイ派だけで集まったのだろう。そこで、何を議論したのだろうかという疑問に戻るが、おそらく意見が割れたのではなかろうか。つまり、ある人たちはサドカイ派との論議を聞いて、ひょっとしたらイエスという人は本当に預言者かも知れない。見直した方がよいのではないかと考えた。ところが他の人々は、いや、あれはモーセの律法を壊す異端者だ。絶対に放っておくべきはないと、それまでの見方を変えなかったということだ。
 律法の専門家なら、律法の中でどの掟が最も重要かはよく知っていたはずだ。それなのにそう尋ねたのだから、「イエスを試そうと」したことは明らかだ。しかし同時に、その質問は派内の対立をも反映していた。なぜなら、もしイエス様がそれに答えられなければ、偽預言者の烙印を押せる半面、もししっかりと答えられれば、本物の預言者だと確かめられることを意味したからだ。従って、それは必ずしもそれまでのような、主を陥れるためだけの質問ではなかったと思われる。

 マタイの福音書はイエス様が、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つに基づいている」と答えられたと、要点を短く書いただけだ。ところがマルコの福音書は12章に同じこの話題を伝えているが、マタイよりももっと詳しくリアルにこう書いている。
 「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟は他にない。」
 掟の内容だけでなく、「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である」という一句がとても貴重なのだ。なぜならそう聞いただけで、律法学者に限らず、イスラエル人なら誰でもすぐ最も大事な律法の一節、申命記6;4を想起できたからだ。彼らは今でも祈る時には、その言葉の紙片が入ったテフィリームという小箱を頭や腕に付ける。同書6;8で、「これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け…」と命じられているからだ。それほど重要な律法なのだ。
 「隣人を自分のように愛しなさい」と言われた第二の掟は、レビ記19;18にある。ここで注目に値することは、それが第一の掟がある申命記とは別のレビ記にあること、「聖なる者となれ」と命じられた章にある数多くの律法の中の一つだということだ。律法五書にはモーセの十戒から清めの細則まで膨大な数の掟がある。その中から最も重要な掟を端的に明示することは、もみ殻の中に落ちている針を拾い出すより至難の業だ。聖書を知り尽くしていなければ出来ることではなかった。
 ところが、イエス様は即座に答えられた。だから、それを聞いた律法の学者は非常に感服した。いや、内心感動に震えたかも知れない。マタイにはないが、マルコはその感想をこう書き残してくれた。「律法学者は言った。『先生、おっしゃるとおりです。「神は唯一である。ほかに神はない」とおっしゃったのは、本当です。そして、「心を尽くし、知恵をつくし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する」ということは、どんな焼き尽くす献げ物よりも優れています』」と。
 その律法学者は、「この人は本物の預言者だ。それに律法も知り尽くしている。すごい」と思ったに違いない。事実、神と人への愛こそ全律法の心髄であって、モーセの十戒すら、それを実践するための具体的戒律に他ならず、その掟の下位にある。それを、「律法全体と預言者は、この二つに基づいている。この二つにまさる掟は他にない」と見抜いているとはまさに驚くべき慧眼そのもの。律法学者が「先生、おっしゃるとおりです」と脱帽したのももっともだったのだ。
 面白いのは「どんな焼き尽くす献げ物よりも優れています」と言った一言だ。彼は「たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても、穀物の献げ物をささげても、わたしは受け入れず、肥えた動物の献げ物も顧みない」(アモス5;22)と、預言者通して告げた神様の言葉が頭にあったからそう言ったのだろうが、それは神殿で家畜を焼き尽くす献げ物が最高だとするサドカイ派への一矢だったとも受け取れる。彼は主のお答えにわが意を得たりと、共感を覚えたのだろう。
 マルコはこれに対して、「イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、『あなたは、神の国から遠くない』と言われた」という、非常に興味深い一言をも書き残してくれた。この律法学者は主を正しく理解できたのだが、主も彼をもうちょっとで福音を受け入れられる人だと評価なさったのだ。その問答を聞いていたファリサイ派の同輩たちも、何人かはおそらくは彼と同感だったのではなかろうか。「この人は本物だ。律法の心髄を見事に言い当てた。すごい」と。

 では、なぜ主は「あなたはもう神の国にいる」とは言われず、「神の国から遠くない」、つまり、もうちょっとの不足があると言われたのだろうか?ルカによる福音書はこの話題をエルサレムへの途上での出来事として伝えているが、そこでは律法学者に「律法には何と書いてあるか」と問われ、彼が神と人への愛だと答えると、イエス様は「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言われている。彼にもうちょっと足りなかったのは実行だったのだ。
 そこでは律法学者が自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とは誰ですか」と尋ねた。そこで主はあの有名なサマリア人の譬えを話されたのだった。そして、その結論も「行って、あなたも同じようにしなさい」だった。律法の心髄は神様と人への愛にある。しかし、それを知っているだけでは足りない。実行してこそ「愛は律法を全うするものです」(ロマ13;10)となる。ところが、ファリサイ派の人々は知っていたが、実行が足りなかった。だから主はそう言われた。
 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見習ってはならない。言うだけで、実行しないからである」(マタイ23;2-3)と言われたことからもそれはわかる。もっとも、私はこの時の律法学者に対しては好意的な解釈をしたい。聖霊降臨後、司祭階級は初代教会の迫害者だったが、ファリサイ派からは多くが信者になった。彼も後にそういう一人になったのではないかと思う。 
 ところでマタイは23章でファリサイ派に対するイエス様の非難を、どの福音書よりも長くかつ激しく書いている。サドカイ派やヘロデ派に対するそんな非難はどこにもない。もちろん、これはファリサイ派全体に対してであって、律法の最も大切な掟を尋ねたこの律法学者のような人に対してではなかっただろう。しかし、マルコは主が彼を「神の国から遠くない」と褒めたことを書き残したのに、マタイはそれに無言だ。マタイはなぜこうもファリサイ派に厳しいのだろうか?
 これは私たちにファリサイ派について考えさせるきっかけになる。ヨハネの福音書ではユダヤ人という言い方が多いが、他の3福音書ではイエス様の対立者はファリサイ派と同派のエリートだった律法学者が圧倒的に目立つ。私見にすぎないが、そのわけは3福音書成立の時代背景と状況にあるのではなかろうか。主が活動なさっておられた頃はサドカイ派もヘロデ派もいたが、エルサレム滅亡の西暦70年後はもう存在しなかった。神殿は焼かれ、王制も滅びていた。
 消滅したものはもう影響力がない。それにサドカイ派とヘロデ派は教義的にはキリスト教に対抗できる相手ではなかった。だから、福音書は両派について多く触れる必要がなかったのだ。ところがファリサイ派は違った。ユダヤが滅びても、彼らは離散ユダヤ人たちの精神的支柱として、聖地や地中海沿岸諸国の会堂を中心に活動し続け、聖書の教えについては初代教会の最強のライバルとして存続していた。だから、福音書は頻繁に彼らとの対決を取り上げたのだと思う。
 ファリサイ派の中心にいたのが律法の学者と呼ばれたラビたちだった。この派はヘロデ派やサドカイ派のように政治的ではなく、聖書に基づくイスラエル民族の宗教的伝統を守ろうとする熱心な純化路線のグループで、元々知的にも道徳的にもレベルが高かった。ところが、そこへ洗礼者ヨハネの改革運動が起き、次にイエス・キリスト様が現れて神の国の福音を告げられた。ファリサイ派との対立は、聖書の教えという共通点に立っていたからこそ激しかったのだと言えよう。
 ところで、マタイの福音書はイスラエル人向けに、「待望のメシアは来られた。ナザレトのイエスがそれだ」という根本メッセージを告げるために書かれたと言われる。だから、それはその福音を信じて初代教会の信者となったイスラエル人たちと、旧来の伝統を固守して、福音を拒否したイスラエル人たちとの論争の痕跡を色濃く残しているのだ。マタイがファリサイ派に対して最も厳しい書き方をしているのは、そういう背景や状況があったからに他ならない。
 では、ファリサイ派の何が問題だったのだろうか?イエス様は福音宣教の初めに、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5;17)と宣言された。しかし、完成するためなら、それまでのものは不完全だったことを意味する。ところが、彼らはそれを認めず、旧来のままを固守しようとした。律法を最も大事なもととすることは素晴らしかったが、完成を拒否した。そこが問題だったのだ。
 この日、その律法学者の質問に、イエス様は律法の中で最も重要な第一の掟が神への愛であること、第二の掟が人への愛であることを明言された。それが旧約と新約を通して変わらない掟の心髄なのだ。人によっては、何だ、イエス様は旧約の律法を引用したのであって、自分の新しい教えを言ったのではないではないか、と思うかも知れない。しかし、そうではない。主は律法の最も重要な掟の明示によって、律法の廃止ではなく、その完成を最高度に全うされたのだ。

神のものは神に      

皇帝のコイン

 年間第29主日の福音はマタイ22:15-21で、皇帝への税金は是か非かの問答の箇所だ。これについてはすでに1993年のこじか誌に「神のものと国のもの」の題名で、2008年の「聖書反芻」では「ほめ殺しの罠」のタイトルで書いた。読み返してみると、自分が知っていることはほとんど書き尽くしていて、もう残っていることは僅かしかない気がする。しかし、老化防止の知的活動にもなるから、今回はその僅かなことを加味して、もう一度この話題を考察してみようと思う。

 この個所は次のような叙述で始まる。
 「ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。」
 主役はもちろんイエス様だったが、敵対側の主役はファリサイ派の人々だった。ファリサイ派と言っても、「弟子たちを遣わして」とあるから、遣わしたのはおそらく長老たちや重鎮の律法学者たちだったのだろう。彼らは背後に控えていて、下っ端の者たちに知恵を授けて遣わしたのだと思う。ヨハネの福音書7;45-49には下役たちが戻って来たとき、祭司長やファリサイ派の人々が「どうして、あの男を連れてこなかったのか」と叱った場面がある。これが彼らのやり方だった。
 ところがこの時、彼らはヘロデ派の人々と結託した。これには注目していい。なぜなら、ヘロデ派とはローマからガリラヤ地方の支配を許されていた領主ヘロデ・アンティパスの支持勢力で、当然ローマ帝国には友好的だったが、ファリサイ派の人たちは政治よりも律法に関心があり、むしろ反ローマ勢力だったので、両派は本来相容れない間柄だったからだ。ところが、その両者が組んだと言うことは、イエス様の抹殺がそれほど彼らの共通利益になったからに他ならない。
 実は福音書におけるヘロデ派の登場は非常に少ない。実質2回だけだ。共観2福音書の「皇帝への税金は是か非か」の箇所(マタイ22;16、マルコ12;13)とマルコ3:6だ。この後者を見ると、ガリラヤでの福音宣教のそんなに早い時期から、もう彼らがイエス様を殺そうと考え始めていたことがわかって驚かされる。彼らは主の教えがローマ帝国やヘロデの支配に有害だと見て、律法の観点から主に敵対し始めていたファリサイ派と組んだのだろう。敵の敵は味方の論理だった。
 そういう背景がわかると、なるほど皇帝の問題だからこそヘロデ派が登場したのかと納得がいく。では、司祭長らサドカイ派の連中は仲間に入っていなかったのかというと、そうは思えない。共観3福音書は揃ってこれを神殿の境内での出来事だったと伝えている。従って、司祭長たちも背後にいたことは間違いない。ルカ20;19-20はそれを示唆している。しかし、権威についての問答では前面に出たが、この時は後ろに下がってどうなるかを注視していたのだろう。

 ファリサイ派の弟子たちはヘロデ派の人々と一緒にイエス様ところへ行き、質問した。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」と。こういう問答はラビたちがよく使った手法だから、傍目にはごく当たり前に映ったことだろう。
 話題は納税問題だったが、当時ローマ帝国が徴収していた税金は人頭税、土地税、所得税だったそうだ。土地税は収穫の十分の一を現物や現金で納め、所得税は収入の1%だったらしい。人頭税は男が14歳、女が12歳からそれぞれ65歳まで年1デナリオン払わされたと言われる。2003年のシエラレオネ訪問の時、私は同国の税制度もちょっと調べたが、大人一人につき年500レオンの人頭税があったのには、えっ、今でもそんな税金があるんだと驚いた経験がある。
 税金というものは収める側にはたいてい歓迎されないものだが、2000年前のユダヤで一番嫌われていたのは人頭税だったに違いない。なぜなら、貧富にかかわらず一人当たり同額だから不公平で、例外なく誰にもかかる税金だったからだ。従って、それはイエス様の話を聞いていた聴衆の誰にも無関係なことではなかった。当然のことながら、彼らの関心は大いに呼び覚まされ、主が何とお答えになるだろうかと、主の返答にきき耳を立てたことだろう。
 ファリサイ派の人々の接し方は巧妙だった。表面的にはいかにもイエス様を高く評価し、主に信服しているかのようだったが、実はその裏に恐るべき悪意の罠が隠されていたからだ。かつて佐川急便スキャンダルの時、右翼は故竹下元首相のことを「お金儲けの上手な竹下さん」と街宣車で囃し立てた。褒めているようで実はひどく痛めつけるこのやり方は「ほめ殺し」の言葉を生んだ。ファリサイ派の人々たちが褒めながらした質問は、まさに元祖ほめ殺しと言えるものだった。
 ではどんな罠が隠されていたかというと、皇帝への納税が律法に適っていると答えれば、ローマの支配を認めたことになるから裏切り者と見なされ、忽ち民衆の信頼を失いかねないし、逆に適っていないと答えれば、今度は皇帝に背く者と見なされて権力者を敵に回すことになる。さりとて、答えに窮してためらっていれば、無能なラビのレッテルを貼られてしまう。それはどう答えても、あるいは答えなくても、痛手を避けられないように仕組まれた、三方ふさがりの罠だったのだ。
 ところが、福音書は続ける。「イエスは彼らの悪意に気付いて言われた。『偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。』彼らがデナリオン銀貨を持ってくると、イエスは、『これは、だれの肖像と銘か』と言われた。彼らは『皇帝のものです』と言った。するとイエスは言われた。『では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った」と。
 「偽善者たち」とは、まさに主が彼らの陰謀を見抜いたことを端的に示す一語だった。マルコにもルカにもないこの一語で、マタイの福音書は主の静かな怒りを強調したかったのだと思う。彼らが主の言質を取ろうとした試みは見透かされていた。「なぜ、わたしを試そうとするのか」と言われた段階で、もう彼らは動揺を隠せなかったのではあるまいか。だから、「税金に納めるお金を見せなさい」と言われると、すんなりとデナリオン銀貨を差し出したのだと思う。
 新共同訳はギリシャ語原典の“prosenengkan”(prospheroの過去形三人称複数)を「(デナリオン銀貨を)持って来ると」と訳しているが、その意味はむしろ「差し出すと」とする方が適切だろう。「持ってくると」と言うと、どこかに取りに行って持って来たような印象を与える。しかし、実際はそうではなく、その場に持ち合わせていた1デナリオン銀貨を、何人かがほぼ同時に主に見せたのだと思われるからだ。それは誰もが持ち合わせているほどの額のお金だったのだ。
 主はその1枚を受け取って、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。そこで1デナリオンを見せた人々は、自分の手にある銀貨をあらためて見つめてみた。持ち合せていなかった人たちは横の人の銀貨をのぞき込ませてもらったかも知れない。それはあの面白くない人頭税のために納める1デナリオン銀貨だったが、その表側には時のローマ皇帝の肖像と銘が刻み込まれていた。だから、彼らは異口同音に答えざるを得なかったのだ。「皇帝のものです」と。
 ローマの権力者が皇帝の称号を使い出したのは、ユリウス・シーザー(BC44没)の甥の子で、かつ養子だったアウグストゥスからだった。では、イエス様の公生活時代に皇帝だったのは誰だったかと言うと、西暦14年から37年まで在位したティベリウスだった。ユリウス・シーザー(Caesar)は皇帝ではなかったが、後に彼の名“Caesar”(カエサル)は皇帝が冠する称号となった。だからギリシャ語原典は“Legousin autoi Kaisaros”( 皇帝のものですと彼に言った)と書いているのだ。
 従って、彼らが見たその時のデナリオン銀貨には、ティベリウス皇帝の肖像と名前が打ってあったはずだ。どの皇帝も即位の際や大勝利を博した時などは、自分の名を印刻した貨幣を鋳造させるのが常だったからだ。残念ながら彼の名を刻んだ銀貨の写真は見つけられなかったが、AD69-79年に在位したヴェスパジアヌス皇帝の古銭の写真があったので、冒頭に掲載した。S.Friedman Publishing House出版のJerusalem past & present p.115からのコピーだ。
 デナリオン銀貨を見せた人たちの答えを聞くと、イエス様は「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われた。「彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った」とあるが、それは彼らが予想もしていなかった、まさに彼らの意表を突いた返答だった。完璧な罠だと自信があったのに、窮地をそのようにすり抜ける見事な答えがあったとは!と、彼らはきっと言葉を失うほど驚いたに違いない。だから、主をその場に残して、黙って去ったのだ。
 しかし、反論もせずに退散したのは、驚嘆したからだけではなかっただろう。もし反論を試みたら、ファリサイ派とヘロデ派は仲間割れしかねなかったからだと思う。なぜなら、「皇帝のものは皇帝に」はローマの許可で徴税の利益を得ているヘロデ派には歓迎できたが、反ローマのファリサイ派には容認できなかっただろうし、逆に「神のものは神に」は律法遵守に熱心なファリサイ派にとってはありがたかったが、信仰心の薄いヘロデ派には興味ない勧めだったからだ。
 いずれにせよ、彼らは感動したからではなく、企みに失敗して退散を余儀なくされたわけだ。従って、憎悪はむしろ蓄積されて行った。ヨハネの福音書は皇帝への納税問答にはまったく触れないが、ご受難の時、彼らが総督ピラトに、「この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」(ヨハネ19;12)と叫んだと伝えている。私はここに納税問答で黙らされた彼らの遺恨が噴き出していると見る。彼らはその屈辱を忘れなかったのだ。

 さて、ここまではかつて書いたことのリメイクに過ぎない。興味深いのであれこれ再考はしてみたが、それはすでに終わった過去のことについてだ。主の見事なお答えに感心するのはいいが、それだけでは現代とつながらない。私たちにとって肝心なのは、「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に」というメッセージを、「皇帝」は「国または社会」と言い換えた上で、現実に生かすことだと思う。では、そのメッセージは、現代の私たちに何を伝えているのだろうか?
 「神のものは神に」とは、どんな権力者の圧力があろうとも、信仰では絶対に譲れない物事があるということだ。この原則は教会によって受け継がれてきた。聖霊降臨後、使徒ペトロたちは逮捕され、最高法院で大祭司に尋問されたとき、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(徒5:29)と、毅然として答えた。殉教者たちはその後に続いた。例えば日本では、豊臣秀吉のキリシタン弾圧の時、レオ税所(さいしょ)七右衛門は、「他のことであれば、すべて従うことができますが、救いにかかわることならば、受け入れることができません」と答えて殉教した。
 「神のものを神に」の基本原則は、具体的には神様を人間を超えた存在者として崇め、礼拝すること、その教えを信じて善なる生き方を実践すること、神与の自然法と人権を尊重すること、神様と人とをつなぐために制定された教会を認めかつ尊重すること、その教えに従って礼拝やその他の宗教的行為を行ったり、義務を果たしたりする人々を妨害しないこと等に大別できる。しかし、世の中にはそれらを否定したり、弾圧したりする者が後を絶たないから、問題も後を絶たない。
 例えば歴史を振り返ると、「皇帝のものは皇帝に、神のものも皇帝に」と欲した権力者は少なくなかった。中国共産党はそれに近い。だから、人に過ぎないのに絶対者だと錯覚し、自分を神として礼拝せよとか、教えを捨てて自分に従えとか命じる。そうなれば、真の神様を信じる者は拒否するしかない。そこで殉教が起こる。旧約のマカベ一族も、ローマ大迫害時代のキリスト教徒たちも、日本のキリシタンたちもみな、命をもって「神のものは神に」を証しした人たちだった。
 他方、教会は主の教えに従い、「皇帝のものは皇帝に」という原則もずっと実践して来た。聖ペトロは大祭司の不当な命令は断固拒否したが、公権力についてこう書いている。「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが統治者としての皇帝であろうと、あるいは悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい」(一ペト2;13-15)と。
 また聖パウロも、「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。…あなたがたが貢を納めているのもそのためです。…貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」(ロマ13:17)と書いた。信徒たちに俗社会で平穏かつまっとうに生きていくための心得を教えたのだ。

 「皇帝のものは皇帝に」とは今日では「国のものは国にとか、人のものは人に」と言い直していいだろう。聖ペトロも聖パウロもかなり具体的に書いているが、人間は社会的な存在だから、憲法や諸種の実定法の遵守、そこから派生する納税、国防、他者尊重などの諸義務を負う。同時にそれらに対応する諸権利も受ける。しかし、これらのことは言うまでもないから、今回は少し前からカトリック新聞声欄で議論が続いている国旗・国歌問題を取り上げてみようと思う。
 発端は今年9月4日の同紙「意見異見私見」欄に載ったS氏の「司教団に教義上の回答を求む」にあった。要旨はこうだった。日の丸は天照大御神を、君が代は天皇崇拝を表しているから偶像崇拝になる。そこで、S氏は卒業式で君が代・日の丸の時に起立斉唱しなかったところ、東京都教育委員会から戒告処分を受けた。それに対する裁判で、東京地裁は起立斉唱が単なる儀礼で信教の自由を侵害しないとしたが、納得できない。司教団はそれに答えてほしいという要望だった。
 これに対して9月18日号の声欄に反論が載った。曰く、「国旗と国歌は大切にするもの」(H氏76歳)、「国旗。国家論に独断と偏見あり」(Y氏88歳)、9月25日号にも「イデオロギーに巻き込まないで」(N氏85歳)と。しかし、10月2日号には擁護論に近い「日の丸・君が代職務強制に反対」(T氏78歳)、「国歌・国旗論議、罰則規定の問題」(O氏54歳)、10月16日号には全面的に擁護する「軍国主義の象徴、日の丸・君が代」(U氏74歳)が載った。特徴的なのはこの問題に関心を示す人の多くが戦争体験世代であり、その意見が大きく割れる点にある。
 O氏も指摘していたが、この事柄には日の丸・君が代は日本にふさわしい国旗・国歌か、妥当な国旗・国歌だとしても心情的に受け入れられるか、複雑な論議や感情がからむ国旗・国歌に対して教育の場で起立斉唱を強要することは適切か、それに応じないことは罰せられるほどの罪悪か等々の諸問題がある。ところが、それらが混交して論じられやすく、好感反感も混じるから複雑で難しい。裁判で十分論議し尽くされても、快刀乱麻を断つようには解決できないのではなかろうか。
 私は日の丸で複雑な思いをしたことがあった。かつて私は30年間ボーイスカウト指導者だったが、この青少年団体は事あるごとに国旗を掲げ、「国旗に向かって礼」と敬礼する。その誓いの第一が「神と国とにまことを尽くし、おきてを守ります」だからだ。これは優れて「神のものは神に、国のものは国に」返す実践ですばらしい。こんな大原則のある団体は他にはない。だが最初、国旗への敬礼には困った。海軍で嫌な体験をした私には日の丸に嫌悪感があったからだ。 
 確かに日の丸は前の大戦中、戦場で殺戮や悪行をした日本軍の旗印だった。被害を受けた国々の人たちが悪感情を抱いているのも無理はない。自分から志願して少年兵になった私だったが、軍人精神の低劣さにはすっかり失望した。復員してからもその記憶が日の丸と結びついていたから、好感を持てるはずがなかった。むしろ全否定したいくらいだった。だから、戦争で嫌な辛い許しがたい体験をした人たちが持つ、日の丸に対する複雑な思いがわかったのだ。
 だからと言って、国旗への礼を拒否したら、ボーイスカウトの指導者は務まらない。そこで私はこう考えた。日の丸が出来た経緯には諸説があるが、赤い丸は日いづる国日本の象徴日輪を表している。日輪は太陽だ。天照大神など考えなければよい。白地は源氏の旗が元だったらしいが、清らかさを表していると思えばよい。日の丸は平安時代からあり、明治3年に日本帝国の旗とされた。それを忌わしい記憶で汚したのは昭和の軍国主義だった。悪かったのは人の思想で、旗に咎はなかったのだ。従って、今は平和な日本の象徴となっている以上、それに敬意を払うことは正当である、と。
 そう理解してからは国旗への礼をためらうことはなくなった。しかし、私は団委員長であった間、室内での行事等で国旗を掲げる時は、必ずそれを壁にあった十字架の下に掛けさせた。そして、「国旗に向かって礼」の代わりに、「十字架に向かって礼」と号令をかけた。「神のものは神に、国のものは国に」だが、両方が同時にある場合は神への礼を優先させた。「神と国とにまことを尽くす」ボーイスカウトの第一の誓いに照らしても、そうすべきだと確信を持っていたからだ。

 君が代は日の丸と違って思想伝達の詞曲があるから、かつて軍国主義時代には現人神たる天皇への崇拝普及に深く加担した。だから、日の丸よりも罪が深い。君が代の出典は古今和歌集巻七賀歌巻頭歌だそうで、初句は「君が代は」ではなく「わが君は」だが、「君」は時代とともに天皇を指す場合がほとんどになったと言われる。解釈には諸説があるが、その楽曲が明治天皇行幸の機会に作られたのを見れば、明治以後の「君が代」が天皇を指していたことは明らかだ。
 私たちの世代は天皇陛下の御ために一身を投げ打て、君が代はそれほど素晴らしい万世一系の天皇の御代を寿ぐ歌だと教えられたが、それは間違っていた。そういう体験をした戦争世代にはその本来の意味がどうであれ、君が代に拒絶反応やしこりを持つ人が少なからずいる。それにこれは不出来な国歌だと私は思う。「君が用は・・・さざれ医師の」と聞こえる詞と曲のアクセントの不調和は、私を不快にする。だから、率直に言って君が代が好きではない。
 しかし、そう感じない人たちもいるし、戦争体験のない世代にはそんなわだかまりはないだろう。サッカーの国際試合などに心から歌って、日本と言う国を祝福するのは、それはそれでいい。私も卒業式などの式典では口パクではなく、ちゃんと歌ったし今も歌う。だが、心底から賛同してではなく、義務だからだ。私たちの年代は共感する者も批判する者も、この国歌の前歴を忘れることはない。そして、嫌な体験のない世代もそういう過去があることは知っておくべきだとは思う。
 従って私は声高に日の丸・君が代を称賛する人々からは距離を置く。国旗・国歌は尊重する。しかし、それらへの起立斉唱を罰してまで強要する東京都教育委員会や大阪維新の会には賛同しない。それで愛国心を育てられると思うのは、戦争中の皇軍を見れば、愚かだとわかるはずだ。「ああ美しや日本の旗は」と歌わせた日の丸を押し立てて、侵略先では人間性を失った行為をし、国内では言論を封殺し、国民を戦争の惨禍に巻き込んだからだ。
 かつて軍国主義時代には、日の丸・君が代は「神のものを天皇に」帰させる危険があった。しかし、今の日本でそれはあり得ないだろう。たとえあったとしても、他の危険に比べればとるに足りないと思う。今の世の中で、「神のものを神以外のものに」帰そうとする最大の勢力は、「金さえあれば何でも可能」と、富をあたかも全能の偶像神のように信じてより頼む拝金教だろう。それは現代人の心に浸透している。特に強欲資本主義は今の世界を牛耳っている。
 拝金教は神のものを、神とは似ても似つかぬ偶像「マンモン」に帰すことに他ならない。福音宣教開始以来最大の敵がそこに隠れている。悪魔はイエス様を荒野で誘惑した時、全世界を見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。しかし、主は「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」とお答えになった。ここに「神のものは神に」への真の答えがある。私たちキリスト者はそのことを再認識しなければなるまい。

招きと選び

 年間第28主日の福音はマタイ22:1-14で、婚宴の譬えだ。第一朗読はそれと呼応するイザヤ25;6-10aで、万軍の主がイスラエルの民のために祝宴を開き、死を滅ぼし、彼らの涙と恥をぬぐってくださるという救いのビジョンを示す。それは黙示録21;3-4にもつながり、神様の救いが祝いと喜びの宴のように完結することを告げる。ところが、マタイの福音書にある婚宴の譬えは、多くのユダヤ人がその宴に与れない点でイザヤの預言とは違う。これも彼らの改心を促す警告だった。
 この譬えの文脈は必ずしも明白ではないが、ぶどう園の農夫たちの譬えの後に、「イエスはまたたとえを用いて語られた」と続いているのだから、やはり神殿の境内で、司祭長や長老たちおよび群衆に話された譬えだと理解してよかろう。だからこそぶどう園の農夫たちの譬えと同様、ユダヤ人たちに対して非常に厳しいのだ。譬えの中で先に招かれた人たちとは神の民と言われた彼らイスラエル人たちで、町から集められた人たちとは異邦人や罪人たちを指していたからだ。

 この譬に登場する人物は王、その家来と側近たち、招かれた人々、王の軍隊だ。あら筋はこうだ。ある王が王子のために婚宴を催したが、招かれた者たちは来なかった。二度も招いたが、彼らは無視した上に、使いの家来たちを殺した。そこで怒った王は軍隊を送り、彼らに報復して町を焼き払った。それから家来たちを町に送って、街頭から人々を集めさせ、宴席を満たした。ところがそこに礼服を着ていない男がいた。理由を尋ねても無言だったので、王は側近に命じて彼を縛らせ外に放逐した。そして、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」の結語で終わる。
 多くの聖書学者たちはこの譬えが実際は二つの別の譬えで成っていて、1-10節はその一つ目、11-13節の部分は後で書き加えられた二つ目の譬えだと見ている。もしそうだとすれば、結論の形になっている「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」という14節は、二つ目の譬えの後にだけではなく、一つ目の譬えの10節の後にもつけてしかるべきものだと言えよう。しかし、私はここではこの譬えを一つのものとして扱い、前半と後半の二部分から成ると見なして考察してみる。

 王が王子のために催した婚宴とは天の国の譬の一つだが、それはそこに入れる人たちが誰かを問いかつ答える譬えだ。その前半部分は神様がみ子による救いの福音に招いたのに対し、人々がどう答えたか、その結果王(父なる神)がどのような決断をくだし、最初に招かれた人々がどうなり、どういう人々が代わって招かれるに至るかを物語る。後半部分は招きに応じた人々が、無条件で婚宴に列席できるかどうかを問う終末論的なメッセージだ。
 この譬えの意味を明かせば、王は神様、婚宴は神の国における幸福、最初に送った家来たちは預言者たち、二度目に送った家来たちは洗礼者ヨハネや使徒たちを示唆していると言えよう。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています」と、婚宴がもう開かれる直前だと言っているからだ。招待そのものは神の国到来の嬉しい知らせである福音、そして招きに応じなかった人々とは、福音を拒んだ多くのイスラエル人のことに他ならない。
 せっかく王が招待したのに来なかった人々、すなわちイスラエル人たちは、父なる神が御子によって神の国の到来を告げ、そこへ招いたのに応じなかった。しかも再度の招きを無視したばかりか、使いの家来に乱暴して殺してしまった。その点はぶどう園の農夫の譬えと共通している。それは神の選民だったのに、彼らが神様から遣わされた預言者たちを迫害して殺し、御子や使徒たちにもそうしたことを意味する。特に司祭長や長老、律法の学者たちなどがそれに該当した。
 家来たちを殺した人々に王は激怒し、軍隊を送って彼らに報復した。そして、招かれていなかった町の人々を集め、婚宴を満席にさせた。悪人も善人もということは誰彼を問わずと言う意味だろう。彼らは約束の民ではなかった異邦人や罪人たちを指す。従って、これは先に招かれたイスラエルの民の多くが神の国への招きを捨て、後で招かれた民族や人々が彼らに代わるということに他ならない。その意味で、「招かれた者は多いが、選ばれる者は少ない」と言うことなのだ。
 その結果、「婚宴は客でいっぱいになった。」だから、王の望みは一応満たされ、譬えの前半はここで完結する。ルカの福音書14;15-24にはこれと似た譬えがある。それは王が用意した婚宴ではなく、ある人が開いた大宴会であることなど、いくつかの点で相違はあるが、最初に招かれた人ではなく、町から集められた人々で満席になり、「招かれた人は多いが…」の結語で終わる点等では共通している。マタイの譬えもここまでが一つの譬えだと言われる根拠はそこにあるのだろう。
 しかし、それには後半部分がある。王が婚宴の席に来て、町から集められた人々の中に婚礼の服を着ていなかった男を見つけ、それを追放する10-14節の話だ。聖書学者たちはこの部分を後代の付け加えだと言うが、いずれにせよ、前半部分とはテーマが違う。この部分のメッセージは、先であれ後であれ、神の国には誰もが招かれるが、誰もが無条件で臨席を許されるわけではないと言うにある。ここでは、「招かれた人は多いが、選ばれる人は少ない」とはそういう意味だ。

 ところで、この譬えの前半部分を聞いていた群衆は、おそらく私たちよりずっとリアリティをもってそれを理解できたに違いない。ユダヤ人たちにとって王国は身近なものだったし、王子のための婚宴となれば、彼らは当時の豪華な宴席と大勢の招待者を容易に想像できたからだ。「牡牛や肥えた家畜を屠って」とある通り、ご馳走は大変な量だったはずだ。しかし、冷蔵庫などがなかった時代だ。呼ばれた招待者たちが来なかったら、腐ったり味が落ちたりして無駄になっただろう。
 王は恥をかかされたとも感じただろうが、それを堪えて再度の使いを出した。それなのに使いを殺すことまでした人々に対しては、聞いていた群衆も非礼でひどいと反感を持ち、王が怒って報復したのも無理はないと共感しことだろう。そこまではユダヤ人に適した内容の譬えであって、ごく自然に受け止められたことだろうと思う。私も同様だ。ところが、「王は軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」という7節になると、どうも違和感を覚えてしまう。
 この7節があるばかりに、この譬えは不出来だと思えるが、聖書学者たちによれば、このくだりはギリシャ語マタイ福音史家が書き加えたものらしい。つまり、イエス様が話されたもともとの譬えにはなかったといことだ。そうであれば、なるほどと納得できる。しかし、ギリシャ語マタイ福音史家はなぜそんな一節を追加したのだろうか?それは初代キリスト教会とユダヤ教との間に、どちらが真に神様の救いの約束に与る者かという、正統性の争いが背景にあったからだと思う。
 王が怒ったのは使いが殺されたからだったが、不届きな人々の町まで焼き払った理由にはちぐはぐさが潜み、理不尽さも否めない。なぜなら、焼いたのは自分の町ではなかったことからすると、王子の婚宴だったのに、王はなぜ自分の町の人ではなく、その町の人たちだけを先に招いていたのか?ちぐはぐではないかと言う疑問が湧くからだ。それに軍隊まで送って町を焼いたのは、招待されていなかった子供たちまでも巻き添えにした乱暴な行為で、理不尽のそしりを免れない。
 それなのにギリシャ語マタイ福音書がこれを書き足したのは、それが書かれた当時、初代教会がユダヤ教の権力者たちから迫害を受け、使徒大ヤコブがすでにエルサレムで殺され、他の使徒たちもほとんどがユダヤから脱出していた現実があったからだろう。そして、焼き払われた町とは、西暦70年にローマ軍によって焼き滅ぼされたエルサレムを暗示していたのだと思う。それは王の婚宴を無視した人々のように、神の国の福音を拒んだ司祭長や長老たちの牙城だったからだ。 
 もちろんイエス様がこの譬えの原型を話された時はまだそういう状況はなく、むしろ主ご自身に殺しの危険が迫っていた時だった。しかし、マタイが福音書を書いていた時は主のご受難は終わっていて、初代教会の苦難がその延長線上にあった。だから、彼はこの譬えの中に当時の状況を反映させ、もともとの譬えにはなかった部分をあたかもイエス様が話されたかの如くに追加し、対立していたユダヤ教に非常に厳しい警告を発して、教会による福音の正当性を主張したのだと思う。 
 いずれにせよ、このことから二つのことがわかる。一つは、福音書に書いてあっても、イエス様の言葉が必ずしも書かれたままではない場合があるということだ。王による婚宴の譬にある王の殺人者たちに対する報復や町の破壊の話しはその一例だ。もう一つは訳語である限り、イエス様の言われたお言葉も、言われたそのままではないのだということだ。ギリシャ語原典は最高に大事だが、これとてイエス様からすれば訳語であって、主のお言葉そのものではないのだ。
 しかし、主が話された内容やお言葉が、必ずしも主が話されたそのままではなくても、それは教えの内容や譬そのものの価値を失わせるものではない。4福音書は福音史家の置かれた社会環境、文化的な背景、個人的な教養、書いた対象者や目的などによって違い、特徴がある。同じことを言っても、話者が違えば表現も微妙に違うものだ。福音書も同じで、マタイにはユダヤ的であると同時にユダヤ教と対決している特徴がある。大事なのは言わんとすることを読み取ることだ。

 さて、婚宴の譬は1-10節だけでも完結するが、やはりそれだけだと物足りない。その意味では、最後の11-14節は単なる後代の追加ではなく、この譬に十全の意味を与える部分だと言っていいと思う。譬えの王が宴を催した目的は王子の婚礼を祝い、人々と共に喜ぶためだった。招待はその一プロセスに過ぎないが、それを断れば喜びに与れないことは明らかだ。ところが、その喜びに加われないケースがもう一つあった。それが婚礼の服を着ているかどうかの問題なのだ。
 つまり、王の婚宴に参加できないケースが2つある。一つは招待を断った場合、もう一つは招きを受け入れても礼服を着ていない場合だ。言い換えれば、人が天の国には入れていただくには、天の国に招かれていることと、入れていただくにふさわしい何かを着ている必要があるということだ。ところで、神様はすべての人を天の国に招いておられる。だから、それは断らずにお受けすれば足りる。しかし、二つ目の条件「婚礼の服」はどう解釈し、どう用意したらいいのだろうか?
 王は側近に命じて、婚礼の服を着ていない人を外の暗闇に放り出させた。荒っぽいやり方に違和感は覚えるが、これは終末の裁きを感じさせるためだからまあやむを得まい。しかし、町の大通りで急いで集めた人たちだから、礼服のなかった人は大勢いただろうに、一人だけというのはむしろ不自然だ。そもそも礼服着用を求めること自体が無茶だ。もし求めるなら、せめて予め知らせておくべきだったろう。私がこの譬えを不出来だと思うわけは、このように叙述が不十分だからだ。
 しかし、それらは譬えを表現する上での些細な問題だから、これ以上は問わないことにしよう。ここでもっと重要な問題は、その1人が着ていなかったという礼服がいったい何を意味するかにある。ギリシャ語マタイ福音書は神の国への招きに応じるだけではだめだ。その宴席にふさわしい礼服を着ていないと臨席は許されず、外の闇に放り出されると断言している。つまり神の国の幸から締め出されるというのだから、それがきわめて重要な問題であることは間違いない。
 私が知る限りでは、その婚礼の服にはいろいろな人がいろいろな物を当てはめて解釈している。ある学者はそれを悔い改めた心だと考え、他の人は畏敬の心だとしている。マルチン・ルターはそれを信仰だと解釈したようだが、聖アウグスチヌスは愛だと理解したと言われる。そのどれもが当たっているようであり、それなりに説得力もある。特に聖アウグスチヌスの見解は傾聴に値する。しかし、どうもこれと言った定説はないらしいし、どれも他の見解を排除するものではない。
 ここで思い出すのだが、かつてまだ若かった頃のある主日に、鎌倉の教会でこの個所の説教をしたことがあった。私はその時、婚礼のこの礼服を洗礼の時に受ける神の恩寵だと言った。すると、ミサの後にある青年がその解釈は間違っていますと言いに来た。彼が何をもって正しい解釈だと主張したかは覚えていないが、おそらく彼は本で上記のような諸説を読んだのだろう。だが、私が言ったような解釈はなかったので、私の言ったことを間違いだと決めつけたのだと思う。
 しかし、定説があるわけではなく、それらの諸説のどれも私を完全に満足させるものでないならば、私は私流に次の解釈で通そうと思う。聖パウロはローマの信徒たちに「主イエス・キリストを身にまといなさい」(ロマ3:14)と書いた。エフェソの信徒への手紙4:23-24やガラテヤの信徒への手紙3:27でもほぼ同じことを言っている。礼服は着るものだ。ならば私は抽象的な言葉よりも、「キリストをまとう」というこの聖パウロの具体的な言葉を、その礼服だと考えたい。
 教会は、成聖の恩寵によって新たに生まれなければ、誰も神の国には入れないと教える。アヴェマリアの祈りでは「恵みに満ちた方」と唱えるが、私はこの「恵みに満ちた」状態こそ、理想的な礼服を着た状態であり、キリストをまとうことなのだと思う。ところで洗礼こそは、人をその「恵みに満ちた」神の愛子に生まれ変わらせる。まさに聖パウロが「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(ガラ3:27)と言った通りだ。
 そもそも招待は招待者が客を選ぶのだから、招待客はその時点では受動的だ。しかし、ひとたび招待が決まれば、それに応じるかどうか、どんな服装で出るかの選択では能動的になる。招待がなければ問題外だが、あれば諾否を決めるのも、どんな身なりで出るかを選ぶのも招待客だ。天の国の宴もそれに似ている。神様はすべての人を招くが、人はまず招きに応じることを選び、次に「キリストを着て」出ることを選ぶ必要がある。招きは神様からだが、選びは自分にかかっている。

追記
 今日、10月9日、町田教会10時半のミサは岡田大司教様の司式だった。その説教で、婚礼の服についても話された。急に招かれた人たちが婚礼の礼服などもっているわけがなかろうに、なぜ王はそれを要求したのかと言う疑問にこう答える説もある。王は招きに応じた人々に礼服も用意していた。しかし、それを着なかった人が一人いた。つまみ出された男とはその人のことだ、と。この説は知らなかったので、ここに追記する。ただし、福音書にはそういう事実は何も書いてないので、これは穿った説明ではあるものの、結局は王の立場を正当化するための説に過ぎないと私は思う。

恐るべき警告

碾臼や酒船
       カファルナウムの遺跡にある石臼や搾る道具

 年間第27主日の福音はマタイ21;33-43、第一朗読はイザヤ5;1-7だ。両方ともぶどう畑がテーマの舞台だ。マタイの福音書にはぶどう園関連の譬えが3つあるが、この主日の個所はその3つ目で、ユダヤ人たちには実に恐るべき警告の譬えだった。そのピリピリと緊張した雰囲気を感じるためには約2千年前にタイムスリップして、イエス様の話を聞いていた群衆の中に紛れ込んでみるといいと思う。私はそうする。時は過越祭の少し前、場所はエルサレムにある神殿の境内だ。
 主は都に入城以来、日中はそこで群衆に神の国の福音を伝えておられた。しかしこの日、祭司長や民の長老たちは、「何の権限で教えているのか」と詰問してきた。主はそれに反論し、「二人の息子の譬え」で口先だけの彼らを咎め、改心を促す警告をなさった。この主日の福音はそれに続くもう一つの譬えなのだが、前の譬えよりも格段に厳しく、ほとんど彼らに対する断罪宣告に近い。まずその譬えを見てみよう。主はそれを話されると、その後に質問を付け加えられた。
 「ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋叩きにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしましまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか?」と。 
 彼らは答えた。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すに違いない」と。この「彼ら」とは司祭長や長老なのか、それとも群衆なのかはっきりしない。イエス様が尋ねた相手は司祭長や長老たちだったから、おそらく彼らが答えたのだろう。彼らはもうこの時点で、この譬えが自分たちのことだと気づいていたに違いないが、何と答えるだろうかと見守っていた群衆の手前、正論の答えを言わざるをえなかったのだと思う。
 すると主は言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」と。この引用は詩篇118;22-23からであった。また、イザヤ預言書28;16にも似たような表現がある。だから、彼らが読まなかったはずがない。むしろよく知っていた。
 この表現は主がここで引用されたこともあってか、新約聖書の中で数か所に出てくる。使徒言行録4;11、ペトロの第一の手紙2;4-6、エフェソの教会への手紙2;20などだ。特に、使徒言行録での引用は、捕えられたペトロが最高法院で大祭司、祭司長や長老たちの前で堂々と、「あなたがたが十字架につけて殺し、神が死から復活させられたあのナザレの人」イエスこそ、この隅の親石であると言明した引用であるだけに、非常に興味深い。今日の福音の個所と響き合っている。

 長老たちや祭司長たちはイスラエル民族のエリートたちだったから、聖書はよく知っていた。従って、イエス様がぶどう園の主人と農夫たちの話をなさった時は、途中まで聞いたら、もうイザヤ書5章にある「ぶどうの畑の歌」が脳裏をよぎったに違いない。この主日の第一朗読で読まれる個所だが、それは彼らにとっては余りにも有名だった。「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑、主が楽しんで植えられたのはユダの人々」とある通り、ぶどう畑とは神の民のことだった。
 「よく耕して石を除き、…その真ん中に見張り塔を立て、酒ぶねを掘り…」などの表現は、イエス様の譬えの「垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て…」などの表現とよく似ている。カファルナウムの遺跡には、昔オリーブやぶどうを絞ったりした臼や酒舟などがごろごろと置かれている。そういう石の道具製作場があったかららしい。その時の群衆はおそらくそういう物品や設備や畑の風景などを想像しながら、ぶどう園の農夫たちの譬えを聞いたのだろう。
 ところでイザヤのぶどう畑の歌は、主が良いぶどうを植えたのに、酸っぱい実しかつけなかったので見捨てられ、焼かれ、荒らされるままにされるという悲惨な結末の歌だ。それはイスラエルの民に対する神様の深い失望を表した預言だった。神の選民とされたのに、裏切りと不忠実でしか応えなかったからだ。新共同訳はその7節をわざわざヘブライ語付きで、裁き(ミシュパト)の代わりに流血(ミスパハ)、正義(ツェダカ)の代わりに叫喚(ツェアカ)と語呂遊び的な結びに訳した。
 ちなみにミスパハ(Mispahha)はキリスト教聖書塾のヘブライ語-日本語辞典には載っていない。ラルースの仏語-ヘブライ語辞典は“complot” (陰謀)と訳している。イエス様の譬えでは、結果は流血だが、その原因は農夫たちの陰謀にあったから、両方とも当てはまる。いずれにせよ、ぶどう畑の歌は神様が神の民を罰した歌だった。だから、司祭長や長老たちはできることならそれを思い出したくなかっただろうし、自分たちはそれに該当しないとも思いたかったに違いない。
 しかし、イエス様の譬えは嫌でも彼らにそれを思い起させた。そればかりか、それはイザヤのぶどう畑の歌よりもはるかに恐るべき警告だった。イザヤの歌には断罪と罰の宣告はあるが、流血の場面はない。ところが、主のぶどう園の農夫の譬えは血まみれだ。「石殺し」を入れれば、短い話の中に「殺す」という言葉が5回も出てくる。こんなに衝撃的な譬えはけっして他にはない。それは3福音書に収録されているが、さすがにルカだけは「殺す」という語彙を3回に減らしている。

 主はこの譬えで彼らの殺意を見抜いて指摘し、天の父がそれに対してどうなさるかを予告なさった。それが「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」ことだった。彼らにとってどれほどショッキングな宣告だったことだろうか。彼らは自分たちが神の民である特典も恩恵も失い、見捨てられることなど考えてもいなかっただろう。しかし、主のお言葉はまぎれもなくそう告げていた。それはぶどう畑の歌よりもずっと厳しい断罪だったのだ。
 エルサレムの聖書(La Bible de Jerusarem)はこの個所を、「これは寓話(allegorie)に近い譬えだ。物語の各事物・人物には全て対応する寓意がある。地主は神様、ぶどう園は神の選民イスラエル、僕たちは預言者たち、息子はエルサレム城外で殺されたイエス様、人殺しの農夫たちは不忠実なユダヤ人たちだ」と注釈している。神様はその民に何度も預言者たちを遣わして、正しい道に帰れと呼びかけた。しかし、彼らは神の僕たちを迫害したり殺したりして、悪を繰り返したのだ。
 では、この時の祭司長や長老たちはどうだっただろうか?その答えを得るには、主日の福音よりも2節先を読む必要がある。そこにはこう書いてある。「祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気付き、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである」と。主の話を聞いていた群衆は「十字架に付けろ」とわめいた人々とは違い、ホサンナと主を喜び迎えた人たちだったのだ。
 司祭長や長老たちはこの譬えが自分たちのことだと気付いたのなら、その重大性にも気付いて心を改めたらよかったのに…残念ながら事実はその反対だった。捕えたいのに捕えられなかったからか、彼らはむしろ心中に憎悪と殺意を燃えたぎらせたのだった。そこには人間の底知れない心の闇があった。その後の彼らはあの手この手で主を攻撃し、抹殺の機会を狙う。彼らとイエス様の対立と緊張関係は増大していき、やがてご受難でその頂点に達するのだ。
 主はそういう彼らの頑迷を嘆いて言われた。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」と。イザヤがかつて預言し、主がぶどう園の農夫たちの譬えで予告されたように、神の恵みはやがて彼らから取り上げられ、異邦の民族に与えられるに至るのだ。

 さて、まとめだが、私たちはこの個所から何を学び取ることができるだろうか?少なくとも三つできると思う。
 その一つは、この個所も当時の生きた生活の文脈の中に位置づけて理解しなければならないということだろう。いわゆるSitz im Lebenという学び方だが、私はそのためにタイムスリップしてその時の群衆の中に紛れ込むことを試みた。そうしてこそ、イエス様がこの譬えをもって、祭司長たちや民の長老たちに何を語ろうとなさったかを真に理解できるからだ。この譬えは一義的には彼らへの厳しくも恐るべき警告だった。
 しかし、それだけではない。学べることの二つ目は、そこには神の民全体に対するメッセージもあったことだ。「罰は神がその愛する者に、正しさに帰れと告げるしるしである。最も恐るべきものは、悪の升目が満ちるまで罰せずに置かれる神の沈黙である。」(スザンヌ・ド・ディートリッヒ)従って、イエス様が彼らにあえて厳しい罰を警告されたのなら、それはとりもなおさず彼らにもまだ望みがあったからだと言えよう。主はあくまでも彼らに改心を呼びかけておられたのだ。
 そして、三つ目はそれらのことが現代の私たちにも当てはまるということだ。確かに私たちが預言者や神の御子を物理的に殺すことはない。しかし、無神論者になったり信仰者が救い主を捨てたりすることは、心中から神様を消し、御子を抹殺することに等しい。そういうことはすでにあった。これからもあり得る。ましてや怠慢ゆえに私たちが酸っぱいぶどうになり果てることは大いにあり得る。司祭長、長老たち、ユダヤ人たちの言動はもって他山の石とすべきだということがわかる。
プロフィール

余生風

Author:余生風
「聖書温故知新」
「思いつくまま、気の向くまま」
折にふれ「水彩画」も紹介してまいります。

「手を貸す運動」創始者
社会福祉法人「地の星」理事
元玉川大学教授

佐藤正明(余生風)ホームページ
「絵画と心」

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